2020年4月30日木曜日

ガネーシャ、移住?

 

元々はテラスに置いてあった、石彫のガネーシャですが、テラス修理の工事中、安全な場所に避難させようと、嵌め殺しのガラス窓の隅っこに置いていました。


ところが、いつの間にかガネーシャが、窓の真ん中に移動していました。


ここなら安全だし、もう元の場所に戻さないでいい雰囲気になっています。










2020年4月29日水曜日

修理いろいろ

我が家の電気配線と水道の配管は全部夫がやっています。


もともと、あちこちに配管・配線しているうえ、さらにここに必要だと思ったら、フットワークも軽くすぐ配管・配線してしまうので、蛇口やコンセントや明かりがありすぎるくらいです。


例えばこのニシキギ、軒下に植えてあるのでどうしても水分が不足がちになり、勢いがなかったのですが、テラスを修理したとき井戸水を引き、ポタッポタッと常に水が落ちてくるようにしました。


右に見えるのがそのニシキギです。
もう少し元気になったら刈り込んで、樹高をテラスの手すりくらいの高さにしたいと思っています。

複雑に張り巡らされているゆえに、水漏れが見つかることもあります。
先日、大きな石の下から漏れているらしいのが見つかりました。


「おぉぉい、手伝ってくれ」
見ると夫が石を動かしています。


門ができたあとは、ユンボの入れる範囲は限られています。最善の場所から操作するというわけにはいかず、遠隔からぎりぎりの作業をしなくてはなりません。アームをあまり伸ばすと、石の重みにユンボが耐えられず、つんのめってしまいます。


石を持ち上げて水道漏れをなおしたあと、石を水道に接触しないように置きなおすのですが、ユンボを操作しながらでは、石をいい位置に置けないので、どうしても二人で作業する必要になります。


石は元より少し角度を変えて置きなおされました。


電気配線も、コンクリートを打つ前に中を通しているなど複雑ですが、わりと用意周到に配線されているので、電球を取り換えたりするのに、問題はありません。
ただ、玄関のあかりだけは、二階の部屋の畳をあげないと交換できない仕組みになっていました。
畳をあげるのはそう手間ではないと思いながら、今まであげることなく、4本設置してある蛍光灯のうち3本が切れ、残りの1本も弱くなっていて、玄関の明かりは長く用をなさない状態になっていました。


やっとのことで、畳をあげて器具を取り換えることにしました。
といっても、夫は両膝に人工関節を入れているので脚は曲げられないし、私は脚は曲がるものの、電気の方はさっぱりわかりません。


畳をあげるには、畳屋さんにもらった鉤が役立ちました。


というわけで、久しぶりに玄関が明るさを取り戻しました。











2020年4月28日火曜日

日本の木地玩具


雑誌『季刊銀花』(文化出版局)の1975年夏の号に、「みちのくの木地玩具」という特集がありました。


カラー写真(24ページ)の木地玩具たちは、銀花の編集者が数年にわたって集めたもの、そして記事(16ページ)には、鳴子、温海、遠刈田、弥治郎、白石、温湯、大鰐、木地山、川連、花巻、白布高湯、土湯、中ノ沢、横川と、おもに温泉地を、木地玩具とそれをつくる職人さんをさがして旅をする様子が、集落(当たり前に茅葺きの家など)や古い型の轆轤の写真とともに、興味深く綴られていました。


訪ねてみれば、すでに職人さんの絶えた地域もあったそうですが、一堂に集められた東北の木地玩具の多彩さは、圧巻でした。


2年後の『季刊銀花』の1977年夏の号には、「なつかしの東京の木地玩具」という記事が載りました。


カラー写真(20ページ)で紹介された木地玩具はすべて、広井道顕さんと広井政昭さん兄弟がつくったものでした。
「みちのくの木地玩具」の取材をしていた銀花の編集者が、仙台で偶然に兄の広井道顕さんと出会い、広井兄弟が父の広井賢二郎から学んだ、江戸の流れを汲んだ独楽を200種類、明治になってからつくられたはじめたおもちゃを200種類もつくれると知り、こつこつとつくってもらった木地玩具たちでした。


戦前、広井一家は東京の亀戸で、「おもちゃ屋広井賢二郎」という看板を掲げて木地玩具をつくり、浅草に卸していました。
賢二郎さんはとても才能のある方で、次々と新しいおもちゃをつくっていました。兄弟はそれを見て育ち、小さいころから轆轤に触ったりして、見よう見まねでつくりはじめたのです。


「おもちゃ屋広井賢二郎」では、忙しいときにはお母さんもままごと道具の絵つけなどして、平和に暮らしていましたが、昭和20年の東京大空襲で、家を失っただけでなく、お母さんと幼い弟を失くし、父子3人だけになってしまいました。
東京生まれでふるさとのない一家でしたが、職人さんのつてをたどって仙台に疎開、そこで、細々と独楽などをつくり、賢二郎さんは1970年に亡くなられています。


当時はこけしブームで、木地玩具をつくっても売れないので、あまりつくることもなかったそうですが、広井兄弟は、銀花編集者の頼みに応えて、父のつくっていた木地玩具を、200種類も、難なく再現することができました。

さて、文化出版局から『日本の木地玩具』(菅野新一監修、薗部澄写真、季刊「銀花」編集部編、文化出版局)が出版されたのは、1977年でした。
普及版のほかに、絵本作家であり木版画家でもあった梶山俊夫さんの木版画を表紙にした特装版が200部限定でつくられ、特装版には、鳴子で明和8年創業の老舗「高亀」の店主でもあり、ご自身もこけしや木地玩具の工人であった高橋武男さんのつくられた機関車のおまけもついていました。

その『日本の木地玩具』の特装版を、最近になって古本屋さんで見つけました。
発売当時には逆立ちしても買えなかった、おまけつきの特装版ですが、当時の定価の半値でした。
  

本を箱から出し、かぶせてあるセロファンを取ると、梶山俊夫さんの版画が現れました。


掲載されているのは、だるまやいづめこのように動かないおもちゃ、ままごとなど生活道具、そして多種多様な独楽などのほかに、車がついていて、動かして遊ぶおもちゃが多数載っていました。


木地玩具は、ブリキやセルロイドのおもちゃが現れる前は、独楽、数遊びのそろばんおもちゃ、だるま落とし、輪投げ、けん玉などなど、東北だけでなく日本全国でつくられ、子どもの生活になくてはならないものでした。

『日本の木地玩具』には日本全国の木地玩具が載っていますが、中でもやっぱり東北のおもちゃ、とくに宮城、福島、山形などこけしの産地のおもちゃが、圧巻でした。


そしてこれが、本の付録としてついてきた機関車です。
車軸を車輪の中心ではなく、わざとずれてつけています。


そのため、動かすと車体がごとんごとんと波打って、前後が上がったり下がったりします。


とても端正なお顔でした。
学生時代に鳴子に行ったとき、「高亀」にも寄ったはずですが、鳴子村役場のこけしコレクションの印象が強烈だったので、あまり覚えていません。コロナ騒ぎが落ち着いたら、一度訪ねてみたいものです。


さて、これはやはり宮城県でつくられた自動車です。
東北地方で自動車のおもちゃがつくられたのは早かったようで、明治生まれの人が子どものころに遊んだと話されています。
そして、形は初期につくられた形のままで、昭和までずっと伝承されてきました。


これはデッドストックだったものですが、今はおそらくつくられてはいないのでしょう。


『日本の木地玩具』が出版された1970年代には、消えつつあったとは言え、まだいろいろあった日本の木地玩具ですが、今ではこけしと独楽を除いては、ほとんどつくられなくなっているのではないかと思われます。


木地玩具、かわいいです。






2020年4月27日月曜日

ユンボ復活


夫が、ユンボの高圧パイプをすべてつなぎ終わりました。

  
これで、あと何年も働いてくれそうです。


すごいのはこれです。
壊れていたグリップを、堅木の木っ端を見つけて手づくりしました。


右手のレバーには、もともとのグリップがついています。

なおってさっそく、こいのぼりの竿の先に籠玉を揚げることにしました。
ウインチだけで、倒した竿を立てなおせるかとやってみましたが、先が重くて、途中で空回りしてしまいます。


やっぱり上がらない、ユンボで竿の根元を少しずつ抑えながら、一気にウインチで引っ張ってやっと上がりました。
夢中だったので途中の写真はありませんが、竿の影の先に籠玉がついているのが見えます。


ユンボ復活でした。








2020年4月26日日曜日

湘南の貝細工

コケーシカのネットショップで、貝細工のデッドストックを売っていました。
貝細工なら興味津々、二つばかり注文しました。


届いてびっくり、あれっ、デッドストックだったよね、とまじまじ見てしまいました。
コケーシカが、貝細工専用の箱とパンフレットをつくっていて、すっかりコケーシカ色に染まっています。


付属のパンフレットを読むと、貝のお嬢さんたちは、昭和30年代まで、江の島、鎌倉、葉山の周辺で盛んにつくられ、輸出されていました。
小さな工房でつくられていたのか、あるいは材料のセットを揃える元締めがいて、各家庭での内職でつくられていたのか、どちらだったのでしょう?
 

左はイモガイお嬢さん、右はホタテガイお嬢さんです。
イモガイとホタテガイのほかには、ツブガイ、ヒオウギ、バイガイのお嬢さんがいたようです。


どうやって、台座に固定しているんだろうと底を見ると、身体に通した針金を樹脂のようなもので留めてありました。

貝のお嬢さんたちは、まだ海外への渡航が制限されていた時代に、いち早く海を渡って、フランスのコートダジュールや、アメリカのマイアミで、お土産ものとして売られていたのです。


そうそう、観光旅行が解禁になった1970年代以降、外国の観光地でお土産を買って帰ってみたら、それがMADE IN JAPANだったという笑い話は、どこにでも転がっていました。
そして、私の友人の父上は、1990年代に、奈良でお土産ものとして売るために、ケニヤの木彫りの鹿を輸入する仕事をしていました。
お土産ものとは、そんなものなのでしょう。


パンフレットには、当時の鎌倉由比ヶ浜の夏の写真が載っていました。
由比ヶ浜は、夏休みの間は「芋を洗うような」混雑ぶりでした。
小学生のころ親に連れられて由比ヶ浜に海水浴に行き、それまで瀬戸内海しか知らなかった私は、高い波と黒い砂、そして人の多さにびっくりしたものでした。


さて、貝細工のおまけとして、江の島のしおりが入っていました。


あった、あった、ありました。
すっかり忘れていましたが、こんなしおりが、日本の観光地にはどこにでもありました。


さて、我が家に生息する貝細工たちです。
ちなみに、霞ケ浦の人形は、貝ではなくてタニシでできています。そして、ブンブク茶釜のタヌキは、一見ウニ細工(顔と尻尾は椿の実)に見えますが、茶釜の取っ手や足が貝です。