2010年6月30日水曜日

ガザのオイルポット



機械油用油さし、エンジンオイル用オイルポット、樹脂や灯油を入れて使うオイルランプと、「油容器」の話が続きました。最後は、オリーブオイルを入れて、テーブルの上に置く、オイルポットです。

1990年初頭に、初めてパレスチナのガザに行ったとき、レストランのテーブルの上で見つけて、譲ってもらったものです。

ガザは山手線の内側の面積の3倍ほどの、小さいところですが、地下水が豊富です。ちなみに、もう一つのパレスチナ自治区ののヨルダン川西岸も、水は豊富です。そのため、水問題を抱えるイスラエルが、増え続けるユダヤ人の入植地(ニュータウン)を、パレスチナ自治区であるガザや西岸につくりたがり、様々な問題が起こってきました。

私が訪れたころは、イスラエルによる、パレスチナへの経済封鎖がすでに恒常化していました。
1948年の建国後、イスラエルは、安い労働力として、パレスチナ人を使ってきたのですが、東西冷戦構造が崩壊して、東欧がなくなり、東欧に暮らしていたユダヤ人がどっとイスラエルに移ったことで、パレスチナ人労働力が必要なくなったのです。また、もっと安い労働力は、タイ、フィリピンなど、アジアからも調達できるようになっていました。

自立できないよう、農業をする土地は取り上げられ、職からは締め出され、自治区からは出られない、パレスチナ人にはなかなか希望が持てません。
それでも、先日、アメリカのNASAで働いていたパレスチナ人の天文学者が、2008年暮れのガザ空爆によって家を破壊され、子どもを失ったのに、「憎しみはなにも解決しないから」と、ガザの子どもたちを相手に、星空を見て、宇宙に思いを馳せる機会をつくっているのを見て、うなってしまいました。




このオイルポットは、どこでつくられたものでしょうか?ステンレスですが、ガザの中?、隣国エジプト?
レストランで、売っている金物屋さんをたずねたのですが、「もう売ってないだろう」ということで、貴重なものなのに、いただいてきてしまいました。
ガザの町の中心街にあるレストランでしたが、空爆後も残っているでしょうか。

オリーブオイルを入れて、卓上に置いておき、何にでもかけて食べていたら、たちまちパレスチナ人のおばちゃんたちのように太りそうで、展示室に飾っています。

2010年6月29日火曜日

オイルランプ



1979年、カンボジアでは、ヴェトナム軍の後押しで、フンセンがポルポト派を制圧して、政権を樹立しました。その直後から、カンボジア難民が堰を切ったように、タイ国内に流出しました。
ポルポトの、厳しい監視のもと、食うや食わずで重労働をさせられていた人々は、一目散に国境へと逃れましたが、たくさんの人々が、地雷を踏んで亡くなりました。タイにたどり着いた人も、瀕死状態だったり、手足をなくしていたり、幸い地雷を踏まなかった人々も、栄養失調でやせ細っていました。
まだ、国境近くのカンボジアの山の中には、幾つものポルポト勢力が残っていて、政府軍との戦闘が続いていました。

ヴェトナム戦争に敗北したアメリカが、ヴェトナム軍の力を借りて樹立したフンセン(ヘンサムリン)政権を、ヴェトナムの傀儡と位置づけ、国としての実態のない、ポルポト派を含む三派を、国連の正式代表国としたことで、問題はいっそう複雑になりました。
というわけで、タイのカンボジア難民問題は、解決までに、長い年月を費やさなくてはなりませんでした。

カオイダン難民キャンプや、国境線上に開設されたいくつもの難民村の、竹でつくった家族用仮設小屋には、電気は引かれていませんでした。
緊急状態を脱したころから、キャンプ内で雑貨屋を開く人もあらわれ、配給のいわしのトマト煮缶の空き缶を利用してつくった、オイルランプなどの日常品や、木彫り、籠などのお土産物を店先に並べていました。
才覚のある難民は、いろいろなことをして、小銭を稼いでいたのです。




明かりの後ろに、別の缶詰の蓋を立てて、前をより明るく照らす、よくできたオイルランプもありました。
綿紐を、口からちょっとのぞくように入れて、油の染みた灯心に火をつけると、オイルランプの完成です。


日本は、周囲を海に囲まれた島国なので、国境線の存在の実感が薄いのですが、世界で見ると、隣国と国境を接してない国の方が珍しいもの です。

タイは、4カ国と国境を接していますが、第二次大戦終結に続いて、独立戦争や、東西対立の中での代理戦争を戦ってきた、ビルマ、ラオス、カンボジアとの国境では鎖国状態が続き、緊張が続いてきました。
タイ政府は、国境線上の秩序と発展に力を入れていましたから、戦略的な意味の薄い、国境から遠い村々は忘れられていて、そんな村に電気がやっと引かれたのは、1990年代も半ばのことでした。

タイの村で使われていたオイルランプは、空き缶利用の手づくりランプより、ちょっとましな工場製品でしたが、原理は同じでした。
油は、伝統的には、樹脂を使っていました。フタバガキ科の大木に切込みを入れて、そこで火を燃やすと、樹脂が採れました。しかし、大規模な伐採や密伐採などで森は消えてしまい、私の知っているころは、樹脂油は灯油に取って代わられていました。

そんな村々では、電気が引かれる前の方が、濃密な時間が流れていたような気がします。オイルランプの明かりで食事をし、話し込み、みんなで歌ったり、踊ったりしていました。
電気が引かれるの と前後して、たくさんの行商人が村にやってきました。無理やり月賦・後払いのテレビや電気炊飯器を置いていきましたので、村人たちは、電気が来たと同時に、電気製品の月賦の支払いと、テレビ漬けの生活 をはじめてしまいました。

かつて、オイルランプは生活に欠かせないものでしたが、地球上から、もうすっかり姿を消したでしょうか。

2010年6月28日月曜日

初セミ





昨日も今日も、蒸し暑い時間が流れています。
そんななか、午前10時ごろ、セミの声を聞きました。今年初めてです。ニイニイゼミでしょうか?

さっ そく、毎年ニイニイゼミの殻が残されているあたりを見ましたが。何も見つかりません。地表に、セミの穴らしきものは幾つかあいています。いったいどこで殻 を脱いだのでしょう。
ニイニイゼミはしばらく、二本のケヤキの木で、姦しく鳴いていましたが、30分もしないうちに、ぱたっと声が聞こえなくなりました。

それから、早数時間、セミの声は散発的に二度ほど聞こえましたが、一分も続きませんでした。

このごろ、夜になると、下の沢から、はぐれ蛍がときどき上ってきます。
その蛍の季節ももう終わり、近いうちにセミの季節が来ようとしているようです。


2010年6月27日日曜日

ブリキのオイルポット



1980年代の半ば頃、もうバンコクではあまり見かけませんでしたが、地方の町に行くと、必ず、一軒や二軒のブリキ細工屋さんがありました。
ダクトなんかをつくるのが主な仕事だったのかもしれませんが、店先には、ジョウロや漏斗など、手づくりの小物が、砂埃をかぶって並んでいました。

そんなところで見つけたオイルポットです。町は、スリンだったか、アランヤプラテートだったか、その両方だったかもしれません。
このオイルポットは、ガソリンスタンドで、自動車にエンジンオイルを注ぐときに使いますが、80年代の初め頃、もうバンコクのガソリンスタンドでは、同形のプラスティックのオイルポットを使っていたような気がします。

右のポットは2000ml、左のポットは500ml用です。




大きい方は、重くても持ちやすいように、取っ手に膨らみをつけています。




そして、裏は、ブリキがぺこっと伸びて、容量以上に入ったりしないよう、ちゃんと伸び止めがしてあります。
安いものですが、丁寧な仕事で、惚れ惚れします。




こちらは、ちょっと形が違いますが、1000ml用です。




目盛りとして、銅を溶接してあり、まわりにもしっかりとした線がついているので、正確に計れます。




同じような店で買ったもの、これはオイルを吸い上げるポンプです。ちょうど、灯油缶からストーブに灯油を移すときに使う、ぱふぱふのようなものです。

筒の底には、吸い上げるときは開き、筒に入ったオイルの重さで閉まって、逆流はしないようになった、弁がついています。




そして、針金の先には、その弁を引っ張りあげるための、蓋がついています。水鉄砲の原理でしょうか。




こうやって、ぱふぱふします。試したことがないのですが、発想に惹かれました。




イギリスのオイル缶も持っています。
これは、ずいぶん前に、Old Friendで買ったものです。
以前は、Old Friendには、こんな、わけのわからないものがたくさんあって面白かったのですが、最近は若いお母さんに照準を合わせた、実用的なものばかりになってしまって、おもしろくなく、あまりのぞかなくなりました。
寂しいことです。


2010年6月26日土曜日

油さし



家の建設に手間取ったせいで、地下の物置に入れておいた、100年も昔の、祖母のシンガーミシンをダメにしたのは、本当に残念なことでした。
木の部分が湿気ではがれたりして、がたがたになったので、ミシンはミシンで取り外し、踏み板のついた足の部分は、ケヤキの甲板をつけて、テーブルにしました。

ミシンの両脇についていた引き出しには、糸巻き、押さえ金各種、油さしなどの小物が、祖母が使っていた当時のままに入っていました。
祖母は、着物を着ていましたが、夏は、家ではあっぱっぱー(ワンピース)を着ていましたので、割烹前掛け、もんぺ、あっぱっぱーなどを、このミシンで縫っていたのでしょう。




油さしは、ミシンの必需品でした。祖母は、忘れずにミシンに油をさしていましたので、ミシンに掛けてある布のカバーに油が浸みて、ミシンの近くを 通るだけで、ぷーんと油の匂いがしているほどでした。

油は、ねじ式の蓋をとって補充します。そして、油さしの底部分(右のものは胴部分)をぺこぺこ押して注油します。右の油さしには、made in Japanの文字が入っていますが、日本語はありません。もっぱら輸出用につくられていたのでしょう。祖母がミシンを買った大正の初めには、日本でのミシンの生産はまだはじまったばかりで、洋服を着る人も少なく、ミシンの大半は、祖母のシンガーミシンのような、輸入品でした。




1960年代でしょうか、金属の油さしが姿を消して、プラスティック製のものに取って代わられたのは...。使い捨てで、便利にはなりましたが、風情はなくなってしまいました。

我が家でも、ちょっとさがしたらこれだけありました。大工道具のメインテナンス用には、通常は、缶に入ってノズルがついた、噴霧式の機械油を使っているのですが...。




プラスティックに比べると、金属の油さしは素敵です。これは、骨董市で手に入れたものですが、もっとも一般的な、どこの家庭にでもあった形の油さしです。




これはイギリスの油さしです。油のタンクが半球形ではなく、円錐形に溶接してあります。ということは、半球形のものより、ちょっと時代が古いのでしょうか。




これもイギリスの油さしです。取っ手に人差し指を入れ、親指でボタンを押すと、油が出てくる仕組みになっています。




かわいい形で、私の大好きな油さしです。油は、蓋をとって補充します。
底をぺこぺこする形のものより手が込んでいるので、使われていた当時は、高級なものだったのでしょうか。


2010年6月25日金曜日

織り機の象



かつてタイ北部には、チェンマイを中心とした、ランナー王国がありました。
手仕事に優れている人々が住んでいて、衣食住にわたって、美しい世界をつくり出していました。なかでも木工や漆細工はとくに優れていて、たくさんの技を今に伝えています。

これは、そのランナーの織り機の一部、滑車です。たぶん、滑車を左右に二つ使い、経糸(たていと)を上げ下げする、綜絖を2枚、紐で結んでかけておいたのではないかと思います。
「と思います」と、自信を持って言い切れないのは、この滑車自体を、固定するなり、ぶらさげるなりする装置が見られないからです。滑車を、どこかにぶら下げないで、どうやって使えます?
象のお腹の下に紐を通すと使えそうですが、そうやって使った形跡は見られません。

もちろん、これは実際に使われていたもので、お土産用につくられたものではありません。




カンボジアにも、同じような、織り機の滑車があります。
しかし、カンボジアの滑車は、腰掛けて、足で綜絖を動かす高機(たかばた、足踏み織機)用のものなのでしょう、滑車自体をぶら下げられるようになっています。

自分の身体の重みで経糸を張っておく地機(じばた)の場合、綜絖は一つだけ、単綜絖です。そして、足を使って引っ張りあげるのですが、それにしても、滑車を固定しないでは、使えないではないかと思ってしまいます。




これは、上の二つの象より、ちょっと太っちょの象模様の滑車です。
どの象も顔がスパッと切れています。最初の一つを見たときには、誤って顔が欠けたのだと思っていましたが、どれも顔がありませんから、流行のスタイルだったのでしょうか。




コートジボワールのバウレの人々がつくる、織り機の滑車にも、なぜか滑車を固定するための装置がありません。象のあごの下に紐を通した形跡も見られないし...。
いつか、このなぞが解けるときがくるでしょうか?






2010年6月24日木曜日

うちの象



うちの象といえば、真っ先に思い浮かべるのはガネーシャで すが、ココ ヤシのおろし 金の象など、他にも少し象がいます。

居間からダイニングへの階段の手すりには、インドの木彫りの象を使っています。固定してあるので、寄りかかっても倒れたりはしません。




夫と私が通るたびに触るので、だんだんつるつると、色艶よくなっているところです。
それにしても、なにか物語りでもあるのでしょうか、象は左前足で、人を踏みつけています。踏みつけられている人は、とってものどかな顔をしているのですが。




これは、1980年に、タイの難民キャンプにいた、カンボジア人の子どもがつくった象です。

国境から、バンコクに帰ってきた友人が、難民キャンプで粘土教室を開いたときの作品を見せてくれました。ほとんどの子どもが戦争の様子やら、戦闘機など、殺気立ったものをつくったなかで、静かな、そしてあまりにもよくできた象が際立っていました。
習作だし、粘土のままで焼いてもいないから、そのうち処分するというので、象だけもらって、早30年、欠けもせず、手元に残っています。

これは、戦いの象ではあります。
後ろに乗せてあるのは石で(もう一つくらいあったような)、これを投げて戦います。でも、それは昔々の戦いですから、つくった子どもは、ヴェトナム戦争時や、ポルポト時代にこんな象を見たはずがないのに、どうしてこんな象をつくったのでしょうか?
クロマー(手ぬぐいのような布)を頭に巻いた姿で、カンボジア人とわかるのも、お見事でした。


2010年6月23日水曜日

草掻き


バングラデシュの鎌の右の、鎌に似たものの正体は....、草掻きでした。


刃は、カーブした内側ではなくて外側についています。それを、地面に当てて、押して草をこそげ取ります。


異形鉄筋ではなく、別の材料を使って、わざわざ出っ張りをつくっているので、もしかしたら、その出っ張りに指をかけて使うのかもしれません。そうしたら、もっと力が入ります。

家畜が草を食べるような地域で、どうしてこんなデリケートな草掻きが必要なのでしょう?


それは、家々の庭と関係していると思われます。
雨量が多いバングラデシュですが、農家の庭は、どこも、そしていつも、裸足で歩けるくらい、美しく整備されています。

この写真と、上の我が家の、薄汚い庭の写真を比べると、ほんと、恥ずかしさがつのるというものです。


庭は屋根のない第二の部屋のようです。これは、かまど、


こうやって使います。


2001年の冬でしたか、カンボジア人数人とともに、バングラデシュを訪問したことがありました。
ある村を訪ねたとき、子どもが、コイタの草掻きとは別の種類の草掻き持っているのを、ちらっと見かけました。
泊めていただいていた、ウビニクというNGOのセンターに戻ってから、所長のJさんに、その草掻きを絵に描いて説明すると、「このあたりの草掻きじゃないなあ。見つかるかどうか、さがしてみますよ」、と言われました。私の滞在は短く、その話はそれっきりになっていました。

それから、一年ほどで退職して、私は八郷に来ました。
しばらくして、仕事でバングラデシュに行くことの多い、友人のT夫妻から、
「またバングラデシュに行くけど、なにかお土産に欲しいものはない?」
と、嬉しい申し出がありました。
欲しいものといえば、あの草掻きです。Jさんにも会うというので、また絵に描いて、詳しく説明しました。それでも、手に入るとは、考えてもいませんでした。

しかし、それから何年か後に、T夫妻が持って帰ってくれたのは、村で私が見かけた草掻き以上の、素晴らしい草掻きでした。Jさんがさがしてくれたのです。
「柄が、水牛の角でできている。めったにこんないい草掻きはありませんよ。特別ですよ」
と、Jさんは言っていたそうです。


刃の形が、左右で微妙に違います。下の尖っているところは、角を利用して小さな草をとるのでしょう。


握り具合も上々です。
イスラムの国では、月は太陽以上に大切な存在ですが、握りが三日月になっているなんて、本当におしゃれです。


子どもが草掻き持っていたのを見かけたのは、数人のカンボジア人と一緒にバングラデシュに行っていたときでした。
私が、草掻きのことを熱く語っているのを聞いて、もと同僚のナリンが、
「カンボジアにも、似たものがあるよ。チュクリのところで見た」
と、言いました。そのときは、チュクリさんも一緒にバングラデシュに行っていて、
「おう、あるある」
と言いました。

チュクリさんは、お百姓さんですが、村の長老で、伝統医療師でもあります。自分の庭にも、いろいろな薬草を植えています。植物への造詣も深く、庭は植物園のようでした。
ときには、霊媒師もしていて、訪ねて行ってみると、家の中から泣き声が聞こえたりしていて、声をかけるのをためらうこともありました。

バングラデシュからカンボジアに帰国して、すぐにチュクリさんの家を訪ねてみました。
ありました、同じ形の草掻きが、3本も4本も。新しいものは刃が扇形に張っていて、柄もごつごつしていますが、古いものは、刃の角が取れてすっかり丸くなり、柄もすべすべしています。
カンボジアにもあったなんて、灯台もと暗しでした。

さっそく、売っている場所を聞き、新しいのを手に入れ、恐縮するチュクリさんから、最も使い古した草掻きと取り替えてもらいました。
柄は欠けたのか、釘でていねいに補修してありました。


カンボジアの草掻きもまた、握り具合がいいものです。

いったい、草掻きの原型はどこから来たものでしょうか?
私が最初にこの手の草掻きを見て、写真に撮らせてもらったのは、フィリピンのネグロス島でした。写真が残っていますが、よく似ています。

こんなに似たものが点々とあるようでは、存外、ヨーロッパあたりに原型があったのかもしれません。




2010年6月20日日曜日

穂刈りの鎌



まるでおもちゃとしか思えない、小さな小さな鎌です。





たぶん、手の中に入れて、柄の先を掌(たなごころ)にあてて、使うものと思われます。
インドネシアで、穂刈りの鎌の「アニアニ」をさがしていたとき見つけたものです。

アニアニは、クメールの鎌同様、本で知って、長い間気になっていた鎌でした。
インドネシアを訪問するたびに、市場や、道端で開かれている骨董市で、「アニアニはないかしら?」とたずねましたが、「ああ、アニアニはないよ」という人や、アニアニの名前すら知らない人もいて、アニアニの気配はまったくありませんでした。
ジャワ島では、稲刈りをしている人を見かけて、近づいてみたこともありました。すると、残念ながら、普通の鎌を使って稲刈りをしていました。

8年ほど前、フィリピンのルソン島北部に行く機会がありました。北ルソンは山岳地帯で、村は幹線道路から小道を1時間、ときにはもっと歩かないとたどり着けないところに散在していました。
そんな村に泊めていただいたとき、私は見るものすべてがおもしろく、とくに様々な用途の籠には興味を引かれ、どこにいっても熱心に見せていただきました。そして、籠つくりのおじさんからは、使っていた籠を譲っていただいたりしました。
そして夜、泊めていただいた家の子どもたち、一緒に行ったNGOの人たち、近所の人たちと、わいわい民具談義をしていました。




すると、泊めていただいた家のおかあさんが、「昔はうちも農業してたけど、今は町に出て、お店しているから使わなくなったのだけど、こんなものはいらない?」
といって、取り出したのは、インドネシアであんなにさがしていた、アニアニでした。

インドネシア人でもある、民族的にマレーと分類される人々は、海洋民族で、台湾からマダガスカルまで広く分布しています。北ルソンに住む人たち(イフガオ人)もマレーで、フィリピンの公用語のピリピノ語ではなく、独自の言葉を話しています。
ですから、フィリピンにアニアニがあっても、何の不思議もありません。
「これ、ここではなんて呼ぶの?」、「アニよ」、「ひゃぁぁ」

まさか、同じものがあっても、同じ名前で呼ばれているとは、思っても見ませんでした。
インドネシア語(マレー語)では、複数のとき、言葉を重ねます。日本語でも、山々、家々、木々、花々など言葉を重ねて複数にする言葉もありますが、全部ではありません。魚々、本々などとは言いませんが、マレー語はみんな重ねて、イカンイカンといえば複数の魚、ブクブクといえば複数の本になります。
アニアニも、考えてもみませんでしたが、鎌の複数だったのでしょう。




こうやって、手の中に入れて穂刈りします。なんと、素敵な鎌でしょうか。




籠を譲ってくださったおじさんの家の屋根裏には、種籾にする稲が、穂刈りされた状態で保存してありました。
なかなかいい方法なのでまねして、我が家でも、種籾は穂につけたまま、神棚に上げています。そして、春がきたら、千歯こきでていねいにしごいて、籾にします。



山々には、人力でつくった、信じられないような、美しい棚田が続いていました。