2017年7月31日月曜日

お守り


かわいい木彫りは、アフガニスタンの、山羊や羊の首に着ける、識別札であり、お守りです。


これには、ぶら下げるための穴も彫ってありますが、穴のないものもあり、お守りを入れるために、小さくて浅い、四角い穴を穿っているものもあります。

よい毛がとれますように、よい肉がとれますように、オオカミなどに襲われませんようにと、祈りを込めて彫ったものでしょうか。

『せかいいちうつくしいぼくの村』(小林豊著、ポプラ社、1995年)より

絵本の中に見る、アフガニスタンの羊です。

『ぼくのチョパンドス』(小林豊著、光村教育図書、1999年)より

アフガニスタンと一口に言っても、広い国ですから、地域によって、気候風土も違えば、暮らしぶりも習慣も違います。
川が流れていて、緑が濃いところもあれば、乾燥したところもあります。
このお守りは、どんな地域で、山羊や羊の首に着けられていたものでしょうか?
 

大切に育てられた羊の毛で織られた絨毯は、百年使っても二百年使っても、びくともしません。


アフガニスタンの山羊や羊のお守りは、カンボジアの織りものの道具に、ちょっと似ています。









2017年7月30日日曜日

正式な名前が欲しい、「掘りごたつ式テーブル」

夫の大好きな、「掘りごたつ式テーブル」の掘りごたつ部分を、作業棟二階に制作中です。夫は、もともと座るのが苦手だったのに、両膝を人工関節にしてから正座ができなくなりました。それでも椅子など、高いところに座るより、視点を低くして座るのが好きです。

ちなみに、最近では料亭や居酒屋で、掘りごたつ式のテーブルが増えていると思いますが、名前はありません。
「掘りごたつ式テーブル」でなかったら、「掘り卓」、「足入れ卓」などなにか名前があったら便利なのですが。


さて、掘りごたつ部分の周りの壁を張ったら、次は足底の床です。
一階の天井として張った野地板の上に根太を渡し、断熱材を入れて床を張ります。
窓の高さとの取り合い、天井の高さとの取り合いなどから、畳敷きの床の高さが決まっているので、足を入れて快適な高さになるよう、掘りごたつの底は、16センチ高くします。

ちなみに、窓の高さや形は、屋根勾配や、全体のプロポーションから決まってきます。
作業棟はこの辺りの伝統的な納屋や蔵の形を踏襲していますが、屋根が本屋根と下屋の屋根と二段になり、その屋根に挟まれた壁の高さも全体の印象を決定する重要な要素になります。高すぎると間が抜け、低すぎるとちんちくりんになります。
私は設計はできませんが、感じることはできます。作業棟を設計する前に二人で、それこそたくさんの納屋や蔵を見て回って、「あれは壁が高すぎる」、「これはなかなかプロポーションがいい」などと、評価し合い、それを作業棟に生かしました。

内部は、天井として張った野地板の上に適当に床をつくったら、目線が低いところに来て、座っても外の景色を楽しむことができなくなるので、床を高くして、ちょうどいいのです。


床材の杉を、残りものの中から寄せ集めてみました。
長い材もおおよその長さに切って、並べてみて、どのくらいあれば足りるか見当をつけます。
厚さは3センチに揃えますが、幅は揃えていると、無駄が出るので、広いものも狭いものも、そのまま使うことにしました。


サネがついている材もありますが、ほとんどはついていません。


また、40ミリ厚だったものを30ミリに削ったため、サネが真ん中に来ていないまま残っていた材もありました。
 
本実(ほんざね)

それら床材全部に、サネをつけました。


根太の高さは13センチ必要なので、残っていた垂木材を65ミリ厚に削って、二段重ねました。


二段重ねの上の段は、床板を張る土台になるので切れ切れでは困りますが、下の段は問題ありません。短い材を並べて固定し、その上に長い材をビス止めしました。
材料の節約ができたと同時に、張り巡らされた電気配線を除ける切り込みを入れる手間も省けて、一石二鳥でした。


断熱材をたっぷりと敷きます。
断熱材は、母屋をつくったときの残りの羊毛です。
 

そして、床を張りはじめました。


長さに切った板を叩いてサネを嵌め、


凸のサネの上に斜めにビスを打ちます。
ビスは、凹のサネで隠れて、見えなくなります。


あと少し。
 

出来上がりました。
簡単な作業ですが、この舟みたいな、床を張る前はもっと深かった場所に、根太をまたいでたどり着き、出たり入ったり、幅を計っては、材を切るために、階段を上ったり下りたり、いい足の運動になりました。






2017年7月29日土曜日

『越後三面山人記』

 
『新編・越後三面山人記(えちごみおもてやまんどき)』(田口博美、ヤマケイ文庫、2016年)は、著者の田口博美さんが、民俗文化研究所の姫田忠義氏に誘われて、ダムで沈むことが決定していた三面村(みおもてむら)の日常を十六ミリフィルで写しながら、フィールドノートもとっていた、その記録をまとめた本です。
文庫のもととなった単行本が出たのは1992年、私は単行本も持っていますが、どこへしまったか、ちょっと失せています。

映画、『越後奥三面・山に生かされた日々』は、封切りしてから間もなく観る機会がありました。
数年後に、沈んだ村のその後を追った、『越後奥三面第二部・ふるさとは消えたか』との二本立ての上映会があり、そのときは、二本を続けて観ました。
そのどちらか、あるいは両方だったか、監督の姫田さんが上映会にいらして、お話を伺ったこともありました。姫田さんお一人ではなかったような気がするので、もしかしたら田口さんもご一緒だったかもしれません。

『越後三面山人記』は、その映画の感動を思い出す、読み応えのある本です。

第一章 狩りの日の出来事
第二章 降りしきる雪の中で-冬-
第三章 山の鼓動とともに-春-
第四章 むせるような緑に抱かれて-夏-
第五章 時雨れる雲の下で-秋-
第六章 山人の自然学

という構成になっています。

四季に即して、村の生活が淡々と綴られているのですが、筆の力か、村の様子が映像のように目の前に浮かんできます。
とくに、田口さんに語ってくれる村の人たちの言葉が、どれも深く、心にしみます。

「狩りで山歩くときなんぞはなっ、ハー、自分が人間であることもわすれるんだわっ。オレも山の一匹の獣と同じで、獲物追うんだわっ。何を考えるってこともねぇ、夢中で体動かして、必死で追うんだわっ。獣獲るんだものなっ、獣にならねば獲ることできねぇはでなっ。オラっ山さ入れば、獣と同じだぞうっ。山も谷も翔んで歩くんだわっ」

これは、やっとのことでクマ狩りに連れて行ってもらった田口さんが、足を踏み外してけがをして、みんなに迷惑をかけてしまったと気落ちしているときに、いろいろな人が声をかけてくれた言葉の中の一つです。

「クマがどこ行ったかっていうのは、あてずっぽうでいっているんではねぇんさ。自分がクマになったつもりで考えて、いってるんさ。クマ獲るためには、まずクマになることからはじめねばなんねぇんさ。それができねぇとクマは獲れねぇ。だからクマから学ばねばねぇわけなんさ」

山人は、何度も、山に学ばなくてはならない、獣に学ばなくてはならない、魚に学ばなくてはならないと、その生き方を語ってくれます。
そうでなければ生き残っては来られなかったと言います。

「都会の人方が、山で遭難したとか、ケガしたとか、命取られたなんて、テレビのニュースでときどきあるけどねぇ、オレたちには考えられねぇこった。そんなごとしてたら、村がなくなっちまうでしょう。だから学ばねばねぇんさ。山に」

「山をあなどってはなんねぇんだ。自然というものはおっかねぇもんだ。そのおっかなさがわからねば一人前の山人にはなれねぇんだ。かといって知り尽くすなんてこともできねぇことだ。だから山人はいつでも学ぶんさ。オラたちは山さ遊びに行くんじゃねぇすけ。仕事だ。生活のためだもんな」


初春、一年に一度だけ、クマを獲るのに適した季節がやってきます。村の人たちはチームをつくって、熊を追います。
クマを仕留めたときは、山の神への儀礼を忘れません。神に感謝をささげた後に、みんなで美味しいクマ鍋を囲みます。


クマの肉は、猟に参加人たちの人数に等分します。
さらに、くじで番号札を引き、番号順に肉を受け取ります。それが、村の人たちのいつも言う、
「平らにする」
ということです。なんでも、平等を心がけます。
クマの肉を均等に分配した後は、狩りに加わらなかった人たちも参加して、熊の胆や毛皮は欲しい人が買います。


春の終わりには、出小屋に、家族そろってゼンマイ採りに行きます。子どもたちには、学校のゼンマイ休みがあり、親とともに参加します。


出小屋と言っても、素敵にできています。


夏、子どもたちは川で、イワナ、ヤマメ、マスなどを捕ります。
潜って、素手で捕まえるのですが、三面の子どもたちは誰でも、上手に捕まえます。
魚の習性を知り、魚の気持ちになって、向かうからです。 


三面村は、1985年に閉村しました。









2017年7月28日金曜日

招き猫がやって来た


日本一のカバコレクターのヒポミさんから、包みが届きました。
なになに?手紙を読むと、ヒポミさんがコビトカバのフチ子を買っていたら、その隣に並んでいたのが、招き猫のフチ子だったそうです。


全六種類だからと、六個も送ってくれました。
ヒポミさん、そんなに気を遣ってくれなくてもいいのに。

 
私はただ、kuskusさんの貯金箱シリーズの中にカバがいたので紹介しただけだったのに.....。
幸い、ヒポミさんはkuskusさんのカバを捕獲、とても気に入ってくれました。


さて、招き猫のフチ子は、三箱開けて、全部が別の種類だった時は、
「おほっ。全部違うかも」
と期待しましたが、


全部開けると、結局は三種類だけでした。


フチ子とはいえ、座ることができる猫が多かったので、私は喜んでいます。
コップの縁にぶら下げるのはやっぱり飾りにくいもの、自分でお座りできる猫が四匹もいて、大満足でした。
ヒポミさん、ありがとう。






2017年7月27日木曜日

野田末吉さん


名古屋土人形、野田末吉さん作の馬乗り狐です。
ヤフーオークションで手に入れましたが、開始価格はよくある1000円ではありませんでした。新しい土人形を手に入れるよりは安いくらいの値段がついていて、入札するかどうか、ちょっと悩んでしまいました。 というのは、馬乗り狐はすでに持ってたからです。
開始価格が、1000円ではないと、誰でも躊躇するのか、競争者もなく、落札することができました。


これが、我が家に長くいる方の馬乗り狐です。
3.11の地震で、馬の顔だけ粉々に砕けたのですが、そのほかの部分は無傷でした。


あのときは、招き猫の部屋では、割れたかけらがどれのものかわからないほど混じりあっていたのですが、馬乗り狐は別の部屋にいたので、かけらはなんとか拾い集めることができて、つなげました。

この馬乗り狐は、野田末吉さんがまだご存命のころ、お宅を訪ねて手に入れたものでした。
私たち家族は、祖母が元気だったころ、毎年お正月には祖母の住む倉敷を、車で訪ねていました。祖母が亡くなってからは足が遠のき、しかもタイで暮らしたりしていたので、倉敷に行くことはありませんでしたが、祖母の七回忌だったのか、久しぶりに倉敷まで行ったことがありました。
それまでも、倉敷に行くときは帰りに、京都の伏見稲荷に寄ったり、大阪の住吉大社に寄ったりしたことがありましたが、そのときは、名古屋人形の野田末吉さんのお宅を訪ねたのでした。
次男が中学生くらいだったので、1980年代の前半だったと思います。日も暮れたころにたどり着いたのですが、末吉さんは病に伏せっていらっしゃいました。

それまでも、私は土人形はできるだけ制作者からじかに買うようにしていました。というか、普通、名古屋人形は出回っていないし、東京のデパートで年に一度開かれていた郷土玩具展のようなところでは、目移りして何も買えなくなるので、お訪ねして、お話して買うという方法が、一番よかったのです。
応対して下さった、末吉さんのお連れ合いは、
「どれも、予約の品ばかりで、お分けできない。でも見てください」
と、人形が並んでいた棚を見せてくださいました。
大きな部屋の三方に大きくて深い棚があって、小さくてかわいらしい土人形がぎっしり並んでいました。

遠くから来たのにと、申し訳なく思ってくれたのか、
「これなら、お分けできます」
と、手に取ってくれたのが、この馬乗り狐でした。喜んでいただきました。

その時の病は、一度は回復なさったのかどうだったのか、野田末吉さんは、1989年に亡くなられ、名古屋人形も廃絶しています。


さて、落札できても、馬の顔が割れてしまった方を捨てるつもりはなかったので、二匹(四匹)になりました。
並べてみると、前から持っていた方は、おでこに線が入っていますが、新しい方は線がありません。 髭もありません。
もっとも、「新しい」といっても、我が家で新しいだけで、どちらが先につくられたかは不明です。


全体で見ると、馬の顔の形が違うでしょうか。
絵つけの問題だけですが、蹄のあるなしも違います。たぶん、型も違うのでしょう、馬の目や袴の紐は、新しい方がくっきりしています。

野田末吉さんは、名工と呼ばれた方で、たくさんの型を使い、たくさんの型を起こし、たくさんの試みや挑戦をされました。
この馬乗り狐も、馬の脚がありますから、単純な型ではつくれませんが、ひょいひょいと、こともなげにこなしていらしたのでしょう。
お会いしたかったです。







2017年7月26日水曜日

ハーブチョッパー


なんとなく、獣や鳥の爪を想像させる、片手で使う、ハーブチョッパーです。


木と金属の取り合いが、美しく仕上がっています。


使い心地も、なかなかです。
むしろ、両手で使うものより軽快に使えるかもしれません。

ハーブチョッパーをいくつか持っているのに、ハーブを刻むとき、たいてい使うのを忘れます。
スパイスやナッツをつぶすときは、すり鉢、石鉢、クロック、乳鉢など、使い分けているのに、ハーブは、気がついたら、包丁をトントントントンとやって、みじん切りにしています。


三日月形のはイギリスのハーブチョッパー、片手のはフランス、ままごとのはアメリカのものです。

右端の鋳物の、一体型のものは、なんとなく、中東の匂いがしますが、どこのものでしょうか?
中東のパレスチナでも、荒物屋さんでハーブチョッパーを売っていて(プラスティックの柄のついた、ポルトガル製の三日月形でしたが)、その存在はそれより前から知っていましたが、実際に使うのを目にしたのは、初めてでした。








2017年7月25日火曜日

土産物に見る伝統の技

草刈りをしようとして、麦わら帽子が見当たりませんでした。
「何か、日よけが欲しいなぁ」
と探していて、仮設ゲストハウスの棚に、もう30年も前に、夫か息子が手に入れた、古い帽子があるのを思い出しました。
観光客が喜びそうな、西洋の探検帽と、野球帽をミックスしたような、変な帽子です。
麦わら帽子の代わりに、あれでも被ろうと、取り出してみました。


この、探検帽もどきには、これまで何の関心も払ってきませんでしたが、どうしたわけか、我が家で長く生き残っていました。
改めて見ると、タイの伝統的な帽子のつくり方を踏襲して、それをちょっと変形させてあるのに気づきます。


竹で帽子の形をつくり、その上にココヤシの葉を重ねて縫いつけてあります。


ヤシの葉の集まるてっぺんは、五角形をつくって、縫い綴じてあります。
 

竹を編んだ、内側です。


見事な竹の組み方に、しばし見とれてしまいました。

『Museum of Folk-Culture』より

これは、外側がなだらかな山のような形の帽子の、外側と内側ですが、同じような編み方をしています。
ただ、探検帽もどきのようにこんもりとせず、広がった形なので、竹ひごがすぐに拡散しています。

『Museum of Folk-Culture』より

中に竹で編んだ輪がついていて両脇から頭を挟み、頭から浮かせてかぶる、タイ中部の伝統的な帽子も、同じ編み方でつくっています。

魚を捕っているところですが捕り方は、底の開いた漁具をぱっと被せて、その中に手を突っ込んで魚を掴みます。