2011年8月30日火曜日
かき氷のコップ
その昔、私の実家と夫の実家の中間のあたり、東京の中原街道に面して骨董屋さんがありました。近くに高架の線路がありましたから、洗足池のあたりでしょうか。いつもバスの車窓から見るだけでしたが、あるとき入ってみる機会がありました。
深い、かき氷のコップが目にとまりました。
当時すでに、もっと直径が大きい、浅形のかき氷入れは人気がありました。しかし、この形のコップはほとんど見かけなかったし、値段も手が届きました。一つ千円位だったと思います。それとも、二つで千五百円くらいだったでしょうか。
底に大きな気泡が入っていたり、
たくさんの泡が入っていたりします。
かき氷を入れるには、ちょっと細すぎます。
しかし飲み物を入れるには、口が開いているので飲みにくく、だんだん出番が少なくなって、食器棚の片隅の飾り物になっていきました。
その数年後、子どもたちも一緒に、瀬戸内海に面した祖母の生家を訪れたことがありました。
小さい頃、祖母の生家に行くのが大好きでした。
当 時、私と弟は祖父母に預けられていました。祖母は必需品以外なにも買ってくれませんし、お小遣いもなしでしたが、大叔父(祖母の弟)夫婦は、「よくきた、 よくきた」と、向かいの本屋さんや下駄屋さんに連れて行ってくれ、「欲しいものは何でも買いなさい」と、甘やかしてくれました。普段は手にすることがない雑誌、 『少女クラブ』などを買ってくれるのは、いつも大叔母でした。
私は、誘われるといつでも、十キロほど離れた祖母の生家に喜んで行きましたが、大叔父の運転するスクーター、「ラビット」の後ろに乗せてもらうと、舗装していない砂利道の振動が身体中に伝わり、身体がばらばらになる思いをしました。
子どもたちと訪ねたとき、大叔母は健在でしたが、かつての漁港は向かいに工業地帯ができてさびれ、世代も交代し、賑やかしかった生活形態は、すっかり変わっていました。
間口が狭く、奥行きが深い家の、入ってすぐは事務所部分でしたが、がらんどうになっていました。そして、埃をかぶったかき氷のコップがひとつ、ぽつんと取り残されていました。
私が関心を示すと、大叔母が喜び、
「昔はぎょうさんあったんじゃけど、全部割れしもうて」
と、かつての生活を思い浮かべるような目をしました。
というわけで、かき氷のコップが三つあります。
ちょっと小ぶりの、大叔母にいただいたコップの方が、プロポーションとしては美しい気がします。
2011年8月29日月曜日
小さな魚篭と湯籠
朝から土砂降りだった、しばらく前の日曜日のこと、お昼近くなって、やっと霧雨になりました。
通りすがりに、ちょっと寄ってみた骨董市、お店もお客さんもまばらで、テントではなく車をお店にしているお店が数多くありました。
そんな中、馴染みの骨董屋さんの店で、この魚篭を見つけました。
何の変哲もない魚篭ですが、意外に見かけることがありません。
学生時代に、この形の魚篭を伊豆の下田で買って、夏にハンドバック替わりにしていたことがありました。これは直径19センチですが、もう一回り小さいものでした。
小さな蓋には、電車の切符など入れて便利。
ただお財布の中にコインが増えたりすると、紐が細いので手に食い込んで痛くなりました。
懐かしい!
この魚篭は古いし、底から側面へと上がっていく竹が、曲がり角で何本も折れていましたが、下田で見て以来初めて目にした魚篭なので、
「ここは、買わなくては」
と迷いがありませんでした。
というのは、以前、母がつくったお雛さまを、骨董市で千円で売っていたのに、買わなかったことがあって、反省していたからでした。
骨董市で、そうたくさんつくったわけでもない母のお雛さまに出逢うなんて、まずありえないことなのに、
「持っているからいいや」
と、通りすぎてしまいました。
魚篭は古くて、バッグとしては使えそうにありませんが、郵便局などに行く時よく使っているのが、この湯籠です。
以前、「いなりぐち」を編んでいただいたとき、おまけとしていただきました。湯の町別府で、温泉巡りをする時、手ぬぐいなどを入れて持ち歩く籠のようです。
小さめの籠バッグも持っているのですが、さらに小さいのが、使いやすさにつながっているようです。
底の真ん中が高くなっているので、まっすぐ立ちませんが、それもご愛嬌です。
おまけでいただいたくらいですから、値の張るものでもないと思いますが、とてもしっかりつくられています。
2011年8月28日日曜日
母子鳥のお皿
その昔、友人の陶芸家、川崎毅さんに、ドイツのインテリア雑誌を見せて、
「この鳥をつくってもらえるかしら?」
とお願いしたことがありました。
とてもおこがましいことでしたが、当時は、私もそして川崎さんも若かったのでした。
そして、できあがったのがこれでした。
お手本は白い磁器の、型でつくったものでしたが、これは手びねり、全然違った雰囲気にできあがりました。
母鳥のわきには、魚やつくしなどの模様が描いてあります。
母鳥は、単独でお皿としても使えますし、
ひな鳥にいろいろな薬味を乗せて、母鳥とセットにしても使えます。
息子たちが小さい頃、カレーの薬味をいろいろ盛ったりして、よく出番がありました。
しかし、いつの頃からか、装飾品になってしまいました。
おつまみなど乗せたら、今でも楽しそうです。
2011年8月27日土曜日
小さな汽車
笠間に、若い陶芸家のご夫妻の鴨工房があります。
鴨瑞久さんは、食器をつくる傍ら、乗り物をつくるのが大好きとか、以前、仕事というより趣味で小さな小さな汽車をつくっていらっしゃいました。
蒸気機関車と、石炭車と、客車が四両、車輪や窓が丁寧につくられていて、信じられないような値段でした。
今年の春の笠間の陶器市にも、鴨工房さんは、いろいろな自動車や汽車を出店していらっしゃいました。
「車もいいなあ」
と、手に取って見ました。どれも素敵でしたが、値段も数倍になっていたので、見ただけでした。ま、数倍と言っても、最初の値段が驚くほど安かったので、正常な値段になったと言ってもいいかもしれません。
我が家では、二階への踊り場の窓のところが、小さな汽車の指定席です。
二階へ行くたびに、かわいい汽車を眺めて、楽しんでいます。
2011年8月26日金曜日
毎日の作業
毎日の作業、さて何からやろうかと迷います。
夫が敷いた石の間に、まだ植え終わっていないリュウノヒゲを植えなくてはなりませんが、かなりの面積があるので、一気に片づくというわけにはいきません。
サツキを植えるには、土を盛らなくてはなりません。
その土を運んでくるには、
ネコ車を通すために、斜路に石を並べなくてはなりません。
随分前にコンクリートを打った、工作室の地中梁の型枠を外すと、土が埋め戻せるので、庭がすっきりして、気持ちよくなります。
コンクリート打ち直後に、夫が肩を痛めて、型枠を外す作業を中断して、長い間、そのままになってしまいました。
重いコンクリートが流れだしたりしないように、頑丈につくってあるので、外すには力が入ります。それに、周りから土が流れて、下の方はすっかり埋まってしまっているので、掘り出さなくてはなりません。
しかし、パイプや型枠が取れると気持ちいいし、土も埋め戻せるて、このあたりがすっきり平らになります。
毎日刈払い機のタンク一杯分(約一時間)は、草刈りをしようと決めていますが、このところ天候が悪く、他の作業を優先したので、あちこち草茫々になっています。
草は、放っておけば秋になると自然に枯れます。それでも、枯れた草の中を歩けたりしません。ちゃんと歩けるようにしておくためには、やはりこまめに刈るに越したことはありません。
というわけで、なにから手をつけるか、いつも迷います。
今日はまず草を刈り、気になっていたブルーベリーを摘み、型枠を少し外しました。
夫は夫で、別のことをしています。
以前、まだユンボ(パワーショベル)がなかった頃、ユンボを借りてくると、そのついでに、ユンボがないとできないことをしていました。
道端に転がっていた石を、いただいてきたのも、ユンボの最大限活用の一環でした。しかし、大きな石をそこいらに片づかないまま、いつまでも転がしておくわけにいきません。
とうとうユンボを買い、夫は庭つくりに突入しました。
いま、その仕上げにかかっています。
というのは、たびたび掘り返しているので、敷地の入口近くは、雨のたびにぬかるみます。
外へ行くのも泥んこになるので、なんとかしなくてはなりません。
最終的には、駐車場、及びその前庭にはレンガのような厚いタイルを敷きますが、その下に砕石を、16センチの厚さに敷くので、まずそれの準備です。
このところ雨が多く、作業は中断しがちですが、身体的には楽をしています。
2011年8月25日木曜日
バナナの葉で包んだお菓子
バナナの葉を見ていると、東南アジアの、おいしいお菓子が思い出されます。
カップにして、包みにして、たくさんのお菓子が、バナナの葉に包まれています。
このお菓子の中には、お餅やバナナが入っています。
炭火で焼いて、熱々をいただきます。
プノンペンで最も庶民的なお菓子です。
美味しくて、安くて、たいていどこの市場でも売っています。
カンボジアには、つくりたてを食べるお菓子も多く、そんなお菓子は自転車で不定期にまわっているので、めったに出逢えません。
それに比べると、このお菓子は時間持ちするからでしょうか。欲しいと思えば、たいてい手に入れられるお菓子です。
中はゼリーのようにつるんとしていて、ココナツのシャリシャリした餡が入っています。
必ず、ジャスミンの花を散らしているのが、プノンペン流です。
2011年8月24日水曜日
折り紙の正20面体
千羽鶴の折り方を描いた本を持っています。
ちぎれない和紙を使っても、一枚の紙からたくさんのつながった鶴を折るのは難しく、たった数羽のものですら、つくれないでいます。
多面体の折り紙の本(『はじめての多面体おりがみ』川村みゆき著、日本ヴォーグ社)も、持っています。ただ見るだけでした。
ところが、母を訪ねると、同居している妹の机の上に、いろいろな多面体の折り紙が並んでいました。
妹は、数学の教師をしています。折り紙は授業の一環だという話でした。
「折り紙はあるし、折ってみるか」
まず、好きな形である正20面体のスケルトンから。
折り紙は、普通サイズのものを四つに切って小さくして使いました。
糊も使わず、割合簡単に出来ました。
味をしめて、もう一つつくることにしました。
やはり好きな、正20面体の星型です。
折ってみると、ユニットの三角が同じ大きさになるので、折り紙は切らずに使いました。
スケルトンも星型も、正20面体のユニットは30枚ずつです。
ところが星型は、接着しないと、形がとれません。
面倒なので中断したこと約半年、目の前につくりかけのものが、ずっと置いてあるのも目障りなので、ボンドでくっつけながら仕上げることにしました。
やっと、なんとか仕上がりました。
それにしても、三角形の大きさは同じなのに、ずいぶん大きさが違います。
スケルトンと星型ができたのだから、あと一つ、ただの正20面体もつくってみようと思っています。
折り紙でこんな形をつくり出した人に乾杯です。
2011年8月21日日曜日
青銅の装身具
アフリカの鋳物(蝋型鋳物)の中でも、華やかなのは装身具や、儀礼に使う装飾品でしょうか。
アシャンティーだけでなく、たくさんの民族グループそれぞれに、素晴らしいものをつくっています。
といいつつ、私が持っているのは、アンクレット一つだけです。
アンクレットというより、足かせと呼びたいくらい重いものです。
模様が、ずいぶんすり減っていますから、実際に使われていたものと思われます。
アシャンティのものではなさそうです。
アフリカの人々の足は、足首が細くてとてもきれいです。しかし、日本人は足は太いし、冬は寒いし、ピアスや、せいぜい鼻輪くらいは普及しても、アンクレットは普及しそうにありません。
一つだけでは寂しいので、『AFRICA ADORNED』の写真のなかで、アンクレットを見てみました。いろいろあります。
一番大きいのと手前左のは、コートジボワールからギニアにかけて住んでいるダン人のアンクレットです。小さい方は常時身につけて、畑に行ったりするにも楽なサイズだと、写真に説明がついています。
右はンゲレ人の女性用のブレスレットです。
左右とも、コートジボワールに住むベテ人のアンクレットです。左の背の高いのは、身分の高い女性が身につけるものだそうです。
こんなに高さがあるとじゃまになりそうなので、身分の高い、あまり労働しない人に適しているのかもしれません。
ガーナに住む、カセナ人の女性が、実際にアンクレットを身につけているところです。
これで畑に行くのですから、まるでトレーニングをしているようなものです。
もっとも、アンクレットをつけていない私と徒歩競争したら、負けるのは、100パーセント私の方ですが。
『AFRICA ADORNED』に載っている、ブレスレット、ネックレス、指輪などの装身具も、儀礼用の装飾品、どれもとっても素敵でした。
青銅の動物
ガーナの青銅(ブロンズ)のヤギです。
ヤギにもいろいろな種類がありますが、熱帯でよく見かける、小さめで可愛いいヤギです。
青銅の塊ではなく、お腹を抜いて、板状につくってあります。
普通、鋳物は塊に見えますが、上野の西郷さんも、ロダンの考える人も、土佐の坂本龍馬も、青銅の厚さは数ミリほどで、中は空洞になっています。
この馬に乗っている人は、
「まるでインドのようなガーナのもの」
だったか、
「まるでガーナのようなインドのもの」
だったかどっちかですが、こんがらがって、わからなくなってしまいました。
でも、インドにはありそうです。反対にアフリカにはなさそうなので、ガーナのものでしょう。
インドの馬と比べると、ほら、そっくりですが。
アシャンティ式鋳物のつくり方
ガーナに住んでいた頃、知人に知らせてくれるよう頼んでおいて、鋳込みがが行われる日に、クマシの町の近くの鋳物をつくる村に見学に行ったことがありました。
鋳物をつくるには、高温を得て、金属を溶かさなくてはなりません。青銅の融点は1,100度くらいです。
それに、高温で溶けた金属を入れておくのに耐えられる容器、坩堝(るつぼ)が必要です。
いったいどうやって金属を溶かし、型に流し込むのだろうと、興味津々でした。
村に着くと、職人さんの前においてあるのは、ただの七輪だけでした。七輪にはコークスが入っていて、椅子に腰掛けた、短パン姿の職人さんは盛んに吹子で風を送っていました。
村の吹子は、イギリス式の普通の吹子でしたが、ガーナ北部に行ったとき、鍛冶屋さんでおもしろい吹子を見たことがあります。
その吹子は、毛のついたままのヤギの皮でできていました。首のあったところに、木を刳り抜いてつくった円錐形の送風口がついています。そして、前足のあったところは縫い閉じてあって、後ろ足のあったところに木のハンドルをつけています。
そのハンドルを左右かわりばんこに押すと、ヤギの身体が膨らんだりしぼんだりして、風が送られるという仕組みです。
今だったら、写真を撮るところですが、当時はなかなか。
プリント用フィルム(白黒)は日本に送って現像して、送り返してもらっていましたが、スライドフィルムは、アグファに現像代込みのフィルムがあり、ドイツまで送って現像してもらっていました。
コダックフィルムもありましたが、こちらはイギリスに里帰りする人に、現像をお願いしたでしょうか?
そんな時代でした。
やがてコークスがかんかんに熱すると、その上に、真ん中が少しくびれた、ずんぐりした松茸のような形の土の塊を置きました。あとはひたすら、吹子で風を送ります。
いったい何を置いて、何をしているんでしょう?
見ただけではわかりませんでしたが、説明を聞くとなるほどと思います。
彼らは、まず地金(材料)を湯道になる部分だけ見せて、あとは土ですっぽり包みます。別に蜜蝋でつくりたいものの形をつくり、湯道も蝋でつけておいて、それも湯口だけ残しておいて、土(蝋型)で包みます。蝋型の方は、乾かしてからあらかじめ熱して、蜜蝋を流し出して、空洞にしておきます。
地金をくるんだ土の、地金が見える部分と、蝋型の湯道をくっつけるようにして、一回り土を巻き、接合して一つにします。そして、よく乾かします。
それが、七輪の上に乗っていた、松茸形の土の塊でした。
七輪の上では、蝋型をくるんだ方をを下に、地金をくるんだ方を上にして、ひたすら風を送って温度を上げます。やがて蜜蝋は土に染みこんで出ていき、できた空洞に溶けた地金が上から降りてくるという仕組みでした。
実に簡便な方法です。
日本で、蝋型の鋳物をつくるときには、地金(前につくったものの湯道や、新しい材料など)を坩堝に入れて溶かすかたわら、土で包んだ蝋の原型は、湯道を下にして焼いて、蝋を溶かし出し、すっかり蝋が溶けて出たら、湯道を上にして、そこに溶かした地金を流し込みます。
蝋型の温度が低すぎれば、溶けた地金は途中で固まり、隅々まで行き渡りません。蝋型の温度が高すぎると、ふつふつと地金が泡立ってしまい、型の肌を荒らして、きれいにできません。
それに比べると、ガーナの方法は、神経を使わず鋳込むことができます。
もっとも、地金(前の作品の湯道など)が、思い思いの形をしていると土でうまく包めませんので、小さな坩堝を使って、あらかじめ地金を溶かして、必要な大きさの塊にしておくようです。
そのために使う坩堝は市場で売っていました。底が尖った三角錐を逆さまにしたような形をしているものでした。
青銅の人形は、行商人たちが運んできたものです。
アシャンティ独特の平べったい頭で、独特の表情をしています。
夫の両親へのお土産にした、首長の戴冠式の人形も、
私の両親へのお土産にした行列の人形も、年月を経て、我が家に出戻ってきました。
いまでも、ガーナでは、鋳物の人形がつくられているのでしょうか?
これは、夫が最初の訪問から30年ほど経って再訪したときに買ってきてくれたものです。
トカゲ、カエル、カメですが、ループがついていて、首からかけられるようになっています。
鋳物づくりは、まだまだ健在のようです。といっても、これも随分前のことですが。