2014年3月31日月曜日
ガラスに直接あたる光線
材木屋さんに、余りものだからといただいたヴェネチアングラスは、西向きの壁に嵌めています。
ここは、私が壁の下地をつくり、もう漆喰を塗るばかりになっていた場所ですが、夫が、
「あれを嵌めるとしたら、ここしかねえなぁ」
と言いながら、電動カッターで真ん中をがりがりと切って、ガラスを嵌め込んだ場所です。
もちろん、明かりはいつでも入り込んでいますが、嵌め込んであるガラスの左の柱から西へと壁が伸びているので、このガラス窓に、太陽光線が直接あたるのは、お彼岸が過ぎたころ、太陽が沈むのが真西より北に寄ってからです。
秋分から春分までだけではなく、日が沈む点がもっと北に寄る夏もまた、家の北西に林があるので、この窓に光が直接射すことはありません。
余談ですが、我が家の居間の西には大きくガラス窓が入っています。よく、西日が入るでしょうと言われますが、冬は十分入るものの、暑い夏はこの北西にある木々のおかげで西日が入らず、室内が暑くなって困ることはありません。
そんな、ガラスに、直射日光があたってきらきら光ってきれいな日、写真に写そうとしても、なかなか写らなくて、白い丸になるばかりです。
それでもなんとか光を捕えました。
「あっ、木と木の間に隙間があるのを見つけた」
もっとも、透明なコーキングをしてあるので、穴は開いていないと思いますが。
2014年3月30日日曜日
kuskusブルー
先日、kuskusさんことしがみさこさんの陶器展を見に、益子のもえぎに行きました。
会場は、器だけでなく、陶板、テラコッタなどとても素敵な飾りつけでした。
「この鶏いいなぁ」
と、夫。
「深さが、ポテトサラダなんかに いいわね」
「この鉢は色がきれいだなぁ」
これまで気がつきませんでしたが、夫はどうも青い色の焼きものが好きなようです。
「どっちか買うか?」
「そうね、どっちにするかなぁ」
「一つずつ買うか?」
「そうだね」
結局どちらも捨てがたく、一人が一つずつ買うことになりました。と言っても、お財布が二つあるわけではなくて、一つなのですが。
そして、陶器展が終わり、kuskusさんが届けてくれました。
「青が、すっごくきれい」
「イスラムの青ってきれいじゃない。あれが出せたらと思っているの」
そうだったのか。イスラムにはトルコ石のような青、群青などいろいろな青がありますが、どれも透明感があって、とてもきれいです(ウズベキスタンのサマルカンドの写真をお借りしました)。
「昔の青より鮮やかになっているけれど、同じ釉薬なの?」
と、夫。
「釉薬は同じだけど、使い方をいろいろ変えてみている。これは下に白を掛けて、その上に青を掛けているから、色が鮮やかになったの」
これが、以前のkuskusブルーです。
これでも、最初見たときはずいぶん鮮やかな色に感じました。
そして、手前は去年いただいたもの、青の鮮やかさが増しています。
器には相性があります。
kuskusブルーの器は、色鮮やかですが、我が家の他のどんな器ともよく合います。ところが、なぜか織部は全然合わないのです。
以前、益子にアロン・サイスという陶芸家がいました。才能溢れる人で、彼独自の織部や志野をつくっていました。
どの器も素敵で心惹かれ、一度だけ蓋ものを買ったことがありますが、残念ながら我が家には合いませんでした。
たぶん、あの織部独特の緑が、合わないんだと思います。
その昔、母が茹で卵でだるまさんをつくってくれました。
梅酢や食紅で茹で卵を染めて、一部だけ縦横に包丁を入れると黄身がのぞいて、そこがお顔、黒ゴマで目をつけていました。
そんなだるまさんをつくってこの器に入れたら楽しそうですが、お客さんでもないとつくれません。というのも、茹で卵好きの夫が、見ると止まらなくなって、一度に全部食べてしまいそうで怖いからです。
会場は、器だけでなく、陶板、テラコッタなどとても素敵な飾りつけでした。
「この鶏いいなぁ」
と、夫。
「深さが、ポテトサラダなんかに いいわね」
「この鉢は色がきれいだなぁ」
これまで気がつきませんでしたが、夫はどうも青い色の焼きものが好きなようです。
「どっちか買うか?」
「そうね、どっちにするかなぁ」
「一つずつ買うか?」
「そうだね」
結局どちらも捨てがたく、一人が一つずつ買うことになりました。と言っても、お財布が二つあるわけではなくて、一つなのですが。
そして、陶器展が終わり、kuskusさんが届けてくれました。
「青が、すっごくきれい」
「イスラムの青ってきれいじゃない。あれが出せたらと思っているの」
そうだったのか。イスラムにはトルコ石のような青、群青などいろいろな青がありますが、どれも透明感があって、とてもきれいです(ウズベキスタンのサマルカンドの写真をお借りしました)。
「昔の青より鮮やかになっているけれど、同じ釉薬なの?」
と、夫。
「釉薬は同じだけど、使い方をいろいろ変えてみている。これは下に白を掛けて、その上に青を掛けているから、色が鮮やかになったの」
これが、以前のkuskusブルーです。
これでも、最初見たときはずいぶん鮮やかな色に感じました。
そして、手前は去年いただいたもの、青の鮮やかさが増しています。
器には相性があります。
kuskusブルーの器は、色鮮やかですが、我が家の他のどんな器ともよく合います。ところが、なぜか織部は全然合わないのです。
以前、益子にアロン・サイスという陶芸家がいました。才能溢れる人で、彼独自の織部や志野をつくっていました。
どの器も素敵で心惹かれ、一度だけ蓋ものを買ったことがありますが、残念ながら我が家には合いませんでした。
たぶん、あの織部独特の緑が、合わないんだと思います。
その昔、母が茹で卵でだるまさんをつくってくれました。
梅酢や食紅で茹で卵を染めて、一部だけ縦横に包丁を入れると黄身がのぞいて、そこがお顔、黒ゴマで目をつけていました。
そんなだるまさんをつくってこの器に入れたら楽しそうですが、お客さんでもないとつくれません。というのも、茹で卵好きの夫が、見ると止まらなくなって、一度に全部食べてしまいそうで怖いからです。
2014年3月29日土曜日
一応、できた
息子の本棚が、八割がたできあがりました。
右が万能木工機の「自動鉋」をかけた板、そして左がまだかけていない板です。
木がゆがんだり、厚みが違ったりするので、多いところは5ミリ近くは削りますから、鉋くずもいっぱい出ます。
鉋くずを見ていて、いつも思うのは木の運命です。これからずっと見られ続ける部分があり、中身となって表面には出られなかった部分があり、クズとなって捨てられる部分があります。
「あっ、心もち厚い」
などと削っていると、表舞台に立てたはずの部分があえなく削られるわけですから、気持ちを察してしまいます。
もっとも、それら全部をひっくるめてが「木」なのですが。
外回りは、板の厚みが15ミリ、格子に組む板は10ミリです。
自動鉋をかけたあとは、手鉋をかけるといいのですが、技術上の問題があり省略します。
厚みが出たら、やはり万能木工機の「手押し鉋」で、木端をまっすぐに削ると同時に矩(かね)を出します。うしろの盤に板を押しつけて削ると、木端が削れると同時に、太い面と木端の角が直角になるのです。
手前の赤いものは、鉋刃がむき出しにならないようについている、危険防止のカバーです。
中では鉋刃が回っています。
片方の木端がまっすぐで直角になったら、それを基準にして、もう一方の木端を削って幅を出します。
もう少し厚みがある板だと自動鉋に立てて削れますが、厚みがわずか1センチなので、立てて押さえるとたわみます。そこで、テーブルソーを使って、同じ幅に揃えます。
全部、同じ幅の板をつくっているつもりでも、実際はちょっと反ったり、全体に曲がったりと、一枚一枚微妙に違ってしまいます。
次に組むための切り込みを入れます。
最初、15枚全部をまとめてクランプで留めて、丸鋸で切りはじめたのですが、なかなかうまくいきません。刃が切れなくなっていることもあり、曲がってしまったりするので、やむなくテーブルソーを使って、少しずつ切り込みを入れることにしました。
鋸刃の高さを板幅の半分にしておいて、ガイドを使ってずつずらしながら、板が組めるように切り込みを入れます。原理としてはもっとたくさん重ねても切れますが、長い板を短いガイドの一点で抑えて、押したり引いたりするので、重くなると力もいるし、ぶれてしまいます。
本当はもっと目のつんだ鋸刃を使わなくてはきれいに切れないのですが研ぎに出していて、仕方なく荒い刃でやっているので、切り口が醜くぎざぎざになっていますが、あとでやすりをかけると、なんとかなります。
さてさて、何日かかかって、やっと切り込みを入れ終わりました。
組むと運べないので、組むのは息子のところに行ってからですが、仮に組んでみます。
ところどころ、狭すぎるのは切り込みを切りなおして修正します。ちょっと広過ぎたかなと思うところは、案外目立ちません。
出来上がりの姿がだんだん見えてきます。
組み終わりました。
立ててみます。
息子には、正確に測ってと念を押しました。そして、息子の伝えてきた寸法から、縦横2ミリずつ引いたものをつくりました。
ちゃんと収まるでしょうか?家って案外左右の寸法が違ったりするものです。
先日も、いつも使っているコンベックス・ルールが0.5ミリ長いことを発見したばかりです。
2014年3月28日金曜日
何でもやってみよう
先週、姪の娘のみおちゃんが、我が家の近くのUさんの家で一週間、農業研修をさせていただきました。
初めての畑仕事と自炊生活、おいしい野菜、いろいろ学ぶところがあったようですが、もっとも印象深かったのは、Uさんの農場の近くに住むSさんご夫婦の生き方だったようです。
Sさん夫婦はそれぞれ別に、「卵の会(現暮しのじっけん室)」のメンバーだったUさんのもとに研修生として八郷に来て、そこで出会って結婚して、今では三人の子どもを育てながら農業をしています。
「味噌だけじゃなくて、お醤油も、納豆も、うどんも自分でつくって、お酒もビールも自分でつくっちゃうんだよ。おじちゃん、おばちゃんの生活見てて、これが自給生活かなぁって考えていたけれど、全然程度が違うよ」
「そうだよ。俺たちは甘っちょろく、都会生活を田舎に持ち込んでいるだけなんだよ」
「ねえねえ、Sさんたち家も建てはじめたんだって。エネルギーも自分でつくるんだって」
みおちゃんが我が家に帰って来た朝、私たちも東京に行く用事があったので、一緒に行ったのですが、みおちゃんの興奮はいつまでも続いていました。
「肉は、五人家族なのに月に500グラムの豚肉だけだって」
「それってみわさんの肉?」
みわさんは、飼料を選んで、薬などいっさい使わずに少数の豚を育てている人です。
「そう」
このあたりで農業をやっている人たちは、決して食費は安くすませればいいとは思っていないので、食べるからには安心できるものを食べているのです。
研修の最後の夜、みおちゃんはUさんの出小屋で孤独な夜を過ごさず、Sさんの家に泊めてもらいました。その日は昼間の仕事で疲れていて、六歳、四歳、ゼロ歳児と過ごすのに耐えられるかなあと思いながら行ったそうです。
「なんて言ったらいいのかしら。すっごい疲れていたのに子どもたちにパワーをもらっちゃって、どんどん元気になったの。忙しいのに、おむつだって布おむつだよ。それに三人目はお風呂場で自分で産んじゃったんだって」
「すごいね」
「もし子どもが小学校へ行きたがらなかったら、やらないでいいと思っているんだって。それがね、悲壮感なんてないのよ。二人ともめっちゃ明るくて楽しそうなの」
さて、今週、暮しのじっけん室の面々が遊びにきました。
彼らが育てた豚は、野菜とともにおいしいお鍋になりました。出汁は、先日Uさんにいただいた鶏のガラでとりました。
暮しのじっけん室は、みおちゃんがお世話になったUさんやSさんの近くにあり、いまは四人のメンバーと、そろそろ一年の研修期間を終えて出て行く一人の研修員、そして一人の短期(一ヶ月)滞在者の六人が共同生活をしています。
「みおちゃんから聞いたけど、Sさんとこ、お風呂場で赤ちゃん産んだんだって?」
「あれっ、お風呂場で産んだのYくんとこだよ。そうかSくんちもそうだったかな」
とIさん。このあたりには、自分で家を建てている人なんていっぱいいますが、子どもを一人で産んでしまうことも、そう驚くこともないようでした。
暮しのじっけん室のメンバーの、一番新しいHさんとは初対面でした。
「彼はおもしろい経歴を持っているのよ」
とKさん。
「山を歩いていたの」
山歩きのどこがおもしろい経歴なのか聞いてみると、Hさんはカナダからアメリカを通って、メキシコまで、尾根を歩いて縦断、しかも三回も歩いたのだそうです。高いところは4000メートルものところを、全部で一万キロ以上歩いたのです。
「食べ物はどうしたの?」
「あまり担げないから、地図を見て一週間か長くても二週間に一度山を下りて調達しました」
「そうか、アフリカ大陸だと、食料を売っているところがないから、そうはいかないね」
「そう、アメリカだからできたんです。それで、そのときのことがあって、食料も自分でつくろうと、ここ(暮しのじっけん室)へ来ました」
Kさんの話だと、Hさんはセーターを自分で編むそうです。しかも毛糸を買って編むのではなく、原毛を手に入れ、紡いで糸をつくって編むのだそうです。
「紡ぐのって時間がかかるでしょう。昼間、目いっぱい農作業して夜紡ぐの?」
「そうです」
「彼はなんかかんか夜なべ仕事をしているわね」
と、やはりKさん。
暮しのじっけん室は、農業だけではなく、もっと幅広くいろいろやってみたいと、映画上映会、コンサート、お祭りなどいろいろ試みていますが、Iさん、Hさんは最近籠づくりもはじめました。
S夫婦もHさんたちも三十そこそこです。
今の世は、自分の力では生きられないように生きられないように仕向けられていて、みんなそれに甘んじて(喜んで?)いるのですが、突然変異というべきか、こんな人たちに出会うと、人間も捨てたものじゃないなと思います。
初めての畑仕事と自炊生活、おいしい野菜、いろいろ学ぶところがあったようですが、もっとも印象深かったのは、Uさんの農場の近くに住むSさんご夫婦の生き方だったようです。
Sさん夫婦はそれぞれ別に、「卵の会(現暮しのじっけん室)」のメンバーだったUさんのもとに研修生として八郷に来て、そこで出会って結婚して、今では三人の子どもを育てながら農業をしています。
「味噌だけじゃなくて、お醤油も、納豆も、うどんも自分でつくって、お酒もビールも自分でつくっちゃうんだよ。おじちゃん、おばちゃんの生活見てて、これが自給生活かなぁって考えていたけれど、全然程度が違うよ」
「そうだよ。俺たちは甘っちょろく、都会生活を田舎に持ち込んでいるだけなんだよ」
「ねえねえ、Sさんたち家も建てはじめたんだって。エネルギーも自分でつくるんだって」
みおちゃんが我が家に帰って来た朝、私たちも東京に行く用事があったので、一緒に行ったのですが、みおちゃんの興奮はいつまでも続いていました。
「肉は、五人家族なのに月に500グラムの豚肉だけだって」
「それってみわさんの肉?」
みわさんは、飼料を選んで、薬などいっさい使わずに少数の豚を育てている人です。
「そう」
このあたりで農業をやっている人たちは、決して食費は安くすませればいいとは思っていないので、食べるからには安心できるものを食べているのです。
研修の最後の夜、みおちゃんはUさんの出小屋で孤独な夜を過ごさず、Sさんの家に泊めてもらいました。その日は昼間の仕事で疲れていて、六歳、四歳、ゼロ歳児と過ごすのに耐えられるかなあと思いながら行ったそうです。
「なんて言ったらいいのかしら。すっごい疲れていたのに子どもたちにパワーをもらっちゃって、どんどん元気になったの。忙しいのに、おむつだって布おむつだよ。それに三人目はお風呂場で自分で産んじゃったんだって」
「すごいね」
「もし子どもが小学校へ行きたがらなかったら、やらないでいいと思っているんだって。それがね、悲壮感なんてないのよ。二人ともめっちゃ明るくて楽しそうなの」
さて、今週、暮しのじっけん室の面々が遊びにきました。
彼らが育てた豚は、野菜とともにおいしいお鍋になりました。出汁は、先日Uさんにいただいた鶏のガラでとりました。
暮しのじっけん室は、みおちゃんがお世話になったUさんやSさんの近くにあり、いまは四人のメンバーと、そろそろ一年の研修期間を終えて出て行く一人の研修員、そして一人の短期(一ヶ月)滞在者の六人が共同生活をしています。
「みおちゃんから聞いたけど、Sさんとこ、お風呂場で赤ちゃん産んだんだって?」
「あれっ、お風呂場で産んだのYくんとこだよ。そうかSくんちもそうだったかな」
とIさん。このあたりには、自分で家を建てている人なんていっぱいいますが、子どもを一人で産んでしまうことも、そう驚くこともないようでした。
暮しのじっけん室のメンバーの、一番新しいHさんとは初対面でした。
「彼はおもしろい経歴を持っているのよ」
とKさん。
「山を歩いていたの」
山歩きのどこがおもしろい経歴なのか聞いてみると、Hさんはカナダからアメリカを通って、メキシコまで、尾根を歩いて縦断、しかも三回も歩いたのだそうです。高いところは4000メートルものところを、全部で一万キロ以上歩いたのです。
「食べ物はどうしたの?」
「あまり担げないから、地図を見て一週間か長くても二週間に一度山を下りて調達しました」
「そうか、アフリカ大陸だと、食料を売っているところがないから、そうはいかないね」
「そう、アメリカだからできたんです。それで、そのときのことがあって、食料も自分でつくろうと、ここ(暮しのじっけん室)へ来ました」
Kさんの話だと、Hさんはセーターを自分で編むそうです。しかも毛糸を買って編むのではなく、原毛を手に入れ、紡いで糸をつくって編むのだそうです。
「紡ぐのって時間がかかるでしょう。昼間、目いっぱい農作業して夜紡ぐの?」
「そうです」
「彼はなんかかんか夜なべ仕事をしているわね」
と、やはりKさん。
暮しのじっけん室は、農業だけではなく、もっと幅広くいろいろやってみたいと、映画上映会、コンサート、お祭りなどいろいろ試みていますが、Iさん、Hさんは最近籠づくりもはじめました。
S夫婦もHさんたちも三十そこそこです。
今の世は、自分の力では生きられないように生きられないように仕向けられていて、みんなそれに甘んじて(喜んで?)いるのですが、突然変異というべきか、こんな人たちに出会うと、人間も捨てたものじゃないなと思います。
2014年3月27日木曜日
鉛筆を削りながら
鉛筆を削っていて、なんとなく、先日のことを思い出しました。
遊びに来ていた新四年生が、食卓で鉛筆を削っていたことです。
食卓には私が先に座っていたのか、彼の方が先だったか、覚えていません。とにかく削っているのを見つけて、声をかけたのです。
「あらっ、なんか変よ。う~ん、何が変なのかなあ?」
「......」
「ちょっと貸してごらんなさい」
私は彼の鉛筆とカッターナイフを取り上げて、自分でやってみました。
「そうか、あなた親指を動かしているのよ。親指は動かさないで、左手の、鉛筆を握っている指を前後ろに動かすのよ」
ほら、やってごらんなさいと鉛筆を返したのに、彼は削らずに、居間の方に行ってしまいました。そのことはそれっきりになっていたのです。
それが、自分で鉛筆を削っていて突然、彼が褒めてもらいたがっていたのだと気がつきました。
「へぇ、鉛筆が削れるんだ、すごいねぇ」
と。
というのも、彼が必要に迫られてえんぴつを削っていたなら、お絵かき道具を広げていた居間で削ってもよかったし、私に言われて、削るのをよすこともなかったのです。
鉛筆が削れるなら削れるでいいじゃない。どうして大人に褒めてもらいたがるの?
時代が違うとはいえ、おばあちゃん子で三文安かった私でさえ、二年生の時は自分の鉛筆は自分で削っていました。まあ、それは褒めてもらうほどのことじゃないのです。
なんて、彼もかわいくないけれど、私もかわいくありません。
「アメリカ先住民の子なら、四歳でナイフを自在に使えるのよ」
と、言ってやればよかったと思う私は、まぎれもない意地悪ばあさんです。
でも、このあたりの、自分で遊ぶ子どもに比べて、都会の子はいくつになっても大人の目を気にしていると言ったら、言い過ぎでしょうか。
2014年3月26日水曜日
自然とつき合う
しばらく前の話ですが、土地の生り立ちなどを学ぶ勉強会がありました。中国大陸から別れた日本列島がどんなところかを知る、先日のジオツアーを補足する集まりでした。
山のでき方、土石流の起こり方など、いろいろな実験がありましたが、潮の実験もありました。
砂浜をつくり、大波を起こしてみます。砂浜は、形を変えますが、大波をよく吸収して、後ろまで水が飛んでゆくということがありません。
ところが、護岸工事をしたり防潮堤をつくったりすると、波はぶつかって、いとも簡単に防潮堤を超えて行きます。
防潮堤があったために津波が大きくなったということが、よくわかりました。
また、松島は、先の津波の高さが比較的低かった(周りは20メートル以上、松島は3メートル)のですが、手前に石を入れて島をつくり、島があれば波は吸収される実験もありました。
講師の池田先生の口癖は、
「昔の人は自然をよく知り、私たちと同じ、あるいはそれ以上に高度な暮しをしていた」
と言うものです。
わざと山をはげ山にして表土を流して天井川をつくり、田んぼの面積を広げると同時に水利を確保したなどというお話など、昔の人々の壮大な暮しがしのばれるものでした。
山のでき方、土石流の起こり方など、いろいろな実験がありましたが、潮の実験もありました。
砂浜をつくり、大波を起こしてみます。砂浜は、形を変えますが、大波をよく吸収して、後ろまで水が飛んでゆくということがありません。
ところが、護岸工事をしたり防潮堤をつくったりすると、波はぶつかって、いとも簡単に防潮堤を超えて行きます。
防潮堤があったために津波が大きくなったということが、よくわかりました。
また、松島は、先の津波の高さが比較的低かった(周りは20メートル以上、松島は3メートル)のですが、手前に石を入れて島をつくり、島があれば波は吸収される実験もありました。
講師の池田先生の口癖は、
「昔の人は自然をよく知り、私たちと同じ、あるいはそれ以上に高度な暮しをしていた」
と言うものです。
わざと山をはげ山にして表土を流して天井川をつくり、田んぼの面積を広げると同時に水利を確保したなどというお話など、昔の人々の壮大な暮しがしのばれるものでした。
2014年3月25日火曜日
2014年3月24日月曜日
スポンジウエァ
久々に、母に会いに行きました。そう遠くはないのですが、あれこれ日常にかまけて、なかなか会いに行けません。
というか、昨年の一月に大腿骨骨折の手術をしてから、母は週に三日はリハビリに、週に二日はデイケアに通っているので、週末にしか会えなくなっているのです。
デイケアでは、習字、工作、絵手紙など、いろいろやるそうですが、先日あやとりの時間があり、四段梯子をつくって見せたら、感心されたそうです。
「一段梯子とかできる?」
「できない。私も四段梯子だけできるかな」
「メモを見たら、四段梯子以外にもできる?」
「まあ、メモがあれば、できるかもね」
というわけで、母がメモを取り出して来て、妹に毛糸をもらい、あやとりを二つつくって、メモ通りにやってみました。
一段梯子はちょっと手間取りましたが、二段梯子は楽勝。さて、三段梯子はどうしてもできません。母のメモが悪いのでしょうか?母は一度だけ三段梯子ができたのですが、
「もう一回やって見せて」
と頼んでやってみてもらっても、二度とできませんでした。
ここらで、私は諦めてしまいましたが、母は五段梯子、六段梯子にも挑戦していました。
さて、妹のカップボードです。
一昨年、妹は留学していた息子のなぁくんを訪ねてイギリスに行きました。なぁくんがいる間にイギリスに行ってみたかったのは、『ツバメ号とアマゾン号』 (アーサー・ランサム著、岩波書店)シリーズに出てくる土地を訪ねてみたかったのですが、スポンジウエァの工場も訪ねてみたかったようでした。私も『ツバメ号とアマゾン号』は好きですが、妹ほど入れ込んでいません。
テディーベアの蓋ものの右にあるのは、妹がイギリスで見つけたポーランドのスポンジウエァですが、それ以外はイギリスのスポンジウエァです。
蓋ものの左の、ハローウィン模様のマグカップは、ポーランドのものに形がよく似ています。
私も、ドイツのスポンジウエァは持っていましたが、妹に触発させらて、ポーランドのマグカップも買ってしまいました。
最初、猫模様のカップを二つだけ買ったのですが、小さめのマグカップはなかなか使い勝手がいいので、後で買い足しました。
猫だけで揃えたかったのですがさがしても見つからず、象、ふくろう、ハリネズミ模様のものを買いました。いまでは、いろいろあってよかったと思っています。
朝、ポットに少ししか残っていないコーヒーを二人で分けて飲んだりするとき、大きなカップで底の方にちょっとあるより、小さなカップを使う方がずっと豊かな気持ちになれます。
スポンジウェアは、170年前から伝わる絵つけの方法で、素焼きの陶器にスポンジを使って絵つけをして、釉薬をかけて焼いてつくりまです。ポーランドのブリクストン陶器会社では、農場、ペンギン、羊、ノアの箱舟、鶏、馬、リス、うさぎ、アヒル、カタツムリなどなど、500種類ものマグカップをつくっています。
というか、昨年の一月に大腿骨骨折の手術をしてから、母は週に三日はリハビリに、週に二日はデイケアに通っているので、週末にしか会えなくなっているのです。
デイケアでは、習字、工作、絵手紙など、いろいろやるそうですが、先日あやとりの時間があり、四段梯子をつくって見せたら、感心されたそうです。
「一段梯子とかできる?」
「できない。私も四段梯子だけできるかな」
「メモを見たら、四段梯子以外にもできる?」
「まあ、メモがあれば、できるかもね」
というわけで、母がメモを取り出して来て、妹に毛糸をもらい、あやとりを二つつくって、メモ通りにやってみました。
一段梯子はちょっと手間取りましたが、二段梯子は楽勝。さて、三段梯子はどうしてもできません。母のメモが悪いのでしょうか?母は一度だけ三段梯子ができたのですが、
「もう一回やって見せて」
と頼んでやってみてもらっても、二度とできませんでした。
ここらで、私は諦めてしまいましたが、母は五段梯子、六段梯子にも挑戦していました。
さて、妹のカップボードです。
一昨年、妹は留学していた息子のなぁくんを訪ねてイギリスに行きました。なぁくんがいる間にイギリスに行ってみたかったのは、『ツバメ号とアマゾン号』 (アーサー・ランサム著、岩波書店)シリーズに出てくる土地を訪ねてみたかったのですが、スポンジウエァの工場も訪ねてみたかったようでした。私も『ツバメ号とアマゾン号』は好きですが、妹ほど入れ込んでいません。
テディーベアの蓋ものの右にあるのは、妹がイギリスで見つけたポーランドのスポンジウエァですが、それ以外はイギリスのスポンジウエァです。
蓋ものの左の、ハローウィン模様のマグカップは、ポーランドのものに形がよく似ています。
私も、ドイツのスポンジウエァは持っていましたが、妹に触発させらて、ポーランドのマグカップも買ってしまいました。
最初、猫模様のカップを二つだけ買ったのですが、小さめのマグカップはなかなか使い勝手がいいので、後で買い足しました。
猫だけで揃えたかったのですがさがしても見つからず、象、ふくろう、ハリネズミ模様のものを買いました。いまでは、いろいろあってよかったと思っています。
朝、ポットに少ししか残っていないコーヒーを二人で分けて飲んだりするとき、大きなカップで底の方にちょっとあるより、小さなカップを使う方がずっと豊かな気持ちになれます。
スポンジウェアは、170年前から伝わる絵つけの方法で、素焼きの陶器にスポンジを使って絵つけをして、釉薬をかけて焼いてつくりまです。ポーランドのブリクストン陶器会社では、農場、ペンギン、羊、ノアの箱舟、鶏、馬、リス、うさぎ、アヒル、カタツムリなどなど、500種類ものマグカップをつくっています。
2014年3月23日日曜日
よく見て発見!
先日、お天気のいい日、夫に、
「お雛さま、しまいたくなっちゃった」
と言うと、
「いいんじゃない」
と、言ってくれました。お雛さまを飾るときは、毎年ぐずぐずしますが、しまうときはいきなりしまいたくなってしまいます。
夫にしまうかどうか聞いたのは、ひろちゃんとゆりこさんがお雛さまを見たいので、三月末に来ると言っていたからです。
「もし来たら、待ちきれなくてしまっちゃったって言えばいいじゃないか」
というわけで、いそいそとしまいました。
やすお母の遺したお雛さまは、文字が関人形と言うのかと思いながらしまっていると、あれっ、何か変です。普通、三仕丁の中の、お内裏さまの沓を持っている人形が、お雛さまの草履だかこっぽりだか持っています。
「これはないでしょう!」
お雛さまって、いったいいつの時代の人?男性が沓を履いていたころ、女性は何を履いていたの?庶民は何を履いていたの?鼻緒っていつからできたの?
知らないことだらけです。
こうやって見ていると、お内裏さまとお雛さまがすたすたと歩いて行きそうで、笑ってしまいました。
ついでに、春日部のお雛さまも眼鏡をかけて見てみました。
あらっ、三仕丁の前でにこにこしているのは誰でしょう?とても右大臣左大臣には見えません。高砂のじじばばかしら?
小さいものは小さいままで愛でていますが、よく見るといろいろ発見があります。
三人官女の真ん中の彼女は、きっと色黒を悩んでいるのではないかと、余計な心配までしてしまいました。
その夜、ひろちゃんから連絡があり、今年は忙しくて行けそうにないので来年来るとのこと、よかった、しまって正解でした。
「お雛さま、しまいたくなっちゃった」
と言うと、
「いいんじゃない」
と、言ってくれました。お雛さまを飾るときは、毎年ぐずぐずしますが、しまうときはいきなりしまいたくなってしまいます。
夫にしまうかどうか聞いたのは、ひろちゃんとゆりこさんがお雛さまを見たいので、三月末に来ると言っていたからです。
「もし来たら、待ちきれなくてしまっちゃったって言えばいいじゃないか」
というわけで、いそいそとしまいました。
やすお母の遺したお雛さまは、文字が関人形と言うのかと思いながらしまっていると、あれっ、何か変です。普通、三仕丁の中の、お内裏さまの沓を持っている人形が、お雛さまの草履だかこっぽりだか持っています。
「これはないでしょう!」
お雛さまって、いったいいつの時代の人?男性が沓を履いていたころ、女性は何を履いていたの?庶民は何を履いていたの?鼻緒っていつからできたの?
知らないことだらけです。
こうやって見ていると、お内裏さまとお雛さまがすたすたと歩いて行きそうで、笑ってしまいました。
ついでに、春日部のお雛さまも眼鏡をかけて見てみました。
あらっ、三仕丁の前でにこにこしているのは誰でしょう?とても右大臣左大臣には見えません。高砂のじじばばかしら?
小さいものは小さいままで愛でていますが、よく見るといろいろ発見があります。
三人官女の真ん中の彼女は、きっと色黒を悩んでいるのではないかと、余計な心配までしてしまいました。
その夜、ひろちゃんから連絡があり、今年は忙しくて行けそうにないので来年来るとのこと、よかった、しまって正解でした。
2014年3月22日土曜日
久々の本格大工仕事
「棚つくってくれる?」
息子からのリクエストに軽く、
「いいよ」
と応えたのは、一月のことでした。
送られてきた図面を見ると、息子が欲しいのは、180センチほどの高さ、150センチほどの幅で、そのなかに10列、16段もあるという、組み子のような棚です。
さて、材料はヒノキと決めるまでに数日かかりました。かんばやし製材所で買おうと決めるまでに、さらに数日かかりました。
ホームセンターではヒノキの削っていない板は売っていませんし、大きな材木屋では、決まりきった寸法の材木が束になっていて、自由に選べません。
その点、自分で製材し、住宅の施工もやっているかんばやし製材所の木は、家を建てるのに合わせて多めに切り出しているはずですから、半端で残っているものが、きっとあるはずです。
「細いのでよかった。残り物の中から乾燥したのをHくんに拾わせて、連絡します」
とかんばやしさん。Hくんとは、林業家を目指してこの数年かんばやし製材所で働いている、日本の林業再生の旗手です。
Hくんがさがしてくれるのを待つことにしました。
いったい材木を選ぶのに、どんなに時間がかかっているんだと、訝しがりはじめたころ、
「材木が揃いました」
と連絡がありました。
大雪の後でしたが、すぐ引き取りに行きました。
時間がかかっただけあって、素晴らしい。たくさんの木の中からさがし出してくれた、提示した寸法に見合ったヒノキは、すべて無節のものでした。
さて、運んでは来ましたが、材木置き場のビニールハウスも、作業場のビニールハウスも、大雪でぺっちゃんこのときでした。
やっとスペースを見つけて、雨がかからないようにしまいましたが、つぶれたビニールハウスの下はごった返していましたから大工道具も使えず、一ヶ月ほどはビニールハウスの修理や、片づけに追われました。
雨や雪が降り込んだため、機械は錆びているし、刃も欠けていたのを交換、やっと棚つくりに取りかかる環境が整ったのは、ごく最近です。
杉、椹(さわら)、檜(ひのき)、欅(けやき)。
木はどれも見た目や手触りが違います。そして、もっとも違いが顕著なのは削ったり切ったりするときの匂いです。
中でも、いい匂いはヒノキです。今回はヒノキでつくっているので、自動がんなで削ると、そこいらじゅうにいい匂いが満ち満ちます。
やっぱり大工仕事は面白い。
これまで、必要に迫られてやっているのだとばかり思っていましたが、もしかしたら私は大工仕事が大好きなのかもしれません。
息子からのリクエストに軽く、
「いいよ」
と応えたのは、一月のことでした。
送られてきた図面を見ると、息子が欲しいのは、180センチほどの高さ、150センチほどの幅で、そのなかに10列、16段もあるという、組み子のような棚です。
さて、材料はヒノキと決めるまでに数日かかりました。かんばやし製材所で買おうと決めるまでに、さらに数日かかりました。
ホームセンターではヒノキの削っていない板は売っていませんし、大きな材木屋では、決まりきった寸法の材木が束になっていて、自由に選べません。
その点、自分で製材し、住宅の施工もやっているかんばやし製材所の木は、家を建てるのに合わせて多めに切り出しているはずですから、半端で残っているものが、きっとあるはずです。
「細いのでよかった。残り物の中から乾燥したのをHくんに拾わせて、連絡します」
とかんばやしさん。Hくんとは、林業家を目指してこの数年かんばやし製材所で働いている、日本の林業再生の旗手です。
Hくんがさがしてくれるのを待つことにしました。
いったい材木を選ぶのに、どんなに時間がかかっているんだと、訝しがりはじめたころ、
「材木が揃いました」
と連絡がありました。
大雪の後でしたが、すぐ引き取りに行きました。
時間がかかっただけあって、素晴らしい。たくさんの木の中からさがし出してくれた、提示した寸法に見合ったヒノキは、すべて無節のものでした。
さて、運んでは来ましたが、材木置き場のビニールハウスも、作業場のビニールハウスも、大雪でぺっちゃんこのときでした。
やっとスペースを見つけて、雨がかからないようにしまいましたが、つぶれたビニールハウスの下はごった返していましたから大工道具も使えず、一ヶ月ほどはビニールハウスの修理や、片づけに追われました。
雨や雪が降り込んだため、機械は錆びているし、刃も欠けていたのを交換、やっと棚つくりに取りかかる環境が整ったのは、ごく最近です。
杉、椹(さわら)、檜(ひのき)、欅(けやき)。
木はどれも見た目や手触りが違います。そして、もっとも違いが顕著なのは削ったり切ったりするときの匂いです。
中でも、いい匂いはヒノキです。今回はヒノキでつくっているので、自動がんなで削ると、そこいらじゅうにいい匂いが満ち満ちます。
やっぱり大工仕事は面白い。
これまで、必要に迫られてやっているのだとばかり思っていましたが、もしかしたら私は大工仕事が大好きなのかもしれません。
2014年3月21日金曜日
もらっちゃった
骨董市で、さわださんにもらっちゃいました。小さな小さな小指の先ほどの子守り人形です。
でも、薄利多売のさわださん、なんにもなしでくれるってことは、まずあり得ません。
そう、歯医者さんのちょっと古いビンを買ったのです。
「もしかして、汚かったのをさわださんが洗ったの?」
「うん。最近女性のお客さんが増えちゃってさ、きれいなものを欲しがるからね」
「ふうん、そうなんだ」
男性は、ポマードやインクなど、ビンに残っているものの方を欲しがりますが、女性はそうではないようです。
コバルトブルーのガラス、大好きですが、日本ではお医者さんで貰う薬ビンにはなくて、歯医者さんのビンが多いみたいです。
他にもコバルトのビンがあるので、一緒に写真を撮ろうと手を伸ばしたら、
「あれっ、とれない」
地震対策で、全部底をくっつけてしまっていました。
2014年3月20日木曜日
鞠つき猫
骨董市で、がんこさんのおやじさんが、デッドストックの鞠つき猫を持っていました。
「びみょーなんだよね」
「そうね」
おやじさんは三つ、四つ持っているのですが、おもちゃコレクターはセルロイドなら高くても飛びつきますが、 これはどうでしょう?
顔と手はソフトビニール、身体はブリキ、鞠だけがセルロイドです。
目が人間の目くさいし、ほっぺも赤いので、猫なのに髭と鼻が不似合で、遊び過ぎて顔を汚した子どもみたいに見えたりします。
ゼンマイを巻くと、かわいらしく首を左右に振りながら、鞠をつく右手を上下させます。
日本は、セルロイドの輸出を主な産業として、1937年には世界のセルロイド総生産の40%を生産、輸出していました。第二次世界大戦でセルロイドの生産は落ち込みましたが、復興の兆しが見えた矢先の1956年、最大の輸出国であったアメリカが、可燃性が強いからとセルロイドの輸入を禁止して、セルロイド産業というか、日本の輸出産業そのものが大打撃を受けました。
この鞠つき猫は過渡期のものなのか、鞠だけがセルロイド。当時、プラスティックはアメリカで開発されて広まりはじめていましたが、まだ技術がなくて、鞠をつくるには重すぎたのでしょうか?
1960年代までは、日本のおもな輸出品目はおもちゃでしたが、1970年代になると自動車やトランジスタラジオと、目まぐるしく変わって行く時代でした。
1968年から70年にかけてアメリカで暮し、幼児を育てていましたが、おもちゃはFisher Priceなど、アメリカ製のものがおもでした。それと、美しいものなら北欧などヨーロッパ製の木のおもちゃで、もっとも安価な、ビニール袋に入った使い捨てのようなおもちゃは香港製、あまり日本製のおもちゃは見かけませんでした。