2021年1月31日日曜日

木工事開始!

 


約8か月を要したコンクリート工事がほぼ終わりました。
外側の型枠を外すのは比較的簡単ですが、きつきつに固まった内側の型枠を外すのはちょっとした力仕事です。組んでいたパネルを無理やり壊し、力任せに引っぺがします。


プレカットが終わった材木を運んでもらったので、土台を組みはじめました。
家全体はスギ材を使いますが、土台は水に強いヒノキを使います。通常、ヒノキの土台は12センチ角なので、材木屋さんはあらかじめその寸法に挽いたものを用意しています。秋に材木屋さんの在庫セールがあったとき見ても、並んでいたヒノキは12センチ角とか9センチ角ばかりでした。

アクアレイヤー

ところで今回、「アクアレイヤー」という水の入った袋を床下に置いてそれを屋根から取り入れた暖かい空気の蓄熱材として利用するため、18センチの高さの土台が必要となります。そんな既製品の土台はありません。そして特別にヒノキを18×12センチに挽いてもらったりすると、とんでもなく高くつきます。
そのため、通常の12センチ角の土台の下に、2つに挽いて6センチ厚みにした材を足すことにしました。


今回、ヒノキとコンクリートの間の隙間は、ウレタンの泡スプレーでふさいでいます。化学製品はできるだけ使いたくありませんが、「ではどうするの?」と問われれば、代案はありません。
母屋のときはどうやって隙間をふさいだのでしょう?もう忘れてしまいましたが、コーキングでふさいだかもしれません。コーキングとて、化学製品です。いずれにしても、床下の空間には屋根から降ろした暖かい空気を貯めるので、できるだけ密閉していることが望まれます。
ウレタンの泡スプレーの存在は、昨年の12月に訪ねた彫刻家の一色邦彦さんが、彫刻をつくるのに使っていらっしゃったのを見て、夫がホームセンターで探して来たものです。


一色さんは80歳を過ぎたというのに、なんという大作をつくっていらっしゃることか。
アトリエにはウレタンの泡スプレーの缶がたくさん置いてありましたが、どういうふうに使っていらっしゃるのかは知りません。
アトリエにあるのは、下作で、

東京都府中市

最終的には、どれもブロンズでつくられます。


このところ、晴天続きで作業は進みます。
春先の菜種梅雨の前に、屋根までかけたいものですが。





2021年1月30日土曜日

ボコール山

本棚からはみ出しそうになっているファイルを、別の場所に置き直そうと手に取ってみると、新聞や雑誌の切り抜きが入っていました。ずいぶん長く見てなかったのでパラパラとめくると、見覚えのある写真が目に入りました。



カンボジア南部の港町カンポットにほど近い、ボコール山のカジノの廃墟です。
海から一気に切り立った、標高1079メートルのテーブル台地のような姿のボコール山は涼しく、フランス統治時代には避暑地として、カジノやホテル、金持ちの別荘、そして王の離宮や教会までが建ち並んだ、天空の歓楽都市でした。

1990年代の終わりごろ、私はカンボジアで働いていましたが、事務所の所員一同でボコール山に行ったことがありました。雨季の船旅を別にして、当時のカンボジアは道路も交通網も悪く、カンボジア人たちには、まだ行ったことがない、行ってみたいけれど自力では行きにくいところが、アンコールワットをはじめとしていろいろありました。
私の働いていた団体は、何から何まで寄付で成り立っていましたが、日本からの訪問者の中には、「活動費としてではなく、スタッフの皆さんの福利厚生に使ってください」と言って、100ドル、200ドルと置いて行ってくださる方たちがいました。それを貯めて置いて、年に1度の旅行費用に当てていました。
そのときは、いつものようにバンとランドクルーザーを連ねて、目的地のカンポットに行く途中でボコール山に寄ったのですが、とても不気味な場所でした。密林を抜けて山を上ると、深い霧が立ち込めて視界が悪いのですが、麓から頂上まで、人影はまったくありません。そんな中に、忽然と廃墟が現れるのです。まさに鳥肌の立つゴーストタウンでした。


あのときは、17、8人ほどだったか、たくさんで行ってよかった、数人だったら怖さに車からも降りられなかったほど、空気は冷えきっていました。濃い霧は刻々と動いていて、みんなで座っていた岩の霧が一瞬晴れると、すぐ後ろが切り立った崖になっていて、背筋が寒くなったりしました。


かつては、東南アジア諸国から、豪華カジノ目当てに富豪たちが集まってきたらしいのですが、漂っているのは霊気ばかり、下山したときは心底ほっとしたものでした。
ところで一番上の写真は、カード会社が送ってくる雑誌に連載されていた「世界旅行記」というコラムで、中村孝則さんの文と秋田大輔さんの写真とで綴ったものでした。
その文によると、かねてから中村さんはボコール山を訪ねたいと思っていたところ、プノンペンに住む友人から「ボコール山の入山許可が下りた」という電話を貰って勇んで行きました。それがこの写真です。ところがその1か月後には、ボコール山の巨大リゾート開発が決まって、入山禁止になったそうでした。切り抜きのことゆえ、はっきりとした日時はわかりませんが、2009年頃の雑誌のようです。
私たちがボコール山に行った当時、そこは完全に忘れられた場所で、もちろん、入山許可など要りませんでした。
ボコール山は、1970年代にクメール・ルージュが周辺を占拠し、この地を巡ってヴェトナム軍との戦闘もあり、街は完全に廃墟となり、歴史からも消えてしまっていました。

こんな、晴れることもあるんだ!

そして以後どうなったか、ネットによると、開業1920年のル・ボコール・パレスは、リニューアルして、2018年に再開業したそうです。
「えぇぇぇ、これがあの廃墟?うそ!」
まぁ、プノンペンには1990年ごろまで、ほぼ廃墟のような建物がいっぱいあり、やっと改修して泊まれるようになったホテルも、泊まれる部屋は限られているし、客もほとんどいない有様でした。薄暗い明かりをひとつ灯した部屋で、がらんとして薄汚れた壁を見ながら横たわると、幽霊が出てきてもおかしくないと思えました。それがだんだん、きれいなホテルに改修されていきました。
2000年前後に私が暮らしたアパートも植民地時代の建物でした。だから、古い建物をリニューアルして長く使うことには驚きませんが、それにしてもこれ、すごくないですか!
こんな技術があれば、アンコール・ワットだってリゾートホテルにしてしまえそうです。


ここはもう、亡霊たちが行きかう場所ではなくなっているようですが、コロナでどうなっているか、ちょっと心配です。
また、ゴーストタウンに逆戻りしているかもしれません。






 

2021年1月28日木曜日

元禄白髪染

しばらく前に、白髪染「元禄」のビンを手に入れましたが、味のあるビンでもないしと、放りっぱなしにしていました。


白髪染としては「君が代」と「るり羽」は持っているけれど、「元禄」は持っていないしなぁという軽いノリで手に入れたものです。
さて、UPするに際して、ネットで「元禄」を検索していて、『ちょっと詳しい白髪染の歴史』というサイトに行きあたりました。
「いやぁ、びっくりした!」
このサイトより詳しい白髪染研究は世の中にはないと思われるほど、明治・大正・昭和の白髪染を網羅し、成分、ビン、看板などなど、多角的に調査・研究されています。


というわけで、私が白髪染について何もつけ加えることはありません。どうぞ、『ちょっと詳しい白髪染の歴史』をご参照ください。
「元禄」については、「第11回 特別編 白髪染・ガラス瓶の歴史(その3)」に、詳しく書かれています。
2021年は、元禄が発売されてから100年の節目の年だそうです。





 

材木が届きました


午前中、プレカットをお願いしていた、躯体一式の材木が届きました。
ユニック1台分とトラック1台分です。


あらかじめつくっておいた台の上に降ろしてもらいます。


母屋と作業棟は棟上げのときには大工さんにお願いしましたが、今回は自分たちだけで上棟します。
土台を組み、柱を立てて梁を乗せ、垂木やらなにやら取りつけてから屋根がかかるまでにあまり雨が降らないといいのですが。


午後から雨が本格的に降ってきて、ときおり雪が混じっています。




2021年1月27日水曜日

朝のご褒美


朝日を受けると、電線が光ります。
骨董市のある日とか、病院に予約を入れる日くらいしか朝早く出かけることはありませんが、晴れてさえいればたいてい見られるので、わりと長い時間光っているに違いありません。


電線が好きってわけじゃないけれど、家からの眺めには電線が入ってないのが嬉しいけれど、蛍や花火とは違うけれど、光っている電線には見とれてしまいます。




2021年1月26日火曜日

つくってみた、網の袋


ネットで紹介されていた中国の籠です。
籠は同じような形のものを持っているのだけれど、この編んだ袋が、なんとも魅力的です。太い紐状になったところを見ると、棒針編みのメリヤス編みの表目を「わ」にして紐にしたような編み目になっています。


8本寄せて編んだ紐(縄)を4本ずつに分けてしばらく編み、それをもとの紐のまま結び合わせて網状にし、最後にまた一つに束ねています。
中国のものならば、材料は麻のたぐいでしょうか。


紐入れの籠をのぞくと、古いジュートの紐があったので、私も編んでみることにしました。ただ、8本で太い紐状に編んだことがないので、出来上がりの長さの何倍くらい材料を用意すればいいのかわかりません。ジュートを今後使う予定もないし、途中で足りなくなると始末に負えないので、約5メートルとたっぷりの長さで用意しました。


この編み方が載っているかと「結び」や「マクラメ」の本を見てみましたが、うまく見つけられません。
KNOTS』にはそれらしい絵もありましたが、絵を見ただけでは編み方がよくわかりません。


「知っている編み方でもできるかしら?」
子どものころ(妹たちが子どものころ?)ビニール紐で編んで、腕輪をつくっていた「卍編み」で試しに編んでみました。ところが、材料が横に広がって太くなり、なかなか所定の長さに編めそうもありません。
これではとても続けられない、全部解いてやり直しです。


「四つ編みでも、うまくいくかしら?」
四つ編みでも立体的になるかとやってみましたが、あちこち引っ張ってみても平らなまま、これも美しくないので解きました。
「どうしよう?」
諦めそうになりましたが、今はネットがあることを思い出し、ネットで検索してみました。
「編む」ではまったく見つかりませんでしたが、もしかしてと「組む」で検索すると見つかりました。そうだった、平らなものは「編む」ですが、立体的なものは「組む」だったのです。


動画を見て組み方を頭に叩き込み、まず8本で、材料の中央あたりに「杉綾8本組み」を25センチばかりつくります。
必ず右から組んで左で終わるようにしておけば、途中やめしたときも、再開するときに迷いません。


「よしよし!」
嬉しいことにイメージ通りに組めています。


面倒なのは、どの組み方でも同じですが、組むための台がないので、長い材料がいちいちもつれることです。ジュートは輪ゴムで留めているのですが、4回ほど組んだら、もつれたジュートをくぐらせて解かなくては、こんがらがってしまいます。


組み終わり、違う組み方との境目を別糸で結ぶには、バンコクで暮らしていたとき、友人に誘われて習ったマクラメが役に立ちました。巻く前に、巻き終わりの方に「わ」を出しておいて、巻き終わった糸端をその「わ」に通し、巻きはじめの方に出しておいた糸端を強く引っ張ると、端が巻いた紐の下に引き込まれるので、十分引き込んでおいてから両端を切れば、結び目がない仕上がりになります。お手本には結び目が見えている、ちょっといい気分です。


ここから、8本の紐を2つに分けて、「杉綾4本組み」で2本組みます。


「杉綾8本組み」で組み終わった先を「杉綾4本組み」で2本組み終わったら、「8本組み」の反対側も同様に、「杉綾4本組み」で2本組みます。
ここいらで、用意した紐が長すぎたことがわかりましたが、今切るより、最後まで組んでから切ることにします。


次は、網(袋)の部分です。
お手本ではどう結んでいるかよく見えませんが、同じ結び方でなくてもいいけれど、よい結び方がないかと、


結び方手帖』を見てみました。



いろいろな結び方があって目移りするほどでしたが、上の写真のどちらかで結ぶことに、そして最終的に上の結び方で結ぶことにしました。


ただ堅結びにするより、ずっと素敵です。


さて、お手本は網の部分を3段結んだら、ばらけた材料を全部まとめて、また1本の紐状に組んでいます。
このくらいの網でいいかどうか、仮りに結んで、ブータンの弁当籠を入れてみました。


直径20センチの籠は、ちょっときつい感じがしますがまあまあ、悪くありません。直径15センチの籠はゆうゆう、もう一段結ぶかどうか迷っていましたが、3段でいくことにします。


網の部分の下で、材料をまとめて別糸で結わいたあと、全部で16本になった紐を2本どりにして、また「杉綾8本組み」で組みました。


「できたぁ!」
余った材料を切って出来上がりです。


出来上がりの良し悪しは別として、「杉綾8本組み」や「杉綾4本組み」をやってみることができただけで、つくった甲斐がありました。
紐をもっと短く切っていたら、もっと短時間でできたはずですがこれも勉強のうちです。ジュートではなく、もっと素敵な材料で編んだら、もっと素敵だったことでしょう。


あとで気づきましたが、『結び方手帖』には、「杉綾8本組み」も「杉綾4本組み」も載っていました。しかし、ネット動画があってよかった、この絵を見ただけでは、組めたかどうか、ちょっと疑問です。

追記:

UPしてから数時間後、車を走らせていて、突然間違いに気づきました。
材料を「サイザル」と書いてしまったけれど、サイザルじゃない、「ジュート」でした。
すでに、サイザルは消してジュートに替えましたが、失礼しました。
他にも、思い込みの間違いがあるかもしれませんが、今後は気をつけたいと思います。サイザルは主に東アフリカで栽培されている繊維、ジュートは南アジアで栽培されている繊維です。





2021年1月25日月曜日

『仕事着』


その昔、『仕事着・東日本編』(神奈川大学日本常民文化研究所調査報告 第11集、平凡社、1986年)を手に入れたのは、つくばにあった素敵な品揃えの本屋さんの友朋堂でした。
つくばに住んでいたころ、家族で友朋堂に行くのは大きな楽しみの一つでした。本屋さんに入ると同時にわかれて、それぞれの目当ての本棚をじっくり隅から隅まで見て、それぞれ1冊2冊の本を手にし、幸せいっぱいで帰途についたものでした。夕食後に、
「ちょっと友朋堂に行こうか」
などということも、よくありました。
『仕事着・東日本編』が先に出版され、『仕事着・西日本編』は翌1987年に出版されているのですが、このころから私は忙しくなって、ゆっくり本屋さんを楽しむどころではなくなっていました。
数年後、『仕事着・西日本編』も手に入れておけばよかったと気づいたときは、もう版元にもなくなり、どこでも手に入りませんでした。

旧南部藩領

『仕事着・東日本編』は約300ページ、青森県から愛知県までの作業着が多数の写真と寸法つきの図面で紹介されています。

新潟県

各県によって報告者が違っているので、図版の多い少ない、写真のあるなしなどありますが、力の入った報告揃いです。
この写真のように、男女とも、仕事着はほぼ上着とズボンの組み合わせ、それに袖なしや綿入れ半纏(はんてん)を重ね着したり、雨の日にはキゴザ(着茣蓙、箕)をその上から着たりしています。
上着は、ジバン、キモノ、ツッポ、ハンテンなどと地方や裁ち方によって名称が違います。


またズボンは、モモヒキ、モンペ、タツケ、長股引、ハカマ、カッチゲ、フンゴミ、カルサンなどと呼ばれ、やはり地域や裁ち方によって形も少しずつ違っています。

静岡県

農村の仕事着が多いのですが、山村の仕事着も漁村の仕事着も紹介されています。


さて、ときおり思い出しては探していた、『仕事着・西日本編』(神奈川大学日本常民文化研究所調査報告 第12集、平凡社、1987年)を手に入れたのは最近のことです。
ネットで古書は昔より簡単に見つけられるようになっていますが、稀少本ゆえ、定価の10倍もで売られたりしていて、なかなか手に入れられなかったのですが、やっと適正な値段で売られているのを見つけて取り寄せたら、なんと新本でした。

三重県

これで北海道と沖縄を除く日本全国の仕事着を網羅、35年来の夢がかなったようで、興味深く眺めては、楽しんでいます。

徳島県

中でも面白かったのは、東日本の専売特許だと思っていた刺し子やはぎ合わせ、裂き織りの着物や帯が西日本にもあったこと、ただただ感動しています。

徳島県

しかも、その手仕事はとても美しいものです。

香川県

『仕事着・西日本編』を眺めていると、当分退屈しそうにありません。

村上信彦さんは、『服装の歴史』の中で、日本の女性はズボンを捨てたと書かれています。それはあくまでも町でのこと、そして仕事着ではなく、「日常着」のことだったのでしょうか?
私が小さいころを思い起こしても、農村で着物を着ていた女性たちは、野良作業をするとき以外はもんぺをはいてはいませんでした。では、洋服を着ていた女性たちはスカートをはいていたかと問われると、記憶はあいまいです。彼女たちは働き盛りだったので、思い浮かぶのは作業着姿やかっぽう着姿ばかりですが、かっぽう着の下にスカートをはいていたのでしょう。
小学校の女先生による体育の授業はどうだったのでしょう?幼稚園のとき、スカートをはいているのだとばかり思っていたら袴のようになっているひざ下丈のズボンをはいていた先生にびっくりした記憶がありますが、後はあまり覚えていません。

昭和14年『主婦之友』より

そういえば、かっぽう着は面白い、ここに越してきた当時、年配の女性はまだかっぽう着を日常的に身につけていましたが、最近ではまったく見なくなりました。88歳のたけさんですら、いまではかっぽう着姿ではありません。
15年以上前ですが、急いで喪服を買いたいというたけさんと、たけさんが誘ったちよさんを車に乗せて町に行ったことがありました。そのとき、ちよさんがいつものではなく真新しいかっぽう着をつけてきたことにびっくりしました。今でも覚えていますが空色のギンガムチェックのかっぽう着で、かわいらしいアップリケもついていました。
そのかっぽう着は、その時一度見たきりでした。