2011年5月31日火曜日
おもちゃのような道具
このあたり、ものづくりをする人たちがたくさん住んでいて、工芸市のような催しも、季節季節に、いろいろ開かれます。
そんな市の一つ、「道の市」で、数年前に見つけた、孫の手、
ではなくて、猫の手です。
「えっ、こんな形で背中が掻ける?」
と一瞬疑いましたが、とてもいい具合です。
友人のOさんが、別の年に、やはり道の市に出していた魚のおもちゃ、
ではなくて、靴べらです。
遊び心いっぱいの道具が、生活を楽しくしてくれます。
2011年5月30日月曜日
海外からきた馬たち
ルーマニアの土の馬です。
「西洋の駿馬」という感じで、足がすらっとしてスマートです。
それに比べると、中国の馬の短足なこと。
ロバかとも思いましたが、ロバにしては、すっくと頭を上げていますから、馬でしょうか。
二体対になっていて、花嫁人形と花婿人形だと思っていましたが、残念ながら、今回の地震で花嫁人形は、粉々に壊れてしまいました。
中国の土人形も、日本の土人形も、前面だけ彩色しているものが多くあります。
それにしても、これはどうでしょう!
馬の顔を正面からみると、片目が描かれていません。
じゃあ、どうして耳は両方とも彩色してあるの?
鼻の穴は、どうして二つあるの?
口は、どうして半分だけにしておかなかったの?
首に下げている飾りは、どうして描いてあるの?
などなど、素朴な疑問が湧き上がります。
片目でやめておくことができた心理が、理解できません。目が入ると全然感じが違うのに...。
インドの木馬です。人も、馬もデフォルメされていますが、なんともいい感じです。
どうすれば、人をこのようにデフォルメできるのか、こんなにデフォルメしてあるのに、人は人らしく、馬は馬らしく見えるのが、たくみなところです。
スイス、アルビスブラン社のメリーゴーランドです。
小さい頃は、遊ぶというよりすぐばらばらにして、ちょっと大きくなったらあまり関心を示さず、息子たちのおもちゃとしては役立ちませんでしたが、飾り物としてはなかなか素敵です。
もっとも、これは馬のおもちゃではなく、木馬のおもちゃですが。
どのおもちゃも、30年以上の長いつき合いのおもちゃたちです。
2011年5月29日日曜日
馬乗り
馬の土人形には、誰かが馬に乗っているモチーフがいろいろあります。
馬乗り狐は、名古屋土人形です。
1964 年発行の『日本郷土玩具事典』(岩崎美術社)のよると、名古屋土人形は、「彩色に強い光沢をつけているのが特徴で、大型のものにおもしろいものがある」と ありますが、私の訪ねた1970年代の終りには、人形はみな小さく、彩色には光沢がないものだったように記憶しています。
馬乗り猿は、長崎の古賀人形です。
外国文化の最先端であった長崎でつくられただけあって、古賀人形には、鉄砲を持った海軍大官のおらんださん、南京ちゃぼを抱いた中国人の阿茶さんなど、エキゾチックなモチーフの土人形が数々あります。
この馬乗り猿も、中国の伝説を人形にしたもので、別名、童馬心猿とも呼ばれているそうです。
猿もですが、馬がいい顔をしています。
馬乗り兵隊さんは、秋田の八橋人形ではなかったかと思います。もしかしたら違うかもしれません。
兵隊さんも馬ものどかです。馬が赤いのは、疱瘡除けだったのでしょうか。
こちらの加藤清正公、いったいどこの人形だったか、はっきりと思い出せません。
秋田の中山人形の可能性が高いのですが、湿気させたとはいえ、「中山人形がこんなふうに絵の具落ちするかなあ」と、疑問に思ったりします。
でも、顔を見ると、樋渡義一さんの作であるような、よいお顔をしていらっしゃいます。
彩色、とくに顔の表情で、土人形は上品にも下品にも、安っぽくも格調高くもなるのも、おもしろいところです。
2011年5月28日土曜日
2011年5月27日金曜日
高松張子の馬
張り子の馬といえば、香川県の高松張子でしょうか。
ビルマの張り子の動物たちに比べると、稚拙とも言えますが、自由につくってあるとも言えます。
飾り馬には、裏に宮内フサ80歳(1963年)と銘があります。
こちらの小さい飾り馬には、昭和41年(1966年)作と書いてあります。
これは馬でしょうか?牛でしょうか?
馬ということにしました。
どの馬も、宮内フサさんがのびのびと楽しんでつくった様子がうかがえます。
またがって遊ぶお馬さんのおもちゃミニチュアです。いつの時代まで、こんな玩具があったのでしょうか?江戸時代の若様が乗って遊んだりしているのを、映画やテレビで見たことがあるような気がしますが、実際のおもちゃとしては、見たことがありません。
さしずめ、昔の三輪車といったところでしょうか。西洋にも、似たようなホビー・ホースがありますが、ホビー・ホースと日本のこの棒のついた馬とは、どんな関係があったのでしょうか?なかったのでしょうか?
高松張り子を世に広めた宮内フサさんは、1985年に102歳でお亡くなりになりました。亡くなる直前まで絵筆をとっていらしたそうです。
2011年5月26日木曜日
八幡駒
馬のおもちゃは全国にありますが、木馬といえば、東北です。
福島県三春の三春駒、宮城県仙台の木下駒に、この青森県八戸の八幡駒を加えて、日本三駒と呼ばれています。
八幡駒は、八戸市にある櫛引八幡の祭りに行われた流鏑馬(やぶさめ)のために、天和年間(1681-3)に、江戸幕府から南部藩に贈られたペルシャ馬をかたどって、木工師がつくったものと言われていて、後に近くの笹子部落で農閑期の副業につくられるようになったものです。
この八幡駒は父が仕事で八戸を訪れたとき、お土産ににいただいてきたものです。
い い形をしているとは思うものの、私は三駒とも、実はそんなに好きではありません。昔の、荒削りのものは見たことがありませんが、それはどんなものだった か。量産できるようになった、お土産物屋の店頭に並んでいる三春駒や木下駒には、何度出逢っても関心が持てませんでした。はっきりどこがどうとは言えませ んが、郷土玩具とお土産物のあいだには、厳然とした違いがあると思います。
というわけで、三春駒も木下駒も持っていませんが、この八幡駒とは、父が頂いてきた、私が高校生の頃からの長いつき合いです。
長いつき合いといえば、土の八幡駒とはもっと長いつき合いです。物心ついたら、お雛さまと一緒に飾ってありました。
どんな郷土玩具の本にも、土の八幡駒が載っているのを見たことがありません。祖母からは何も聞きませんでしたが、叔母(父の妹)が小さいころ遊んだものでしょうか?
その昔は、籠を担いだおもちゃ売りが、町々、村々を土人形を売って歩いていたと聞きました。それにしても、青森県でつくられたものが、昭和初期に岡山県で売られているなんて、普通では考えられません。
不思議な土の八幡駒でした。
2011年5月25日水曜日
絵馬
牛が土鈴なら、馬は絵馬でしょうか。
奈良県の手向山の絵馬は、板馬とも呼ばれています。
昔、降雨を祈るときは黒馬を、晴天を祈るときには白馬を奉納する習慣があり、生きた馬の奉納の習慣は、台馬となり、さらに絵馬となりました。
この絵馬は、そんな古い習俗を伝えるものの名残りで、神に献ずる装いを凝らした黒馬を表しています。
手向山には、その板馬を土鈴にした絵馬鈴もあります。
どちらも、色といい形といい、斬新でとっても洗練されています。
板馬といえば、地元茨城県の東海村にも村松の真弓馬があります。
村松山虚空蔵では、旧暦三月十三日の縁日に、古くから社前で絵馬(板馬)が売られていました。縁日は十三詣でと言われ、十三歳の男女児が参詣して絵馬をもとめ、神棚に飾るとと知恵を授かるとされていましたが、豊作の祈りが込められたものでした。
村松の真弓馬は、手向山の絵馬より、農村ぽいというか、野趣に富んでいるのがおもしろいところです。
今は原子力発電所や火力発電所で有名な東海村ですが、かつては、のどかな農村が広がっていました。
2011年5月24日火曜日
ノアの方舟
キリスト教のテーマで、好きなのはキリスト降誕とノアの方舟です。
なぁんて、キリスト教徒でもない私。実際はただ、降誕人形と、ノアの方舟のおもちゃに関心があるだけなのですが。
このノアの方舟のジグソー・パズルは、スイスのデコア社のもの、シナベニヤに彩色してあります。
完成図の写真を用意しておけば楽かもしれませんが、何もなしで完成させるには、思ったより時間がかかります。
もっとも、ジグソー・パズル好きの私ですから、一向に苦にはなりません。思い出したように、時々、楽しんでいます。
ペルーの、ノアの方舟の土人形です。
前から見たところ、
右から見たところ、
そして左から見たところです。
小さい人形ですが、きりりっとした、いい顔をした動物たちが乗っています。
ローラ・インガルスの書いた、『プラムクリークの土手で』(福音館書店)には、お金持ちのネリー・オルソンの家に招かれたときに見た、「まるで聖書の中から抜け出してきたような」ノアの方舟のおもちゃ(挿絵の右足元)が、詳しく描かれています。
ネリーは、ノアの方舟のおもちゃのほかにも、ジャンピング・ジャックや、顔が陶器でできたお人形も持っていました。
ネリーが持っていたのと、同じようなノアの方舟が、『THE WORLD OF TOYS』にも、載っています。
説明によれば、1800年代に、アメリカのマサチューセッツで遊ばれていたおもちゃで、ヨーロッパからの輸入品です。屋根を外して、舟の中に、すべての動物を入れることができます。
ローラがプラム・クリークで過ごしたのは、1870年代ですから、ローラの見たノアの方舟も、似たようなものだったのでしょうか。
ヨーロッパからの輸入品といえば、ドイツのデュシマ社の動物が、家にありました。
イラストにある動物たちほど細かくできていないし、数も少ないのですが、ラクダ、ブタ、ヒツジ、ライオン、キリン、ワニなど二頭ずついます。
この動物たちを入れる方舟をつくれば、ローラが見たノアの方舟のようなおもちゃができます。
よぉし、いつか、つくってみましょう。それまでに、窓や扉はどうするのか、色は塗るのか、しっかり考えておきましょう。
それにしてもトラちゃん、写真を撮ろうとすると、どうしていつも邪魔するの?
2011年5月23日月曜日
マンゴーは籠で
タイ中部から東北部にかけて、村や町があると、必ずマンゴーの木が植えられています。
白い花が咲いている季節や、白緑色の実がぶら下がっている季節はもとより、葉だけの季節でも、マンゴーの木はこんもりと丸く、背も高いのですぐわかります。
マンゴーは、雨季と乾季のはっきりした乾燥地帯で甘い実をつけます。バングラデシュのような、雨が潤沢な地域では、あまり美味しい実が育たないのです。
その昔、タイで、初めて「畑」なるものを見たときびっくりしました。日本のように整然と同種のものを植えてあるのではなく、いろいろな種類の果樹や野菜、ハーブなどを雑然と植えています。
いまだったら、生態系を破壊しないために、その方法が一番と自信を持って言えますが、最初は正直、「変な畑」と思ったものでした。
というわけで、マンゴーの木も、プランテーションのようにかためて植えてあるのではなく、屋敷の周りを中心に、あちらに一本、こちらに一本といった感じで植えられています。
そして、町の荒物屋さんの店先には、このしゃもじのような籠が、大量にぶら下がっています。
高いところのマンゴーを採る籠です。
この籠を長い長い竹の先につけて、採りごろのマンゴーに引っ掛けて、ぐっと引くと、マンゴーが籠の中に安全に着地するというわけです。
タイ人は、マンゴーが大好きです。
グアヴァはまだ熟れていない、歯ごたえのある、酸っぱいのを好みますが、マンゴーも若くて堅くて酸っぱいのを、塩をつけたり、唐辛子をたっぷり混ぜた砂糖をつけたりして、好んで食べます。
また、ねっとりと熟れたマンゴーを、ココナツミルクと砂糖を入れて炊いた、甘いもち米と一緒に食べるのも、格別の美味しさです。
といいつつ、私はマンゴーにちょっと弱いのです。
マンゴーはウルシ科ですから、表皮に唇をつけたり、食べ過ぎたりして、何度もひどい目にあいました。
一時は完全に敬遠していましたが、表皮に唇をつけず、一日に一つ以下しか食べず、そして何日も続けて食べなければ問題がないことがわかりましたので、マンゴーの季節になると、自制心を働かせながら楽しんでいました。
2011年5月22日日曜日
手のとれた招き猫
手のとれた招き猫がまだいたのに、気がつきました。
開封した粘土も残っているので、また修理屋さんをすることにしました。
何かいい詰めものはないでしょうか?
伊豆の浜で拾った、流木がありました。
壊れた手に挿してみると、ぴったりです。
このままでもいいくらいですが、少しずつ、粘土を詰めてみました。
なんとか、復活です。
普段は、100円ショップの猫も、骨董の猫も別け隔てなくかわいがっています。
と言いつつ、右の壊れなかった猫は、由緒正しい、シリアルナンバー入りの復刻版で、手のとれた猫の四倍以上のお値段だったので、まあ、安いほうが壊れて、「ほっ」というところでしょうか。
いざというとき、本音が出てしまいます。
右の猫の前垂れの模様。
左の、手がとれた猫の前垂れの模様。
両者の値段の違いは、前垂れの模様の描きこみの違いでしょうか?
もっとも、手がとれた猫は、その昔、浦和の調(つきのみや)神社の骨董市で、格安で手に入れて、喜び勇んで運んできたものです。
どちらも高さは尺三寸(39センチ)、瀬戸の猫です。
2011年5月21日土曜日
土人形の修理
3月11日の地震で落ちて割れた土人形たち。
欠片の山の中から、判別できる欠片は拾い集め、修理できるものは、接着剤で貼り合わせました。
そして、大破したものは、どんどん捨てました。大きなゴミ袋が、いくつもいっぱいになりました。
しかし、決定的には破損していないものの、一部が欠け、しかも破片が見つからないものはどうするのか、答えのないまま放置していました。
「木工用パテで修理できるわよ」と、陶芸家のなつさん。
そうか、焼成しなくても固まる粘土が使えそうです。
中が大きく空洞になっている招き猫には、まず梱包材を詰めました。
そして、粘土をかぶせます。
仔猫神の耳の欠片は、床の間周辺にあるはずでした。
狭い範囲で、見つからないわけがないのに、どうさがしても見つかりませんでした。
これで、一安心です。
名古屋土人形は、1990年ころの地震にも遭っていて、今回も、前回と同じ、馬の顔が壊れました。欠片も、粉々になったところもあり、他の欠片に混じって、全部は見つかりませんでした。
1970年代に、幼かった子どもたちも連れて訪ねた、名古屋土人形の作家さんは、そのとき病の床についていらっしゃいました。少し作品がありましたが、どれも行き先の決まっているものばかりで、すまないと思われたお連れ合いが、この「馬乗り狐」だけならと、わけてくださった、懐かしいものです。
きれいではありませんが、なんとか修理できました。
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