ビニールハウスの倉庫の片づけも途中だし、早朝から働くのは寒いし、何もかも、なかなか進みません。
プラスティックの衣装ケースは、割合湿気を遮断しますが、重ねているケースの床に近い部分はダメだったみたい、糸や布がまだ残っていて全滅、絣に括って藍染めした糸も、ボロボロになっていました。
プラスティックの衣装ケースは、自分で使っていたもの、息子が使っていたものなどですが、母屋が完成したときは、たくさんの荷物の奥に積み重ねてあり、しかたなく生活用には新しいのを買ったので、整理が進んだ今でも、まだずいぶん残っています。
もうほとんどは空ですが、念のため全部を調べていたら、その一つに、風呂敷包みが入っていました。まったく見覚えのないものでした。
開くと、夫の母が集めたものが出てきました。
わぁ、お母さんごめんなさい。すっかりカビてしまいました。
家の建設をはじめて2、3年目(15年ほど前)は、大忙しでした。
夢中で土を掘り、鉄筋を曲げ、型枠をつくる毎日に加えて、夫の両親が遺したセカンドハウスと、以前私たちが住んでいた家の管理をしていました。
夫の両親は長く、事務所脇の狭い一室に暮らしていました。二人とも仕事一筋の人でしたからそんな生活を厭わなかったのですが、夜でも在宅しているのを知られて電話がかかってくるので、とうとう別のマンションに移り、飯能から正丸峠に抜ける道の中ほどにセカンドハウスも建てました。
そして、鶏を飼ったり、絵を描いたりと楽しい週末を過ごしていましたが、両親の亡きあと、そこは長く空き家のままでした。
また、私たち家族が住んでいた家には、当時は長男が一人で住んでいましたが、落ち込んでいた時代で、庭仕事はおろか、部屋の片づけもおろそかにしていました。私たちもその家に、たくさんの荷物を詰め込んでいたので、定期的に掃除しに通っていました。
どちらも、頃合いを見計らって自主的に行きたいところですが、よく、間に合いませんでした。長男が住んでいた家のお隣さん(旧知の間柄ですが、旦那さんは退職後庭掃除が趣味)と、両親の住んでいたセカンドハウスの近くの方(両親の生前は管理をお願いしていた人、管理費が高いので断っていた)からは、容赦なく電話がかかってきました。庭木が伸びた、草が伸びた、落ち葉が落ちたなどなど。
そのたびに私たちは軽トラックに刈り払い機やチェーンソーを乗せて西へと走り、一日じゅう木の枝切ったり、草を刈ったり、出たゴミをゴミ処理場に運んだり。そして、運びきれなかったゴミは、軽トラに満載して、夜の高速道路をひた走って帰ってきました。3匹の犬たちも一緒でした。
やがて、息子が心機一転、東京郊外のその家を出て都心に移りました。どちらの家も売りに出し、買い手がつき、手放したときはやれやれでした。長い管理生活から解放されたのです。
家を引き渡すとなると、私たちが置いていた荷物や、息子の膨大な蔵書を含めた荷物などたくさんのものがあり、それぞれにトラックを借りて運び、不用品は処分し、残った荷物は片っ端から地下倉庫に押し込め、倉庫に入りきらないものは庭に鉄パイプを組み、ブルーシートをかぶせて保管したりしました。
夫の両親はまったくものに執着しない人でしたから、生活必需品以外はほとんどありませんでした。とくに母は、明治の人とは思えないほど、包み紙でも空き缶でもなんでも、潔くすぐ捨てる人で、だから小さな部屋に何十年も暮らせたのです。それでも、セカンドハウスを持ってからは、それなりにものも増えていました。
また、生活道具だけでなく、文様研究の資料があったことも、セカンドハウスを片づけて初めて知りました。千代紙はそのまま手元に残しましたが、浮世絵は額装されたものを除いて、すべて神田神保町の浮世絵専門の古書店に引き取ってもらいました。価値を知る人が持っていた方がいいと思ったのです。
母屋が完成したとき、夫の両親の品(千代紙など)は、すべて地下倉庫から母屋に移したので、まだ何か残っていたなんて、思いもよりませんでした。
その浮世絵です。
一陽斎豊國(歌川豊國、1786-1865)の「春宵一刻千金の界」、三枚組みになっています。
手放した浮世絵はほとんど三枚組でしたが、浮世絵に縁のなかった私は、江戸時代には美人画が三枚組で売られていたことは知りませんでした。
ダチョウの絵は、作者名がありません。幕末のものでしょうか?明治に入ってのものでしょうか?
座っている人はかぶりものからすると、マレー人に見えます。母はこの、ジャワ更紗の服に関心を持っていたのでしょう。
歌川広重の「大はしあたけの夕立」もありました。
資料として以外の版画はこれだけ、母はこの絵が好きだったのかもしれません。
資料として以外の版画はこれだけ、母はこの絵が好きだったのかもしれません。
奥村政信(1686-1764)の絵は、母が好きそうな文様が満載です。
母が関心を持っただろう着物や帯、でも私はおもちゃに目が行ってしまいます。
江戸時代初期から「ぴんぴん鯛」はあったのです。そして、もしこれが大阪の堺のぴんぴん鯛なら、すでに東海道を通って江戸へももたらされていたことがわかります。
江戸は、町ができたころは殺風景、男ばかり住んでいたようですが、このころは女も増えて、やっと町としての賑わいが出てきていたのでしょう。
自宅を建設中の上、他に2軒も管理していたなんてタフですね!私なら投げ出しています。
返信削除昔の人は柄物の着物を重ねて着ていたのですね。センスが問われそうです。
オランダ人と鳥の絵が面白いです!鳥はダチョウ科のヒクイドリですね。ダチョウって駄鳥なの!と驚きましたが、ほんとは駝鳥が正しいようです。学名が駱駝に由来していました。
リンク先の千代紙を見ましたが、私が想像する正方形の千代紙ではなくてびっくりしました~。
hiyocoさん
返信削除すごいでしょう?よくやりました。ぞっとします。
軽トラックは高速で長く走らせるものじゃありませんが、知らずに1台はエンジンをダメにしました。首都高を走っていた時にとまっちゃったけど、運よく出口の近くでした。動かなくなった車を別の車で紐で引っ張って甲州街道を走ったなんてこともありました。今考えると、自動車の故障は保険がカバーしてくれたんじゃないかしら?何でも自分でやっていました(笑)。母のタンスを運んでて、一部を道に落としたこともあったし(笑)。
2台目の軽トラからは、高速道路を走る時もひたすら80k以下に抑えました。
この絵は駝鳥に火を食べさせようとしているから、勝手に想像した鳥だと思っちゃった、ヒクイドリだったのですね。小さいころヒクイドリは低い鳥だと思っていたことを思い出しました(笑)。
昔の絵で、へんてこな象なんていましたよね。
こんばんは。
返信削除浮世絵のコレクション、凄いですね。調べてみたら火喰鳥の絵は同じ物が太田記念美術館にもあるようです。長崎土産という事でしたが作者名までは分かりませんでした。
かねぽんさん
返信削除ありがとう。私は浮世絵はあまりわかりませんが、版木を彫る技術には感心してしまいます。髪の毛など信じられない細さです。まあ、摺りもすばらしいものがありますが。
残っていたのはどれもなかなか素敵でした。
あぁぁぁ〜、実家の庭の手入れに行かなくてはいけないことを思い出しました。
返信削除二軒も管理していたなんて、本当に大変でしたと思います。
それと、夢中で掘り、鉄筋を曲げ、型枠…というくだりも、グーーッときました。ほんとにお二人でなさったなんて!!!
返信削除基礎は男子でも大変な作業なのに…。最近、基礎断熱の流れから、タイトモールドといって断熱材が型枠になり、生コン打設を一回でという構法があるらしいです。最近、いかに基礎を早く安くするか。人不足もこの手の開発に追い風なのだと思います。
Akemi Fujimaさん
返信削除世間では空き家が問題になっていますが、それが自分に関係するとなると、本当に大変ですよね。
今でもそうですが、自分でやらないと、前に進めない、当時は休むわけにはいきませんでした。そんなとき、百姓のなんでもないじいちゃんが掘った大きな木の根巻ができたり、なんでもないばあちゃんが、繁殖した竹を全部切ってしまったり、そんなことが大いに励みになりました。脱輪した車を引き上げることなども含めて、「なんと農村に住む人は生活能力が高いんだろう!」と。
作業棟もそうですが、母屋はコンクリート打ちを10回ぐらい繰り返したんじゃないかしら。なにせ、4年半もコンクリート工事だけでかかりましたから(笑)。