2025年8月30日土曜日

いまだに燃料式

刈り払い機は、丸い刃のものと紐刃のものと2つ使っています。
刃先だけ取り換えればいいのだから、機械は一つでよさそうなものですが、両方を頻繁に使いたいのでそうもいきません。
紐刃をつけていた、古い刈り払い機のエンジンがかからなくなったので修理してもらい、受け取って帰ってもエンジンがかからないのでもう一度持って行くと、
「ゆっくり引っ張ってもかからないから、素早く引っ張らなきゃダメ」
と言われて、かかるのを確認、持ち帰りました。
ところが、修理屋さんが紐を引っ張ると一発でかかるのに、私では、どんなに素早く引っ張っても始動することができず、夫でもかからず、息子にやってもらうと、何度も試みてやっとかかるという始末、それで2度ほど使いましたがなんとも不便で、とうとう新しい刈り払い機を買ってしまったのでした。


ネットで買ったのですが、今回、初めてクラッチハウジング(頭)とメインパイプがつながってなくて、別々の箱で送られてきました。
自分でパイプをつなげるだけでなく、スイッチコードもつながなくてはならず、本当に動くのかどうか、自信が持てません。刈り払い機は長いので、クラッチハウジングが別に梱包されていると、確かに発送には便利だとは思いましたが(腕はもともと組み立て式)、みんな簡単に組み立てられるのかしら?


「つなげた!」
とくにスイッチコードのつなぎが細かい作業で手間取り、やっと組みあがって動かしてみたら、不完全だったのか、スイッチを切ろうとしても止まりません。どうやっても止まらないものを、動いているままつなぎなおしたら、やっとのことで止めることができました。やれやれ、接合が不完全だったようでした。

最近の刈り払い機はタンクの容量を小さくして、長時間労働ができないようにしています。以前は1時間以上連続で使えたものが、新しい機種では30分くらいで1タンクの燃料がなくなるので、必ず中断することになります。また、取説には「1日2時間以上は、使わないようにしましょう」と書いてあります。

「なんで、電池式のを買わなかったの? 今じゃ電池も18Vだけじゃなくて、40Vのもできてるよ」
と息子。
確かに、ネットで燃料式の刈り払い機を検索したのに、冒頭に出てきたのは充電式の機種でした。
「まだ、エンジン式の方が好きなの。でも充電式もずいぶんよくなってるみたいね。とにかく充電式は始動が楽だからねぇ」
もう、これ以上刈り払い機を買うことはないかもしれませんが、次に買うことがあったら、充電式にしようと思っています。そのころはもっと良くなっていることでしょう。
チェーンソーもブロワーも、紐を引いてエンジンをかけるタイプはかかりにくくて、充電式のしか使っていない今日この頃ですから。






 

2025年8月29日金曜日

棚の整理

ちょっと不具合があって、コンピュータを初期化しました。
初期化には数時間かかるので、その間は手持ち無沙汰、お昼休みに食卓のわきの棚に置いてあるビンを掃除することにしました。


とりあえず、全部食卓に出して、棚の埃をきれいにします。


棚もビンも、テレビの陰になっているので、掃除が行き届かず、すっかり埃をかぶっていました。


ビンに入っているものは基本そのままにしましたが、ばらばらになった楷の木の実、先住猫のトラの爪の抜け殻、犬のうなぎやアルシの抜いた歯などは捨てました。


そして、よりよく飾るためのアイデアを持ってなかったので、ただ元に戻しました。


それでも、きれいになったし、糊ビンは糊ビン、化粧ビンは化粧ビンと一応所在を確認して一緒に並べることができたし、よかったよかった。
夕方には、コンピュータが復活しました。





 

2025年8月28日木曜日

私の一日

暑いから、草刈りをしないで本棚の掃除をしようと、埃が積もった本を2冊取り出して、ブラシを持って、玄関の扉を開けて外に出て、埃を払った日のことです。


あらっ、玄関の扉がその日もきちんと閉まりません。このところ、自動では「かちゃっ」と締まりきらず、ラッチボルトが引っかかって途中で止まります。そこで本は上がり框(かまち)に置いておいて、作業棟から油さしを持ってきて、扉の取っ手などに油をさしました。おかげで扉がきちんと閉まるようになったので、油さしを作業場の棚に戻しに行くと、作業台の上に置いてある接合した板が目に入りました。
織物仲間のKさんにつくってあげる約束をした板を貼り合わせただけで、厚みを削っていないし、大きさに切ってもいません。


忘れないうちに削って置こうと貼り合わせた板を手に取り、自動カンナのところに行ったら、欠けた刃を夫に替えてもらおうと、研いだ刃や取り換えに使う工具一式を入れた道具箱を準備したままになっているのを思い出しました。
「刃を替えてくれるまで、削るのを待つ?」
いえいえ、いつ替えてくれるかわかりません。自分で替えるのはおっくう、というかできない。刃はこぼれているけれど削った後で平らにすることにして、板を削り、所定の大きさに切りました。
仕上げのための手ガンナは室内に置いてあります。カンナを取りに母屋に戻り、玄関を開けて、上がり框に置いてある本を見て、本棚の整理をしていたことを思い出しました。

玄関に置いてあった本はとりあえず二階の本棚に戻しましたが、メダカ鉢の濁った水を替えななくてはならなかったことを思い出し、井戸水をバケツ2つに汲んでちょっとだけ陽にさらし、メダカ鉢の水を半分ほど捨てて、新しい水を足しました。

もう1輪、コウホネが咲きそう

次は、板の仕上げです。そうこうしているうちに、お昼が近づき、お腹もすいてきました。


この日、Kさんの板は完成しましたが、本棚の掃除は先のべになり、本を2冊きれいにしただけで終わりました。
このように私の一日は、すべてがとぎれとぎれに過ぎていきます。











 

2025年8月27日水曜日

八郷の初秋


場所によってはそろそろ稲刈りが始まっている八郷盆地です。
田んぼはどこも黄金色、今年はなぜかヒエが目立つ田んぼが多いのですが、申し訳なくてカメラは向けられません。
今のコンバインは、ヒエごと刈っても簡単に選り分けられるのでしょうか?


稲苗を植えた後は水管理くらいで、農薬か肥料かを撒くのもドローン、あまり人影を見ることはないのですが、右端に畔の草を刈る人、左奥にも畔の草を刈る人と、2人も働いているのを見て、嬉しくなりました。





 

2025年8月26日火曜日

追い出し猫


コンピュータ上に、広告でこんな写真が勝手に出てきました。
「わっ、招き猫だ!」
久々に見た招き猫最中、やっぱり買ってみました。


思ったより大きな箱が届き、ずっしりと重いのでびっくり、それに、広告の絵を見て、なんとなく最中の皮と餡は別になっていると勘違いしてしまいましたが、全部あらかじめ餡が入ったものでした。


片側から見ると手を挙げた招き猫、もう一方から見ると箒を持った怒り顔の追い出し猫とのことですが、皮が薄くて湿気ているからか、つぶれていて、どれもはっきりしない顔と姿で、茫洋としています。
こんなに皮が薄くて柔らかいと、餡を抜いて、皮だけ取って置くというわけにもいかなさそうです。


左の3つは、飾りものと化している、最中の招き猫たちです。
仲間が増えると思ったのに、残念でした。お腹の中に消えるのみ。






 

2025年8月25日月曜日

若宮正子さんの終戦の夏

Facebookに、若宮正子さんが終戦記念日の前日に、1945年8月15日のことを書いていらっしゃるのを読みました。
読み切りかと思っていたら、それからも敗戦の日とその後のことを連載されました。10回連載と長かったのですが、とても興味深かったので、文とともにFBにUPされた写真や絵も転載させていただきました。ご本人にも転載の了解をいただいています。

今年も全国を飛び回っている、大阪万博会場の若宮さん。写真はfbからお借りしました

ITエヴァンジェリスト(ITの伝道師=ITの普及者)の若宮正子さんは1935年生まれの今年90歳、終戦の時は10歳でした。2017年に81歳でiPhoneのゲームアプリを開発した、世界最高齢のプログラマーです。

以下、若宮正子さんの物語です。


80年前のこと(1)

明日は終戦の日ですね。
 なぜか、80年前のあの日のことはわりとはっきり覚えています。
 夏休みでしたし、お盆ということもあり、今の兵庫県豊岡市のはずれにある母方の伯父の家に行くことにしました。自宅から乗り換えも含めて4時間ぐらいかかりますが、当時は10歳のこどもがひとりで旅をするのは珍しいことではなかったのです(戦争中は子供が「こども」をやっている余裕がなかったのでしょうね)。
 ということで、江原の駅を降りますと駅の待合室に大きな掲示が貼ってありました。大きな白紙に「本日、正午に重大放送があるので聴くように」みたいなことが太い立派な墨字で書いてありました。
 伯父の家に到着すると、伯父に「駅にこんな掲示が出とったでぇ」と話しました。叔母は「きっと、お偉いお方が『もっと精出して働け』と言わはるんやろう」と言いましたが、伯父は「違う。『もう戦争負けたんです。降参ですぅ』と言わはるんやろ」というのです。叔母は「あんた、そんなこと言うたら憲兵に引っ張られまっせ」と言いました。そうこうしているうちに村の人たちが伯父の家に集まってきました。伯父はささやかではありましたが地主でしたし村長をしていたこともあったのでラジオを持っていたのです。しかし普通の家ではラジオを持っている家は少なかったのです(この写真は1941頃、東京にいた時の写真です。戦争中の写真は、これしか持っていません)。

80年前のこと(2)
 放送がはじまりました。畳の部屋でしたが、だれも声を掛けなかったのに、全員が起立しました。
 それまでも「勅語」というものは、何度も聞かされました。学校で祝日などの「お式」のときに校庭で校長先生が読み上げるものでした。教育勅語などは何度も聞かされたので小学校4年生だった私も現在でもまだほぼ憶えています。
 伯父さんがラジオをつけますと、少し甲高い男性の声が聞こえてきました。話の内容はわかりませんでしたが悲しそうな声でした。玉音放送というのは「天皇陛下によるスピーチ」という意味なのですね。この時初めて知りました。実際、天皇陛下のお声が「放送」されたのは、この時がはじめてだったようです。お話が進むうちに集まって聴いていた大人の何人かが涙を拭いたり、鼻をすすったりし始めました。天皇陛下のお話が終わりますと、アナウンサーが事務的な調子で話を始めました。ポツダムという単語が出てきたことは覚えています。
 放送が終わると、伯父が私に向かって「あのなぁ。日本は、国がはじまって以来、初めて戦争に負けたんやで」と言いました。近年「パラダイムシフト」なんて言う言葉を聞きますが、あの「1945/8/15の放送」こそが、私の知っている範囲では、最も「パラダイムシフト」という言葉にピッタリな出来事だったと感じます。
80年前のこと(3)
 この雰囲気から真っ先に抜け出したのは伯母です。「あら、もう1時半やないの?お腹空いたでしょう。大勢やからうどん打ちましょ。みんな手伝って」と言って、大きな鉢やら麺棒やら「うどん打ちの道具」を台所から持ってきて、その場に並べました。
 捏ねた小麦粉の塊を唐草模様の風呂敷で包んでから、伯母は「あんた、これを足で踏みなさい」と言いました。 大釜にお湯を沸かして、生のうどんを茹で、井戸水で晒すのです。このやり方は当時の標準的な「うどん」の打ち方でした。
 みんなでいただきました。美味しかったです。うどんを食べ終わると伯父が「夏休みやから泊っていてもええのやろうけれど、今日はいったん家に帰りなさい。おかあちゃんやって心配しているかも知らんし。この先何も起こらへんと思うけれど、わからんから」と言います。そして私の子供用のリュックサックに少しのお米と(当時は農村でもお米は貴重品です)と蒸かしたお芋さんなどを詰めてくれました。外まで送ってくれて「汽車が走っておらんとか、なにかあったら戻ってきなさい」と言いました。
 庶民の家には電話さえ普及していないときのことです。親と連絡を取ることはできない。何かあったとしても自分のアタマで考えて行動するしかないのです。
 駅へ行く道も、何も変わったことがありませんでした。こんにゃく屋さんはいつも通り店が開いていてこんにゃくを売っていました。駅へ行ってみると、いつも通り、駅員さんがいて乗客も何人かいました。そして汽車が盛大に煙を吐きながらやってきました。
これが戦争に負けた日の町の様子でした
80年前のこと(4)
 ここで少し、当時の状況を説明させていただきます。
 当時、東京に住んでいた私は、1945年3月に学童疎開で長野県の鹿教湯温泉に連れて行かれていました。疎開先では食糧不足のため、常にひもじい思いをしていましたが、その3月下旬、鹿教湯温泉の亀屋旅館に父がやって来たのです。
 父は三菱鉱業(現在の三菱マテリアル)の社員でした。父の説明によると、空襲が日に日に激しくなり、丸の内や日本橋にあった会社の多くが、安全な場所へ本社機能を移し始めていたとのことでした。父の勤め先は鉱山会社でしたから、各地にいわゆる「過疎地」の事業所を持っており、その中から父は郷里に近い兵庫県の生野鉱山への転勤を選んだようです。
 そのため、私はもう「東京都民」ではなくなるので、学童疎開を続ける必要はなくなり、父は私を迎えに来て、一緒に兵庫県の生野鉱山へ引っ越すことになったのです。当時は「単身赴任」という考え方はなく、転勤といえば家族全員で移動するのが当たり前でした。子どもも父の転勤のたびに転校を繰り返していたのです。
 さらに、生野鉱山が選ばれた理由には「捕虜収容所」の存在もあったのかもしれません。そこには英国、米国、オーストラリアなどの捕虜が収容されていました。政府は、捕虜を会社に預けて管理させると同時に、労働力として活用することを求めていたようです。
 また会社側にとっても、捕虜収容所はある意味「安全弁」の役割があったのでした。収容所の屋根には国際条約に従い「POW(Prisoner of War)」と大きく書かれており、爆撃される可能性が低いと考えられていたからです。敵が誤爆すれば、自国の捕虜が犠牲になる危険があるためです。そうした理由から、生野鉱山は比較的安全な場所とされ、本社機構の一部を移すことになったのでしょう。
80年前のこと(5)
 結局「日帰り」のお出かけになりましたが、行きは「戦中」、帰りは「戦後」という不思議なお出かけになりました。
 家に帰りますと母が「戦争が終わったらしいのよ」と言います。「誰から聞いたの?」といいますと「隣の奥さんが知らせに来てくれたのよ」と言います。それで母が「どっちが勝ったのですか」と隣の奥さんに聞きましたら、隣の奥さんは「戦争が終わったそうです」とまたそれだけ言って帰られたそうです。
 そうこうしているうちに父が会社から帰ってきました。そして「戦争が終わったらしい」とそれだけ言います。
 町のなかの様子も変わりありませんでした。
 ただ、日が暮れると、あちこちの家から明かりが漏れているのに気が付きました。戦争中は、電灯を大きな風呂敷で覆い、外から明かりが漏れないようにする「灯火管制」が行われていたので、町のなかはほぼ真っ暗だったのです。米軍機による空襲を逃れるためだったのです。この夜からその必要がなくなったということなのですね。
 まあ、8月15日はそのままで変わったこともなく過ぎて行ったと記憶しています。
80年前のこと(6)
 ところが、翌日、8月16日は違いました。
 わが町、兵庫県生野町へ米軍機B29らしきものがやってきてビラを撒いたのです。
 ビラには英語と日本語で、このようなことが書いてありました(父は書棚から「コンサイス英和辞典」を引っ張り出してきてビラを読んでくれましたが、結局和英両語とも、下記のような文言が書かれていたのだそうでした)。
 『戦争は終わった。連合軍(アメリカと戦争しているつもりだったのですが「敵は連合軍」だったのもその時知りました)は、捕虜を解放する。ついては今日、大きな荷物をいくつか投下する。これらは捕虜のためのものであるから、日本人は、「持ち帰ったり」「開けてみたり」「触ったり」してはいけない。違反すると厳罰に処せられるであろう』みたいなことが書かれていました。そのあと、大きな荷物がいくつも投下されました。
 その日の午後です。それまでボロボロの服装だった捕虜たちがピッカピッカの新しい軍服に着替えて町へやってきたのです。
そろって道路をタッタカタッタカと歩きながら歌なんか歌っていたのです。
 父の話では「It's a Long Way to Tipperary」という歌で、第一次世界大戦のころに流行った歌だそうです(余談ですが、私の父は「会社で出世すること」と「お金を儲けること」についての才能には恵まれていなかったのですが、なんでもよく知っている人でした)。
80年前のこと(7)
 ところで、町を闊歩している「勝者たち(アメリカ兵)」は、子どもたちに「チョコレート」や「チューインガム」を少しだけ配るのでした。でも、多くの子どもたちは手を出しませんでした。本当は死ぬほど欲しかったのですが。
 「なぜか」ですが、「敵国だった人たちからのもらい物だから用心した」子どももいたようです。
 ただ、我が家の場合は、父から「みっともないからやめなさい。昔から『李下に冠を正さず』『瓜田に履を納れず』という言葉がある。敗戦国の子どもだからといってみっともないことはしないように」と言われていたからです。ちなみに父は武家の出身ではありません。だた「日本人としての矜持」を大切にしていたのでしょうね(母は、「そんなことを言っている場合じゃないのに」と言い、やや批判的でした)。
 アメリカ兵たちにも「こういう日本人の精神構造」が理解できたのでしょう。彼らは「次の手」を考えました。
 彼らの代表が生野の小学校へやってきました。そして校長さんと会って「自分たちは音楽会をやりたいので音楽室とピアノを使わせてほしい」と申し入れたのです。もちろん反対するわけはありません。その晩は、アメリカ式のにぎやかな音楽会を深夜までやっていたそうです。
 それから数日後、アメリカ兵たちは、例の「チョコレートやガム」を小学校へ届けに来て言ったそうです。「音楽室を使わせてもらったお礼です」と。
80年前のこと(8)
 さて、ここで「連合軍」という言葉がでてきましたが、まあ、実質的には「米軍」です。
 第二次世界大戦後、日本を占領した連合国軍、その総司令部は「GHQ」という名前で我々の前に現れました。われわれは、彼らを「進駐軍」という名前で呼んでいました。彼らは統治者ですから、日本政府のお触れなどにも「GHQの命により」という枕詞がついていました。絶対的な存在だったのですね。
 そして、このGHQ のオカシラが、ダグラスマッカーサー元帥だったのです。。
 戦争中は「さあ来い、ミニッツ・マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし」なんて歌が流行っていましたが、くだんのマッカーサー氏が、最高司令官として厚木の飛行場へやってきたのですね。まあ、分かりやすく言えば「出てきちゃった」のです。そして「わしは天皇陛下よりもエライんだ」と言っていたのです。
 一か月前は「必勝」のために死に物狂いで「鬼畜米英ぶっ飛ばせ」なんて言っていたのに。日本のオトナが「これから先はアメリカ様様だ」と言っているのを見てどうしても納得がいきませんでした。
 でも、こういうことって親には聞けないことです。私は、朝鮮半島から命からがら引き揚げてきた父の姉である伯母に聞きました。彼女は「ああ、あの時はみんなそう思ったのよ」と言ってケロッとしていました。

80年前のこと(9)
 なお、オトナになってから、マッカーサー元帥が宿舎にしていた横浜のホテルニューグランド、ここは戦災に遭わず奇跡的に焼け残ったのですが(米軍が占領後の宿舎として使うためにわざと残したという説もあります)、数年前に支配人さんに確認のため伺ったところ、だいたい下記のごとき状況だったようです。
 終戦直後、マッカーサー氏が横浜山下公園のホテルニューグランドにやってきたとき「食事がしたい」と仰せられたのだそうです。そんなことを言われても「お食事が出せるような状況ではない」わけです。「食材がないのでディナーなど差し上げられるような状況ではありません」とお断りしたのですが「『何でもいいから食べさせろ』と仰せられておるので何とかしろ」とのお達し。
 仕方なく従業員食堂の食材(カボチャのつる、大豆粕なんかでしょうか)を調理してお出ししたところマッカーサー氏は「こんな家畜の餌」みたいなものを出すということは、やっぱり対米感情が悪いということだな」と感じた。そして「何か他に無いのか」と怒鳴った。そうしたら、ホテルの社長さんが出てみえて「これ以上のものはありません、うちだけでなく、横浜全部、いや日本じゅう探しても無理です」と言われました。マッカーサー氏は「そうか」と言って帰って行ったそうです。
 翌日、このホテルへ米軍のトラックが来て、パン、バター、コーヒー、ビスケットなどの大箱を置いて行ったそうです。この時点では進駐軍は当時の民情を分かっていなかったのですね。
80年前のこと(10・最終回)
 よく「占領下で暮らしていたら『心穏やかならざること』が多かったでしょう」と聞かれることがあるのですが、それほどは感じませんでした。
 というのも「戦争中」のほうがいろいろ制限が多かったからだと思います。とにかく「米英と戦争しているのだから英語を使ってはならぬ。野球を見に行っても『ワンストライク・ツーボール』なんて言っちゃあいけない『イチヨシ・ニダメ』と言いなさい。また『アナウンサー』のことは「報道員」と言えとか。
 でも、まあ、これらは何とか理解できます。ところが『ドレミ』もいかん、『ハニホ』と言いなさいーーーこれにはビックリでした。
 学のある人たちからは「ドレミ」は英語ではない、強いて言えばイタリア語じゃないか、イタリアは友好国ではないのか(当時「日独伊三国同盟」というのがあった)、というご意見もあったようです。が、軍部のお偉いさんは「聞く耳」持ちません、早く言えば「カタカナ語」は全部イカンみたいな姿勢でした。
 しかし、戦時中は、小学校で音感教育を盛んにやっていたのですね。空襲警報が出て敵機が近づいているときに「あれは『B29戦闘機』の音だ」と判別できるように。
 進駐軍(占領軍)は、そういう点では『干渉』はなかったように感じました。強いて言えば、戦争好きの日本人を平和好きに変えることが占領目的のキモですから、「刀=兵器」という発想から「チャンバラ」のような「音」には干渉があったようです。 
 昭和39年のNHK連続テレビドラマ「赤穂浪士」でさえ、NHKからテーマ音楽担当の芥川也寸志さんへ「カシャ」っていう音を入れないでほしいと言ったそうです。
 GHQは「アメリカの悪口でない限りは「風刺」はOK」と言っていたようです。「日曜娯楽版」なんて番組は、ピリッと風刺が効いていて、イマドキの放送より質が高く面白かったですよ。
以上、若宮正子さんのお話でした。

2025年8月24日日曜日

許すこと



昨日は、福島県南相馬の「おれたちの伝承館」に、フォトジャーナリストの豊田直巳さんとドキュメンタリー写真家の森佑一さんの写真展「故郷を追われて」に合わせて開催された、ギャラリートークを聴きに行ってきました。


「おれたちの伝承館」は、2011年3月の原発事故の記憶を風化させてはならないと建てられた施設で、その一室で2人の写真展が開かれていました。


豊田直巳さんは、45年前のインドシナ難民の発生当時に知己を得た方で、30年前にはパレスチナに関する集会で定期的に顔を合わせていた仲、原発事故以後は、ずっと福島にかかわっていらっしゃっていて、約30年ぶりにお会いしました。
森佑一さんは初対面、2017年からイエメン、イスラエル、パレスチナ、ウクライナ、シリアなどの戦時下にある国や地域の撮影・取材をしてきた若い方で、映画「ノーアザーランド」の舞台となったマサーフェル・ヤッタに今年の1月にも長期取材に行かれて、その村の様子を報告されました。


マサーフェル・ヤッタは、ヨルダン川西岸地区の最南端に位置していますが、すぐ近くにイスラエル人入植地が2か所あり、軍と入植者双方から、日常的に嫌がらせを受けています。「その家は不法に建っている」と、イスラエルから常習的に破壊通告が行われて家を重機で完全に壊されたり、武装した入植者が突然村を襲ってきて発砲したり家の中をめちゃくちゃに壊したり、羊を放牧して生計を立てている村人の放牧地を奪って自分たちの羊を放牧させたりと、嫌がらせはとどまるところを知りません。
パレスチナ人の存在を抹消しようとするイスラエル人がいる一方、このような蛮行に心を痛めるイスラエル人たちもいます。彼らは
マサーフェル・ヤッタに通ってきて、あるいは仕事をやめてきて村に住み込んで、軍や入植者からパレスチナ人を護る「人間の盾」になっているというお話でした。

また、豊田さんは、ずっとこれまでパレスチナを見てきて、シオニストのこと、オスロ合意以後の状況悪化のこと、国連UNRWAのこと、PLO(パレスチナ解放機構)のこと、ハマスのことなどなど、パレスチナ問題の基本を話されました。



質疑応答の中で、紛争を起こさないためにはお互いがよく知り合い、考え合う「教育の機会」が必要だよねという話から、豊田さんが事例として、撫順戦犯管理所(ぶじゅんせんぱんかんりしょ)の話を出されました。
第二次世界大戦から4年後、中国はソ連によってシベリアに抑留されていた日本人捕虜のうち約千人を、戦犯として中国に引き渡すよう交渉しました。捕虜を引き受けた管理署では、誰もが
同胞を無慈悲に殺した日本人捕虜たちに強い恨みを持っていましたが、周恩来の管理のもと、「一人も殺してはならない」と食事、医療など、戦後の貧しい状況にもかかわらず捕虜たちを手厚く扱い、「彼らも帝国主義の被害者」だとして「鬼から人へ」と教育しました。
最初は思いがけない扱いに半信半疑だった捕虜たちはその真意を悟り、次々と自分の犯したことを告白し、やがて彼らは許されて日本に帰国、その後彼らは、日中友好の懸け橋になったり平和運動の中心になったりしました。

南相馬まで、車で片道2時間ちょっとの道のりでしたが帰り道、私たち夫婦は、周恩来同様に「慈悲の心を持っていた」ネルソン・マンデラやマハトマ・ガンジーを思い出すとともに、先日の大谷翔平のことも思い出しました。
パドレスとの試合で(故意に狙ったような)死球をあてられて、怒り心頭、あわや飛び出そうとする味方ベンチを制して、何事もなかったように1塁に歩いて行った大谷に、たまたま見ていて、感心したものでした。
相手チームのパドレスの選手で、その行動でよく問題になるマニー・マチャドがそれを見て、
「これまで、仕返しするのが勇気ある男だと思っていた。でもそうじゃない。だまって許すのが男だと知った」
と言ったとかなんとか(夫情報)。これから反省するかどうか?

「いじめない」、「仕返ししない」、「許す」ことが、世界平和のカギだと思われました。
英語にはmercyという言葉がありますが、これは「慈悲」というより、「容赦」、「あわれみ」、「情け」などの意味の方が強いと思います。

森佑一さんの写真、ヨルダン川西岸のJabal Huraysh







2025年8月23日土曜日

景色が描かれた曲げ木の箱、スヴェープアスク


スウェーデンの曲げ木の箱、スヴェープアスクです。
北欧らしい、水辺の家が描かれています。幅14.5センチ、高さ7.2センチの小さな箱で、実用というよりおもちゃだったのかもしれません。


もう一回り小さい、同じ形のスヴェープアスクは、完全にままごと道具だったものでしょう。
スヴェープアスクには、蓋を本体同様に曲げ木でつくってかぶせるものと、この形で、両脇でパチンと留めるものとがあり、まれに、ただ平らな蓋をかぶせるだけのものがあります。


両端は、角(つの)のように飛び出していなくても機能は果たすのですが、角を伸ばした形は、ある時代の流行だったのか、ある地域特有の形だったのか、よく見られるものです。


小さな2つは(おもちゃですから)、とても薄い板でできています。
留め具となる柱は、内側に打ちつけたものもあれば、


本体の曲げた板を挟むようにして取りつけたものもあります。


こんな取りつけ方は、とくに素敵です。


古いものから新しいものまで、どれも同じ原理の蓋を使っているスヴェープアスクたちです。
かぶせるだけの蓋と違って、この形は取っ手を持って運ぶことができたので、よくお弁当箱としてつくられました。
中段左のスヴェープアスクは、容量がちょうどいいので、ときどきお弁当箱として使っています。





 

2025年8月22日金曜日

木の卵


骨董市のまことさんの店で見かけたものです。


「木の卵だ!」
「蓋ものかと思ったんだけど、開くかな?」
と、まことさん。
じっくり見たけれど、木はつながった一つのもの、
「合わせ目みたいに見えるところもあるけれど、無垢ですね」
何の木かは、わかりません。エンジュ?
焼いて固いたわしのようなもので磨いたのか、木目(?)がデコボコと表れています。
触り心地は抜群です。


イースターを祝う習慣のない日本でつくられたものでしょうか? それとも、どこかの国から来たものでしょうか?


転がらないように、一か所平らに削ってありました。
丸いものも卵形のものも好きな私、掌の上で転がしながら、
「いただきます!」
と言ったら、200円の値札がついていたのに、100円にしてくれました。


左の4つは本当の卵(茶色い卵は置いてから3ヵ月ほど経ったGさんちの卵)、右下5つは木の卵、黄色いのはセルロイド、右上の白い2つは本当の石、ひよこつき卵は磁器です。






 

2025年8月21日木曜日

ねじれ猫


相変わらず、いつでもねじれているマルです。


タマも、先住猫のトラも、一度もねじれたことはありません。


ねじれていると落ち着くようです。


「猫はねじれなくっちゃぁ」
と、マルは言いますが.....。




 

2025年8月20日水曜日

コンクリート打ちを見学しました


昨日は、f邸の擁壁のコンクリートを打った日でした。
常々、コンクリート打ちに関心があるものの、関係ない現場では近づくこともできず、f邸なら見学できるかと、いそいそと見に行きました。手前にコンクリートミキサー車、その後ろにはポンプ車が来ています。


ポンプ車は、コンクリートミキサー車から出てくる生のコンクリートを、ホースを使って必要な場所に流す機能を持った車です。ポンプ車が開発される以前は、生のコンクリートを一輪車に入れて運んだり、高いところにはバケツに入れ、滑車を使って持ち上げたりする、人が大勢必要なきつい作業でした。
東京タワー建造の映像を見ると、たくさんの人(おそらく出稼ぎ労働者)が、重いコンクリートを一輪車に乗せて、足場の悪い高いところを走り回っています。

我が家の建設では、全工程のうちコンクリート工事にかかった期間が一番長くて、母屋で5年、作業棟で1年以上かかりました。その間、おそらく10回を下らないほどコンクリートを打ちましたが、あまり高さのないときは別料金のポンプ車を頼まず、息子や友だちに声をかけてバケツリレーをしたので、思い出してもぞっとするほど大変でした。


さて、型枠の向こうに立つ3人の、右の人はホースの先を持ってコンクリートを流し入れている人、その隣はバイブレーターを使って、生コンクリートに振動を与えて、隅々までコンクリートが届くようにしている人です。
左の白い帽子の人は、擁壁の低い部分の高さまでコンクリートを流し入れたら、そこに蓋をしたりしようと待ち構えている人、手前にしゃがんでいるのは、コンクリートがしっかり流れるよう、ガタガタする電動の機械を持って、型枠に振動を与えている人です。


私たちは、こんな機械があることも知らず、何人もで金槌やゴム槌で型枠をひたすら叩いたのに、ここでは一人で電動で振動を与えています。
彼の後ろに見えるのが、一つ上の写真で白い帽子の人が待ち構えていた低い部分です。


生のコンクリートはすぐ固まり始めるし、水のようにあふれたりしないので、私たちは低い部分は入れ方を加減しながら上端を閉めずに打ちましたが、専門家の彼らは、この高さまでコンクリートが入ったのを見届けた後、蓋をして、2つあけた穴にアンカーボルトを差し込んでいます。


そして、コンクリートが安定してから、アンカーボルトは必要な高さに差し込んでいます。
ちなみに、私たちがずっとやっていた、アンカーボルトを止める方法は、木でつくった支柱にアンカーボルトをぶら下げるものでした。


1台目のミキサー車が終わった後の擁壁の上端です。ここで私の見学は終了したのですが、この上に、おそらくレベラーという柔らかいコンクリートを足して、上端面を平らにしたのだと思います。
コンクリートを打った後、右下のタオルをかけている鉄パイプと、左の斜めに支えている鉄パイプとで、擁壁を垂直に立てるために、天端の位置を微調節します。もともと、型枠を垂直に立てておいても、生のコンクリートはとても重いので、流し込むとどこかに力がかかって多少傾いたりすることがあるので、どちらの鉄パイプもねじを切ったものが使ってあり(最後から2番目の写真参照)、これを廻して修正できるようにしています。
さすがプロ、私たちは多少の誤差には目をつぶりました。