2024年9月30日月曜日

プラムディヤ選集

しばらく前に、つくばに住むUさんから、
「35年ほど前に、ぼくにプラムディヤの 『人間の大地』(インドネシアの小説)上下2巻とモハッシェタ・デビの『ジャック・モハーンの死』(インドの小説)を貸してないですか?」
という連絡が来ました。
さっそく本棚を調べると、『ジャック・モハーンの死』はあったので私の本ではないみたい(私が2冊とも持っていた可能性もあるけれど)だけれど、『大地』はなかったので、私のだろうと連絡しておいたら、先日持って来てくれました。ないことにまったく気づいていませんでした。

1983年

『ゲリラの家族』(プラムディヤ・アナンタ・トゥール著、押川典昭訳、めこん、1983年)は、「祖国を守ろうとして、崩壊していく一つの家族」を描いた、プラムディヤの初期の代表作です。

1986年

また、『人間の大地』以下4部作は、1960年から10年間、流刑地ブル島に勾留され、表現手段を奪われたプラムディヤが、同房の政治犯にその物語を日夜語って聞かせたという、長い長い物語の第1部です。
舞台は1898年から1918年にかけてのオランダ領東インドで、インドネシア民族が覚醒し、自己を確立していく長い闘いを描いた、インドネシア近代史再構成の物語で、
1980年に同書が発行されると、インドネシアの人々は熱狂してこれをたたえ、初版1万部が12日間で売れるという空前の評判を呼びました。
当時の副大統領アダム・マリクは、彼らの親や祖父たちがいかに植民地主義に敢然と立ち向かったかを理解するために、この『人間の大地』を読むよう若い世代に奨励すべきである、との推薦の辞をよせ、またある評者は、この本はこれまでに出たすべての歴史書の存在を無意味にしてしまうとまで激賞しました。
しかし、あまりの影響力に驚いたインドネシア政府は、『人間の大地』、第2部の『すべての民族の子』、第3部の『足跡』、第4部の『ガラスの家』を発禁処分とし、現在もその処分は解けていません。
しかし、海外での評価は高まるばかりで、世界各国で翻訳発行されています


1988年

私がプラムディヤを読んでいたころ、翻訳に時間がかかっていて、『すべて民族の子』の次の巻は、なかなか出版されませんでした。
読者よりも出版社「めこん」の桑原さん(小さな出版社で、社長の桑原さんが一人いるだけ、ときにアルバイトの人がいた)の方が翻訳があがるのを心待ちにしているはずなのに、会うたびに私は、「まだ続きは出ないの?」と訊いていました。当時、「めこん」は次々とアジア文学を出版していて、私は「めこん」の近くを通るたびに寄って、新しい本を見つけるのが、楽しみの一つでした。

あれから、『ゲリラの家族』を含めた5巻の内容をすっかり忘れてしまうほどの長い年月が経ちましたが、昨年、30年ぶりくらいに桑原さんにお会いする機会がありました。
お顔を拝見すると思い出したのはプラムディヤのこと、『人間の大地』の続巻が出ているかどうか訊くと、20年以上前に出ているとのこと、遅ればせながら、次巻の『足跡』(1998年)と『ガラスの家』(2007年)を買いました。
古本で買ったゆえ、出版社には何のメリットもないのですが。


『ゲリラの家族』は小さい字で2段組みになっていますが、『人間の大地』からは文字が少し大きくなり、1段組みになっています。
そして、最初の5巻は1冊が300余ページですが、『足跡』は786ページ『ガラスの家』は729ページの超大作、押川さん(もちろん面識なし)はよく訳されたなぁと感心してしまいます。
『足跡』まではミンケ(プラムディヤの分身のプリブミ。プリブミとはオランダ人でも混血でもない生粋のジャワ人)の主観で語られていますが、『ガラスの家』では、メナド人(スラウェシ島出身の人)であるバタビア警視のパンゲマナンが語る形式をとっています。植民地政府がプリブミの社会運動をどのように監視し、工作活動を展開したか、先住民でありながら権力の手先でもあるパンゲナマンが、ミンケを尊敬しながらも追い詰めていく立場を正当化するという屈折した心理が描かれているそうです
『人間の大地』が戻ってきたことを契機に、『足跡』を開いて、再びプラムディヤの世界にはまっています。まだ、『足跡』の途中までしか読み進んでいませんが。

今年の7月、『百年の孤独』(G・ガルシア・マルケス著、鼓直訳、新潮・世界現代の文学、1972年)が文庫化されて、1大ブームを起こして売れているという話を聞き、驚いています。面白いけれど、長いし、難解なのに.....。
では、プラムディヤももっと売れ、読まれに読まれることも夢ではありません。






2024年9月29日日曜日

トンボ印の家庭染料ビン


トンボ印の家庭染料ビンについては、書き尽くした感もあります。
と言いながら、新しく手に入れたビンです。


この2つは前から持っていたビンですが、ロゴマークもちょっと違えば、エンボスも違うので、おそらく繊維の会社モリリンにあやかってトンボ印を使った、近隣の別の会社だったのでしょう。


そして、緑が濃いビンは、透明のビンと同じ会社のビンです。蓋のためのネジの切り方、太さの違いなどから、違う型を使ってはいますが。


トンボ印を名乗った家庭染料会社は、ほかにもあったのでしょうか?





 

2024年9月28日土曜日

コーヒーにこだわる?

我が家ではコーヒーを入れるのは夫の役割です。
夫はせっかちな性格で、豆を挽くのは面倒、回数を入れるのも面倒、一度に手早く、できるだけ多く入れようとするので、豆を嫌って生協の「いつものコーヒー」という粉になったものを使います。


というわけで、先月Uさんがくれた、Uさんが自分で焙煎したコーヒー豆は手つかずでした。

Uさんが来るので、私は調理台の上にあったコーヒーの袋を、とりあえず彼の目につかない戸棚にしまっていました。ところが夫が、Uさんたちがいるときにコーヒーを入れようとして、戸棚から粉の袋を取り出すとき、無神経にもUさんのコーヒーも取り出してそこいらに置いたので、コーヒー豆の袋がUさんの目に留まりました。
「コーヒーは媒染してから50日以内(だったかな?)に飲まないと、味も風味も変わります」
「知ってます。半年に一度来る息子が、置いて行った古いコーヒー豆と新しいのとの香りを「嗅いでみて?」というので嗅いだら、全然違ってました」


飲んでなかったことを恥じ入りながら思い出したのは、九州でHさんからもらったHさんが焙煎した豆です。我が家でだめにするよりUさんに飲んでもらった方がよさそうなので、差し上げようとしました。
「ぼくはHさんから生の豆をもらってますから、いいです。飲むときはぼくのではなく、新しいHさんのコーヒーの方から飲んでください」
と言われました。


いやはや、豆から入れる気になれば、息子が置いて行った充電式のコーヒーミルがあります。挽き方も息子から教えてもらっています。息子はたった10回ほど押して半潰しで使いますが、20回ほど押せば粉になります。


そして、その気になれば、手動のコーヒーミルだってあります。前は使っていました。


夫にコーヒーを入れる役割が移ってから、手動のミルはほとんど使っていません。

このところ、夫がつくったコーヒーが切れたとき、ときおり豆からコーヒーを入れはじめました。味の方は、実は私も夫同様さしてこだわりません。みんな違ってみんないいではないけれど、コーヒー栽培のできない日本で、こうやっていろんなコーヒーを口にできるだけありがたいと思ってしまいます。






2024年9月27日金曜日

『暮らしの手帖』、あれこれ


M+MのMちゃんが、
「糸島が載ってるよ」
と『暮しの手帖』を貸してくれました。 


糸島で塩をつくっている人のお話でした。


平川秀一さんは、糸島の半島の先で、立体式で塩をつくっています。


水分を飛ばして、塩分濃度を濃く濃くして、


煮詰めてつくるそうです。


以前、息子からもらった「いとしお」があります。
が、これは玄界灘の塩を使ったとは書いてありますが、塩の生産者の名前は書いてありません。玄界灘の塩を言えば『暮らしの手帖』に載っている平川さんしかいないとも思われますが、どうなんでしょう?
ちなみに右は奥能登の「藻塩」で、いただいたのは地震直前の昨年暮れのことでした。


さて、『暮らしの手帖』で私が塩よりも興味を惹かれたのは、ひょんなことから稲わらで俵をつくるようになり、やがて大相撲の土俵をつくることになった酒井裕司さんのお話でした。
勤め人だった酒井さんは、越してきた伊奈郡飯島町で、地域活性化のため俵を担いでマラソンする「米俵マラソン」の企画をたて、参加者も集まったので農家さんに米俵をつくってもらおうとしました。
「今どき米俵をつくれる人がいるの?」
「えっ、つくれないの?」
となり、ネットで調べると、米俵は1つ9000円で売っていました。
参加者は50人で参加費は2000円、単純計算しても自分が35万円払わなくてはならないことがわかり、では自分でつくるしかないと酒井さんは米農家でわら細工職人だった80歳の平澤福さんに弟子入りしました。
マラソン大会も回を重ね、3回目に出発点とゴールを町役場にしたいと考えました。米俵を陣屋に運び込むという物語ができるからです。そうすると、国道を一時車止めにしなくてはならない。個人ではできないのでしかたなく、法人格を取るために家族にも内緒で会社を立ち上げ、仕事をやめて俵づくりに専念することになりました。
ところが、マラソンが終わってみると仕事がありません。アルバイトを掛け持ちしながら、平澤さんのところで「猫つぐら」や保温のためにお櫃を入れる「わらいずみ」などを習い、わらを手に入れるために農家の稲刈りを手伝い、寝る暇もない日々を過ごしました。
そんな起業してから3年目の酒井さんに、電話がかかって来て、いきなり、
「米俵をどのくらいつくれるか?」
とたずねられましたが、酒井さんは米俵づくりには自信がありました。
じつは、大相撲の土俵づくりを一手に引き受けていた人が高齢と病気で急にやめることになって、相撲協会としては「わらにもすがる」思いで酒井さんを探し当てたのでした。


土俵づくりを引き受けたころ、酒井さんは朝は新聞配達、栗拾いのバイトは最盛期、土日はソフトクリームを売るバイトもあり、稲刈りの手伝いとわらの乾燥もしなくてはならない。そんな中での土俵づくりで寝るのは2日に1回だったそうです。
米俵づくりも土俵づくりも同じ、中に土を詰めれば土俵になります。


土俵築は3日間かけて、呼び出しさんたちで行われ、まず古い土俵を壊すところから始めます。


酒井さんのつくった俵に土を詰め、叩いて叩いて、そして踏んで踏んで、「叩く」と「踏む」だけで土俵をつくります。
土俵づくりに携わって6年、いまだに酒井さんは、力士が踏ん張ったら土俵が崩れはしないかと、大相撲をまともに観ることができないそうです。
伝統技術は残さねばの思いを強くしていた酒井さんは、2022年に、奈良市の春日大社にある若宮神宮で20年に1度の「式年造替」が行われたとき、神楽殿のしめ縄かけ替えで、長さ25メートルの大しめ縄の製作も請け負いました。
たった一人で始めたわら仕事ですが、今では70人のわら仲間がいるそうです。

以下、余談です。
土俵づくりのことは、正直、考えてみたこともありませんでしたが、私は大相撲の塩を入れる籠がいつも青いのを不思議に思っています。青竹でつくった籠は、すぐ茶色くなります。
「どうして、塩を入れる籠はいつも青いんだろう?」
「毎回、新しい籠を使っているの? それとも塩を入れておくと青さが保たれるの?」
おそらく、毎回新しい籠を編んで使っているのでしょう。
「誰がつくっているのかな?」
いつか誰かに訊いてみたいと思っています。






2024年9月26日木曜日

臼搗き


愛知県名古屋の臼搗きです。 


ちょんまげを結った人が、台の下にある棒を左右させると、交互に臼を搗きます。


愛知の動くおもちゃには、よく糸(タコ糸)が使われています。
牛若弁慶、回りねずみ、餅搗きうさぎなど、どれも糸が使われて、とてもよくできています。我が家にもかつて牛若弁慶がいましたが、紙でできているもので、引っ越しを重ねているうちに失われてしまいました。


臼を搗いている2人は、穏やかな顔をして、色紙の着物を着ています。


似たからくりに、ロシアの餌をついばむ鶏のおもちゃがあります。


こちらは、両方に棒が出ているわけではなく、片方だけに出た棒を押したり引っ張ったりすると、鶏が交互に餌をついばみます。


メキシコのボクシング人形も、似ています(似ていないかな?)。


真ん中の突起を押すとお互いに近づくので、押したり離したりすると、腕を振りあって戦います。

『日本郷土玩具辞典』(西沢笛畝著、岩崎美術社、1964年)より

臼搗きは本では見知っていましたが、本物に出逢ったのは初めてでした。


東欧では、鎚を交互に振り下ろすおもちゃは、餅つきではなく、ほぼ鍛冶屋の鉄打ちだったようです。
上の写真はチェコスロバキアで出版されたFolk-toys Les jouets populaires』(Emanuel Hercik著、ARTIA、1951年)からのもの、Brno工業美術博物館ほかに収蔵されているおもちゃです。そして、熊と人が鉄を打っているのは、物語からのモチーフです。


この本によれば、鶏が餌をついばむというのは、鍛冶屋から発生したモチーフだったようです。









2024年9月25日水曜日

中国の蓋籠


中国の雲南省の北部の籠です。
茶葉を入れたり、バター茶用のバターを入れたりします。


内側に、網代に編んだものをはめ込んであり、二重になっていることがわかります。
ところで外側は、中心では丸く開いた穴から内側の網代が見えているものの、縁近くでは網代ではなく、編んだ細いひごが、太い経材(たてざい)の間から見えています。
「えっ、外側はどう編んでいるの?」


真ん中の青く見える竹を編んで、細いひごで一旦整えた後、細いひごで整えながら、先を尖らせた薄くて太い竹を挿す?
と、ここまで見て、はたして細いひごを編みながら同時に太いひごを突き刺すことができるだろうか(ピンピン飛び出して無理だろう?)、編んでから太いひごを突き刺すことが出来るだろうか(それ以外方法はないとは思うけれど超薄いひごを挿せるのか?)、私の頭はついていけません。


太い経材の下から緯材(よこざい)が見えてない部分を指で押して見ると柔らかくへこむので、中心から太い経材を細いひごで4段編んで円を形づくっているところまでは細いひごで裏打ちをしてなくて、空洞になっています。そして、経材が曲がるところから縁までだけ、その間から見えている細い緯材で頑丈に編んだもので裏打ちしている感じ、したがって内側の網代を加えて、縁に近い部分は三重になっています。


身も蓋もまったく同じ編み方です。底になった部分は光に当たってないせいか、最初はちょっと色が濃かったけれど、今では同じ色になっています。


ところで、長く使っているとこんな色になるみたいです。バターを入れたからでしょうか?


ちょっと形が違うけれど似た籠、茶葉を入れていても色は深くなるようです。


とりあえず、日焼けさせてみようと、日に当てています。
早く茶色くな~れ!






2024年9月24日火曜日

空で遊ぶ

連休には泊り客がいて、帯状疱疹の上半身の左半分と左腕がまだ痛んでいるので、疲れ果て、昨日は彼らが帰った午後からぐっすり寝てしまい、夜になってしぶしぶ起きました。とにかく夕食を摂って、薬を飲まなければもっと痛むからです。そんなわけで、ブログを書く元気がありませんでした。

昨日は朝から、客人たちとともに暮らしの実験室に行ったり、つながる図書館に行ったり、我が家の真西に位置する足尾山の足尾神社に行ったりしました。
上曽峠を登り、筑波山から加波山への尾根を走る道路をくねくね走り、足尾神社入り口近くまで行くと、ハングライダー、パラグライダーの飛び出す地点があります。昨日はいい風が吹いていたのか、たくさんのハングライダーやパラグライダーが飛んでいました。


これがハングライダーの飛び出し口、そして手前がパラグライダーの飛び出し口で、右に見える白いのがパラグライダーのパラシュートです。


風を読んでいるのか、なかなか飛び立ちませんが、ハングライダーは助走なし、いきなり飛び立ちます。


パラグライダーの方は、さっと飛んでいく人、風を読み違えたのか何度もやり直す人がいますが、ハングライダーの方は一発勝負のようでした。


飛ぶのは気持ちがよいかもしれないけれど、私的には飛び立つときが難しいのはともかくとして、着地点まで誰かに拾いに来てもらわないと、自分では大きなものを背負って帰れないのが難点だと思ってしまいます。


ともあれ、気持ちのよいものなのでしょう。


肉眼で見えるだけで、20以上飛んでいました。