2026年2月28日土曜日
お雛さまを飾りました
さて、予定通り、雨の水曜日にお雛さまを飾りました。
やすおさん(妹の連れ合い)の姉上の木目込みのお雛さまを引き継いでから、私のお雛さまはこれまで雛壇の左側に飾っていましたが、今年は気分転換、右側にしてみました。
この、着物の模様を立体的に絵つけした土人形は、これまでどこでつくられたものか不明でしたが、島根県浜田市の長浜人形に似た手法があり、長浜人形ではないかと思われます。ただ、同じものは見つかってないので、断定はできませんが。
土間入り口も、賑やかになりました。
一番目立っているのは、(誰が見ても富山土人形に瓜二つの)中野土人形、内裏さまの脇に長浜人形も置いてみました。
古い木目込みにも、緋毛氈をつくってやった方がよさそうです。
木目込みの前は、お雛さまの中では一番年長の江戸時代の紙雛さまです。
あれっ、女雛の冠が傾いていました。
2026年2月27日金曜日
キルト展、始まります
今日から、つくばの市民ギャラリーでキルト展を開きます。
たった3日間ですが、いろいろな人に見ていただくことができて、行李の中で眠っていたキルトも喜ぶことでしょう。
ほとんどは息子たちが赤ん坊から小学生のころにつくったもの、時間が細切れでもいつでも作業にとりかかれて、いつでもやめられて、台所で、プール脇で、ときには新幹線の中とか、どこでもできるパッチワークは、子育て中にぴったりの手仕事でした。
これは少年野球チームのユニコーンズのキルトです。
ユニコーンズは、野球好きの子どもや大人で結成した地域の少年野球チームで、私も監督、コーチ、お世話係のお母さんとチーム名やユニフォームのデザインを考えたり、毎週練習場所を探して確保したり、試合に同行してスコアをつけたりと、結成時からタイに引っ越すまで、楽しい日々を過ごさせてもらいました。
最後の年に、5年生だった長男はキャッチャーで背番号2番、3年生だった次男は19番で補欠、21番をつけたピッチャーは、途中から参加した抜群に野球がうまい6年生のおやかたくん(あだ名)でした。おやかたくんに、ユニコーンズに入らないかと勧誘したのは、なんと、ずっと学年が下の我が家の次男くんでした。
2026年2月26日木曜日
世は変わりゆく
近所の子安観音では、毎年2月に犬供養が行われ、新しい三つ又が立てられます。
これは、昨年2月に新しい三つ又が立てられた写真です。
ところが、今年の2月に、三つ又が抜かれて何もない子安観音を見ました。三つ又がない光景は初めてで、2月中には立てるのだろうと見ていたのですが、もう2月も終わろうとしているのに、まだ立っていません。
まだ、2月は3日残っているので期待していますが、立つでしょうか?
かつては、多くの子どもたちが感染症などで、幼くして命を落としていました。子どもが無事に育つかどうかは深刻な問題で、各地で婦人たちが集まって子安講が行われ、七五三参り、二十三夜供養、犬供養などで、安産や子どもたちが無事に育つことを祈願しました。
しかし、医学の進歩とともに、信仰に頼る気持ちは薄れ、近年は子安講も形骸化して、20年前には、祈願もそこそこに歌謡ショーなどを見に行く婦人会へと変貌していましたが、婦人会そのものも世代交代とともになくなっているようです。
私たちが八郷に越してきた25年前には、子安講の集まりだけでなく、お年寄りの女性たちが、きよちゃん、ちよちゃん、よっちゃんなどと呼び合って、頻繁に訪問しあい、ちょっとしたお菓子や野菜を届けあったり、お茶を飲んだりしている姿がありましたが、現在ではそんな光景も、まったく見られなくなってしまいました。
2026年2月25日水曜日
搬入しました
2月27日、28日、そして3月1日に開催するキルト展に向けて、25日にキルトの搬入を予定していましたが、あいにくその日は雨の予報、急遽昨日搬入することにしました。
会場は24日から借りていましたが、お昼過ぎまで用事があったので、運ぶものは23日のうちに車に積んで用意しておきました。
枠は夫に軽トラックで運んでもらいます。
キルトは、乗用車に詰めておきました。
会場には2時過ぎに到着、組み立て作業は夫と二人で、途中からM+MのMちゃんが手伝いに来てくれて、2時間ちょっとで終わりました。
高さがある2点以外は、すべて家で組み立ててみていたし、頭の中でどう配置するかも決めていたので、ほとんど迷わず端から組み立てることができました。
会場が広いので、埋まるかどうか心配でしたが、なんとか格好がついたようでした。
会場の広さに比べて寂しいかなと、1枚だけ新しくつくった(写真右)のもよかった。
昔つくったものの、家を建設していたときの仮設小屋のビニールハウスの中で使い倒してしまったものとコンセプトが同じで、その隣のと対になっています。
泥縄式で、直前に看板もつくりました。
本日25日は、予報通り雨が降り始めました。
2026年2月24日火曜日
雛壇づくり
3月1日まで3日間キルト展があるので、お雛さまを飾るのは旧暦でいいと思っていたのですが、やはり新暦の3月3日に間に合わせようかと、雛壇づくりに取り掛かりました。
雛壇は、しまっている時間の方が長いので、しまいやすく小さく分解できるようにつくりました。
それをつなげて使います。
棚板は、無垢の木でつくりたいものの、適当な端材がなかったので、f邸のごみの中から拾っておいた型枠に使った合板をきれいにして使いました。
場所は、いろいろ考えたけれど、ここしかありません。後ろに壁がないのでちょっと不安定ですが、猫たちはいたずらしないので、人間さえ気をつければ問題ありません。
緋毛氈にふさわしい布があるかしらと引き出しを開けたら、ちょうどぴったりの厚手の赤い布がありました。
どうしてあるのかしら? 厚みがあるので、お地蔵さんの前垂れや頭巾用の布ではないし、買った覚えはないのだけれど、幅が広くてぴったりでした。
高山土人形二代の、父娘共演が実現しました。
夏だったか秋だったか、骨董市で季節外れの雛壇用屏風を売っていたのを見たことがありました。「古い屏風だけ買う人がいるのかしら?」と思ったのですが、買っておけばよかったのはこの私でした。あれから、骨董市で屏風は見ません。
お内裏さまの後ろに屏風を置くスペースはちゃんと取ってあるのですが、右近の桜と左近の橘を置くスペースはありません。ぎゅうぎゅうです。
大きい今宿土人形は、またもや飾り場所をつくってあげることができませんでした。
明日は一日雨とか、残りのお雛さまたちも飾ってあげることができそうです。
2026年2月23日月曜日
久しぶりの庭仕事
いろいろなことがあり、余裕がなくて庭仕事にはずっと目をつぶっていましたが、久しぶりにやる気持ちが戻ってきて、この数日勤しんでいます。
カミキリムシにやられて枯れてしまったイチジクの木を、昨秋に伐り倒していたのですがそのままになっていたのを、まず片づけました。
カミキリムシにやられやすいイチジクは、これまでは大きな幹が枯れても、新しい枝が伸びて生き延びてきましたが、昨年とうとう枯れてしまいました。
まず枝を落としたり、運べる大きさに切ったりして、燃やしました。
幹の芯がやられているだけでなく、枝も幹も穴だらけ。幹の中の幼虫には申し訳ないのですが、燃やしてしまいました。
イチジクの木を伐ったおかげなのか、今年はお隣のビワの木が元気いっぱいです。
花もいっぱい。
春が楽しみです。
枯葉は理論的にはいい腐葉土になるのですが、長年の里山暮らしに慣れた木々は、富栄養より栄養少なめの方が元気なようで、枯葉の下でさび病などいろいろな菌が繁殖しないように落ち葉も、そこそこ取り除かなくてはなりません。
芝生の中の雑草たちは元気で、枯色の芝の中にいち早く鮮やかな緑の葉を伸ばしています。
中でも元気なのはシロツメグサとチチコグサ。タネツケソウ、ナズナ、ヒメジョオンなども侮れません。この春こそはチチコグサもヒメジョオンも、開花する前にあらかた駆逐したいところですが、勝ったためしがありません。
この冬に、二年物以上の古い薪は使いつくしたので、薪もつくっています。
2026年2月22日日曜日
赤いビー玉を持っていた!
先日、釣り銭盆をUPしたとき、手持ちのビー玉を釣り銭盆に並べてみました。そして、
「なんだか、赤い色のビー玉が少なくて寂しいなぁ」
と思って、赤いビー玉を買い足しました。
これがそのビー玉です。
ところが、以前のブログを見返してみたら、あれっ、赤いビー玉をすでに持っていました。
しかも、今度手に入れたものより、もとから持っていたビー玉(右)の方がカラフルでした。色つきのビンに入れていたので、あることに気づかなかったのでした。
今度手に入れたビー玉たちの中にいびつなのがありました。ちょっと透明感があって、、つくったときの傷もありました。
乳白色は、透明ガラスに蛍石、骨灰、酸化錫などを加えることによって、細かい粒子が分散して乱反射を起こし、乳白色に見えるようになるので、加える量によって半透明から真っ白の違いが出ます。
これまでブログに、「フランスのビー玉」、「ビー玉掃除は楽しいなぁ」、「ビー玉」、「乳白色のビー玉」など書いていますが、子どものころ、ビー玉で本格的に遊んだことは、ほとんどありません。
小学校時代、休み時間によくおはじきでは遊びましたが、めんこやビー玉、独楽回しなどは男の子の遊びでした。男の子たちは日々これら遊びの腕を磨いていて、技術的にはとうていかないませんでした。
そして、息子たちの時代にはビー玉はすっかりすたれていてしまっていて、昔ながらの遊びと言えば、竹馬、けん玉などでは遊んでいたこともありましたが、野球三昧の日々を過ごしていました。
2024年に、ビー玉に関するとても詳しい本が出版されたようですが、ビー玉の本として手元には、『おもちゃ博物館』全24巻のうちの、第4巻の『めんこ・ビー玉』(多田敏捷編、京都書院、1992年)があるだけです。
48ページの本ですが、ほぼ、めんこについて書かれていて、ビー玉には、残念ながら4ページしか割かれていない本です。というのも、ご著者の多田さんは、めんこでは遊んだので思い入れがあるけれど、ビー玉ではほとんど遊ばなかったようでした。
![]() |
| 一川芳員画、丸屋甚八版、1860年 |
それでも、横浜の居留地で西洋人の子どもたちがビー玉遊びをしている、興味深い絵などが掲載されています。日本にも、それ以前に木の実をぶつ合うような遊びはあったかもしれませんが、ビー玉遊びは西洋から、幕末のころ入ってきたものだとわかります。
ビー玉はエジプトの古代遺跡からも発掘されている古いおもちゃですが、ガラスのビー玉づくりは、19世紀後半にドイツではじまりました。初期には、解かしたガラスを「ビー玉ばさみ」で切り、手作業で丸めました。
1900年代に入ると、アメリカで機械化が進み、溶けたガラスを棒状に垂らして切り、らせん状の溝が切ってある成形機の上で転がしながら丸くする方法が確立されました。模様入りのビー玉は、色のついたガラスを溶かして混ぜたり層にしたりしてつくります。
YouTobeで、現代のビー玉やおはじきをつくる工程や、色を混ぜる方法を見ることができます。
『おもちゃ博物館』は、外国の読者にも向けたもので、日本語と英語を併記していますが、中国のビー玉にChainese Marblesとも書いてあり、写真と文字からお菓子のチャイナマーブルを思い出しました。
小さいころ、行商のおばちゃんが、ゼリービーンズとともに、舐めていると色が何度も変わる色とりどりのチャイナマーブルの袋詰めを持ってきていました。
今どきのチャイナマーブルは外見は白一色で、舐めていると現れる色も1色かせいぜい2色ですが、昔のチャイナマーブルは、この写真の、右のビー玉によく似ていて、舐めると現れる色も多層になっていて、うまく2つに割ると、カラフルな同心円になっていました。
この、中国のビー玉から発想して、お菓子のチャイナマーブルが生まれたのでしょうか?
今まで、色の濃いガラスビンに入っていたビー玉たちも、透明か薄い色のビンに入れ替えてみました。
1900年代に入ると、アメリカで機械化が進み、溶けたガラスを棒状に垂らして切り、らせん状の溝が切ってある成形機の上で転がしながら丸くする方法が確立されました。模様入りのビー玉は、色のついたガラスを溶かして混ぜたり層にしたりしてつくります。
YouTobeで、現代のビー玉やおはじきをつくる工程や、色を混ぜる方法を見ることができます。
『おもちゃ博物館』は、外国の読者にも向けたもので、日本語と英語を併記していますが、中国のビー玉にChainese Marblesとも書いてあり、写真と文字からお菓子のチャイナマーブルを思い出しました。
小さいころ、行商のおばちゃんが、ゼリービーンズとともに、舐めていると色が何度も変わる色とりどりのチャイナマーブルの袋詰めを持ってきていました。
今どきのチャイナマーブルは外見は白一色で、舐めていると現れる色も1色かせいぜい2色ですが、昔のチャイナマーブルは、この写真の、右のビー玉によく似ていて、舐めると現れる色も多層になっていて、うまく2つに割ると、カラフルな同心円になっていました。
この、中国のビー玉から発想して、お菓子のチャイナマーブルが生まれたのでしょうか?
今まで、色の濃いガラスビンに入っていたビー玉たちも、透明か薄い色のビンに入れ替えてみました。
2026年2月21日土曜日
京都東山、清水の豆人形
高山土人形を買ったとき、おまけで京都の清水の豆人形をいただきました。
杉谷マサさん(1903-1996年)がつくられたお雛さまとのことでした。
親指の第一関節くらいの大きさで、台座は、木片に彩色してあります。
京都の清水の豆人形は、その昔は一文人形とも呼ばれて、つくる人もたくさんいて、清水寺の参道でお土産物として売られました。
私は学生時代から豆人形に親しんできましたが、そのほとんどを杉谷マサさんがつくられていたとは知りませんでした。
我が家に昔から生息しているお雛さまも、杉谷マサさんのつくられたもののようです。
清水寺の参道の清水坂と産寧坂には、お土産ものの八つ橋や五色豆とともに豆人形も売っているお店が、何軒もあります(ありました?)。
最初のころはあちこち覗いていましたが、やがて必ず訪ねるのは産寧坂にあった一坪もないような小さな人形専門店中心になりました。当時は知りませんでしたが、もしかしたら中川正美さんを中心とした中川家の直売店だったのかもしれません。
「ねこれくと」の清水人形によると、
中川家の人形づくりについての詳細はわからないが、『京洛おもちゃ考(奥村寛純、1981年)によると、「伏見人形の小物の下請けをしながら、自分でも小物人形をおもにつくったのは清水にいた中川正房で、中川正美がそれを継いだ」とある。
とのことです。
中川正美さんは、正房さんの息子で、杉谷マサさんの弟です。
今我が家に生息している豆人形は、おもちゃ尽くし、お雛さま、だるま、七福神、そして招き猫などです。よく見ると、七福神の弁天さまは2人もいます。いったい何があったのでしょう?
豆人形は息子たちが幼児のころから家にありました。小さいものなので失われやすく、幼い女の子が勝手に持ち帰って、しばらく気がつかなかったこともありました。
豆人形は小さな籠に布をつけて絞った巾着袋に入っているのですが、袋から出して飾っていました。袋を捨ててはいないのですが、度重なった引っ越しのせいでどこにしまったのか、失せてしまっています。
右上の大きめの招き猫は豆人形とは言わないようで、中川正美さんがつくられたものです。
京都は、何度訪れても楽しく、1か月もいたこともあれば、たった数時間だけ途中下車したこともあります。そんなとき、必ずと言っていいほど、足を向けたのは東山の清水寺界隈でした。
そして、産寧坂の人形店に必ず寄ったのですが、残念ながら閉まっていることがほとんどで、大きなショーウインドーの中に並んでいる人形たちを未練がましく見るだけで帰ったことが、何度もありました。
招き猫たちは、その店に何年も通ったのち、開いていたときに行きあわせて、やっと、やっと手に入れたものです。
招き猫たちは、その店に何年も通ったのち、開いていたときに行きあわせて、やっと、やっと手に入れたものです。
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