2023年8月31日木曜日

蚊取り線香立て


Iさんの家を訪問した時、蚊取り線香立てをうらやましげな顔で愛でていたら、
「私も追加で買おうと思っていたので、一緒に頼みましょうか」
と言っていただきました。
ばんざーい、2つお願いしました。


しばらくして、Iさんが持ってきてくださったのは、切込みは入っているけれど、少しだけたわんだ鉄板とフックの蚊取り線香立てでした。
「これを自力で曲げるの?」
ちょっと、いえ、だいぶ勇気が要ります。鉄板は、薄いといえば薄いけれど、簡単に曲げられるほど薄くはありません。
そういえばIさんは、しまうときは平らにしてしまうので場所を取らないと言っていて、何度も曲げたり伸ばしたりしていると折れてしまわないのかと思ったものでした。


フックは真鍮で、先はたたいてつぶしてあります。隅々まで美しい!


おっかなびっくり、少しずつ曲げ始めました。


これでいいかしら?
片方についている突起に蚊取り線香を直接ぶら下げることもできますが、フックを利用するならまだ曲げ足りていません。


もう少し曲げて、フックを渡してみました。


大好きな鉄、重くなく軽やかな鉄。とっても秀逸なデザインです。
蚊取り線香立てといえば、前にも好きなものがありました。


フィンランド製のブリキの蚊取り線香立てです。
大好きでしたが、使うたびに蓋にべっとりと黒いタールが付着します。では蓋なしで使えばいいのですが蓋をして、使うたびに蓋をせっせと洗っていました。で、しばらくして使わなくなり、飾ってしまいました。


最近、ときおり蚊よりも小さい虫が家の中で飛んでいて、刺されるので室内でも蚊取り線香を焚くことがあります。
そんなときの我が家の蚊取り線香立ては右、蚊取り線香を折って好きな長さで使えるので重宝していましたが、美しい道具に進化しました。






 

2023年8月30日水曜日

招き猫の座布団


かつて、赤い座布団は招き猫につきものでした。
最近はお店で招き猫を眺めることもないので情報不足ですが、座布団つきの招き猫が減っているのような気がします。
綿を入れてちゃんと縫ってある座布団、ウレタンシートなどを入れて糊で貼りつけた座布団のほか、小さい招き猫には、赤いフェルトを切っただけのものも、よくついていました。


私は、招き猫を間隔を置かないで飾ってあるので、座布団は邪魔で捨てたり、捨てられないものはガラスビンに保管したりして、敷いていません。ガラスビンの中を見ると、取ってあった赤い座布団は2枚だけでした。


招き猫作家さんの座布団は、古布でつくったこだわりの座布団が多く、招き猫と離すのがためらわれて、場所を取るけれど、そのまま飾っています。


招き猫の雰囲気に合わせた座布団をつくるのは楽しい作業なのか、どれも招き猫にぴったりの座布団を敷いています。


古いちりめんで縫われ、中にパウダービーズを入れた、ふっかふかの座布団に座る招き虎。雰囲気がぴったり合っています。


福岡の津屋崎人形は、土で形をつくるときから、花模様の座布団つきです。


郷土玩具ではほかに、長野県の中野人形にも座布団がついています。
もっとも、この招き猫は、中野人形ではなく、中野人形がなかなか手に入らないので私が粘土でつくった偽中野人形ですが。


座布団つき、張り子の招き虎。


海外でお土産として売られる「Hey!Come on!」の招き猫についているのは、座布団ではなくただの砂浜を模した台座でしょうか?


そして、ちょっと古い招き猫、赤くて素敵な座布団を敷いています。


味な後ろ姿です。





 

2023年8月29日火曜日

原子力マシーン

東京電力は8月24日から福島第一原発にたまる汚染水が保管タンクの限界に達したということで、(浄化処理した)汚染水を海洋放出はじめました。
浄化装置では取り除くことができない 放射性物質トリチウムの濃度は最大で1リットル当たり63ベクレルで、政府の方針で決めた排出基準(1リットル当たり1500ベクレル)を下回ってはいますが、汚染水の発生を止める具体策はなく、放出は廃炉完了まで約30年は続くそうです。
政府の決めた排出基準である、1リットル当たり1500ベクレルまでは安全だという根拠はどこにもないし、30年で廃炉作業が終わるかどうかも疑問ですが、政府ばかりを責められません。そもそも、原発を止めてこられなかったし、新設計画が持ち上がっているのを阻止できていないことは、私たち国民の責任でもあるからです。


しばらく前から、内山田康さんの『原子力の人類学』(青土社、2019年)と、『放射能の人類学』(青土社、2021年)を読んでいました。
正確には、未発表の『美しい顔』を読み、次に『放射能の人類学』を読み、最後に『原子力の人類学』を読み、また『放射能の人類学』を読み返しました。

一般的に、文化人類学者は若い時、フィールドワークと呼ばれる現地調査をします。そのときの報告書を引っ提げて大学教師などの職を得て、以後はその経験から抽出したものを小出しにしながら、理論化しながら生きていきます。
ところが、内山田さんは歩き続けています。歩いては考え、考えては歩いています。他人のレポートを読むより自分の目で見て、自分の耳で聞くことだと言いながら、だれよりも多く他人のレポートや本を読み、そして歩き回っています。

2011年に、東北で大地震が起こりました。地震後、内山田さんはその前年に調査をした石巻を中心に、災害時の状況を聞き取りに、足を運びます。
津波は、役所がつくった「学校では生徒を校庭に並べて出席簿と照合する」といったマニュアルや、NHKの「〇〇時間後に津波が来ます」といった津波警報を信じることなく、過去の経験をもとに、みんなでひたすら高いところを目指して全員助かったという、経験知が救ったという例があったものの、原発事故による放射能は、人々にはまったく知覚できないものでした。
ここから内山田さんの旅が始まります。


ウラン鉱山から廃棄物処理場までの一連を「原子力マシーン」と呼び、フランスのラ・アーグにある再処理工場周辺に暮らす人々を調査し、イギリスのセラフィールドの再処理工場周辺、


ウラン鉱山開発が行われたアメリカのニューメキシコ北西のナヴァホの保留地、やはりニューメキシコの、核兵器の開発が行われ、砂漠には各地から核廃棄物が運ばれてくるロスアラモスなど、放射能測定器を片手に、次々と調査します。


そして、2冊目の『放射能の人類学』では、かつてウラン鉱山のあったガボンのムナナ、日本の人形峠などを歩きます。
これらの地はすべて、遠いようでいて、じつは私たちの生活と深い関係があります。
第二次世界大戦中にアメリカのマンハッタン計画に参加した英国の科学者たちは、戦後セラフィールドではじまった核エネルギー開発に中心的な働きをしました。日本で最初の原子力発電所となった東海発電所の原子炉は、セラフィールドから導入されたもので、福島第一原子力発電所は、アメリカから技術者がやって来て、GEの技術でつくられました。
また、日本の原子力発電所の使用済み核燃料はセラフィールドとラ・アーグで再処理され、日本各地の原発に、MOX燃料が運ばれてきました。再処理とは使用済み燃料からプルトニウムを取り出し、ウランと混ぜ合わせて新しい燃料を作り出すことで、MOX(Mixed Oxide)燃料はそうやってつくられた再生燃料です。
そして、かつてウランを採掘したガボンも、今採掘しているニジェールも原子力マシーンの出発点であり、フクシマは、巨大な原子力マシーンの一部なのです。

1945年にニューメキシコで行われた世界初の核実験

どうして、原子力関係の施設は砂漠や海岸に建てられるのか、それはおびただしい核廃棄物を人知れず処理するのに適しているからです。ラ・アーグでもセラフィールドでも核廃棄物処理場はちょっと見えにくい場所に建てられ、海に向かって処理水の放出管が伸びていて、知ってか知らずか、近くの美しい浜辺では人々が海を楽しんだりしています。ラ・アーグとセラフィールドでは小児白血病の過剰発生が起きましたが、放射能との因果関係は否定されました。
処理水が放出される海中には気の遠くなるような長い時間をかけてつくられた、生物たちのエコシステムが存在します。内山田さんは、放射性物質は海水に向かって放出されているのではなく、エコシステムに向けて放出されているのだと言います。


かつては原子力マシーンの出発点であり、今では打ち捨てられているガボンのウラン鉱山跡、ムナナの現状は、さらに悲惨です。
第二次世界大戦でドイツに占領された屈辱から立ち上がるために始まったフランスの原子力開発は、アフリカでウランを探していた技師たちが1953年にムナナでウラン鉱山を発見したのがきっかけで開発され、以後40年によってウランを供給し続け、1999年には枯渇して閉山、除染も再整備もお金をかけずに終了しましたが、そこに住む人々の生活は続いています。
ウランがなければはじまらない原子力開発、ムナナは半減期が45億年という気の遠くなるウラン238に汚染されたままです。
ムナナのウラン鉱山で働いていた現地の人々は、当時体調を崩すと鉱山の病院に行き、そのデータは取られましたが、結果は本人たちには一度も知らされませんでした。いわば、人体実験だったと思われます。

『原子力の人類学』も『放射能の人類学』も、ともにエッセイのような、日記のような文で、読者は人類学者と一緒に汚染された土地を歩き回ったり、現地の人と同じ乗り合いタクシーの乗り方を覚えたり、汚染には目をそむけて暮らす人々と出会ったり、お腹を壊して便座の壊れたお手洗いに駆け込んだりを一緒に経験しながら、巨大な原子力マシーンについて知ることになります。

内山田さんは、
「ぼくの本は売れないので、青土社はもう出さないと言っている。出版社を探さなくては」
と言っていましたが、だれにでも読んでもらいたい、読み応えのある本でした。

『東洋経済』のネット記事で内山田さんの思いが語られています。
何億年もの汚染の恐怖を知りながら、儲かるからとまだ原子力を使いたがる「人」とはいったい何なのか、電力などを享受しながらも考えてしまいます。

東京新聞の茨城版に、福島第一原子力発電所の廃炉作業の作業員日誌が載っています。最近は、みんなすぐ辞めてしまう、モチベーションが低いと語られていましたが、汚染水を海洋放出する作業員は、モチベーションを高く持ち続けられるのでしょうか?
出続ける廃棄物処理施設をつくって、これから運営する作業員は、モチベーションを高く持ち続けられるのでしょうか?






2023年8月28日月曜日

美濃の竹細工(美濃6)

長々と続いた美濃レポート、これで最後です。
美濃の宿に到着し、夕食も済ませた後、久津輪さんからのメイルを見ました。
「 宿の近くの酒屋さんに、非常持ち出しの大きな籠があります」
次の朝、さっそく見に行きました。


今廣酒販店はすぐ見つかりました。


入り口を入ると、天井にぶら下げた大きな籠が目に入りました。壮観です。
籠目編みで四角い籠をつくり、底は木で台を組み、それに担ぐための棒がついています。


大胆ですが、細部まで精密につくられています。たくさんのものを放り込めば重いだろうから、担いで逃げられるかどうかは別にして、何を放り込んでも大丈夫なように底はしっかり補強してあります。


そして、担ぐ棒に木の台をつないでいる、一部つぶして一部は丸のままの竹の扱い方が美しく見事です。
幸い大火事に合うことなく、この籠は一度も使われずにぶら下げたままだそうです。
「いざというとき、籠はどうやって降ろすのですか?」


「あれを使って降ろします」


と、店主さんが指さしたところに、矢筈が掛けてありました。
矢筈の上のとげとげの棒は何するもの?
階段箪笥には手すりがついているから、実際に上り下りできるんだ!
大福帳が掛かっている!
金庫がはめ込まれている!
随所に時代が刻み込まれた家でした。
「このあたりでは、この非常用の籠は一般的だったのですか?」
「いえ、もう一軒だけ、まったく同じ籠を1つだけ持っている家があるのですが、そこでは非常用籠とは言っていないんです」
籠は針金で綴られていたので、古くても明治につくられたものだと思われますが、よく残っていたものです。
「天井に吊ってなかったら、邪魔だからさっさと処分していたでしょうね」
吊る場所も含めて、見事なつくりの酒屋さんでした。

今回、残念ながら以前本田さんが紹介してくださった徳山民俗資料収蔵庫に行くことはできませんでした。鵜籠といい、非常持ち出しの籠といい、素晴らしい籠を見ましたが、美濃のあたりでほかにはどんな竹細工があったのか、見た籠の数が少なすぎるので、何とも言えません。


それでも、宿で使われていたこの籠は、生活を知る一端になりました。
岡専旅館は典型的な町屋で、土間を入ると細長い中庭に続いていて、奥がとても深いのですが、その最深部の、壊れかけていて閉めることができない戸の奥に納屋があり、そこにこの籠が置いてありました。たぶん落ち葉などを集めるのに使っていると思われる箕形の籠で、使い古したものでした。


太い竹で箕の形に編み、持ち手を抜いてつくってある籠は、写真では知っていますが、実際に見るのは初めてでした。
宿のおかみさんにいろいろ訊いてみればよかったのですが、「奥はどうなっているんだろう?」と勝手に入り込んだプライベートな空間、寝間着の浴衣やタオルなど干した場所にあったので、そんなところで籠を見たとは言えず、そのままになってしまいました。

さて、美濃からの帰り道でのこと、関市にある名古屋行きの高速バス乗り場まで送っていただいたのですが、バスの本数は少なく、待ち時間がたっぷりありました。
バス停前には関市の文化会館があり、その3階に「ふるさと民具室」という、小さな展示室があったので、事務室に声をかけ、鍵を開けて見せていただきましたが、籠は多くはありませんでした。


どこでも見かけるような米あげ籠や、食器籠。


そして、蚕のために桑の葉を集めたり、蚕そのものを運んだりする籠くらいでした。


桑の葉を集める籠は背負子になったものが多いと思われますが、これは背負子になっていませんでした。







2023年8月27日日曜日

空き家の活用(美濃5)


美濃の町で、空き家を活用しながら新しい町づくりをしている現場も見せていただきました。
これは、古い長屋を建て替えて、シェアオフィスにした「WASHITA MINO」です。


間口の広い建物に入り、裏庭からの景色。奥に見えているのは、改築されないで残っている長屋で、確か11軒長屋の8軒分を建て替えたとのことでした。
シェアオフィスとして使ったり、保育園留学の親子が泊まれたり、保育園留学に一緒に来た親が施設をオフィスとして使ったりできます。


かつては、和紙の材料である楮を貯蔵したという、原料問屋さんの大きな蔵と、それに付随した接待のための建物をリノベーションした、ホテル「NIPPONIA」も見ました。
それにしても、名前はなんでも横文字にすればいいという風潮にはついて行けませんが、日本人の、そして時代の限界でしょうか。
余談ですが、霞ケ浦のほとりの素敵なカフェ、フランス語の名前が覚えられなくて、二度と行くことができません。


大きな蔵は補強しながらも梁などを残し、美濃和紙をふんだんに使って照明し、



各種和紙やお隣の町関市の刃物などが売られていました。

蔵の奥には、明治のころに建てられたという建物があり、4つ(だったかな?)に仕切って、ホテル空間になっていました。


お茶室などもあり、縁側には鵜籠の鬼頭さんが再生したという、電灯の笠が使われていました。夜は影が天井に映ってとてもきれいだそう、野地板には杉のへぎ板が縦に使われ、垂木は丸棒でした。垂木が丸棒なら、「めんど」はどうなっているんだろう?そんなことが気になった私でした。
欄間は何と呼んだかしら、木が交互に縦桟になっていて、ずらすと風取りになります。我が家の萩の戸と同じ原理です。


客室の中には、「金庫蔵」を改造した部屋もありました。誰が泊まろうと思うのか、大判小判が押し寄せてくる夢を見そうな部屋でした。


これが金庫蔵の客室の寝室です。


そして、寝室の前の、くつろぐ部屋です。
ほかの部屋はきゃしゃなつくりでしたが、さすがにここは頑丈につくられていました。





2023年8月26日土曜日

鵜籠づくり(美濃4)

岐阜県の森林文化アカデミーでは、昔NGOで一緒に仕事をしていた久津輪さんが教師をしていますが、数年前から松井郁夫さんの長男さんが、教師に加わりました。それだけでも「世間は狭い」のですが、昨年から、夫が教師をしていたころの教え子のSさんの息子のいってつくんが学んでいて、なんと、教師陣18人、学生数80人と小規模の学校なのに、3人もの友人知人がそこで教えたり学んだりしていることになりました。しかも、3人とも我が家に来たことがありますが、3人の間では、森林文化アカデミーに行く前はお互いに面識がありませんでした。

さて、久津輪さんは、これまで数百年にわたって伝えられてきた、しかし今は風前のともしびである、市井の技術を絶やさないことに力を注いでいます。


それは、鵜飼いに使われる鵜籠の制作からはじまり、鵜飼いの舟和傘のろくろ、そして竹細工にも木工にも欠かせない刃物づくり(野鍛冶)の技術の継承まで、学生たちを巻き込んで活動を拡げています。
夫の講演の次の日、鵜籠づくりを継承された、森林文化アカデミーの卒業生の鬼頭伸一さんを、昔は銀行だった建物を利用した工房に訪ねたとき、新潟から来た鍛冶屋さんたちも一緒でした。


長良川の鵜飼いは、鵜籠をつくる竹細工職人さんや、舟をつくる船大工さんに支えられて、1300年も続いてきました。
ところが鵜籠をつくるただ一人の籠師さん(石原文雄さん)に後継者がいないという状態で、2010年から森林文化アカデミーの教師や学生、卒業生らが籠師さんから技術を学ぶ活動をはじめました。その活動の中心になったのが、56歳で早期退職をして森林文化アカデミーに学生としてやってきた鬼頭さんでした。
教師や学生が技術を学び始めて1年後に、籠師さんが体調を崩されて引退するという、鵜籠存続の危機が訪れました。その後は鬼頭さんが中心になり、若いメンバーの指導もしながら自主練習を続け、2014年には師匠や鵜匠さんたちが満足できる鵜籠が制作できるようになりました。

長良川鵜飼の鵜籠(写真提供:石野律子さん)

そして今では、鬼頭さんと安藤千寿香さんという森林文化アカデミー出身の2人が鵜籠を制作、長良川の鵜匠に鵜籠を提供していて、なくてはならない人になっています。
鵜籠には真竹ではなく破竹が使われています。


この日は安藤さんは留守でしたが、鬼頭さんがミニチュアの鵜籠を使って解説してくれたり、質問に答えてくれたりしました。


鵜籠は、底を2本どりの竹ひごで籠目編み(六つ目編み)にして、底から胴に移るところには、補強のための材を入れています。補強の材は太く見えますが、よく見ると、竹は太い幅の方には曲がらないので、細い竹ひごを立てて、何重にも回していることがわかります。
その補強材のところから、底で2本どりだった経材(たてざい)が1本どりに分かれて籠目編みで編み上がり、縁を絞って仕上げています。
最後の籠師さんから、鬼頭さんなどとともに鵜籠づくりの講習を受けた久津輪さんの話では、籠はとても固く編み上がるので、縁を狭めるのはとても難しい、力を入れても狭まってくれず、苦労したとのことでした。
鵜籠は円筒形ではなく丸みを帯びています。そのため太い緯材(よこざい)を入れると、直径が上下で微妙に違うので経材に沿いません。そのため緯材を1本どりではなく2本どりで入れて、球形に沿わせると同時に、胴の真ん中あたりの緯材は太く、上下の緯材は細くして、強度を持たせながらも軽く、そして自然な丸みを出せるよう、細かく工夫されています。


鉋やノミを打つ鍛冶屋さんも見学されていたので、竹細工の刃物も見せていただきました。


きつく編みあがった籠にひごを通すとき隙間を開けるための道具の数々です。
孟宗竹で手作りした道具もあります。


これも竹を通すための道具、鬼頭さんが鍛冶屋さんに注文してつくってもらったものです。


変わり種は刺身包丁を改造したという道具でした。
幅が違うギザギザが刻まれていますが、ここで竹ひごをしごき、幅を等しく削るのだそうです。
木工も竹細工も、よい刃物がよい仕事を約束します。そのため、久津輪さんが、鍛冶屋さんが少なくなっていることに気づき、危機感を抱いたのは当然の帰結とはいえ、全国的な鍛冶のネットワークを立ち上げ、後継者を育成することは、並大抵にできることではありません。


岐阜の鍛冶屋さんがつくったセン(銑)で、破竹の表皮を削ってみている、新潟の若い鍛冶屋さんです。
竹の表皮を薄く剥ぐと、艶が出て、年月を経ると飴色になりますが、何でもかでも表皮を削るのではなく、手のついた籠の持ち手などを削るそうです。