2024年10月31日木曜日

ブルキナファソの籠


ブルキナファソの洗い籠です。
西アフリカ各地では、日本の納豆に匹敵する、調味料のスンバラをつくります。


スンバラは、現地名ネレ(学名Parkia biglobosa
パルキア・ビグロボサ、和名ヒロハフサネムノキ)の種を発酵させたもので、種を水洗いするときに欠かせないのがこの籠です。


残念ながら、今ではプラスティック製の籠も使われています。


独特のうずまき編みは、細い水草で、水を通しやすいように隙間が多く空いているのに強い籠をつくるために考え出された、この地域に特徴的な技法です。
縁は、樹皮の繊維を巻いて補強してあります。


ブルキナファソ、マリあたりの籠には「水草」がよく使われていますが、水草とはいったいどんな草でしょう? イグサの仲間ではなさそう、葦の仲間でしょうか?
地図を見ても近代的なダム湖はあるものの、大きな川は流れていないし、わずかに川辺に生える草なのでしょうか?


我が家にある、別のブルキナファソの籠にも水草が使われています。


ちょっと見には水草は目立ちません。外側の緯材(よこざい)には木の枝を割ったものが使われ、緯材を経材(たてざい)に綴じてあるのは木の繊維ですが、底と外側からは見えない経材が水草です。


底に水草を縦横に重ねて、経材として立ち上がります。


内側を見ると、水草が見えます。
外側に細枝をあしらわず、内外とも水草が目立つ籠は、若いころブルキナファソに行ったとき、道端で見かけ、大小買ってきて子どものおもちゃ入れとして使っていましたが、ずいぶん昔のこと、今では失われてしまっています。


それにしても美しい手仕事です。




 

2024年10月30日水曜日

追悼展

早いもので、近藤由巳さんが亡くなられて1年が経ってしまいました。
昨日は、こんこんギャラリーで開かれる追悼展の搬入の日だったので、ちょっとだけお手伝いしました。


アトリエを再現して、織物がどんなものか知ってもらおうと、織り機や紡ぎ車も展示することにしました。織り機は4台ある中の一番小さいもの、Kさんがこれを使ってちょうど1枚織り上げたところで、織り機には織りかけの布がないのが残念ですが、力持ちの男性たちが、教室からこんこんギャラリーに運んでくださいました。
こんこんギャラリーで、近藤さんの織りもの展は何度も開かれましたが、織り機を持ち込んだのは初めて、アトリエの雰囲気を感じてもらえるでしょうか。
奥に見えるのは、こまごましたものが入っている引き出し箪笥です。


引き出しは教室に置いてあって、左端の中にはいつも使っている糸、はさみ、杼など入っていて、日常的に使っています。近藤さんは糸はたとえ短いものでも大切にされ、決して意味なく捨てることはなく、この引き出しに小分けしてしまってあって、それを繰り返し、重宝して使いました。
そして、真ん中と右の引き出しを普段開けることはありませんが、きれいな色とりどりに染めた糸がたくさん入っていて美しいので、引き出しを引いて、中を見せてみました。
壁に飾ってあるのは、近藤邸の玄関に飾ってあった綴れ織りの額や、居間に飾ってあった絣織りです。


右手奥のテーブルには、教室にうず高く積んであった、染めた羊毛や原毛を小分けしておきました。これらは訪問者が記念に買って行って欲しいと思って用意しました。


11月5日と6日はお休み、時間は11:00から17:00となっています。






 

2024年10月29日火曜日

今年の柿支度

しばらく前におそばを食べに行ったとき、おそば屋さんから、
「今年もKさんの渋柿が欲しいかい?」
と訊かれました。
「木をコテンパンに切っていたけれど、今年も柿は生ったの?」
「あぁ、小さい木にはいっぱい生っているよ」
「欲しい!」
と私が言ったのと、
「今年はいらない」
と夫が言ったのが同時でした。
「いま忙しいし、おれはやらないよ」
確かにいろいろ予定も詰まっていますが、せっかくのおいしい干し柿をあきらめるというわけにはいきません。
できれば11月、早くとも10月末までは干したくないので、頃合いをはかっていて、今朝いただきに行きました。


通りからも見える、こぼれ種から生えたとみられる小さい木には、確かに鈴なりですが、小さい、小さい。指の先ほど干し柿ができそうです。


大きな木の柿は立派ですが、まばらです。


そして、もう1本の大きな木には、今年は一つも生っていません。


Kさんの家には大小2つの梯子が用意されていますが、今年は私一人、小さい梯子を動かすので精いっぱいです。そして、この梯子だと一番低い枝になっている柿しか採ることができません。


コンテナを6個も用意して行きましたが、3つで十分足りました。
右が大きい木の大きい柿、左が小さい木の小さい柿。小さい柿の方が嵩が高いので、写真だと違いははっきりしませんが、


同じ面に置いてみると大きさの違いは一目瞭然でした。

ところで、今年は我が家の柿は1つも生っていません。
まず、いただいてきた柿を干してみます。そしてもっとつくれる余裕があったら、夫を無理やり引っ張り出して、大きい梯子で採れる立派な柿をもう少しいただいてこようと思います。





 

2024年10月28日月曜日

鯛担ぎ


宮城県仙台市の堤人形の鯛担ぎです。
堤人形は、藩主伊達綱村公(1659-1719年)が江戸の陶工を招いて窯を築き、玉手崎天神の神像を焼かせたのがはじめと伝えられ、文政年間(1818-1829年)に最盛期を迎えました。明治維新をはじめとして何度も廃絶の危機にさらされながら、今日も、「芳賀堤人形製造所」と「つつみのおひなっこや」が製作を続けています。


鯛は「めでたい」に重ねて、赤いので病気避け、疱瘡除けにも珍重されたものと思われます。私も体内に残っている麻疹の菌が頭を持ち上げて暴れ出した帯状疱疹からの平癒を、鯛担ぎに祈っているところです。


童子の背中に何か書いてありますが、読めません。

郷土玩具の部屋 さかな・魚・肴???より、お借りしました

ネットで見つけた、堤人形の鯛担ぎです。
左は昭和初期のもの、右は現代(っていつごろ?)のものとの説明があります。どちらも首を向かって左に傾げていて、私の手に入れた鯛担ぎと頭の向きが違います。


『日本の郷土玩具』(写真・園部澄、解説・坂本一也、毎日新聞社、1972年)に載っている写真は一つ上の写真の右の鯛担ぎとよく似ています。この本には作者名が出ていて、芳賀佐五郎さんのつくられたものだそうです。とすると、一つ上の写真の右の鯛担ぎは、色や模様の細かさから、(現代のものなら)現当主で佐五郎さんの息子さんの芳賀強さんがつくられたものかもしれません。


『日本郷土玩具辞典』(西沢笛畝著、岩崎美術社、1964年)に載っている鯛担ぎも、芳賀佐五郎さんの鯛担ぎと雰囲気は似ていますが、作者の記載はありませんでした。


あれれっ、これは!
佐藤吉夫さん作の鯛担ぎが見つかりましたが、型が芳賀佐五郎さんの型とそっくりです。佐藤家では、大正時代の吉夫さんのお父さんの代に、堤町の旧家であった宇津井家の型を「おひなっこ」という屋号とともにそっくり引き継いだとのこと、ということは、この型ももとは宇津井家の型だったのでしょうか?
佐藤吉夫さんは13歳のころから人形作りに携わった多才な方で、松川達磨の作者としても活躍されました。

芳賀家でも佐藤家でも首を向かって左に傾げて、ちょっとふくよかな鯛担ぎをつくってこられたということは、首を向かって右に傾げた鯛担ぎは、芳賀家の作でも佐藤家の作でもないのかもしれません。
芳賀家でもない、佐藤家でもないとすると、どんな窯元でつくられたのでしょう?
東北歴史博物館の研究資料によると、佐藤吉夫さんからの聞き書きとして、昭和初期には、堤町、台原には、登り窯と一つ窯を合わせて62基もの窯や窯跡があったそうです。



この素朴な型の鯛担ぎも、頭を向かって左に傾けています。これはネットショップで売られたもので、江戸時代につくられたと書いてありました。
赤い絵の具は古そうですが江戸時代かどうか、どうでしょう?

メルカリより

やっと同じ方向に首を傾けた鯛担ぎを見つけました。私の鯛担ぎと似ていますが、型が同じかどうかまではわかりません。このくらい素朴なつくりの方に惹かれます。


堤人形の型はバラエティーに富んでいて、数百種に及んでいます。
雛節句に贈ったり飾られたりする人形のほか、便所の汚れを清めるために置く男女人形(厠の神さま)、子授け人形(芥子人形)、亡くなった幼児の棺桶に入れる友引人形などなど、1960年代まで、土地の信仰に結びついたものが数多くつくられていました。





2024年10月27日日曜日

風呂猫


我が家では、朝晩お風呂に入るし、夫は夜中に目が覚めたときも入ったりするので、お湯は常時張っています。そして、猫たちはよく蓋の上でくつろいでいます。
夏はタイルの上という手もありますが、寒くなると、蓋の上の方が気持ちがいいのです。


というわけで、人間がお風呂に入るときも、猫たちのために蓋を1枚そのままにしておくのが習慣になっていて、お湯を抜いたときも、蓋1枚だけは置いておきます。


「あらっ、お湯の中に何か見える?」


この日、マルはじっとお湯に見入っていました。


尻尾がお湯の中に入ってしまうのも厭わないマル、お湯が飲みたいのかな?


あらら、残念、蓋は閉められてしまいました。






 

2024年10月26日土曜日

イノシシの後始末(2)


石段や石畳は、難易度の低いところから積みなおしたのですが、こんな状態になっているところは、呆然とする以外ありませんでした。呆然としている間に、草もちゃっかり生えています。


三方四方から攻めて行って、やっと修復しました。


この石段も厄介でした。


というのは、埋めてあった電線や電話線が掘り出されていたからです。できるだけ深く掘り、その上に石を積みました。


積んでは休み、休んでは積んで、3日ほどかかってしまいました。


ここを掘り返した大胆な個体は、この1ヵ月間は来ていません。どこかで捕まったか。あるいは生きていても、来年は我が家のミミズのことは忘れて、来ないことを祈るばかりです。


この、玄関と作業棟を結ぶ道の右にある石段は、ほぼ見えません。


端を決めて、草むしりしながら石を敷いたので、やはり3日ほどかかってしまいました。


大きく育っていたシクラメンの球根がダメになってしまったのが悔しくて、鉢を埋めてその中に、転がっていた直径2センチほどの小さな球根を植えてみました。



ほかにも、こぼれ種から、あちこちに新しい球根ができて花を咲かせてはいるのですが、白い花の球根は失われてしまいました。


この石段も完全に壊されていましたが、なんとか修復しました。石段の右手に見える石は持ち上げられないほどの大きさのものですが、これもひっくり返されていました。
右下に見える古い瓦で囲んだところにはシランが植えてあったのですが、その根元にもミミズがいたと見えて荒らされています。そこいらじゅうに転がっていた球根をひとまずここに投げ込んでおきましたが、あとで植えなおすつもりです。


土間入り口への小路は、もっとも頻繁に通る路にもかかわらず、どう修復していいかわからず、後回しにしていました。電線も見えています。


西の端からなおし始めて、やっと先が見えてきました。
まだ、手つかずのところが何ヵ所かありますが。