雑誌『季刊銀花』(文化出版局)の1975年夏の号に、「みちのくの木地玩具」という特集がありました。
カラー写真(24ページ)の木地玩具たちは、銀花の編集者が数年にわたって集めたもの、そして記事(16ページ)には、鳴子、温海、遠刈田、弥治郎、白石、温湯、大鰐、木地山、川連、花巻、白布高湯、土湯、中ノ沢、横川と、おもに温泉地を、木地玩具とそれをつくる職人さんをさがして旅をする様子が、集落(当たり前に茅葺きの家など)や古い型の轆轤の写真とともに、興味深く綴られていました。
訪ねてみれば、すでに職人さんの絶えた地域もあったそうですが、一堂に集められた東北の木地玩具の多彩さは、圧巻でした。
2年後の『季刊銀花』の1977年夏の号には、「なつかしの東京の木地玩具」という記事が載りました。
カラー写真(20ページ)で紹介された木地玩具はすべて、広井道顕さんと広井政昭さん兄弟がつくったものでした。
「みちのくの木地玩具」の取材をしていた銀花の編集者が、仙台で偶然に兄の広井道顕さんと出会い、広井兄弟が父の広井賢二郎から学んだ、江戸の流れを汲んだ独楽を200種類、明治になってからつくられたはじめたおもちゃを200種類もつくれると知り、こつこつとつくってもらった木地玩具たちでした。
戦前、広井一家は東京の亀戸で、「おもちゃ屋広井賢二郎」という看板を掲げて木地玩具をつくり、浅草に卸していました。
賢二郎さんはとても才能のある方で、次々と新しいおもちゃをつくっていました。兄弟はそれを見て育ち、小さいころから轆轤に触ったりして、見よう見まねでつくりはじめたのです。
「おもちゃ屋広井賢二郎」では、忙しいときにはお母さんもままごと道具の絵つけなどして、平和に暮らしていましたが、昭和20年の東京大空襲で、家を失っただけでなく、お母さんと幼い弟を失くし、父子3人だけになってしまいました。
東京生まれでふるさとのない一家でしたが、職人さんのつてをたどって仙台に疎開、そこで、細々と独楽などをつくり、賢二郎さんは1970年に亡くなられています。
当時はこけしブームで、木地玩具をつくっても売れないので、あまりつくることもなかったそうですが、広井兄弟は、銀花編集者の頼みに応えて、父のつくっていた木地玩具を、200種類も、難なく再現することができました。
さて、文化出版局から『日本の木地玩具』(菅野新一監修、薗部澄写真、季刊「銀花」編集部編、文化出版局)が出版されたのは、1977年でした。
普及版のほかに、絵本作家であり木版画家でもあった梶山俊夫さんの木版画を表紙にした特装版が200部限定でつくられ、特装版には、鳴子で明和8年創業の老舗「高亀」の店主でもあり、ご自身もこけしや木地玩具の工人であった高橋武男さんのつくられた機関車のおまけもついていました。
その『日本の木地玩具』の特装版を、最近になって古本屋さんで見つけました。
発売当時には逆立ちしても買えなかった、おまけつきの特装版ですが、当時の定価の半値でした。
本を箱から出し、かぶせてあるセロファンを取ると、梶山俊夫さんの版画が現れました。
掲載されているのは、だるまやいづめこのように動かないおもちゃ、ままごとなど生活道具、そして多種多様な独楽などのほかに、車がついていて、動かして遊ぶおもちゃが多数載っていました。
木地玩具は、ブリキやセルロイドのおもちゃが現れる前は、独楽、数遊びのそろばんおもちゃ、だるま落とし、輪投げ、けん玉などなど、東北だけでなく日本全国でつくられ、子どもの生活になくてはならないものでした。
『日本の木地玩具』には日本全国の木地玩具が載っていますが、中でもやっぱり東北のおもちゃ、とくに宮城、福島、山形などこけしの産地のおもちゃが、圧巻でした。
そしてこれが、本の付録としてついてきた機関車です。
車軸を車輪の中心ではなく、わざとずれてつけています。
そのため、動かすと車体がごとんごとんと波打って、前後が上がったり下がったりします。
とても端正なお顔でした。
学生時代に鳴子に行ったとき、「高亀」にも寄ったはずですが、鳴子村役場のこけしコレクションの印象が強烈だったので、あまり覚えていません。コロナ騒ぎが落ち着いたら、一度訪ねてみたいものです。
さて、これはやはり宮城県でつくられた自動車です。
東北地方で自動車のおもちゃがつくられたのは早かったようで、明治生まれの人が子どものころに遊んだと話されています。
そして、形は初期につくられた形のままで、昭和までずっと伝承されてきました。
これはデッドストックだったものですが、今はおそらくつくられてはいないのでしょう。
『日本の木地玩具』が出版された1970年代には、消えつつあったとは言え、まだいろいろあった日本の木地玩具ですが、今ではこけしと独楽を除いては、ほとんどつくられなくなっているのではないかと思われます。
木地玩具、かわいいです。