2026年4月10日金曜日

浜松の鯛車


静岡県の浜松張り子の鯛車です。

浜松張り子は、徳川幕府の幕臣だった三輪永保(ひさやす)が幕府の解体で禄を失い、江戸を引き上げて浜松の引佐郡(いなさぐん)で郡書記(今でいう公務員)に就くかたわら、江戸風の張子玩具をつくったのがはじまりとされています
大正13年に、永保没後は息子の永智に引き継がれますが、昭和20年6月18日の米軍による浜松大空襲で、木型、資材などすべてが灰燼に帰してしまいました。

三代目、二橋志乃さんの制作風景。浜松市文化財デジタルアーカイブからお借りしました

しかし、永智の妹である、三代目の二橋志乃さんが、日本郷土玩具協会浜松支部の後援を受けていち早く再興、昭和32年には、旧木型の大部分の復元を果たしました。


虎、鳥神楽、犬張り子、柿乗り猿、犬ころがし、だるまなど、車のついたもの、首を振るもの、手足の動くものなど味のある生き生きとした張り子は、種類も豊富です。
三代目の志乃さんの制作風景は、ユーチューブで見ることができます。
現在は、志乃さんの孫の鈴木伸江さんが引き継いで、制作しています。


尻尾の先は金色に輝いて、体は赤くてつやつや、紺碧の海に映えています。
鯛車には素敵なものが多いのですが、浜松張り子も「いとおかし」です。









2026年4月9日木曜日

用途は判明。使い方は依然として不明

折々に書き綴ってきたブログですが、民具の用途、籠の材料などを正しく知らないままで書いていたことが、もしかしたら多々あったのではないかと思われます。


写真は、布を織るときに緯糸(よこいと)を巻いた管をセットして経糸(たていと)に通すときに使う杼(ひ)の一種ですが、私はこの大きな杼の使い方を知りませんでした。
杼は英語ではシャトル(shuttle)と言い、シャトルは往復するという意味です。


杼は左右から投げ入れ、上下に開いた経糸の間を軽ろやかに飛んでいくイメージのもの、なめらかに滑りやすいように、近代の杼には車がついています。

大きな杼は、大杼、あるいは打杼と呼ばれるもので、地機(じばた)で使われていたことが、このたびわかりました。



大杼は、杼でありながら刀杼(とうじ、とうじょ)としても使うもの、そのため、1辺が鋭角に尖っています。

デンマークの刀杼?幅がありすぎる気が.....

一般的な刀杼は、薄いけれど幅はある形につくられていて、寝かせて経糸(たていと)の間に通し、通しきったところで立てて、経糸の上下の隙間を大きく開いて杼を通しやすくする用途と、その通した緯糸(よこいと)を織りあがっている布の方に打ちつけるようにして、しっかり目を詰めるという、2つの役割を持った道具です。

地機と刀杼

上の写真は、『日々織々』からお借りしたもの、東南アジア大陸部の国々の山間部に住むカレン人の地機で、手前に刀杼を立てているのが見えます。
もっとも、カレンの場合は「杼」は刀杼とは別に用意されていて、刀杼を立てて、隙間を大きく開いたところに杼を通すので、刀杼と杼が一緒になっている「大杼」とは使い方が違います。
大きな杼が、大杼あるいは打杼(下の絵では管大杼)と呼ばれていて、地機で使うということはわかったのですが、肝心の使い方はどうだったのでしょう?


地機には、踏み木がありません。
踏み木があれば、経糸を通した綜絖と踏み木をつないで、それを交互に足で踏んで経糸を上げ下げして、糸を織って布にしますが、踏み木のない地機では、手で綜絖を上げ下げしなくてはなりません。
大杼とは「刀杼と杼が一体化したもの」なので、刀杼として経糸の間に立てているときに、同時に杼として緯糸を通すことはできません。ということは、大杼は「経糸の間に立てて、上下の経糸間を広げる」という用途には使わず、通した緯糸を打って締める機能だけを使っていたという可能性が考えられます。
大杼を寝かせて経糸の間を通すときに、杼としての機能もあるので緯糸も真ん中のあたりまで通ります。そこで、大杼を左右均等になるよう真ん中まで通したら前の段の緯糸を打って締め、大杼を立てることなしに、そのまま抜いて織り進んだのでしょうか?

私的には、カレンやラオスの織りもののように、刀杼は刀杼で、杼は杼で別々の方が使いやすいのではないかと考えてしまいますが、刀杼を立てて杼で緯糸を通すという二度手間を取らないで、速く織ることができるとも言えます。実際に織っているのを見てみたい!

新しいことがわかったと、勇んで書きはじめたのですが、使い方を想像しながら書いているうちに、いろいろ疑問が出てきて、使い方は相変わらず謎のままでした。








2026年4月8日水曜日

マルの怪我


昨日、マルが怪我をして帰ってきました。初めての怪我です。
頭の3カ所の毛がなくなり、頭頂の傷1カ所には血がにじんでいます。縫わなくてはならないほどの深手ではないので、アルコール綿で消毒して、様子を見ることにしました。マルは居間の座布団に落ち着いて、身体を舐めはじめました。


しばらくして、
「どうしているかな?」
と見ると、タマがマルを舐めてやっていました。


お風呂の蓋の上以外では、お互いに思い思いに行動していて、一緒にいることはあまりないマルとタマですが、いざとなったらしっかり助け合っています。


タマが舐めたおかげか、血は見えなくなりました。舐めることによって消毒もできただろうからと、病院には行きませんでした。


2時間ほどマルに寄り添っていたタマは、もう大丈夫と思ったのか、いつもの単独行動に戻って行きました。


座布団の上にとどまっているマルの頭をよく見ると、毛が抜けているところは3カ所ではなく6カ所ありました。
いったい何があったのでしょうか?

とはいえ、今日も元気に外に遊びに行っています。






2026年4月7日火曜日

成瀬あかり三部作

どんなきっかけだったか、すっかり忘れてしまいましたが、評判になっている『成瀬は天下を取りにいく』(宮島美奈著、新潮文庫、2025年)を読みました。
評判になっている本にはあんまり食指を動かされないのですが、「成瀬の三部作」のうち、第一巻は文庫本化されていてハードルが低い。文庫本なら値段が手ごろなうえに場所も取らない、寝っころがって読むのも楽、つまらなくても損はないと買って読んでみました。


1巻が6話仕立て(2巻は5話)になっていて、それぞれ違う人たちの視点で、滋賀県大津市膳所に住む、ちょっと変わった成瀬あかり(中学生から高校生まで)にまつわる物語が書かれています。
生まれ育った膳所(ぜぜ)愛にあふれている成瀬を取り巻く人たちや、琵琶湖の情景が映像になって目の前に現れてくるような本で、楽しく読みました。

さて、続きも読みたいのですが、単行本は邪魔になるだろうから買いたくない、デジタルではちょっと読みたくない、しかし文庫化されるには2年くらいかかる、などと逡巡していると、無料のデジタルで、一部分だけですが読めることに気づきました。
2巻も3巻も、その中の1章をデジタルで読んでみたらやっぱり続きが「紙」で読みたくなり、単行本を買いました。


先に届いたのは3巻の方でした。
2巻を読んでないとわけがわからないかとも思いましたが、そうでもなかった、大学生になった成瀬が、相変わらず我が道を行っていて、取り巻く人たちも増えていて、成瀬ワールドが広がっていました。しかし、待てど暮らせど、2巻が届きません。
まあ、中古本を買っているのだから発送先も違うだろうしと待っていても来ない。間の悪いことに、注文履歴も手違いで見ることができなくなっていたので、2週間ほど経ってから、2巻を注文しなおしました。


というわけで、めでたく読み切ることができました。

作家の宮島美奈さんは京都大学の卒業生で、成瀬あかりも京大に進み、文庫版の解説を書いているのは、京大小説をいっぱい書いた森見登美彦さん、3巻にはその森見登美彦さんの話題も載っているなど、京大、京大した本でもありますが、琵琶湖をはじめとして、膳所当たりの描写が魅力的で、遊覧船のミシガンやびわこ疎水船に乗ってみたくなりました。




 

2026年4月6日月曜日

ままごとの家具


昔のままごと道具の、ベッドと肘かけ椅子です。
ラタンで形づくり、木綿布でマットをカバーし、レースで縁取りしてあります。


枕は、桜の木の枝を切ったものです。
木綿は着物地だったのでしょうか、プリントではなく織りで模様を出していて、しかもとても複雑な模様の出し方、どうやったらこんな模様が出せるのか、布裏を見てみたい気持ちですが、見ることができません
このベッドと椅子は、家内手工業といった、小さな工場でつくられたに違いありません。


セルロイドのテーブルと鏡台です。
セルロイドを丸く切るのはたやすくても、鏡を丸く切るのは大変、小さいけれど丁寧な仕事を生業としていた人たちの生活が偲ばれます。


セルロイドを型に入れて成型するのではなく、できている細い管や板を加工する仕事は、今では、おそらく誰もやっていません。


そんな昔のままごと道具に混じっているのは、おだじまさんのつくった木の枝の椅子です。
おだじまさんのスツールは、人が実際に座れる大きさのものから高さが3センチしかないものまで、そっくり同じ形をしています。


かわいい、ままごとの家具たちでした。







2026年4月5日日曜日

新しいくず籠

東京郊外で住んでいた家は、コンクリート打ちっぱなしでした。
断熱材のまったく入っていないコンクリートの家は、雨漏りはするし、結露はするし、冬は寒くて、住むのにかなりの根性が要る家でした。当時はコンクリート打ちっぱなしならそれが当然、公共施設も雨漏りで悩んでいたし、つくばで住んだ公務員宿舎も似たり寄ったりでした。
といっても、半地下や中二階、屋上や渡り廊下のある楽しいつくりで、息子たちや友だちにとっては遊園地のようだったのではないかしら。


その、床も壁も硬い家で使っていたくず入れは、合板の筒形のものでした。蓋つきと蓋なしのものをいくつか使っていて、コンクリート打ちっぱなしにはよく似合っていました。
合板のくず入れは、のちに住んだつくばでも活躍しましたが、引っ越しや留守を重ねているうちに傷つき、八郷に来た時にきれいな姿をとどめていたのはたった1つのみ、それをずっと居間で使ってきました。
しかし、木の家にはモダンなくず入れはあまり似合わないもの、居間以外の食堂、書斎、寝室、階段室などでは、もっと素朴な、ラオスの籠カンボジアの籠サラワクの籠などをくず入れとして使っています。

しばらく前に、連続テレビ小説の「ばけばけ」(だったか?)で、私の祖母が鏡台の横に置いて使っていた、竹で編んだ四角いくず入れとそっくりのくず籠をちらっと観ました。見たとたん、忘れ果てていたそのくず籠が、記憶の奥底からよみがえってきて、懐かしさでいっぱいになりました。それは、私が子どものころでさえ古めかしく感じていたものでした。
「そうだ、傷んできた合板のくず入れを、そろそろやめて籠にしよう!」
夫はみかんの中袋や、べたべたしたアイスクリームの包み紙などを、台所のごみ箱まで持って行くのを面倒がって、手近なくず入れに捨てたりするので、それに耐える籠を見つけなくてはなりません。


そして今、暫定的に中国の柳の籠を使っています。
頑丈にできているし、いざとなったらごしごしと洗えるので安心です。


もう一つ、くず籠候補があります。
その昔、中学生になって、日本で学んだ方がいいかと、タイから一足先に単身帰国して寮生となった長男に持たせたくず籠です。


油性ペンで息子の名前の書いてあるこの籠は、寮の部屋で使うからと小ぶりです。


よく見ると細かい仕事の籠です。
毎年バンコクでは、刑務所で更生のために受刑者に指導してつくられた工芸品の展示即売会がありました。
質の高い籠が並んでいて、今でも我が家の籠たちで、その展示会からやってきたものがたくさんあります。残念ながら、形はよくても防虫のためか、てっかてかにニスを塗り過ぎたものが多くて、これもちょっとニス多めです。






2026年4月4日土曜日

花は桜


ヤマザクラは毎年、下から見上げても目立たず、そこここに花びらが散ってから咲いていることに気づかされます。


恋瀬川の堤も、運動公園も、どこもかしこも桜がいっぱい。


夫が板敷山大覚寺から、樹齢500年の椿の花を拾ってきました。山椿より花が大きく、直径10センチもあります。






 

2026年4月3日金曜日

箕と言われているけれど???

4月3日は「箕の日」、箕の日に勝手に協賛です。


この韓国の籠たちは、「3個一緒で送料無料の箕」として売られていました。
箕のことを、韓国では키(キ)と言い、箕を振るうことを키질(キジル)と言い、この키 は日本在住の方が韓国で40年ほど前に手に入れたものとのことでした。


スズタケのような竹(笹)でできていて、なかなか良い形をしているのですが、本当に箕として使うものでしょうか?
柄の先まで40センチほど、こんな小さなもので、穀物を振るうことができるとは思えない、ままごとくらいにしか使えそうにない小ささです。


3つのうちのこの2つは、同じ人が編んだのか、縁は丸みを帯びて美しくできています。


ところが、右端の1つは縁線がきれいにカーブしていないし、深さもないので、別人が編んだように見えます。


きれいに仕上がっている籠の方は、曲げた角に竹の節をできるだけ集めるように編んでありますが、もう1つの方は、そんなことにはお構いなしで、節はばらばらに散らばっています。


口の部分は、丸いままの竹を芯にして、それに経材(たてざい)の割竹を巻きつけて、編み始めています。そのため、口は分厚くなっていて、塵取りとしては使えそうにありません。
しゃもじとして使うなど、別の用途があったのか、用途不明ではありますが、籠編みの専門家ではない人が自家用につくった籠(韓国にはそんな籠が多い?)にしては、とてもきれいに編めています。


もしこれが箕なら、どうやって使うのか知りたいものです。


ところで、」で検索していたところ、韓国にはおもしろい風習があったらしいことがわかりました。おねしょをしたとき、箕をかぶって隣家などに塩をもらいに行くのです。日本でも箕はほかの農具と違って、信仰や豊穣の対象になっていましたが、韓国でも特別なものだったようです。


また、韓国のニュースのサイトで、世界食糧デーの飛び切り素敵な写真も見つけました。
パキスタンのラホールで、女性が穀物(米か?麦か?ラホールならどちらの可能性もあり)をあおっている写真、なんと素敵な箕でしょう! 
あおり方も大胆で、これぞ箕といった写真でした。



追記:


かねぽんさんが教えてくれたのですが、これは箕ではなく、お米を研ぐ福じゃくし、ボグジョリでした。
もともと、収穫しても混じりものの多かったお米をこれに乗せて水の中で洗ったりして、石やごみと選り分ける道具でしたが、今ではお米がきれいに脱穀・精米できるようになって、道具としては無用になりました。しかし、旧正月の夜明け前にこれを買って玄関に飾っておくと、福が来るというお正月飾りとなって残っています。
個人でつくったものではなく、ある地方でみんなで集まってつくり、全国に売られたようでした。

余談ですが、お米を研ぐ道具としては、木鉢がありました。




 

2026年4月2日木曜日

『私の絵日記』


つげ義春さんの本が見当たらないので、お連れ合いの藤原マキさんの『私の絵日記』(筑摩書房、文庫版は2014年)で、つげさんとマキさんを偲ぶことにします。
マキさんが病気で亡くなられたのは1999年ですから、文庫版は没後15年に発行されました。マキさんは「劇団状況劇場」の舞台俳優をしていましたが、いろいろあって俳優をやめ、お連れ合いのつげさんに勧められて絵を描きはじめました。


『私の絵日記』には、つげさんとマキさん、そして一人息子の正助くんと3人の、貧しくも豊かな日常が描かれています。
3人はかわるがわる病気になったりして、病院通いが欠かせない、必ずしも楽しい日ばかりではないのですが、マキさんはそれをものともせずに暮らしています。


実際、「家族写真集」を見ると、マキさんはいつもくったくなく笑っています。


つげさんは、マキさんが子宮がんと聞いて、彼女を元気づけるどころか、自分の方がまいってしまって、不安神経症にかかり、長く苦しむのですが、それでも「オトウサンのだんご汁はおいしい」と言われて、すいとんつくりに腕を振るったりします。

カラーの絵は『駄菓子屋:藤原マキ画集』より

マキさんは小さいころ大阪で戦災にあい、島根県の田舎の公会所に身一つで疎開します。
疎開先で、お父さんが戦死したことを知り、疎開先から動くこともできなくなり、お母さんが小さな駄菓子屋(なんでも屋)を開いて、子どもたちを養います。それでも食べるものに事欠いていつもお腹を空かせており、なにか仕事があれば、一家総出で働きに行きました。


お風呂はいつももらい湯で、誰かが声をかけてくれるまで入れず、1か月もお風呂に入れないときもありましたが、いろいろなお風呂が経験できたと、マキさんは前向きです。


巻末には、「妻、マキのこと」(初出は2003年の学研M文庫)というつげ義春さんの一文(聞き書き)が載っています。のんびりしている夫と活発な妻のでこぼこな、それでも張りのあった生活が失われて、寂寥感が漂う文でした。


疎開時代の絵は細部まで描き込まれていて、見ていて見飽きることがありません。