2021年10月31日日曜日

タイの魚籠


日本では丸い形の魚籠(びく)しか見たことがなかったので、タイでこの形の魚籠を見た時は、目が釘づけになってしまいました。
確か、最初は絵葉書で見て、その後は籠屋さんをのぞくたびに
「あの形の魚籠を置いているかな?」
と探して見つけたものでした。


これは、タイ語で「コン・ペッ=アヒル型魚籠」と呼ばれる魚籠で、地域によって籠師さんによって少しずつ形が違います。


『THAI FORMS』に載っていたコン・ペッは、水に浮くように竹を添えてありますが、元からなのか、使う人の工夫なのかは解りません。


『Museum of Folk-Culture』には、こんな形のコン・ペッも載っていました。


これもまた、タイの典型的な魚籠です。


肩が張っています。
日本でもこの形の魚籠は、九州地方だけに見られました。


廣島一夫さんの魚籠(シタミ)、美しさにうっとりしてしまいます。


これは鹿児島の魚籠(腰テゴ)です。

国立民族学博物館所蔵

ネパールにも、編み方は違うけれど同じ形の魚籠があります。


これもきっぱりした形の魚籠です。


ぶら下げるようにできていませんが、くびれたところに紐をかけるのでしょう。


タイの魚籠は、口にはめる「蓋」も様々な形をしています。


肩が張った6枚目の写真の魚籠を、路上に籠を広げた籠屋さんから買ったとき、この形の魚籠にはどれも蓋がついてなかったので、
「おじさん、これ蓋がないよ」
というと、おじさんは別の形の魚籠から蓋を取ってきて、大きさのちょうどいいのをはめてくれました。
この蓋をよく見ると、編み終わりに竹を留めるとき、潰してねじって差し込んでいます。たかが蓋、されど蓋、いろいろな工夫があることにびっくりします。








2021年10月30日土曜日

カンボジアの切手


切手帳にして3ページ分ほどカンボジアの切手を持っています。


どれも、私の元職場で実際に使われた切手ですが、なんとなく外貨獲得用の切手っぽい図柄のものが多い感じがします。


2色刷りの小型の切手は比較的新しいもので、1996年、1997年などと発行年が入っていますが、普通切手です。

1863年にフランスの植民地にされたカンボジアは、1953年に独立しています。1970年には、親米派のロン・ノルがシハヌークの外遊中にクーデターを起こし、アメリカの傀儡政権を打ち立てます。アメリカはこれで隣国カンボジアも巻き込んで、ヴェトナム戦争を有利に戦えるはずでしたが、そうはいきませんでした。
1975年、ヴェトナム戦争が終結、アメリカが敗退しました。安堵もつかの間、それからの4年間、カンボジアではポル・ポトの恐怖政治が続きました。

1979年に亡命中のヘン・サムリンとフンセンがヴェトナム軍の支援を受けてカンボジアに侵攻、人々をポルポトの圧政から解放しましたが、西側諸国はヘン・サムリン政権をヴェトナムの傀儡とみなして認めず、国連はタイ国境に逃げて基地をつくっていたポル・ポトなど三派をカンボジアの正式代表として遇する時代が、10年以上続きました。

その間、ヘン・サムリン政権は、三派連合がカンボジアを名乗っていたので、「カンプチア人民共和国」と称していました。そして、西側から正式に認められた1990年代になって、カンボジア王国と名を変えました。
その変遷は、切手の表記にも表れています。


この切手は、紙の質などから、私の持っている切手の中では一番古いものに見えますが、単純に「カンボジア」としか書かれていません。
いつ頃のものでしょう?


そして1枚だけある「クメール共和国(1970-75年)」と書かれた切手は、ロン・ノル時代のものです。
ちなみに、今でもカンボジア文化のことをクメール文化とか、あるいはカンボジア語と言わないでクメール語などと言いますが、カンボジア人自身は、自分たちのことを、「クマエ」と呼んでいます。


カンプチア人民共和国(1979-91年)時代は、地域によっては内戦もあり、経済的には困窮した時代でしたが、わりとたくさんの切手を発行しています。私の持っている切手も三分の一くらいが1980年代の切手です。


ところで、カンボジア和平パリ協定が結ばれた年である1991から93年に発行された切手には、「ETAT DU CAMBODGE」と書いてあります。
フランス語ETATは、「州」という意味らしい、何のことかさっぱりわかりません。


そして、1993年には「カンボジア」だけの切手もあり、


1994年からは「カンボジア王国」と記されていますす。


さて、これは私が1998年から2001年までのプノンペン滞在中に、両親に送った手紙です。母が身辺整理をした時に返されたのですが、読むには心の準備(?)がいるので、何年もそのままになっています。
この手紙群を見ると、貼られている切手は圧倒的に小さい切手が多いのが特徴です。また、中央郵便局まで行ったのか、スタンプ(金額を示したゴム印)だけの封筒もあって、世の中が落ち着いてきた証拠にも見えます。


そして大型切手も、よその国で行われたオリンピックなどという題材より、アンコールワットや国王陛下ご夫妻など、身近なものになっています。
と言っても、こんな汽車がカンボジアを走ったかなぁ?鉄道は仏領インドシナ時代の1929年に着工されています。
内戦が続いて、地雷があちこちに埋められていて、一時は鉄道どころではありませんでしたが、1990年代後半に、物資輸送だけだったと思いますが、プノンペンーバッタンボン間の鉄道が復活しました。その後、順次旅客列車の復興が進み、今ではタイ・カンボジア国境で、双方の鉄道が連結されたようです。

シハヌーク国王ご夫妻

ポルポト時代は手紙どころではなかったと思いますが、それより古い時代の切手はどんな感じだったのか、見てみたい気持ちがします。






 

2021年10月29日金曜日

お見事!


昨日、瓦屋さんが大きな鬼瓦を設置していました。
ここで、2段になるのかと思っていたのですが、1段になるのでした。
「当たり前だ」
と夫、
「だからかっこいいんだ」


鬼瓦の後に平たい瓦を積んでいるのは昨日下から見ていたのですが、今朝、瓦屋さんの来ないうちにと屋根に上って見てみました。


あの、北側の垂直に立ったままのルーフィングはどうなったかしら?


「うぉぉぉ!」
見事に瓦が積まれていました。南側から見るよりはるかに美しい眺めです。


すごいなぁ。
今日はもしかしたら瓦が完成するのかもしれません。もう瓦屋さんは仕事を始めています。


昨日壁を張りながら見た夕焼け、空はもっと真っ赤でした。





 

2021年10月28日木曜日

箕のお引越し

階段室の上は、太陽熱を床下に送り冬の暖房とするシステム、OMソーラーの機械室になっています。
先日、暖かい空気を取り入れる設定にしたにもかかわらず床が暖かくならないので、夫に上って見てもらいました。


そのおり、民具の展示室の壁に掛けておいた箕が下に落ちていました。
あれあれ、夫が足に引っかけたのかと拾ってもとに戻しておいたら、また落ちていました。


「こんなところへ籠をひっかけないでくれよ。足を掛ける場所がなくなって、なんかおかしいと思っていたら、籠が邪魔してたんじゃないか」
と夫はカンカンです。
もう箕は10年も掛けていたので、私は機械室に入りにくいなぁとは思いながら、こんなものかと思っていましたが、確かに足をかける場所がある方が、楽に入れます。


「そうか、ここは無理だったのか」
小さい箕だけなら右に寄せて掛けられそうですが、できれば一緒にしてやりたいものです。


階段室の反対側も、つくりは同じです。ここには空いていますが、招き猫の部屋に民具である籠を置くことにはちょっと抵抗があります。


とはいえ、地震前には招き猫しか並んでなかった棚には、人形やらマトリョーシカやら、招き猫ではないものも並んでいるのだから、私さえ気にしなければ、誰も気にしません。


箕は、と3つあります。


大と小はいわゆる「藤箕」と呼ばれる箕で、篠竹、フジの繊維、真竹などでつくってあります。スタイルからして、千葉でつくられたものでしょうか。
中くらいの大きさの大平箕は、イタヤカエデ、フジ、根曲がり竹、山桜の樹皮などでつくられています。


というわけで、不本意ながら、箕たちは招き猫室に引っ越ししてきました。
一番大きい箕は、幅が70センチほどあります。

OMソーラーの不具合は、夫がなおしてくれました。





2021年10月27日水曜日

渋柿の季節


しばらく前に、Kさんのお隣のOさんから、連絡がありました。
「今年も渋柿が要る?」
「要る要る」
Kさんの庭の柿を見て、「今年はよく生っているなぁ」と思っていたところでした。数年前に私たちが柿をいただいた後、Kさんが柿の枝をコテンパンに切ってしまわれたので、しばらく柿は生りませんでした。
というわけで、日曜日に、Kさんの家の渋柿をいただきに行きました。


柿の木は3本あります。この木の低い部分の実は、低い梯子でいただきましたが、梯子の上での作業は、そう長続きしません。高いところの実は来週、元気があればまた貰いに来るということで、残してしまいました。
ちなみに梯子は、高いのと低いのと貸していただいています。


以前、10月に干して、アオカビにやられてしまったことがありました。半分干し上がった柿の表面がびっしりとカビに覆われてしまったのです。そのため、できるだけ遅く、できれば11月に入ってから皮をむきたい。
でも、木の上で柿はすでに熟れていたので、いただいてきたのです。


軒下に渋柿をぶら下げるため、久しぶりに真竹を切ってきました。
もともとは、向かいの山裾にあった竹林は放置され、谷に侵食し、20年前にはかつて谷津田だった田んぼを竹林にしていました。ところがこの20年で谷を渡って(橋もある)、こちら岸の梅畑にどんどん入ってきました。
梅林の持ち主はもういません。最初のうちは、竹林の上で畑を、下で田んぼをつくっていたたけさんと私が必死で、筍のうちにと毎年竹を切ってきましたが、竹の方が強い。どんどん侵食して、もう梅が見えないほどです。


書斎の前に竹をぶら下げました。


冬になった葉が落ちるとはいえ、陽当たりを考慮して、これまでコブシの木の下になる部分に渋柿を干したことはありませんでしたが、今年はこちらにも新しい綱を用意して、竹を吊ってみました。


というのも、干すには一等地の居間の南に渋柿を干しておいたら、2018年、19年と2年、食べごろになった干し柿を、ハクビシン(かアライグマ)に食べられてしまったからです。
ここは、窓の上に乗ることができる場所があります。そこを足場にして盗んだものと思われるので、なんとか乗れないようにしたいとも思いますが、柿が渋いうちは問題ありません。
ハクビシン(かアライグマ)はちょうど食べごろになったとき盗むので、とりあえずは、よく陽の当たる居間の南にも干すつもりです。




 

2021年10月26日火曜日

棟に棟瓦を乗せる


瓦屋さんが、玄関上の屋根に瓦を上げて軒先から葺きはじめたのは、先週、21日のことでした。この屋根は、本棟にぶつかっているので、ぶつかったところの雨仕舞に、神経と時間を使います。


昼間は、瓦屋さんの邪魔になるので、屋根の下でちょろちょろしたり足場に上ったりしないようにしています。写真は25日の朝、まだ瓦屋さんが来てないときのものです。
玄関の屋根には棟瓦が乗ってないだけ、平らなところは葺き終わっていました。


集熱箱の上には、数日前から瓦がかぶさっています。


本棟の集熱箱を乗せるために屋根を上へと伸ばさなかった部分の東側は、棟瓦も完成しています。


同じ場所を北側から見ると、ガルバリウムの屋根の上にいきなり棟瓦を乗せるのではなく、北側にも瓦を2段葺いています。
そうか、これで鬼瓦もスムーズに乗るというものです。


複雑な場所の、瓦の美しい収め方。


集熱箱に瓦がかぶさる部分と、そうでない部分には段差ができています。
この段差はどうやって折り合いをつけるのか、瓦屋さんと夫が話し合っているときに聞いていたのですが、見れば見るほど難しそうで想像もつきません。


段差を西側から見たところ、段差のところにはルーフィングも、複雑な板金仕事の端も、まだ見えています。


鬼瓦が置いてありました。鬼瓦といっても、我が家では鬼のついていない鬼瓦を使っています。


昨日の朝の時点で、本棟の西側(手前)にはまだ棟瓦が乗っていません。
昨日のうちに、一番高いところを除いて棟瓦はすべて乗りました。


今朝は雨、昨日棟瓦を葺いた玄関の屋根です。棟瓦が乗ると、景色が締まります。