2022年2月28日月曜日

下川原土人形



青森県弘前市の下川原(したかわら)土人形の童子と牛乗り天神です。
下川原土人形は、文化7年(1810年)に、津軽藩主が産業振興のため筑前(福岡)から陶工を招いて製陶事業を起こして茶碗などを焼くと同時に、冬の閑暇を利用して、陶工が土人形をつくったのが始まりとされています。初代は高谷金蔵といいました。
土人形は、人形や玩具が少なかったこの地方の人々の生活に深く浸透し、現在に至っています。土を舐めると虫封じになると言われ、下川原土人形には土笛が多いのが特徴で、その種類の多さは日本一です。

牛乗り天神は今もつくられていますが、童子はどうでしょう?
広島県呉市の「蘭島文化振興財団」に残っている朝鮮通信使に送られた下川原土人形

『朝鮮通信使ー江戸日本の誠信外交』(仲尾宏著、岩波新書、2007年)に、3体の下川原土人形の写真が載っています。そして、広島県呉市の「蘭島文化振興財団」には、朝鮮通信使に送られたものと同じ下川原土人形が残っていますが、その中に俵か柳行李の上に座る童子もあります。


下川原土人形は、鳩笛を除いておおむね小形ですが、この童子と牛乗り天神はさらに小さくできています。
そして筆遣いが、すでに持っていた下川原土人形と比べてとても繊細なので、一瞬、下河原土人形を写した浅草助六の人形かとも思ってしまいました。助六では、郷土玩具を小さくつくって販売していることがあります。


ところが、牛乗り天神の底には字が書いてありました。
弘前とありますから、紛れもない下川原の土笛ですが、残念ながら「高谷」に続くお名前(かどうか?)が読めません。
下川原土人形で底に署名があるものは、ほかに見たことがないので、購入者が高谷さんにお願いして書いてもらったものか、あるいは購入者自身が忘備のために書いたものと思われます。
数字の26は、昭和26年(1951年)ということでしょうか?


さて、右は、我が家に先住の牛乗り天神です。型も違いますが、明らかに作者も違います。


ネットにはこんな牛乗り天神もありました。
写真ですからはっきりしませんが、この二つも型が違う、小さい型(左)と大きい型(右)のようです。そして、天神さまの顔や牛の顔を見ると、4体それぞれ作者が違うようです。


私の持っている一番古い下川原土人形は、鳩笛です。
学生時代に東北旅行をした時、青森土人形や八橋土人形の窯元をお訪ねしたことははっきりと覚えているのですが、下川原土人形の窯元を訪ねたかどうかは覚えていません。ただ、この鳩笛はその当時、つまり学生時代から持っていました。青森で手に入れたものだと思います。その後、牛乗り天神を手に入れていますが、それは1970年代だと思われます。
1972年に発売された『日本の郷土玩具』(薗部澄写真、坂本一也解説、毎日新聞社、1972年)に掲載された下川原土人形の作者は、高谷充治(5代目?)さんとなっているので、我が家の牛乗り天神は高谷充治さんの手になるものと思われます。


ところで、下川原土人形の映像があり、それに型を起こすには代々敷地内の土を使ってきたという説明がありました。
土に注目して見ると、童子と牛乗り天神、そして鳩笛に使われている土は鉄分を多く含んでいて、濃い茶色をしています。


そして、サインのある牛乗り天神を高谷充治さんの牛乗り天神と、高谷信夫さん(6代目か?)の招き猫(右)を比べてみると、土の色が、新しくつくられたものの方が白いことがわかります。鉄分が少なくなっているのです。


下川原土人形の窯元には、今でも江戸時代につくられたものを含めて、300種類以上の型があるそうです。








2022年2月26日土曜日

母の三回忌


今日は母の1年遅れの三回忌でした。
昨年はコロナ禍で集まることができず、今年は2月6日、たまたま父の命日の日に予定していましたが、それもオミクロン株の急拡大で延期、今日を逃すといつ集まれるかという危ういところでしたが、何とか子どもたちと孫たちが集まって、供養することができました。


両親とも2月に亡くなったので、小金井公園に隣接したお寺を訪ねるのは冬ばかりです。
花が好きな母が選んだお寺は大賀蓮が見事なのですが、藤も見事らしいのですが、私が目にするのは梅ばかりです。
今日は、本堂での読経と隣接している墓所のお墓参りだけ、会食も避けて、きょうだい久しぶりに会ったというのにろくに話もせず解散してしまいました。


妹からお土産(?)に、焼き菓子の詰め合わせをもらいました。


クマが好きな妹ですが、可愛い猫が入っていました。






 

2022年2月25日金曜日

小さな屋根

高いところの作業があらかた終わったので、とうとう、足場屋さんに電話しました。
昨年3月に借りた足場は、3か月間借りる交渉をして値段を決めたのですが、大幅に遅れて1年近く借りてしまいました。
足場屋さんは東さん(ひがしさん)が社長さんのイーストカンパニーと言います。楽しいことに、電話で対応してくださったのは南さんでした。
かつて私が働いていた団体には、東さん(あづまさんだけど)、西さん、南さん、そして北山さんがいました。イーストカンパニーにも東西南北が揃っているとは思えませんが、南さんがいるだけでも、浮き浮きしてしまいます。
2月28日の月曜日に足場を撤収しに来てくれることが決まりましたが、やばい!高いところの細工をまだしていなかったのを、うっかり忘れるところでした。
そこは軒が深くないので、窓の上に小さな屋根をつくりたいと思って後回しにしていたのでした。


垂木は2か所で支えたい。1本は横に材を渡して、後ろは壁板を1枚張ったところで、それで支えることにしました。


垂木の後を壁板(15センチ+さね1センチ高さ)で支えるとして、ちょうどいい勾配になる高さに、横木を置いてみました。


壁板を張り、横木を取りつけて、垂木を置いてみると、ちょうどいい具合です。
このあと、一段目の壁板の上に、ぶつぶつ切った2段目の壁板を嵌めて、隙間を塞ぎました。


垂木の上には野地板を張ります。


出来上がった屋根に、夫がガルバリウムを葺いてくれることになりました。


そう深い軒ではないけれど、しとしと雨くらいなら窓を開けてもしのげます。
ないよりあった方がずっといい、小さな屋根でした。






 

2022年2月24日木曜日

まだ窓


夫は、居間の一番大きい窓を取りつけるための額縁をつくっています。


両脇に幅広の板を立て、


それに窓サッシを支える材を取りつけています。


私は最後の、水回りの北側の壁をつくりました。
この窓サッシは、柱より幅が広い。したがって柱の外側に留めつけているので、額縁をつくる作業は壁を張ってからでもできます。
そこで、足場を使わなければできない上部の壁をまず張って、次に額縁を窓枠に引っかけてから、それ以後の作業は邪魔になる足場を取り外してからすることにしました。


これは、窓上の壁の最後の壁板です。
壁板を下から張ってきて、残りの空きが、高さ17センチになったのに、壁板の幅は15センチしかありません。そんなとき、細い最後の板を単独で嵌めることは不可能なので、一つ前の壁板と一緒に扱います。
一つの前の壁板は、被せやすいように奥の実(さね)を切り取って浅くしています。それにわずか2センチほどの壁板を重ねるのですが、たった2センチのために、壁板材の一部を切り取るのはもったいないので、棒状の切れ端を探して、自分で実加工をします。
それを被せてから、上部は嵌めやすいように斜めに切り取ります。



それを、叩き入れて、最後の一つ前の壁板の上部に銅の釘を打つと出来上がりです。


足場が必要な場所はすべて仕上げたので、いよいよ足場を取り外します。
ここの足場は足場屋さんがつくったものではなくて、足場屋さんの足場を利用して自分でつくった足場でした。


ほぼほぼ取り外したところ。右の方にはまだ足場板がぶら下がっています。
足場板には杉の足場板の切れ端を使っていましたが、板に穴を開けて動かないように番線(太い針金)でしっかり留めつけてあったので、踏みつけられてぺたんこになった番線を切ったり抜き取ったりするのに、ちょっと手間取りました。


そして、全部取り外したあとです。


窓下の壁は、額縁が飛び出しているので下から張っていくことができません。
では、額縁を最後につければ上下どちらからでも張れたのにということになりますが、足場があるうちに額縁を嵌める方が都合がよかったので、この場合、壁板を上から張りました。


最後に数センチの空きが残りましたが、これくらいなら一つ前の板と一緒でなくても、単独で嵌めることができます。






 

2022年2月23日水曜日

茶色い小ビン

先日、益子の内町工場にいったときのこと、選んだ古本をカウンターにあずかってもらってから、古道具を見ました。


すると、誰かが浜辺で拾ったに違いない、表面がこすれた小さなビンが目に留まりました。 形がいいし、こすれ方も素敵です。


我が家にあった似たビンと比べてみると、薄茶色のビンの方がずっとバランスが取れた美しい形をしていることがわかります。
薬ではなく、化粧水などが入っていたのでしょうか?


片側だけ下の方にエンボスらしいものが見えるので、写真に撮ると読めるのかなと期待しましたが、かえってエンボスの「エ」の字も感じられなくなりました。


小さいビンの中でも極小です。


小さいビンや、お尻が丸くて自力では立たないビンはここに置いていますが、ここに置くには小さすぎる。


玄関のプリンターケースに収めました。


ぴったりです。


内町工場で、このビンをカウンターに持って行ったときには、すでに本代の計算が済んでいて、これはおまけでいただいてしまいました。








2022年2月22日火曜日

羊1頭分の毛


織物教室に行ったら、以前Kさんが注文していた羊1頭分の刈り取った毛が北海道から届いていました。


封筒に押されたスタンプが、可愛いい(?)。


紐を切り、空気を抜いてあった包みを開けると、毛が出てきました。


「わぁぁ、大きい!」
毛は脂を含んでいて、触ると、ワセリンを塗ったように手がすべすべしてきました。
手前がお尻、向こうが頭、足やお尻のあたりの毛が汚れているけれど、洗うと真っ白になります。


さて、私の織物の進捗状況ですが、黒糸とまだら糸の整経した日が違い、そのせいか2つの糸に10センチもの長さの差があったので、先回補助糸に経糸(たていと)を結んだだけで、織り機に張るということはしないで、様子を見ようとそのままにしておきました。
そして、今回見るとあら不思議、2つの糸は同じ長さになっていました。手紡ぎの糸というのは、大きく伸びたり縮んだりしているようです。
というわけで、写真は経糸を後ろの巻き取り棒に巻き取り、手元の経糸は小分けにしてタコ糸で結んだところです。そのあと、補助糸を使って、経糸を手前の巻き取り棒に結びつけました。
かつて、私は経糸を手前の棒に直接結んでいましたが、ここでも糸のロスを出さないために補助糸を使っています(写真はない)。それが自分でつくった糸を使う人の心意気かとも思いますが、マフラーの場合は両端は房になるので、直接結んでも無駄になってしまう糸はほとんど出ません。


というわけで、すでに織りはじめています。
杼(ひ)をダブルで使っているのは、ひとえに私の糸紡ぎがへたくそだった結果です。かせによって重さが違っていたので、したがって糸の太さが違っているだろうと、そんな糸を順番に使っては布が均等にならないだろうと、重い糸と軽い糸で1段ずつ交互に織るということをするために2本使っているのです。


これこれ。この糸を見ても、いかに細くなったり太くなったりしているかわかります。
こんな糸しかつくれないのは初心者の特権で、これはこれで面白い織物ができると言われていますが、うまく紡げるようになるまでに、どのくらい時間がかかるのかわかりません。先輩たちはうまく紡げる日が必ず来ると励ましてくれますが、今はまだその日が来るとは、とうてい思えません。


杼も管(くだ)も教室のをお借りしています。私の杼は幅の狭いものにはちょっと大きすぎます。
これは京都のなんとかという織りもの屋さんの杼だそうで、使いやすいです。管も両端が玉になっているので糸がほどけず使い勝手はいいです。

私はこれまで、北欧式の紙の管を使っていました。


ノルウェーから織り機を送ってもらったときの包み紙を取って置いて、それで管をつくるのです。これには大きな利点があります。
日本などアジアでは、伝統的には竹の管が使われてきました。東南アジアや南アジアでは今でも竹の管が使われていますが、難点は穴の太さがまちまちなことです。日本では今では穴を開けた木の管が使われていますが、それも穴が同じというわけにはいきません。その点、竹のなかったヨーロッパの知恵だとは思いますが、紙の管だとどんな管巻き機にも自在に巻きつけることができて便利です。