2010年10月31日日曜日
足のバドミントン
東南アジアに、セパタクローという球技があります。
ラタン(藤)で丸く編んだボールを、足と、ときには頭も使って蹴ります。手は使えません。
競技は、ネットを張って、二手にわかれてバレーボールのように戦いますが、普段は円陣をつくり、みんなで交互に蹴り上げて遊びます。三人くらいから、十人くらいまで遊べますが、それ以上の人数になったら、輪をいくつもつくればいいのです。
みんな、ラタンの硬いボールを痛がりもせず、裸足で上手に蹴り上げて、いつまでも遊びます。
そんな、足がちょっと痛いタクローではなく、カンボジアには、羽を蹴る遊びがあります。
鶏の羽に、豚の皮をさしてつくった、足版バドミントンです。
タクローほどには飛ばないので、こちらの方が、上手に飛ばすには体力が要るかもしれません。
最近では、鳥の羽と豚皮のものは少なくなり、プラスティック製のものが増えてきました。
2010年10月30日土曜日
まだある、二段重ね
2010年10月29日金曜日
ちょっと旧式の弁当箱
金属の、円形の容器を重ねる形の弁当箱は、現在では、タイの弁当箱のような蓋の留め方が、圧倒的に多くなりました。インドの弁当箱も、同じ留め方になっているようです。
それ以前は、このように、取っ手についている留め金を動かして、留め金で蓋を押しつけておく形が一般的でした。
留め金を硬くしすぎれば、開閉に手間がかかります。ゆるくすれば蓋が取れ易い、兼ね合いの難しいものでした。
右のホウロウの弁当箱はチェコスロバキア製、1960年代後半にアフリカのガーナで買ったものです。
なにせ、まだスーツケースもない時代で、木にアルミを張った箱一つで遠いアフリカに行ったものの、生活用品がないないづくし。
台所で塩と砂糖入れにしようと、アフリカ一大きいと言われていた、広大なクマシ市場を歩き回って、へとへとになって買ったものでした。
留め金を外したりはめたりするたびに、ホウロウを傷つけないように神経を使いますが、重ねて置くだけなら問題はなく、重宝しました。
今では、役目を終えて、種入れになっています。
こちらは、インドの小さな弁当箱です。
新しいものではありませんが、さして古いものでもありません。手で打ち出したものではありませんが、機械で板をまわしながら、手で絞ってつくったものです。手仕事の部分も多く、よくできています。
子どもの通学用の弁当箱だったのでしょうか?名前が刻んであります。
2010年10月28日木曜日
タイの弁当箱
タイの弁当箱です。
今では、日本でもずいぶん出回っているようです。大小、サイズがいろいろあって、本当に便利でした。
右は、私と夫がが長い間使っていたてんとう虫印の弁当箱です。そして、左はバンコクに住んでいたころ息子たちが使っていた、シマウマ印の弁当箱です。二つずつありました。
雑貨屋ならどこにでも置いてある弁当箱ですが、不思議なことに、サイズが極小のものはバンコクではみつからず、地方都市にだけ売っていました。
簡単に蓋の着脱ができて、汁気のものもこぼれにくいので、この弁当箱はなかなかの優れものでした。
二つともMK印、左の大きい方はカンボジアの市場で買って使っていたものです。
プノンペンの街は拡大して、この数年で昔の慣習は崩れてきたみたいですが、私の住んでいた十年前にはまだ、お昼休みには、みんな食事をとりに家に帰りました。
私は、同僚の日本人のYさんや、Aさんとともに、エンさんにお願いして昼食をつくってもらって、この大きな弁当箱に入れて、アパートに持って帰って食べていました。
一 つにはご飯が、おかずは二つに入っていて、果物もついていました。一人分ですが、二人で食べるほどの量が入っていました。
だんだん、自分でつくって食べることが多くなり、エンさんにお願いすることが少なくな りましたが、カンボジア料理を食べたくなったときは、頼みました。エンさんは料理上手で、どんな料理も、とても美味しいものでした。特に、ニガウリのひき肉詰 めや、焼きナスのあんかけの味は忘れられません。
休日に、村のお寺でお祭りがあるときは、事務所のみんなと誘い合って、わいわいと出 かけました。
そんなとき、村の人たちは同じような大きな弁当箱に、お坊様に差し上げて自分たちも食べるための料理を詰めて集まっていました。お寺の中は混雑し、弁当箱がいくつも並んでいるので、取り違えないように、よく気をつけなくてはなりませんでした。
タイだけでなく、隣国のカンボジアでも、活用されていた弁当箱でした。
右の弁当箱は、八郷に来てすぐの一年半、近くにアパートを借りて住んでいたころ、現在の場所に、家の建設作業に通っていたとき、毎日使っていました。たいてい、玄米おにぎりと、簡単なおかずを入れていました。二人分が十分入ります。
この弁当箱は、今は犬のお出かけ時の餌入れになっています。それぞれ食べる量が違う餌を計って入れておいて、出先で、そのまま食べられます。犬が二匹になってしまったので、一つは水入れにも使えるようになりました。
2010年10月27日水曜日
水平基礎を打ちました
昨日、小雨もぱらついた寒いなか、作業場棟の水平基礎のコンクリートを打ちました。この上に、さらに垂直基礎(地中梁)を打ち継ぎます。
ここは、ずいぶん前から掘ってあったので、夏の間は、草が生い茂っていました。
夫が「気にしなくていい」と言うのに、おせっかいにも、刈り払い機で草を刈っていた私が、足を踏み外してアキレス腱を切った、「思い出」の場所です。
型枠は前からできていたのですが、砕石を入れたのは一週間前のことでした。
敷いた石を、プレートという機械を借りてきて、だっだっだっと圧縮し、その上に切って曲げた鉄筋を入れました。鉄筋の下にはスペーサーを置いて、鉄筋が砕石から浮くように置いています。
私は、ほとんど戦力外でしたが、少しだけ手伝うことができました。
鉄筋を曲げるときは、曲げたいところを曲げ機に挟んでおいて、
時計まわりに、力を入れて棒を押して歩くと、曲がります。直径9ミリの鉄筋なら、私にも楽々曲げられますが、13ミリになると、押す棒にもっと長い鉄パイプを被せて、半径を大きくして、やっと曲げることができるほどです。
切断するのも、これに負けず劣らずのシンプルな機械を使っています。
これまで、何千本(もしかしたら何万本?)もの鉄筋を、切ったり曲げたりしてきました。
すべてはコンクリートの中に沈んでいます。
小さなミキサー車で、1.5立米のコンクリートを持って来てもらいました。
手伝ってくれているのは、お隣の木工家のKさんとJさんです。彼女たちも、自力で家を建てた、つわものたちです。
まだ半人前で、敏速に動けず、力も使えない私は、せいぜい表面を鏝でならすことぐらいしかできませんでした。
以前は、いつも頼むコンクリートの会社になかった、小さいミキサー車です。大きいミキサー車なら、とても入れないところなので、大助かりでした。
一歩、前進です。
2010年10月26日火曜日
ビルマの弁当箱
ビルマの弁当箱です。
ビルマには、籠を編んだものに漆を塗る籃胎が圧倒的に多いのですが、これは、木を轆轤で引いたものに漆を塗っています。
弁当箱は五つの部分にわかれます。蓋の部分は、左の赤い皿から順番に納まっています。
本体にはご飯を入れ、赤い皿におかずを入れて運び、食べるときは二人で食べたのでしょうか?
全部ひっくり返してみると、二人分の食器に見えます。
1981年にビルマを訪れたときには、街角や民家の庭先に素焼きの壷に入った水が置いてあり、道行く人は誰でも飲めるようになっていました。ラングーンなど、都会の飲料水は、ろ過装置もついた素焼きの容器に入れられて、複数並べてありました。公共水飲み場といった感じで。
この弁当箱の持ち主は、出先で、そんな水を飲んだのでしょうか?それとも、ビルマはお茶文化の国ですから、お茶を飲んだのでしょうか。
タイにも、気化熱を利用して冷やす、素焼きの水飲みの壷はあります。しかし、それを庭先において、道を行く不特定多数の人が飲めるようにしてあるのは、村の中などごくわずかで、たいていは、家の人だけ飲めるように、高床のテラスなどに置いてありました。
ですから、ビルマ人の優しさ、どこでも水が飲める合理性に驚いたものです。
不特定多数の人が水を飲んで、不衛生ではないかって?
いえいえ、彼らはこのように自分の容器を持っていって飲むか、あるいは備えつけた容器には口をつけないで、上手に飲むのです。
インドの長距離バスに乗ると、運転席近くにやかんに入れた飲料水が置いてあります。でこぼこ道を走っていて、バスが揺れていても、乗客はやかんを高くかかげて、もちろん口からは離して、一滴の水をこぼさないように上手に飲んでいました。
お見事。
2010年10月25日月曜日
見つかった布
作業棟の基礎のコンクリート打ちの日が、迫ってきました。その日に備えて、夫が水平基礎に鉄筋を配置しています。
私は足の怪我が治り、やっと松葉杖もとれましたが、まだ普通に歩き回って作業ができません。せめて作業工程の写真でも撮っておこうかと、カメラを向けました。
あれ、変です。いつも土色に染まった作業着を着ている夫が、今日は真っ白なシャツを着ています。
「そのシャツどうしたの?このまま結婚式にでも行けそうな姿じゃないの」
「そうかい。作業着入れの中にあったのを着ただけなんだけど」
おかしい。
二人しかいない我が家で、ときどきおかしなことが起こります。おかしい人はどっち?
とにかく着替えさせようと、作業着入れの中をさがしましたが、作業用のシャツは一枚もありません。たくさんあったのに、いったいどこへ行ったのでしょう。
と、作業着入れの中から、ずっとさがしていた制作中のバティクの布が見つかりました。
S先生に教えていただきながら蝋を置いて、ジャワ留学の出発前に一色だけ染めていただいたバティク。一年後にS先生が帰られてから、もう一色染めようとしているのに、このところ行方不明になっていました。
小 さいものだから、何かに挟まってしまったのかしら、アイロンをかけたものと一緒にしまったかしらと、考えられるところをすべてさがしてみたのですが、見つ かりませんでした。一年先だから時間はあると思いながらも、もしかして、机の上を整理したときに捨ててしまったのではないかという、最悪のことも頭に浮か んでいました。
それが、よりによって、洗濯はしてあるけれど、煮しめ色になった古着ばかり入っている作業着入れの中にあるなんて...。
いったい、真っ白なシャツと、バティクが、どうして作業着入れに入っていたのでしょう?
制作中のバティクは、あと一色、茶色を染めると、ジャワ伝統のバティクの色合いになります。
ジャワ更紗の模様にはすべて意味があるそうですが、この正方形を二つに割った三角形の組み合わせの模様は、身体にまとって、病気平癒を願う模様だそうです。
なくさないでよかった。しっかりしまっておきました。
2010年10月24日日曜日
持ち手のある中国籠たち
持ち手に飾り編みのついていた、三段重ねの籠です。直径は35センチほど、シンガポールの、竹籠屋さんの店先にぶらさがっていたものです。
タイ、ラオス、カンボジアなどで見かける中国籠のように、慶弔時に、ご馳走やお供え物を入れて運ぶ籠です。中国籠とは趣が違いますが、よく見ると、類似点もたくさんあります。
細いひごの縁巻きがそっくりですし、蓋のつくり方もそっくりです。
タイでは、中国籠は、福建省出身の人たちがつくっていましたから、この三段重ねも福建省スタイルなのでしょうか?
タイ、ラオス、カンボジアなどでは、中国籠をつくる移民一世が亡くなるころには、その籠を使う生活習慣もなくなるといった具合で、新しい作り手は育ってないようでした。タイ、ラオス、カンボジアより中国色の濃いシンガポールでは、籠を編む後継者も、使う行事も残っているかもしれません。
こちらは、香港で買った二段重ねです。お弁当籠でしょうか?直径20センチほどです。
中国、ヴェトナム、シンガポールなどに、似た感じの鳥籠があります。
しかし、二段重ねは鳥籠ではないのですから、中が見える必要はないのに、どうしてこんなに手間のかかるつくり方をしているのでしょうか。竹を六角形に曲げて、その中を、細いひごを通しています。
ヘソのような丸いところも、竹でできています。
鳥籠なら、身も蓋もないので、開閉のたびに六角形の角を合わさなくてもいいのですが、これは、蓋を外したら、はめなおさなくてはならないので、より完成度の高さが求められます。
身が二つ、蓋が一つの六角形は、はずしても、きっちり合います。もっとも、蓋は、たった一方向でしかしかきちんと合わせることができませんが。
丸いへその部分から編みはじめたのではないかと思うのですが、広がった竹ひごを、どうやって次の輪に通していったのか、考えるだけで、頭が痛くなりそうです。
もちろん、竹籠屋で買ったので、信じられないような安いお値段でした。
2010年10月23日土曜日
竹の弁当箱
熊本県日奈久の、竹の三段重です。
この籠は、水俣の籠師、井上克彦さんに紹介していただいて手に入れたのですが、これをつくった籠師さんは、板相撲やおきん人形もつくっている方で、昔々、日奈久にお家を訪ねたことがありました。
私の板相撲をつくられたのは、ご当主のお父さんか、あるいはおじいさんだったのでしょう。
高校生のころから、竹の弁当箱が気になっていました。ご飯のお弁当が多い中で、いつも竹のランチボックスに入れた、トーストしたパンのサンドイッチを持ってきていた友人がいたからです。
しかし、この三段重を手に入れてから、お弁当を入れて出かけたのはたったの一回だけ、あとは、茶道具のしまい場所になってしまっています。
季節を愛でながら、優雅な生活をしたいと思いながら、実際には、年中行事をおろそかにしたまま、がさつな日々が過ぎていきます。
三段重のもち手の飾り巻きは、
中国の籠の持ち手の飾り巻きに通じるものがあります。
シンガポールで買ったこの籠同様、日本に定住した中国人が伝えたものでしょうか?
これは、いつからあったかわからないころから持っている、おもちゃの籠です。
熊本か大分かはわかりませんが、九州の籠だと思います。
外、特に蓋は色あせてしまっていますが、中にはまだ華やかな色が残っています。
数年前、フリーマーケットで手に入れた、やはりおもちゃの籠です。
細い竹ひごは、半分だけ皮を残しているので、皮と、削った部分の色の変わり方が違って、縞模様になっています。子ども用のおもちゃとはいえ、手を抜いていないつくりかたです。
2010年10月22日金曜日
2010年10月21日木曜日
食卓の明かり
我が家には、天井からぶらさがっているペンダントライトは一つだけ、食卓の明かりです。
今まで、食卓でいろんな照明を経験してきましたが、新しく買うなら、食事中まぶしく感じない明かりが欲しいと思っていました。
極々若いとき、ガーナの古い都クマシで暮らしたときは、レンガ造りの、築百年以上の素敵な家に住みました。しかし、照明器具が、まったくついていないのに困りました。
結局、大きなケント紙で折った手製のランプシェードを幾つかつくって使いましたが、食卓には、中を白く塗ったひょうたんをぶらさげました。
写真は直径20センチほどのひょうたんですが、そのランプシェードにしていたひょうたんは、直径が40センチもありました。気に入って、引越しのたびに持って行って、ずいぶん長く使いましたが、ついに割れてしまいました。
タイで暮らしていたときは、竹の笠をランプシェードにしていました。
そして、カンボジアでは、ヴェトナム製の籠を利用してつくりました。
写真の籠は、ヴェトナムで買ったもので、直径が45センチもある大きな籠ですが、カンボジアのプノンペンの市場で売っていたのは、直径20センチから25センチの、同じデザインの小さな籠でした。たぶん、キンマの道具を入れるために、売られていたのでしょう。
電気をつけると、縁の飾り帯からもれてくる光が、周りの壁に模様を描いて、とても雰囲気がありました。
そのランプシェードは、次にその部屋を借りる女性が気に入ってくれたので、そのまま置いてきました。
それにしてもヴェトナム人(平地に住むキン族の人々のことですが)は、手が込んでいながらも、すぐに壊れてしまうようなもろい籠をつくる確信犯だと思います。
持ち手に巻いてあるのも、通してあるのもラタンですから、籠の縁もラタンで巻けばもっと強いのに、柔軟性のない、硬い竹のような素材で巻いてあります。だから、気をつけていても、すぐにぼきぼき折れてしまいます。
持ち手から底へと通してあるラタンも、編みもしないで使っているので、中にものを入れて、持ち上げただけで切れました。こんな大きな籠ですから、軽いものを入れたって、ある程度の重さになります。
壊れ易く、はかなく、きゃしゃに、きゃしゃにつくるのが、ヴェトナム人の美学としか思えません。
そういえば、私の学生時代に日本で流行った、ヴェトナム製のイグサで編んだカラフルな籠も、すぐに持ち手がとれました。
八郷に来て、仮小屋に住むようになってからは、アフリカの草籠をランプシェードとして使っていました。ヴェトナムの籠とは対照的に、とっても頑丈な籠です。ジンバブエあたりの籠でしょうか。
ただ、食事中はまぶしいので、食卓近くまでさげて使っていました。そのため、食卓の向こう側に座る人の顔が隠れて見えません。夫婦二人だけのときは見えなくても問題ありませんが、お客さんが来たときは、さすがにちょっと具合の悪いものでした。高くするとまぶしいし。
というわけで、最終選考に残ったのは、昔デンマーク人の友人宅で見たことのある、まぶしくないルイスポールセンのライトでした。
装飾的過ぎない?、大きすぎない?と、我が家で使う自信が持てませんでしたが、わざわざ行った照明器具屋さんで実際に見て、やっぱりこれにしました。
今年1月に訪問したその友人の家にも、やっぱり同じライトがついていました。
前に見たのは、30年も前でしたのに。
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