青森県弘前市の下川原(したかわら)土人形の童子と牛乗り天神です。
下川原土人形は、文化7年(1810年)に、津軽藩主が産業振興のため筑前(福岡)から陶工を招いて製陶事業を起こして茶碗などを焼くと同時に、冬の閑暇を利用して、陶工が土人形をつくったのが始まりとされています。初代は高谷金蔵といいました。
土人形は、人形や玩具が少なかったこの地方の人々の生活に深く浸透し、現在に至っています。土を舐めると虫封じになると言われ、下川原土人形には土笛が多いのが特徴で、その種類の多さは日本一です。
牛乗り天神は今もつくられていますが、童子はどうでしょう?
『朝鮮通信使ー江戸日本の誠信外交』(仲尾宏著、岩波新書、2007年)に、3体の下川原土人形の写真が載っています。そして、広島県呉市の「蘭島文化振興財団」には、朝鮮通信使に送られたものと同じ下川原土人形が残っていますが、その中に俵か柳行李の上に座る童子もあります。
下川原土人形は、鳩笛を除いておおむね小形ですが、この童子と牛乗り天神はさらに小さくできています。
そして筆遣いが、すでに持っていた下川原土人形と比べてとても繊細なので、一瞬、下河原土人形を写した浅草助六の人形かとも思ってしまいました。助六では、郷土玩具を小さくつくって販売していることがあります。
下川原土人形は、文化7年(1810年)に、津軽藩主が産業振興のため筑前(福岡)から陶工を招いて製陶事業を起こして茶碗などを焼くと同時に、冬の閑暇を利用して、陶工が土人形をつくったのが始まりとされています。初代は高谷金蔵といいました。
土人形は、人形や玩具が少なかったこの地方の人々の生活に深く浸透し、現在に至っています。土を舐めると虫封じになると言われ、下川原土人形には土笛が多いのが特徴で、その種類の多さは日本一です。
牛乗り天神は今もつくられていますが、童子はどうでしょう?
広島県呉市の「蘭島文化振興財団」に残っている朝鮮通信使に送られた下川原土人形 |
『朝鮮通信使ー江戸日本の誠信外交』(仲尾宏著、岩波新書、2007年)に、3体の下川原土人形の写真が載っています。そして、広島県呉市の「蘭島文化振興財団」には、朝鮮通信使に送られたものと同じ下川原土人形が残っていますが、その中に俵か柳行李の上に座る童子もあります。
そして筆遣いが、すでに持っていた下川原土人形と比べてとても繊細なので、一瞬、下河原土人形を写した浅草助六の人形かとも思ってしまいました。助六では、郷土玩具を小さくつくって販売していることがあります。
ところが、牛乗り天神の底には字が書いてありました。
弘前とありますから、紛れもない下川原の土笛ですが、残念ながら「高谷」に続くお名前(かどうか?)が読めません。
下川原土人形で底に署名があるものは、ほかに見たことがないので、購入者が高谷さんにお願いして書いてもらったものか、あるいは購入者自身が忘備のために書いたものと思われます。
数字の26は、昭和26年(1951年)ということでしょうか?
さて、右は、我が家に先住の牛乗り天神です。型も違いますが、明らかに作者も違います。
ネットにはこんな牛乗り天神もありました。
写真ですからはっきりしませんが、この二つも型が違う、小さい型(左)と大きい型(右)のようです。そして、天神さまの顔や牛の顔を見ると、4体それぞれ作者が違うようです。
私の持っている一番古い下川原土人形は、鳩笛です。
学生時代に東北旅行をした時、青森土人形や八橋土人形の窯元をお訪ねしたことははっきりと覚えているのですが、下川原土人形の窯元を訪ねたかどうかは覚えていません。ただ、この鳩笛はその当時、つまり学生時代から持っていました。青森で手に入れたものだと思います。その後、牛乗り天神を手に入れていますが、それは1970年代だと思われます。
1972年に発売された『日本の郷土玩具』(薗部澄写真、坂本一也解説、毎日新聞社、1972年)に掲載された下川原土人形の作者は、高谷充治(5代目?)さんとなっているので、我が家の牛乗り天神は高谷充治さんの手になるものと思われます。
ところで、下川原土人形の映像があり、それに型を起こすには代々敷地内の土を使ってきたという説明がありました。
土に注目して見ると、童子と牛乗り天神、そして鳩笛に使われている土は鉄分を多く含んでいて、濃い茶色をしています。
そして、サインのある牛乗り天神を高谷充治さんの牛乗り天神と、高谷信夫さん(6代目か?)の招き猫(右)を比べてみると、土の色が、新しくつくられたものの方が白いことがわかります。鉄分が少なくなっているのです。