八郷の日々
2026年9月4日金曜日
2026年9月3日木曜日
インドの箕
あの、韓国の世界食糧デーの記事に載っていた、パキスタンのとびきり素敵な箕を覚えていますか?
同じような水草(葦と思われる)で編んだ箕の写真を、ネットで見つけました。
この箕は、水草を並べて紐で綴って、奥を折り曲げてつくってあります。
水草を経材(たてざい)にして、端、折り曲げるところ、補強のために途中に入れる緯材(よこざい)は、水草を複数本まとめるかあるいは平らな材を使っていますが、経材と緯材を編むのではなく、経材を紐で緯材に綴りつけています。
どの箕も、折り曲げたところの両脇に、斜めに掛けた紐が見えますが、この紐はずっと残しておくようです。
箕を編んでいる動画もありました。
男女どちらかがつくるものと決まっているわけではなく、どちらもつくるようです。
これが、東南アジアや南アジアの面白いところです。北から織りもの、陶芸、籠つくりなどの手工芸が伝播したアフリカでは、男性の職能と女性の職能がはっきりと分かれていて、職能だけでなく、市場での商売で手織りの布は男性の扱う商品、工場生産の布は女性の扱う商品などなど、男女の役割が交わることがありません(遅れての海側からの伝播には当てはまりませんが)。
2026年9月2日水曜日
鞍馬寺の阿吽の虎
郷土玩具は、民間信仰と深く結びついています。
「玩具」と呼ばれていますが、単に子どもが持って遊ぶおもちゃというより、安産、子どもの成長、病気平癒など、いろいろな信仰や祈願を込めたものの方が多いのです。
節句飾りのように、「人形」と呼ぶこともできますが、人形は「ひとがた」由来なのですべてのものに使えるわけではない、呼び方は難しいものです。
純粋におもちゃに見える土笛も、土を舐めることで疳の虫(かんのむし、乳幼児が理由もなく激しく泣いたり、夜泣きや癇癪(かんしゃく)を起こしたりする状態の俗称)を抑えるものであったり、身近な鈴やでんでん太鼓は、音を出して祈願や魔除けをするなど意味があります。
さて、水戸に住んでいらっしゃった片山龍男さんは、鞍馬寺の阿吽の虎を手にしたことから郷土玩具収集をはじめられたとのことでした。私自身は阿吽の虎に思い入れはありませんでしたが、一人の学生が下駄履きで歩いて鞍馬山まで行って、張子の虎に出逢ったという物語を知ると、ちょっと興味が湧いてきます。
『日本郷土玩具辞典』(西沢笛畝著、岩崎美術社、1964年)を見ると、
「鞍馬寺の本尊の多聞天、すなわち毘沙門天にちなんで昔から土焼きの虎を売っている。その他宝塔を背負った虎や竹の柄にさした虎の首人形などがあり、大正時代に一刀彫式の木彫の虎に彩色したものも売られた」
と書いてあり、片山さんが出逢ったという張子の虎についての記述はありません。
片山さんは1909年生まれ、当時の学生が何歳ごろなのかわかりませんが、16歳から20歳くらいとすると、片山さんが学生だったのは大正末期から昭和にかけてにあたります。
『全国の郷土玩具一覧』の『京都府の玩具』を見ると、
「鞍馬寺の本殿前には阿吽(あうん)の虎が置かれていて、山科毘沙門堂には虎の張子面があったが廃絶し、かわりに小さな首振りの虎が授与されている」
と書かれています。まさしく片山さんの手にした、阿吽の虎でしょうか? それともただの首振り虎でしょうか?
ところが、現在の時点でですが、山科毘沙門堂の授与品を検索しても阿吽の虎などは授与されてなくて、かたや鞍馬寺の授与品には、土焼きの阿吽の虎や2匹がくっついた虎土鈴、絵馬などがあります。鞍馬寺は左京区鞍馬本町にあり、山科毘沙門堂は京都市山科区安朱山科稲荷町にありその距離20キロ。片山さんが間違えるはずもなく、私の頭にははてながいっぱい残ってしまいました。
土焼きの阿吽の虎です。
わりと大ぶりで重さもある阿吽の虎は、元々土づくりのものだったというより、木取りをするのに適した形、木彫だったものを土焼きにした感じが強くします。
鞍馬寺では古くから一番上の写真の土焼きの虎が授与されていて、大正時代に木彫りの阿吽の虎が加わった。しかし木彫りで量産は難しい。続かなくなって、一時、山科毘沙門堂の張子の虎をつくっていた方を毘沙門つながりで教えてもらって、つくって置いた。でもそれも何らかの理由でなくなり、木彫りで人気があった阿吽の虎を土焼きでつくることになった。
勝手に、そんな妄想をしてみたりしています。
知らんけど。
2026年9月1日火曜日
赤い夜景
夫が撮った、我が家の夕暮れの写真です。
いつもは門のあたり、灯りをつけてはいませんが、灯して撮りました。
「なんか、灯りが赤すぎない?」
「何も加工なんかしてないよ」
また別の夜、
「作業棟の電気消し忘れているよ」
「うん、消してくる」
と外へ出た夫が、
「月がきれいだったよ」
と言って、スマホを持って出てゆき、消し忘れた電気だけでなく、作業棟の灯りを全部つけて写真を撮ってきました。
「赤すぎない? 二階の窓なんて真っ赤じゃない」
「何も加工してないよ。屋根の上の丸い灯りが見えるだろう?」
「見えるよ」
自分で家をつくると、遊びたいところで遊べるのが醍醐味です。クッキングボウルをはめるために、鉄骨にも材木にも穴を開けました。
夫のスマホは、赤がちょっと勝ちすぎです。
作業棟の大梁をあげているときの様子は、2015年10月9日と10月10日のブログに書いています。
2026年8月31日月曜日
葉っぱを食べなかったなんて!
あっちょから、お土産に長命寺の桜もちをもらいました。
長命寺の桜もち屋さんは、東京向島の首都高速入口のそばにあるのですが、最近は車で東京に行くこともないので、大好きだけれどしばらく口にしていない、早速いただきました。
長命寺の桜もちは、塩漬けの桜の葉3枚で包んでいるので、いつも、葉っぱを3枚とも食べるかどうか迷います。1枚だけ食べたり全部食べたりと、その時の気分次第です。
今日は全部食べようと、硬い主葉脈を取り除きました。
最初の一口はちょっとしょっぱかったけれどあとはいい塩梅で、結局、葉を残さず食べました。
夫はと見ると、葉が残っています。
しかも、3枚ともです。
「あらっ、葉っぱは食べなかったの?」
「えっ、食べられると知らなかった」
もう! これまで桜もちを食べたことがないわけじゃないし、何を考えているのでしょう?
日常の瞬間瞬間、一つ一つ、何も考えずに生きているからそんなことになるのです。
地球の未来に思いを馳せたりする前に、桜もちを見たら葉っぱが美味しかったことくらい思い出しながら食べてもらいたいものです。
2026年8月30日日曜日
撞舞(つくまい)
昨日は、afさんがf邸建設に関わった人たちを招いて完成祝いをする集まりがあり、参加させて頂きました。
af夫妻に、大工さん2人、設備屋さん、確認申請に関わった人、造園の人、棟上げのとき高い梁の上をひょいひょい歩いて大活躍された鳶の人、afさんのお友だちで私たちもよく知っているつくばの建築家の人たちなどなど、大人数の集まりでした。
その中で、鳶のKさんが竜ヶ崎の撞舞(つくまい)の舞男を務めたということで、動画を見せて頂きました。
撞舞は、龍ヶ崎に450年伝わる伝統行事で、戦時中は途絶えていましたが、1950年に復活されています。
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| 写真はすべて、「隙ある風景」からお借りしました |
先に撞(つく、舞台のこと)をつけた高さ14メートルの、布を巻いた杉棒を立てます。
それに舞男2人が登っていきます。
棒は地面に掘った穴に差し込み、揺れないように周りに楔を打っているのですが、それでも上空では60センチほども揺れるそうです。
Kさんは、撞舞保存会に入って数十年ですが、3年前から舞男として棒の上に立てるようになりました。登れるのは2人だけですから、先輩が多ければなかなか順番がこないし、後輩が少なければいつまでも(といっても限界があるだろうけれど)登り続けなければなりません。
一緒に練習してきた仲間も、実際に14メートル(4階建てくらいの高さ)の棒の上の舞台に立ってみて、立てなかった人はそこで終わり、舞男になれることはありません。
お祭りの2ヶ月ほど前から本格的な練習に入りますが、Kさんは、
「もう今年はやれないかな?」
と思っていても、やってみればやれているとのことです。
綱での演技は、大回転などが大変ではなく、演技のあと傾斜のある綱を握って、舞台まで帰っていくのが力が要るので大変だそうです。
Kさん、すごいです!
私は高所恐怖症ではありませんが、たとえ舞台が2メートル高さとしても、何にも捕まらないで立つことは、考えただけで膝がガクガクしてしまいます。
撞舞に比べると、梯子乗りは梯子が6、7メートルなので、比べものにならないほど簡単だとか。
撞舞起源は諸説あり、古代中国の民間芸能(手品、軽業、滑稽な技)の一種、尋舞(つくまい)が日本に伝わり、五穀豊穣祈願や雨乞いなど祭りの祭りの神事と結びついたとする説もその一つです。「撞」は柱や竹竿を意味する「橦」の字が転化したものとされ、舞の舞台である長い柱の先を意味しています。
撞舞は、1999年に国選択「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」の選択を受け、また2010年には茨城県から無形民俗文化財に指定されています。
2026年8月29日土曜日
人形たちの後ろに
昨日は、水戸市立博物館で開かれている「郷土人形 昔のおもちゃの展覧会」を見てきました。
見ていたら、会場にいらした、博物館の方かあるいは市のボランティアの方かわかりませんが、薄い冊子を持ってきて見せてくれました。
それは、郷土玩具の展示会、「特別陳列 人形紀行」のカタログの『人形紀行』で、水戸市立博物館で1995年に、多かったからか東日本編と西日本編に分けて開催されたものでした。
このカタログは今でも領分されていたので買うと、巻頭にこのおもちゃたちを、博物館に貸し出した、片山龍男さん(明治42年生まれ)の書かれた文が載っていました。
片山龍男さんは京都で育ったお医者さんですが、当時は水戸市に住んでいらっしゃって、おもちゃコレクターでした。
学生の頃、ある日急に思い立って鞍馬山まで歩いて行ったところ社務所にいろいろな授与品(銭はちゃんととる、と書いてある)が並んでいました。その中に張子の阿吽の虎があり、それを買い求めたのが、片山さんが信仰玩具の収集をはじめた第一歩でした。
片山さんは、転任とともにこの虎を持って四国だけでなく満洲にも行ったのですが、終戦の時に奉天(現在の瀋陽)に残さざるを得ませんでした。戦後、片山さんの郷土玩具の収集は軌道に乗るのですが、奉天に残した虎がいつまでも心残りでした。のちに鞍馬の虎を手に入れるのですが、その時は張子ではなくて土のものになっていたそうです。
今回の展覧会は、「企画展・夏休み子どもミュージアム 郷土人形 昔のおもちゃ展覧会」と称するものだったので、郷土玩具を子どもらに理解してもらうための詳しい説明はあったのですが、このおもちゃたちがどうしてここにいるのかという説明はありませんでした。
さて、片山さんのコレクションは1万点とも言われていたそうですが、『人形紀行』には100葉の写真が掲載されていました。
上は、今戸人形の庄屋拳(狐拳ともいう)です。いまどきさんの敬愛されている尾張屋こと、金澤春吉翁作のものでしょうか?
棚尾人形の織田信長と今川義元。
やっぱり愛知の節句人形はすごい迫力です。
ハイカラさんと兵隊子どもも愛知県のもの。この取り合わせに時代を感じます。
仙台の堤人形の猫引花魁。
キャプションを読まなかったら、猫に気づかないところでした。堤人形の芳賀家には、今もこの型があるのでしょうか?
あったらつくって頂きたくなる猫の可愛さです。























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