2013年3月31日日曜日
六寸皿
一番つき合いの長い六寸皿(パン皿)は、SPARTAのものです。
アメリカに住んでいた時、欲しくて欲しくて、ベビーシッターのアルバイトをして買った大皿とパン皿。どちらも白とブルーがあり、一枚ずつ別売りにしていたので、大皿は白、パン皿はブルーにしたものです。
アラビアやスパルタなど、北欧のお皿を目にしたのは生まれて初めてで、こんなきれいなお皿があるのかと、当時はびっくりしたものでした。
1ドル360円の頃で、日本にはもちろん輸入されていなかったし、この大きさで内側が平らなお皿は、国内ではつくられていませんでした。
大皿が、直径26センチ、パン皿は直径18センチ。今も六枚ずつ揃っています。
子どもたちが小さい頃は、食べた量を知りたいので、一人ひとりのお皿に、あらかじめ盛っておく食事スタイルでした。
だから、両方のお皿とも、毎日のように食卓に上っていました。
1979年、家族でタイに行くことになり、たくさんの大皿が必要になると思い、暇を見つけては見て歩きました。
すでに、デパートでは北欧の食器もいろいろ売っていましたが、なにせ高い。やっと東急ハンズで安価な日本製の大皿を見つけましたが、パン皿になるようなお皿は、もっと見つかりませんでした。やっと見つけたのは、たち吉の5枚セットの洋皿。2セット買って持って行きました。
時が経ち、子どもたちの食べた量を知る必要もなくなり、外国人の客もめったにないとなればければ、大皿もパン皿もあまり必要なくなりました。
それでも、大皿の方はなんだかんだで今でも使いますが、パン皿の方はパンケーキを食べる時とか、泊り客に朝食でベーコンエッグを出す時ぐらいしか出番がなくなりました。
それに、洋皿は和皿とも一緒に使えると言われますが、堅いイメージのパン皿を取り皿として使うのは、わりと難しいものがあります。
というわけで、いつだったか和の六寸皿を二枚だけ買ったことがありました。
二人暮らしだから二枚と思ったのですが、二枚だけだとあまり役に立ちません。追加しようとお店に行ったものの、作家さんの名前もわからず、なんともなりませんでしたた。
ときたま、 料理によっては大きめの取り皿が欲しい時があります。
「もう少し大きい取り皿あるかな?」
「二枚だけね。パン皿ならいっぱいあるけどね。どう?」
「うぅん、どうすっか。まっ、小さい皿二枚ずつでいいか」
なんてことになり、やっぱりパン皿の出番がなくて、五寸皿ばかり使うことになります。
しばらく前に、近くのこんこんギャラリーで、いつもお餅搗きでお世話になっている、飯田卓也さんの個展がありました。
見に行くと、恰好の六寸皿がありました。黒いお皿を買おうかと、夫を呼びました。
「これどう?」
「いいね。でもおれ白も欲しいな」
「黒白一枚ずつ買うってこと?数を買っておいた方がいいと思うんだけど」
「じゃあ、黒だけでもいいよ」
お皿は、白黒五枚ずつ並んでしました。
「五枚って、やっぱり使いにくいから六枚よね」
「じゃあ、一枚だけ白を入れて」
「えっ?それ、変だよ、変。白黒三枚ずつにしようか」
「白は一枚でいいよ。白黒並べて使うこともあるからさ」
「これって、盛り皿じゃなくて、取り皿だよ。白を一枚だけって変だよ。じゃあ、白を二枚にしようか?」
「いいよ」
「黒は何枚にする?」
「五枚にすれば」
なんて、店番をしていたUさんを前にごちゃごちゃもめて、結局、二人のときもお揃いで使えるように白を二枚、黒は白も買うから増やさないで五枚のまま、という変則的な買い方をしてしまいました。
まあ、作家さんが知っている人ですから、その気になれば、いつでも黒いのをもう一枚追加できるという安心感もあります。
これがその、夫の言う白黒効果皿です。
縁が高い角皿を夫はことのほか気に入っていて、何年か後に縁が低いのを買い足しました。アボカドと刺身こんにゃくを盛ったりして、白黒で使うのを楽しんでいるのです。
久しぶりの六寸皿、悪くありません。
それにしても昔の水屋は偉い。もう満員と見えたのに、食器が増えてもなんとか収まりました。
2013年3月30日土曜日
隙間本棚
慢性的な本棚不足です。
だからといって、以前別の家で一度やったことがあるように、見えない戸棚の中に二重三重にして、本を押し込める気にはなれません。
けっこう頻繁に、あれこれ取り出して見ます。
そこで、薄い本棚と本棚の間の、柱分だけの細い空間に隙間本棚をつくることにしました。
一冊でも多く入れようと、棚を支える材は、たった3ミリ厚の合板を使いました。
今まで、建具、造作材には合板は一切使っていませんが、背に腹は代えられません。
漫画が入る高さで、棚板をつくっていきます。
あっという間に完成です。
さて、ちゃんとはまるかな?
ぴったりでした。
釘で留める必要もなさそうでしたが、念のため三ヶ所ほど留めました。
で、息子の漫画を並べました。焼け石に水状態ですが、少しはましです。
側板に使った合板は、ほとんど目立ちません。
棚板の高さを両側の本棚の棚板の高さと合わせたらきれいでしたが、以前からある本棚は、上の方は文庫本で、微妙に高さを変えながら、下の方は単行本の入る大きさにつくってあるので、漫画だけ仕舞うとなると無駄が出ます。
ということで、名より実を取りました。
なんて、文中ことわざを三つも使ってしまいました。
夫が、日本のことわざはそろばん片手にしたような実利的なことわざばかりで、アメリカ先住民のことわざのような、精神性の高い、心に響くようなことわざは一つもない。唯一あるのは、「いただきます、ごちそうさま」だけだと言っていましたが、うなずけます。
2013年3月29日金曜日
武井武雄
これまでに、画家武井武雄(1894-1983)の名前を意識したことが、三度あったと思います。
一度目は年の離れた妹たちが幼稚園に通うようになって、『キンダーブック』を定期購読するようになった時です。
私は高校生でしたが、『キンダーブック』をのぞいて、他の画家たちとは全く違う画風の武井武雄の絵に、ちょっと違和感を覚えました。
また、黒崎義介、林義雄、初山滋など、ふんわりした「かわいい」絵が好きな母が、個性的な武井武雄の絵もまた大好きだということが、以外でした。
武井武雄の絵は、『キンダーブック』にほぼ毎号、一枚ずつ載っていました。
不思議なことに毎月見ていると、だんだん違和感がなくなり、やがて、
「次号はどんな絵かしら?」
と、心待ちにするようにまでなりました。
時には特集で、全部が武井武雄の絵の号もありました。
籠の美しいこと。
お皿の美しいこと。
犬のかわいいこと。
こんな絵を見て育った子どもたちは、幸せでした。
次に武井武雄の名前を意識したのは、学生時代に郷土玩具を集めるようになって、彼が戦前からの、日本を代表する郷土玩具のコレクターであることを知った時です。郷土玩具の素晴らしさを広める運動もしていて、『日本郷土玩具』 (地平社書房、1930)という本も著わしていました。
1926年に郷土玩具の収集が一万点を超えたというのですから、当時の情報事情、交通事情、運輸事情など考えると、驚異的なことです。
郷土玩具は、一年のある日、決まった日にしか手にできなかったものも多かったはずですから、日本国中の地域在住の人との物々交換で得たものだと思われます。
そして三度目は、『季刊銀花』に載っていた、武井武雄の刊本の記事でした。本を丸ごとデザインしたいと、一回ごとに趣向を凝らした豆本を300百部限定でつくり、会員に実費で頒布しているという記事でした。
刊本の欲しい人はたくさんいて、空きを待っている人たちが、空きができないので、とうとう「我慢会」を結成し、その人たちのためにさらに200部つくり、特別に頒布していました。
刊本は、いろいろな試みがされていて、パピルスの紙をつくるために数年がかりでパピルスを栽培したこともあったそうです。また、絣で絵を織り出してもらおうとしたら、お目当ての職人さんに、
「絣は着るもので、本にするものではない」
と捨て置かれ、とうとう本にできなかった号もあったそうです。
そんな刊本は私には無縁でしたが、夫の母が亡くなり、週末の家を処分した時に、本棚から二冊出てきました。
『平和白書 』(1970年発行)と、『瓢箪作家』(1972年)です。
これは『平和白書 』ですが、限定300部、外に我慢会特頒200部と書かれ、NO.445とあるのは、この本が我慢会用の一部だったことを示しています。
これは、紙ではなく、布に印刷されています。
『瓢箪作家』は単色刷りです。
手書きの文字の美しいこと。
表紙は、紙を瓢箪の形にくり抜いて、重ねてありました。
夫の母が我慢会に入っていたとは思えませんし、古書屋さんで買ったとも思われませんので、どなたかにいただいたものだと思います。
母も出版の仕事をしていて、豆本は好き、本は好き、こけしや郷土玩具の本も出していたので、そんな関係の方にいただいたものでしょう。
残念ながら、生前にそんな話をする機会はありませんでした。
2013年3月28日木曜日
喜連川の生垣
寒くなくなって、私の足の痒いのもずいぶん軽減されてきました。
反対に、夫はしばらく前から背中にぽつぽつと湿疹ができて痒がります。
「ワインの飲み過ぎと、甘いものの摂りすぎよ。糖分で血がしゃきしゃき流れなくなるんだから」
「ワインの酸化防止剤のせいかな?」
と、酸化防止剤無添加の、さらに甘いワインを買ってきます。
「糖分よ、糖分」
元を断つのが一番ですが、それはその、というわけで、五年ぶりに、湿疹に効くという栃木県の喜連川温泉に行ってきました。
1時間300円の元湯に行くと、すごい車の量です。
混んでるのかと思ったら、先の地震で山が崩れて、台風も追い打ちをかけて道も塞がれ、凄い量の土砂を取り除いて山も固める工事をして、やっと本日、二年以上ぶりに再開できることになり、式典をやっているとのこと、温泉に入れるのは午後からと言われました。
二時間も待てないので、しかたなく別の源泉湯に行きました。
そちらは、食堂もあり、一日中いられるのですが1000円。夫は、
「燃料費もいらないのにぶったくりだ」
と気に入らないのですが、それはどうでしょうか。沸かし湯より、75度のお湯があふれている方が素晴らしいと思うのですが。
早乙女湯は硫黄源泉湯、お湯は半透明のエメラルド色です。サウナもないし、ジャグジーもないので、お湯につかりっぱなし。私はちょっとのぼせてしまいました。
そんな喜連川の街の一角に残っている、このあたりの伝統的な笹の塀です。
笹はオカメザサだと思われます。
なんとも素敵、竹で二段にはさんで留めてあります。
角は、片一方の竹をまげて、もう一方の竹に差し込んであります。
竹は雨ざらしにすると傷みが早く、黒ずんできます。一年に一度くらい、とり替えているのでしょうか?
昔はみんなこの塀だったとか、今残っているのは三軒だけです。
笹塀の中をのぞくと、こんな板蔵が建っていました。
このあたり、大谷の近くなので大谷石の蔵や納屋が目立ちます。それはそれで風情がありますが、板倉は大谷石の建物が流行る以前のものだと思われました。
反対に、夫はしばらく前から背中にぽつぽつと湿疹ができて痒がります。
「ワインの飲み過ぎと、甘いものの摂りすぎよ。糖分で血がしゃきしゃき流れなくなるんだから」
「ワインの酸化防止剤のせいかな?」
と、酸化防止剤無添加の、さらに甘いワインを買ってきます。
「糖分よ、糖分」
元を断つのが一番ですが、それはその、というわけで、五年ぶりに、湿疹に効くという栃木県の喜連川温泉に行ってきました。
1時間300円の元湯に行くと、すごい車の量です。
混んでるのかと思ったら、先の地震で山が崩れて、台風も追い打ちをかけて道も塞がれ、凄い量の土砂を取り除いて山も固める工事をして、やっと本日、二年以上ぶりに再開できることになり、式典をやっているとのこと、温泉に入れるのは午後からと言われました。
二時間も待てないので、しかたなく別の源泉湯に行きました。
そちらは、食堂もあり、一日中いられるのですが1000円。夫は、
「燃料費もいらないのにぶったくりだ」
と気に入らないのですが、それはどうでしょうか。沸かし湯より、75度のお湯があふれている方が素晴らしいと思うのですが。
早乙女湯は硫黄源泉湯、お湯は半透明のエメラルド色です。サウナもないし、ジャグジーもないので、お湯につかりっぱなし。私はちょっとのぼせてしまいました。
そんな喜連川の街の一角に残っている、このあたりの伝統的な笹の塀です。
笹はオカメザサだと思われます。
なんとも素敵、竹で二段にはさんで留めてあります。
角は、片一方の竹をまげて、もう一方の竹に差し込んであります。
竹は雨ざらしにすると傷みが早く、黒ずんできます。一年に一度くらい、とり替えているのでしょうか?
昔はみんなこの塀だったとか、今残っているのは三軒だけです。
笹塀の中をのぞくと、こんな板蔵が建っていました。
このあたり、大谷の近くなので大谷石の蔵や納屋が目立ちます。それはそれで風情がありますが、板倉は大谷石の建物が流行る以前のものだと思われました。
2013年3月27日水曜日
廣島一夫さん
15歳で竹籠職人のもとに弟子入りして、以来竹細工一筋、数年前まで現役でいらした、宮崎県日之影の籠師さん、廣島一夫さんが、3月14日に、お亡くなりになったそうです。
享年98歳でした。
直接お会いしたこともないし、廣島さんのおつくりになったものも写真でしか見たことがないのですが、水俣の籠師さんの井上克彦さんや、 小川鉄平さんの敬愛してやまない大師匠としては、よく存じ上げている方です。
おりが作る籠は見るためもののじゃねえとよ。
使うためのものじゃ。
そのお言葉にものづくりの真髄が見えます。
ものをつくるのは同じように見えて、「見せるためにつくる」、 「名声を得るためにつくる」、「お金を得るためにつくる」、「つくるものに思い入れて、納得がいくものをつくる」など、いろいろあるのです。
例えば卑近な例に、茶碗づくりがあります。
ご飯茶碗なら、どんなに高価でもせいぜい5000円でしか売れません。それを、ちょっと大きくして抹茶茶碗として売れば、手間は同じなのに安くても5000円、あわよくば、200万円で売れたりします。
もちろん、抹茶茶碗にもまっとうなものがあると思いますが、値段のからくりがあるのも確かです。
バブル期に、友人に連れて行ってもらった陶器の工房は、古い家を移築した豪勢なものでしたが、並んでいた売り物の茶道具を見て、値段を聞いて、ひそかにのけぞったものでした。
本当に価値のあるのもかどうかわからず、「名前」や「値段」で判断する人には、飛ぶように売れる、つくる方も買う方も どっちもどっちですから、なんとも言えません。
そういう輩の対局にいたのが、廣島さんだと思います。
使う人のどんな要望にもこたえようとし、美しい仕事を追求し、心から仕事を楽しみ、自分をごまかさずに生きてきた....。
これは、日之影の背負子かるいをつくっていらっしゃる写真で、『A Basketmaker in Rural Japan』から、転載させていただきました。
そのかるいを背負って農作業に行っている姿です。
手前が、ウナギの筌(うけ)、「うなぎかっぽ」で、大きい籠は捕ったウナギを入れる、「うなぎほご」です。
このように、廣島さんたち籠師さんのつくられたものは、生活になくてはならないものでした。
使っていらっしゃった道具たちは、竹細工を支えるものたちですが、美しいものばかりです。
廣島さんの永遠の師匠は「ウシどん」と呼ばれていた方で、実際には若い時に一度だけ、しかも短時間お会いしたことがあるだけだそうです。
しかし、籠をつくりに農家を回ると、いろいろなところでウシどんのつくった素晴らしい籠と出逢い、その籠たちを師匠として、廣島さんはウシどんに追いつこうと、精進なさったようです。
廣島さんの籠も、ウシどんの籠同様、長くみんなの心に残り、受け継がれていくものと思われます。
ご冥福を心からお祈りします。
2013年3月26日火曜日
ダヤン
猫好きなら、好き嫌いはともかく、誰でも知っているダヤンは、今年で生誕30年だそうです。
私のダヤンの財布は、二代目ですが25年くらい使っています。ということは、誕生まもない頃から使っていたということになります。
ダヤンものではステッカー、ジグソーパズルなど好きですが、フィギュア(のようなもの、立体)もいくつか持っています。
左は詰め替えボトル(ディスペンサー)、右は貯金玉です。
二年前の地震で、詰め替えボトルのプラスティック部分は欠け、足も折れてしまいましたが、まあまあの軽傷でした。
スノードームの二人は、買い物の帰りのようです。
ダヤンではなくて、ジタン。
乳歯入れです。
文鎮のダヤンもお気に入り。
なんと言っても、我が家では招きダヤンが親分格ですが、仲良く暮らしています。
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