2026年9月19日土曜日

眼科に行ってきました

私がO眼科に行くようになったのは、夫が白内障を手術していただいたときに付き添いで行くようになってからです。
夫は別の眼科で白内障が手術の時期に来ていると診断され、手術のできる病院や眼科を紹介されたのですが、その中にO眼科がありました。O眼科では週に3日の手術日(手術は1週間に1度のところが多い)があり、白内障手術に経験の深いお医者さんがいらっしゃいます。
ところが、夫は血糖値(正確にはヘモグロビンA1C)が高く、それを下げるまで手術できなかったので、かなり長く通うことになりました。最初は夫一人で行っていたのですが、白内障が進み、瞼が垂れ下がる症状(のちに病院で手術)も出てきたので私が運転して行くようになり、待っている間にふと私も白内障の検査をしてもらったらどうかと思い、お願いしたのです。
O眼科では、風を当ててからパッと光をあてる眼圧検査と視力検査をしてから、お医者さんの診察がありました。診察室では、検査結果の説明の後、診察室備えつけの機械で目を覗き込まれ、顔はまっすぐ前に向けたまま、眼球だけ動かして上下左右を見る検査を受けました。 その結果、年相応の白内障の症状はあるものの問題ないとのことでしたが、以後2、3カ月おきに定期的に診てもらうことになりました。

昨年の11月だったか、いつもの眼圧と視力検査に加えて別の検査をしました。暗くした部屋で暗い画面を見て、ポッと赤い光が見えたら手に持っているボタンを押して知らせるという検査でした。顔は固定しているのに、眼前の四角い画面はそこそこ広く、赤い光は薄くて小さくて画面のどこに現れるかわからず、すぐ消え、目まぐるしく矢継ぎ早に現れたりそうでもなかったり。しかも検査はあらかじめ知らされてはいたけれど5分間も続いて、集中力は切れるし、反射神経も衰えて、検査が終わった後はへとへとでした。
一体なにを検査されたかわからなかったのですが、そのときの診察で、眼圧が強くなっていたので、左目だけ1日1回1滴だけ、点眼剤を入れることになりました。

埼玉県の藤田眼科医院の絵をお借りしました

その後、O眼科を訪れるたびに、またあの長い検査をするのかとビクビクしましたが、いつもの検査だけで点眼薬もそのままでしたが、眼圧は落ち着いていると知らされていました。
そして咋日、検査の時に初めての機械の前に座らされました。それは虹彩と角膜の間の隙間、隅角(ずいかく)を拡大して写真に撮る機械だったのです。
隅角は、正常だと24度くらいあります。ところが、私の隅角は、右目が13度、左目が9度と狭く、放っておいても何事も起こらないかもしれないけれど、もし急に眼圧が上がって隅角が塞がると急性緑内障発作を起こし、ひどい頭痛や吐き気で、それはそれは大変な思いをするとのことでした。
では、どうしたらいいか?
二つあって、一つは白内障の手術です。視力は左右とも裸眼で1.2あるので、視力の面で白内障の手術をする差し迫った必要はないのですが、白内障の手術をすると膨張している水晶体が萎むので圧がなくなり隅角が塞がる心配がなくなります。もう一つは、虹彩に穴をあける手術です。こちらは白内障の手術に比べると、急性緑内障発作予防への確実性は劣るそうです。
どちらの手術もそれなりに大変な手術なので、ゆっくり考えて結論を出したらと言われましたが、お医者さんにいろいろ質問したりしながら心は決まり、白内障の手術をすると伝えました。白内障の手術は、説明会や血液検査などを経て手術前日、手術日、その翌日と3日続けてかよわなくてはならず、両目一度に手術するので、特に術後は自分で車を運転することができません。夫は元気、お願いすることができます。
いざ手術かと勢い込んでいると、
「では、執刀するO先生とも調整するので、次の予約は11月にしましょう」
と言われて、ちょっと肩の力が抜けました。


まぁ、お任せしてのんびり進みましょう。予期せぬ不具合も出てきはしますが、身体は今もしっかり動いてくれていて、ありがたいことです。

あのとき、ふと白内障の検査をしてもらおうかと思わなかったら、またその後も定期的に診てくれるO眼科で診てもらわなかったら、眼圧が上がって隅角が狭くなっているとは知らないで過ごしたところでした。なんでもないかもしれないけれど、大変なことになっていたかもしれません。
遠視だった人が隅角が狭くなるとか、遠視の皆さまご用心です。






2026年9月18日金曜日

やってきた!

お知らせです。
 ⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
9月6日から、新しいコメントが「最新のコメント」欄に表示されていません。何度も、GoogleやAIの指示に従って操作してみているのですが、問題ないはずですが、一向に改善されません。
ただ、管理画面には新しいコメントが表示されるので、昔の記事にコメントをくださった方にも返信できているので、よろしくお願いします。
 ⭐︎ ⭐︎ ⭐︎ 


さて、長い間憧れていたスウェーデンの餌をついばむ鶏を手に入れました。


円の直径は15センチ、バガロツカエのついばむ鶏、クローチカよりちょっと大きめです。


スウェーデンのものは、シンプルな美しさがありますが、首と顔や尻尾を比べてみると、バガロツカエの鶏は、轆轤で引いたあとナイフで削って一手間かけています。


ところで、台所の流しで、ビニール袋をセットして生ゴミを入れるシンプルな台を使っています。
これに、餌をついばむ鶏を乗せてみたらどうかと思いつきました。


スウェーデンの餌をついばむ鶏。


ロシアの餌をついばむ鶏と、鳩に餌をやる少女。


そして、ポルトガルとバリ島の餌をついばむ鶏です。

スウェーデンの餌をついばむ鶏を手に入れることができて、願っていれば手に入るものだなと感慨深いものがあります。
これで餌をついばむ鶏にこだわっていた思いも一段落しました。








2026年9月17日木曜日

篩(ふるい)

先日、笠間市立図書館に本を借りに行きました。
これ以上本が増えても置くところがないので、読みたい本があったらまず借りてみることにしたのです。
ネットで調べたら借りたい本はありましたが、会員になっていなかったのでネット予約することができません。軽い気持ちで笠間に出向いたのですが、笠間市内には 図書館が3つあり、残念ながら行った図書館のその本は貸出中で、しかし1冊、別の図書館にあったので予約して、後日借りることになりました。


館内をぷらぷらしていると、『ものと人間の文化史61 篩(ふるい)』(三輪茂雄、法政大学出版局、1989年)という本が目につき、借りてきました。
『ものと人間の文化史』のシリーズは、『船』から始まって、『結び』、『ものさし』、『豆』、『猿』、『パチンコ』などなど、幅広いラインアップで、216巻も出版されています。しかも著者はそれ一筋に研究してきた人たちのようでした。
そして、『篩』の著者の三輪茂雄さんは、同じシリーズで『臼』も書かれている大学教授ですが、日本粉体工業協会常任理事であると同時に伝統技術史料調査保存特別委員長という、伝統と最先端事情に詳しいお方のようでした。

まえがきには、
「石器時代から現代まで、一貫して人類の生産活動の原点を担い、エジプト文明にも、徳川幕府体制下にも、ひたすら臼を挽き、粉をふるう大勢の人の汗と涙があった。そして現代も臼はミルの名で、篩はスクリーンと名を変えて活躍している。(中略)臼と篩は次第に人間が動かす道具から機械に変化し、苦しい労働から人間を解放していったが、今も大部分が人目につかない工場の片隅で、近代的装いで生き続けている」
と熱く語られています。

植物であれ、鉱物であれ、砕くことによって物質を生成する方法は人類の物質利用技術の根源的な方法で、それ無くして人類の今日はありませんでした。

馬の毛を網に織っているところ

にはものを通す網が必要です。古来、馬の尻尾の毛、羊毛や絹、竹や柳など植物素材、金網など様々なものが使われてきました。


長い間、手で持ってひたすら前後や左右にゆすって使った篩、単調で重労働でした。


参考文献からの図版は、傷んでいたり、朧げではっきり見えないものなど、著者自身が描き直しているようで、とても見やすいものになっています。


米は籾殻を取り除いて玄米を精白した状態で食べられるのですが、小麦は粉にするので、西洋と東洋では篩の「網」が違いました。しかし、東洋西洋どちらでも、中世になって大量に処理できる篩が出現するまで、ひたすら単純な道具を手で動かしたことに、違いはありませんでた。


食料だけでなく、鉱山でも篩は必需品でした。


この本には機械化された後の篩も各種載っています。
篩の網として使える絹織物を作るためにどう蚕を育てるかなど、ちょっと専門的だし、工業化してからの機械の篩についてはあまり関心はなかったのですが、人間は臼、篩、箕なしではこれまで生き延びてこられなかったと考えると、とても興味深い本でした。
また、この本を読んで、私の祖母(岡山方言)は「ふるい」とは言わず、「とおし」と言っていたことも思い出しました。


さて、我が家の大豆用の篩を、以前UPしたはずだと時間をかけて見返したのですが、見つかりませんでした。
UPしてなかったのでしょうか? 大きくて立派な籠目あみの篩です。






2026年9月15日火曜日

昨日のお天気


この時期、秋雨が降るのは当たり前のことですが、それにしても今年は何日も、何日も雨が降り続いています。


そんな中、昨日は珍しく陽が差しました。


き・も・ち・よ・か・っ・た・!


昨日は各地で稲刈りができたでしょうか?
たった一日晴れただけでは湿気が多すぎて、やっぱり稲刈りはできなかったでしょうか?


今日はまた雨。
ただいま、猫も退屈中。


退屈中。





 

2026年9月14日月曜日

かびさせてしまった!


久しぶりにご飯を炊こうと土鍋を出してみたら、中がかびていました。今までかびたことなどなかったので甘くみて、よく乾かさないで蓋をして、しまっていたのが原因です。
漂白剤を入れて置いたので、カビはなんとかなると思うのですが、縁が欠けているし、そろそろお払い箱にした方がいいのかと思ったりしています。6年前の写真を見返してみたら、すでに縁が欠けていました。


2011年のブログの写真です。白い土鍋はないので、右奥の土鍋(おこげという名)が割れてから、新調したものだと思われます。

私はどんなお鍋でもご飯が炊けます。ガーナとアメリカに住んでいたときは、ガーナ製のペラペラのアルミ鍋でご飯を炊いていたし、タイとカンボジアに住んでいたときは、タイ製のやはりアルミ鍋でご飯を炊いていました。


でも、やっぱり厚いお鍋の方が火の通り方が全然違うからか美味しい気がするので、大きさがちょうどいい琺瑯のお鍋で炊くことにしました。これはフィンランドのサルバネヴァキャセロールというお鍋で、いつからあったか、古くからあるものです。


ちなみに、サルバネヴァキャセロールは1960年からつくられていましたが、一度廃盤になり、2003年に復刻されました。復刻版を見たことがありますが、どれも蓋がカタカタしていました。どうしてでしょう?


ご飯が大好きな夫ですが、お米を食べると血糖値が上がると信じて(そのわりにはアイスクリームは欠かさない)、毎日は食べたがらないので、消費は遅々としたもので、ずっと2キロずつ買っていましたが、最近は安全のため5キロ買うことにしています。


保存容器は鉄のもの、その昔は帽子入れだった箱だと思われますが、無農薬米ですが虫も湧きません。
お米をつくっていたころは何十キロも備蓄があって、3.11の時も「食いつなげる、心配ないなぁ」と思ったものですが、5キロでも一応安心です。





 

2026年9月13日日曜日

立派な餌台

猫は毛を舐めるので、葉っぱを食べたりして、毛玉を吐くのが当たり前です。
でも、毛に関係なく食べたものをすぐ吐き出したりしないようにするには、餌の器をちょっと高くした方がよいので、台つきの器や、器を乗せるための台などが売られています。
でも、毎日洗うことを考えたら、器はシンプルなものが最適です。


そこで、餌台をつくってやりましたが、タマはいつも食事を準備している時からまとわりついて台所で食べたがるし、マルはかなり遠くに離れた場所に佇んで、持ってきてくれるのを待っています。そのため、つくってやった餌台は、一度食べた後の器(猫たちは必ず残す)を置く場所になってしまっています。


なんとか高くしようと器を木片や紙箱に乗せるなど、高くするために工夫していましたが、見苦しいので高台を使うことにしました。


特に吐きやすいマルは、これで気持ちよく食べられています。


高台はお正月やお盆などのときに使われていた韓国のもので、木を轆轤で挽いて、漉き漆を塗ってあります。


祭事の時に使われていたものなので、一日に2度の食事時はやむなく床に置いていますが、食事が終わったらすぐに高いところに置いて、粗末に扱わないようにしています。


缶詰のトッピングを主に食事をすました後は、器を餌台に移しておけば、気が向いた時ちびりちびりと食べるのが猫たちです。
そういえば、犬と猫が一緒にいたときは、犬が必ず猫が残した餌を食べてしまうので、猫には犬が飛び乗れない高いところで食べさせていました。今は本棚の一部になっていますが。






2026年9月12日土曜日

古賀の猫


長崎県の古賀人形の座り猫です。
16代目の小川セイさん作、白に黒と赤で鮮やかに彩色されていましたが、すっかり色褪せてしまいました。


お尻の模様が特徴的、左から見ると、ずいぶん厚みがあります。


学生時代(なんと1963年!)に窯元を訪ねたとき、私が手に入れた古賀人形のラインアップです。
阿茶さん(シャモを抱えた中国人)以外は結構地味な選択をしていますが、そのとき特にフクロウの笛がとても気に入ったのを思い出します。日本にはこんなおもちゃがあったのかと思ったことでした。


常滑系の招き猫に似せて(触発されて?)つくられた古賀の招き猫です。常滑系の猫はドロドロに溶かした粘土を型に流し込んで大量生産しますが、古賀人形は2つに分かれた型の内側に、粘土の板を貼りつけて、それを合わせてつくっているので、ずっしり重いところが違います。
ねこれくと」によると、手足の先が斑になっているのが珍しいとか、なるほど、常滑系の猫の手足の先は白いままで、赤で線が描かれ、大きいものには金や銀で爪が描かれています。
常滑系の招き猫のスタイルが確立したのは第二次世界大戦以後なので、古賀でこの形の招き猫がつくられはじめたのはさらに後ですが、いつつくられはじめたかはっきりしていません。


底に52年9月(1977年)と書かれているので、この猫の前の持ち主が購入した年月と思われます。セイさんは1966年に亡くなられているので、これは17代目の小川索(なわ)さん(あるいは18代目の亨さん?)作のものと思われます。


現在、19代目の小川憲一さんが古賀人形制作を引き継いでいらっしゃいますが、憲一さんの猫には髭が描かれています。


また、憲一さんは首輪に模様も描いています。








2026年9月11日金曜日

秋野不矩

友人にお礼状を書こうと絵葉書を探していたら、秋野不矩さんの絵葉書が出てきました。


秋野さんの絵は大きいのですが、絵葉書サイズで見ても素敵です。


茨城県北部の五浦(いづら)にある天心記念五浦美術館に「秋野不矩展」を見に行ったのは2003年、あれからもう23年も経ってしまいました。


秋野さんは1962年に日本画の客員教授としてインドで1年間を過ごして以後、ずっとインドに行き続け、インドを描き続けました。


どれも大作ばかりで、この「プラーミンの民家」も横が212センチもあります。

1998年、90歳。この年インドを1ヶ月旅しています。

秋野不矩さんは2001年に亡くなられて、2003年に、兵庫県立美術館、茨城県天津記念五浦美術館と静岡県の天竜市立秋野不矩美術館で追悼展が開かれたのです。


絵葉書は、結局違うもので出しました。
せっかく今まで一緒にいたこの絵(絵葉書ですが)たちをやっぱり一緒にしておこうと思って。