2014年2月28日金曜日

異人、追記

先日の異人について、ジオツアーでご一緒したNさんが、やはり地元に出向いていろいろ調べて来てくださいました。
それによると、異人は「大人形」とか「ダイダラボッチ」と呼ばれていて、現在は四ヶ所に残っていて、毎年八月につくり替え、その後の一年はそのままにして、集落を守ってもらうものだとわかりました。


この大人形がある近くに、知人のSさんがいるので、ほかの大人形を見せていただくとともにお話をうかがおうと、訪ねてみました。
Sさんの家は旧家で、古木の梅がちらほらと咲き初めていました。


Sさんの案内でまず、古酒(ふるさき)の大人形を訪ねました。
ここは風が吹きさらすところだし、先日の雪の影響もあったと思いますが、大人形は大きく右にかしいでいました。


右手に持っている槍は曲がり、額に巻いたはちまきはずり落ちています。


後ろ側から見ると、激しく傷んだせいで、稲わらを束ねてそれに草刈り籠をかぶせて頭をつくっているのが見えます。
後にお話を伺った小松﨑章さんのお話では、稲わら、麦わらだけでなく、古い農具や籠など農業に使ったものを利用して大人形はつくられてきたそうです。


次は、長者峰の大人形を訪ねました。
常緑樹に守られていて風があたらない場所だからか、こちらはよく原型をとどめています。


杉の枝の笠を被ったような姿です。
槍と刀を持ち、お腹あたりにはさんだわら(さんだらぼっち)の装飾、シデつきの縄を腰に巻いています。


顔は黒だけでなく、赤も使われています。


長者峰の大人形を見たあとは、大人形について冊子を書かれた、もと茨城新聞の記者をされていた小松﨑章さんをお訪ねしました。
そして、いろいろお話を伺いました。


高浜のあたりを井関といい、井関には代田、仲郷、井関、八木という四つの地区があります。うち、大人形をつくっているのは、代田地区と、仲郷地区の梶和崎集落、長者峰集落、古酒集落の四ヶ所です。代田地区では一度やめたことがありますが、その年に子どもに不幸があり、すぐに大人形づくりを再開したそうでした。

ちなみに案内してくれたSさんの住む井関地区では大人形をつくっていません。
小松﨑さんのお考えでは、井関地区には盛賢寺という名刹があり、山門には仁王さまがにらみを利かせていらっしゃるので、大人形は必要なかったのではないかということでした。

文献はないけれど、口伝によると大人形は江戸時代からつくられてきました。たぶん、疫病除けにつくられはじめたものだろうということで、梶和崎の小松﨑さんは、ものごころついた1940年代からずっと、道端の大人形を見て育ちました。
小松﨑さんの家は、お祖父さんの代まで雑貨店を営んでいらっしいました。常連客は買いもののあと、しばし店わきの縁側に座って、世間話などしていたそうです。そして、その人たちが、八月が来ると決まって大人形の話をしていたのを、小松﨑さんはよく覚えています。

当時、大人形の制作には、各戸の、十七歳から三十七歳の長男、つまり跡取り息子が集まりました。そのころはほとんどが農家で、医者にも薬にも手が届かない時代でしたから、大人形に厄除けの祈りが込められていたのです。


大人形は、今では年当番がいて、当番が芯棒、稲わらなど必要な材料を集めます。
また、杉の枝や竹など青いものは、当日みんなで切ってきて、設置現場に集まります。顔も、現場で描くのが基本です。
毎年、八月十六日につくりますが、今では勤め人ばかりになってしまったこともあり、梶和崎地域では、八月の第一日曜日につくるそうです。


これは、小松﨑さんの冊子『大人形』に載っている、梶和崎の1988年の大人形の写真です。今のものより背の高いものでした。


そして、やはり梶和崎の、1993年8月に写した大人形。その約一年前につくられ、すでにあちこちがぼろぼろに傷んだ状態になっています。
新しい大人形をつくるとき、古い大人形は燃やします。

大人形をつくるのに、とりたてて決まりはないそうですが、毎年ほぼ同じものをつくっているそうです。
手には槍と刀を持ち、太い縄の鉢巻きをして、手足だけでなく、大きな男根がついていますが、それは子孫繁栄を願ってだろうとのことでした。長者峰の大人形には男根はついていません。それは近くに古くから金精神が祀られ、石製の男根が奉納されているので、それとかち合わないように、先人がつくらなかったのではないかと推察されています。

顔は、できるだけ恐ろしく描きます。今は破れない紙にマジックマーカーで描いていますが、昔は墨一色で描いていました。
紙の手に入らない時代には、養蚕に使ったさんざ紙を使うこともあったし、裏返した箕、かます、こもなどを顔にして、その上に直接顔を描いたときもあったようです。

そんな興味深いお話を聞いての帰り道、梶和崎の大人形の前を通りかかると、大人形を修理している方がいらっしゃいました。


上の写真は先日見た大人形です。槍は傾き、槍を持つ手も下がっています。


ところが、その日はしっかりなおっていました。
聞けば、明日遠足で中学生たちがこの道を通るから、あまりにも傷んでいるのでなおしているとのことでした。

昔は各戸で俵を編んだので、誰でもさんだわら(さんだらぼっち)を編むことができました。ところが今ではほとんどの人が編めない。ここ梶和崎だけでなく、他の集落の大人形のさんだわらも、この方がつくっていらっしゃるそうです。

Nさんとご一緒に、八月につくっているところを見せていただくのが、今から楽しみです。二百年も続いてきた民間信仰ですから、さんだわらが編めないといった些細な、しかし重要なことから伝統が崩れてしまわないよう、長く続いて欲しいものです。



2014年2月27日木曜日

いつかいた?女の子


ずっと前に、骨董市で昔のおもちゃを商っているさわださんから買った女の子の土人形、縁日で使われていた、射的の的です。
ありふれたもので、何度も同じものを見たことがあります。

郷土玩具のように、土の薄い板をつくり、それを割った型の中に押しつけて、型と型をくっつけ合わせて一つ一つつくったものではなく、ゆるい土を型に流し込んでつくる量産品です。
もっとも、絵つけは手彩色ですから、家内工芸に毛が生えたくらいのものですが、工場製品です。


土人形の裏には、トランプのキングのロゴのついた、王様印玩具人形、愛知県常滑、永和商店製造のシールが貼ってあります。

ネットで調べてみると、王様印の永和商店のつくったものはいろいろ出てきます。
弁慶、福助さん、野球少年、招き猫などなどの貯金玉をつくっていたようで、今も会社が存在し、招き猫などをつくっているという情報もあります。
たくさんの子どもたちが、王様印の人形たちにお小遣いをためたり、縁日の射的で遊んだりしてきたのでしょう。

私は洋服を着て育ちましたが、まだなにかと着物を着ることもあった世代です。結婚式で花嫁花婿に三々九度のお酒を注いであげるときなどは、髪にこんな大きなリボン飾りをつけてもらいました。
女の子が持っているのと同じような抱き人形でも遊びました。もっとも、お風呂に入れてあげて、脱水機などない時代、乾かないでカビだらけになって、捨てられてしまいましたが。




2014年2月26日水曜日

月子

kuskusさんから市松人形の久寿子をいただいてまもなく、ヤフーオークションで、おもちゃ模様の着物を着た市松人形を見かけました。
久寿子よりちょっと小さめで、値段が格安だったので、「立ち人形」としては我が家で一人ぼっちの久寿子のお友だちにいいかなと、つい入札してしまいました。

ところが落ち着いて画像をよく見ると、何がどう作用しているのか、なんとなくみすぼらしい感じがします。
自分で手をかけてよくする自信がないので、きっと誰かがもっと高い値をつけるだろう、つけてくれたらいいなと心待ちにしましたが、とうとう競争相手が現れず、その市松人形は私の手元にやってきてしまいました。


お顔はかわいいのに、市松人形を貧弱に見せているのは、着物のせいでしょうか。
着物の丈はつんつるてんで、どことなく変です。


とりあえず着物を脱がせはじめて、貧弱に見えるわけがわかりました。
縮緬を使用しているというのに、裏布がなくて、まさかの単衣(ひとえ)なのです。袖の中に桃色の別布が見えますが、細い布をつけているだけ、開いていなくて閉じられています。
「信じられない!」

太平洋戦争の戦中戦後の、ものがない頃につくられたものでしょうか?


しかも、下着も長じゅばんも着ていなくて、単衣の上着一枚きりです。
これでは布の柔らかさが出なくて、見映えがしないのは当然です。
 

さらに驚いたことに、着物の下前にはおくみがついていません。襟もおくみがない分、短くなっています。おくみ布を使うのさえ、惜しんでいるのです。
「冗談でしょう!」


着物というものは左右対称ですが、この市松人形の着ていたのは、前代未聞の左右非対称の着物でした。そして、幼児の着物にはつきものの、腰あげも、もちろんしてありません。

おもちゃづくしの柄を活かして、パッチワーク風に布を足したらなんとかなるかしらと思っていたのですが、無理とわかりました。布の絶対量が少なすぎます。
新しい布でなんとかしなくてはなりません。
 

二十年ほど前に古布屋さんで買ったまま、箪笥の肥やしになっていた大名行列の図柄の長じゅばんは、着物ができるほどの分量がある布としては、比較的細かい模様です。
ちょっと地味ですが、これを解いて、着物として使うことにしました。


長じゅばんですから着丈につくってあり、着物に比べると、小さくできているものでした。


ところが解いてみると、袖が完全に二重になっていたり、お腹のあたりで布を織り込んだりしていて、ちゃんと一反分の布が、魔法のように出てきました。縫い直したとき使えるよう、切り刻まないで縫い込んであったのです。
そして、縫い目の揃って美しいこと、先達の技量に、ただただ感心してしまいました。
布はたっぷりあり、人形の着物には、柄合わせをしても両袖だけ使えば十分でした。

さて、長じゅばんを解いたあとは、本と首っ引きです。
まず、持っている本には、背丈からみて11号らしいこの人形の着物の寸法は出ていませんが、12号と10号の寸法が出ていたので、それを参考に、11号用の寸法を計算して割り出し、型紙をつくります。本には、
「型紙がきちんと裁てたら、もうできあがったも同然です」
と書いてあるのですが、そんなわけがありません。そこからがスタートです。

つくり方のページには写真が載っていますが、見ても理解できないことが多々あります。何度も何度も読み返し、それでも仕上がりのイメージがわかないときは、とにかく縫ってみます。
パズルのようでしたが、たとえ理解できなくても、縫ってみるしかありません。


休み休み、つっかえつっかえ、両袖が縫えたときは心底ほっとしました。でもほっとしている場合ではありません。まだまだ先は長いのです。


裾に、綿を入れた「ふき」をつくろうと、曲線と直線を、折り合いをつけながら縫い合わせているときは、一体誰が「ふき」など考え出したのか、泣きたくなりました。


ふきには、青梅綿を入れると書いてありますが、青梅綿はありません。家を建設したとき断熱材として使った、羊毛綿の余りで代用します。


四苦八苦のふきも、できあがってみれば、ぷっくり膨らんで、とってもかわいいものです。


とうとう着物ができあがりました。


まだ、長襦袢も下着もできていませんが、二ヶ月以上も裸で過ごしている市松人形に着せてみました。


着せて見ると、おや、貧弱な感じが払拭されました。
馬子にも衣装とはこのことです。最近、着たきりすずめの私も、少しは考えた方がいいのかと、反省するほど、素敵です。


名前は、亡き恩師のお連れ合いのお名前をいただいて、月子にしました。
さて、次は下着です。
月子ちゃん、待っててね。



2014年2月25日火曜日

ソチオリンピック記念

ソチオリンピックは、終わったのでしょうか。
テレビ観戦もせず、このところ忙しくて新聞もろくに見ていませんでしたから、ソチオリンピック記念とはおこがましいのですが、マトリョーシカの本を二冊買いました。


『ロシアのマトリョーシカ』(スヴェトラーナ・ゴロジャーニナ著、スペースシャワーブックス、2013年)は、マトリョーシカについてロシア人が書いた初めての本だそうです。

なんといっても、マトリョーシカの一大産地である、セルギエフ・パサードにある、セルギエフ・パサード文化財保護区博物館と、セルギエフ・パサード芸術教育玩具博物館所蔵のマトリョーシカをふんだんに紹介しているのが、わくわくするところです。


これが、1890年代末につくられ、パリ万博に出品された、農民一家のマトリョーシカです。


以前、初期マトリョーシカ写しの図柄は好きじゃないと書いたことがあります。
でも、この2010年の写しの写真を見ると、なかなか素敵で、誰もが初期マトリョーシカを写すことからはじめてみるという理由も、わかるような気がしました。

そして、左下の同じモチーフの縫いぐるみの人形のかわいいこと!つくってみたくなりました。


日本のこけしは、どちらかと言えば無表情ですが、マトリョーシカは表情豊かです。
このマトリョーシカは友人にそっくり、1930年代のものです。


しかめっ面にも見える、セミョーノフ(生産地の名前)のマトリョーシカにも、色鮮やかな花が描かれていて、春の喜びが感じられます。(1953年)


そして現代は、より自由になんでも表現できるといったところでしょうか。(2007年)
だるま型の入れ子の中に、無限の世界を展開することができます。

もともと木彫りの文化を持っていた人たちが、各地でマトリョーシカをつくりはじめ、男性が轆轤を挽き、女性が絵つけをしながら長い冬を乗り切って生活してきたのだなぁと、あらためて、ロシアに思いを馳せました。
 

もう一冊は、Karatさんのブログで知った本、『マトリョーシカ ノート3』 (道上克著、2013年)です。ノートとあるように、私的な(学術論文のための)メモのようなもの、以前は図書館でしか見られなかったそうですが、圧巻です。
模様のちょっとした違いや、ラベル、スタンプ、焼印などから、生産地や生産年代を割り出しています。


この本は、Karatさんも書いているように、あとがきを見て仰天する本です。
いわゆる伝統的なマトリョーシカを、著者は650点も持っていて、掲載されているマトリョーシカはすべて日本で、骨董市などで手に入れたものだそうです。


しかも、収集年月の短いことに驚かされます。
約6年間、土日は早朝から、骨董市をはしごしてかけずりまわったそうです。
でも、日本(関東地方)を駆けずり回れば、こんなマトリョーシカが集められるの?と言うくらい、1900年代初頭・前半のものがたくさん掲載されています。

というわけで、ソチオリンピック開催の日々は、マトリョーシカを堪能した日々でした。




2014年2月24日月曜日

異人

先日の、ふるさとを知るジオツアーは、バスの旅だったので、車窓に興味深いものを見つけても、ちょっと停まって見るというわけにいきませんでした。
そこで、気になったものをもう一度見に行ってきました。


正面に見える農家は東向きで、道路は手前の東から、向こうの西へと走っています。


その家の南東の角はT字路になっているのですが、角に異人がいました。


身体は杉の枝でできていて、顔は紙に描いたもの、竹の刀を差し、竹の槍を持っていて、刀や槍は稲わらを編んださんだらぼっちで飾られています。

後日、やはりジオツアーに参加して車窓から異人を見たSさんと、そのときの話をしていたとき、
「あれは余所者だな。でもそう悪くない余所者で、もっと悪い余所者が侵入しようとするのを阻止して、守ってくれているんじゃないかな」
と話していました。
つまり、山の神なまはげの海版ではないかと言うのです。
本当は何なのか、わからずじまいです。その家の方に聞けばよかったのですが、そんなことをすると、魔力が落ちるかもしれない、とてもたずねられませんでした。

この異人の向いている方向に、海があります。


その、昔は海だったところは、1963年に水門が完成して、今は霞ケ浦湖になっています。


ちなみに、一枚目の写真の農家の裏山に見えるのは古墳です。
そして、これはその古墳を反対側から見たところです。





2014年2月23日日曜日

えじこ


寒い薄曇りの日曜日、何もしないでのんびりします。


えじこに入ったこけしは、鳴子の名工松田初見(1901-1989)の晩年の作です。
 

鳴子のこけしの常で、首を回すと、高い音で「きゅっきゅ」と鳴きます。


2014年2月22日土曜日

つぶれてしまいました


大雪の日、木工機械を置いて作業場にしていたハウスが、雪の重みでつぶれました。
その隣の、材木置き場のハウスもつぶれたのですが、そちらはものをうず高く積んであったのでそこで止まり、たいした被害がありませんでした。


雪がビニールにどっかりと乗り、数日はにっちもさっちもいきませんでした。
 

反対側から見たところです。


それでも雪は次第に溶けたので、ビニールに穴を開けて排水し、取り外すことができました。


ぐにゃぐにゃにつぶれてしまったフレーム。
新しいのを買おうと思ったのですが、どこのホームセンターにも売っていません。
このあたりには、つぶれたハウスがたくさんあって、気のきいた人が、さっさと買ってしまって売り切れになってしまったのです。
製造元にもなくて、五月までは手に入らないということです。
やれやれ。
  

このところお天気続きで助かっていますが、工具類が濡れて、錆びてしまえば致命的です。ちょっと片づけようにも、100キロ、200キロあるので、簡単には移動できません。
できるだけ早く屋根を張りたいので、ユンボでパイプを押して、なんとか少しだけで曲がったパイプを持ち上げて、曲がったまま使うことにしました。


さいわい、ビニールシートは売っています。

 
夫は、あと二年もすれば、恒久的な作業場ができるのだから、それまでこれで持たせると言います。
はたして、持つでしょうか?大雪ではなくて小雪でもすべり落ちそうにないから、夜を徹して雪下ろしをしなくてはならなさそうです。

材木屋さんに材木を用意してもらってもいるし、暖かくなったらすぐコンクリートを打たなくてはなりません。今は、夜のうちにコンクリートの中の水が凍ってしまうので、打てませんが。