2026年2月22日日曜日

赤いビー玉を持っていた!


先日、釣り銭盆をUPしたとき、手持ちのビー玉を釣り銭盆に並べてみました。そして、
「なんだか、赤い色のビー玉が少なくて寂しいなぁ」
と思って、赤いビー玉を買い足しました。


これがそのビー玉です。
ところが、以前のブログを見返してみたら、あれっ、赤いビー玉をすでに持っていました。


しかも、今度手に入れたものより、もとから持っていたビー玉(右)の方がカラフルでした。色つきのビンに入れていたので、あることに気づかなかったのでした。


今度手に入れたビー玉たちの中にいびつなのがありました。ちょっと透明感があって、、つくったときの傷もありました。


乳白色は、透明ガラスに蛍石、骨灰、酸化錫などを加えることによって、細かい粒子が分散して乱反射を起こし、乳白色に見えるようになるので、加える量によって半透明から真っ白の違いが出ます。


これまでブログに、「フランスのビー玉」、「ビー玉掃除は楽しいなぁ」、「ビー玉」、「乳白色のビー玉」など書いていますが、子どものころ、ビー玉で本格的に遊んだことは、ほとんどありません。
小学校時代、休み時間によくおはじきでは遊びましたが、めんこやビー玉、独楽回しなどは男の子の遊びでした。男の子たちは日々これら遊びの腕を磨いていて、技術的にはとうていかないませんでした。
そして、息子たちの時代にはビー玉はすっかりすたれていてしまっていて、昔ながらの遊びと言えば、竹馬、けん玉などでは遊んでいたこともありましたが、野球三昧の日々を過ごしていました。


2024年に、ビー玉に関するとても詳しい本が出版されたようですが、ビー玉の本として手元には、『おもちゃ博物館』全24巻のうちの、第4巻の『めんこ・ビー玉』(多田敏捷編、京都書院、1992年)があるだけです。
48ページの本ですが、ほぼ、めんこについて書かれていて、ビー玉には、残念ながら4ページしか割かれていない本です。というのも、ご著者の多田さんは、めんこでは遊んだので思い入れがあるけれど、ビー玉ではほとんど遊ばなかったようでした。

一川芳員画、丸屋甚八版、1860年

それでも、横浜の居留地で西洋人の子どもたちがビー玉遊びをしている、興味深い絵などが掲載されています。日本にも、それ以前に木の実をぶつ合うような遊びはあったかもしれませんが、ビー玉遊びは西洋から、幕末のころ入ってきたものだとわかります。

ビー玉はエジプトの古代遺跡からも発掘されている古いおもちゃですが、ガラスのビー玉づくりは、19世紀後半にドイツではじまりました。初期には、解かしたガラスを「ビー玉ばさみ」で切り、手作業で丸めました。
1900年代に入ると、アメリカで機械化が進み、溶けたガラスを棒状に垂らして切り、らせん状の溝が切ってある成形機の上で転がしながら丸くする方法が確立されました。模様入りのビー玉は、色のついたガラスを溶かして混ぜたり層にしたりしてつくります。
YouTobeで、現代のビー玉やおはじきをつくる工程や、色を混ぜる方法を見ることができます。


『おもちゃ博物館』は、外国の読者にも向けたもので、日本語と英語を併記していますが、中国のビー玉にChainese Marblesとも書いてあり、写真と文字からお菓子のチャイナマーブルを思い出しました。
小さいころ、行商のおばちゃんが、ゼリービーンズとともに、舐めていると色が何度も変わる色とりどりのチャイナマーブルの袋詰めを持ってきていました。
今どきのチャイナマーブルは外見は白一色で、舐めていると現れる色も1色かせいぜい2色ですが、昔のチャイナマーブルは、この写真の、右のビー玉によく似ていて、舐めると現れる色も多層になっていて、うまく2つに割ると、カラフルな同心円になっていました。
この、中国のビー玉から発想して、お菓子のチャイナマーブルが生まれたのでしょうか?


今まで、色の濃いガラスビンに入っていたビー玉たちも、透明か薄い色のビンに入れ替えてみました。





2026年2月21日土曜日

京都東山、清水の豆人形


高山土人形を買ったとき、おまけで京都の清水の豆人形をいただきました。
杉谷マサさん(1903-1996年)がつくられたお雛さまとのことでした。


親指の第一関節くらいの大きさで、台座は、木片に彩色してあります。
京都の清水の豆人形は、その昔は一文人形とも呼ばれて、つくる人もたくさんいて、清水寺の参道でお土産物として売られました。
私は学生時代から豆人形に親しんできましたが、そのほとんどを杉谷マサさんがつくられていたとは知りませんでした。


我が家に昔から生息しているお雛さまも、杉谷マサさんのつくられたもののようです。
清水寺の参道の清水坂と産寧坂には、お土産ものの八つ橋や五色豆とともに豆人形も売っているお店が、何軒もあります(ありました?)。
最初のころはあちこち覗いていましたが、やがて必ず訪ねるのは産寧坂にあった一坪もないような小さな人形専門店中心になりました。当時は知りませんでしたが、もしかしたら中川正美さんを中心とした中川家の直売店だったのかもしれません。
「ねこれくと」の清水人形によると、

中川家の人形づくりについての詳細はわからないが、『京洛おもちゃ考(奥村寛純、1981年)によると、「伏見人形の小物の下請けをしながら、自分でも小物人形をおもにつくったのは清水にいた中川正房で、中川正美がそれを継いだ」とある。

とのことです。
中川正美さんは、正房さんの息子で、杉谷マサさんの弟です。


今我が家に生息している豆人形は、おもちゃ尽くし、お雛さま、だるま、七福神、そして招き猫などです。よく見ると、七福神の弁天さまは2人もいます。いったい何があったのでしょう?
豆人形は息子たちが幼児のころから家にありました。小さいものなので失われやすく、幼い女の子が勝手に持ち帰って、しばらく気がつかなかったこともありました。
豆人形は小さな籠に布をつけて絞った巾着袋に入っているのですが、袋から出して飾っていました。袋を捨ててはいないのですが、度重なった引っ越しのせいでどこにしまったのか、失せてしまっています。
右上の大きめの招き猫は豆人形とは言わないようで、中川正美さんがつくられたものです。


京都は、何度訪れても楽しく、1か月もいたこともあれば、たった数時間だけ途中下車したこともあります。そんなとき、必ずと言っていいほど、足を向けたのは東山の清水寺界隈でした。
そして、産寧坂の人形店に必ず寄ったのですが、残念ながら閉まっていることがほとんどで、大きなショーウインドーの中に並んでいる人形たちを未練がましく見るだけで帰ったことが、何度もありました。
招き猫たちは、その店に何年も通ったのち、開いていたときに行きあわせて、やっと、やっと手に入れたものです。






 

2026年2月20日金曜日

大きかった!

先日、ひな祭りを前に、私のブログの読者だとおっしゃるかねこさんから高山土人形の雛揃いをいただきました。
かねこさんに、そしていただいたお雛さま自身にも、何らかの形でお礼をすることができないかと考えていたところ、
「そうだ、初代のつくった高山土人形と一緒に飾ろう!」
と、思い至りました。
というのも、このお雛さまが高山人形とわかってからネットで高山人形をいろいろ見ていた中に、初代がつくったお雛さまがいたのです。しかも傷(女雛の向かって右肩)があるせいか、古い人形にしては手の届く値段で売られていました。


ところが、届いてびっくりでした。
サイズが記載してあったのにろくに読みもせず、なんとなく初代のお雛さまも2代目のお雛さまと同じくらいの大きさだろうと思い込んでいたところ、「大きすぎない?」と首を傾げた箱の中から、高さが28センチもある、立派なお内裏さまが出てきたのです。


高山土人形は、初代の岩信成さんと娘の岩光子さんの2代だけで廃絶しています。その初代と2代目の人形は、型が違って作風が似ていません。
これほど違うと、父娘がどんな関係だったのか、想像力がかきたてられてしまいます。一緒につくられたことがあったのか、それとも初代亡き後、それまで人形づくりにはかかわっていなかった2代目が、一念発起して、あるいは周囲に押されて人形づくりをはじめたのか.....。
2代目は、飾りやすいように型を小さくつくりなおして、明るく、カラフルに採色しています。初代のお雛さまを古臭いものに感じさせた時代に、需要に応えた結果だったのかもしれません。

陶工の家に育った初代の岩信成さんは、大正の中頃、愛知県三河や富山などの土人形から型取りして独自の型をつくり、岐阜県高山市山田町で焼かれている伝統的な生活雑器の「山田焼き」の技術で「高山土人形」の制作をはじめています。光子さんもそのパイオニア精神を受け継がれていたものと思われます。


初代のつくった女雛は、左肩を破損していて修理の跡がありますが、お顔が無傷だったのは何より、修理もとてもきれいにされています。
よく、100年以上生き延びてこられました。

さて、今年は旧暦の雛節句をめざして、これから雛壇をつくりますが、初代と2代目の高山土人形だけでなく、できればこれまた桁外れに大きい今宿土人形も一緒に飾れるよう、なんとか工夫したいと思います。
 




2026年2月19日木曜日

新しくなったガスコンロ


三つ口のガスコンロを使っていますが、主に使うのは手前の大きい二口です。
ご飯を炊くとき、沸騰するまでは強火で沸騰したら弱火にして炊くのですが、その時にお鍋を奥に移して使ったり、汁ものを保温しておいたりするくらい、奥の小さい口はそう出番はありません。
しばらく前に、左の口が点火はするのですが、すぐ消えてしまうようになりました。ガス屋さんに見ていただくと、それぞれの口には2つずつセンサーがついていて、火がついていることがをセンサーが確かめたらガスを送るのだとか、そのセンサーが壊れているのでガスの供給が止まって消えてしまう、修理はできないと言われてしまいました。
「型番を見ると2008年製なので、寿命ですね」
「あれぇ、そうなんだ」
ということで、下のオーブンはそのままで、上のコンロ部分だけ取り換えることになりました。
器具を取り寄せて修理屋さんが来てくれるまで約1週間、ほぼ一口だけで過ごしましたが、やっぱり不便で料理の品数を減らしたりしました。


修理の日、ガス屋さんが来てくれてコンロを外しました。
サワラで自作した甲板は、コンロが乗っていた外周が真っ黒になっています。
「これって、焦げたのかしら?」
「いや、油汚れですね」
スパチュラでがりがりやってみたけれど、限界がありました。手前はまだらになってしまいました。かといって、サンダーできれいにするほどのこともないので、あっさり諦めます。


新しいガスコンロが設置されました。
前のと似ていますが、五徳など、外せるものは洗いやすいように細部が改良されていました。もっとも、前のは「ハーマン」という機種でしたが、ハーマンは「ノーリツ」に買収されたとかで今度のはノーリツだという違いはあります。


自動的に魚グリルも新しいものになったのですが、網も受け皿もフッ素コーティングされていません。
以前はコーティングされていたものを、夫がガリガリとスチールたわしでこすって、そこだけ掃除しにくくなったのに、以後もスチールたわしが使えないで、めちゃくちゃ汚くなり、グリルだけ買いなおしたことがありました。コーテイングされてなければ、いくらガリガリやっても大丈夫です。

弱火と強火の位置が、以前のコンロとは反対に設定されていることにはなんとか慣れましたが、新しいコンロは、最大の火力にしないとガスが出ている音がしません。ちょっと火力を下げると無音になるので、本当に火がついているのかどうか、いつもお鍋の下を覗き込んで確かめています。
車の音もそうですが、ガスも少しは音がした方が安心できます。






 

2026年2月18日水曜日

プラスティックの招き猫


まことさんの店にこまごまと並んだおもちゃの中にあった、プラスティックの招き猫です。汚れ返っていたのをちょっと拭いてみました。


がちゃがちゃにしてはちょっと大きすぎ。


飾りものにしてはチープすぎる。子どものおもちゃ? 需要があるのかなぁ? 
どんな目的でつくられたのかわからない代物です。
といっても、ちゃんとした招き猫たちの隣にいたこれに、手が伸びてしまった私がいたのだけれど。


手彩色に見えたので中国製かと思ったのですが、MADE IN CHINAの表記はどこにもありません。
中国製品には、まめにMADE IN CHINAと記してあるのですが。


赤坂人形の相合傘を買ったら、おまけとしていただいてしまいました。








2026年2月17日火曜日

赤坂人形の相合傘


骨董市で、まことさんのお店に、いろいろな郷土玩具に交じって、福岡県赤坂人形の「相合傘」がありました。笛はいい音で鳴ります。
赤坂人形は福岡県の片田舎、「赤坂飴本舗」の看板が上がっている野口さんの家で、1年に2度ほど焼かれている、素朴な土人形で、種類は案外たくさんあるのです。


赤坂人形は、飴屋さんでつくられてきただけに、かつては素焼きした生地に白陶土と小麦粉を混ぜたものを塗り、その上に食紅など食用染料で彩色されていたので、白色ははげ落ちやすく、食用染料も褪せやすいものでしたが、今では胡粉を塗った上に絵の具で彩色されています。



 



2026年2月16日月曜日

つくば市民ギャラリー



キルト展の会場のつくば市民ギャラリーに、事前確認に行ってきました。
市民ギャラリーは公園内に建っているのですが、重くて大きい枠やキルトを一般駐車場から何度も何度も運ぶのは大変なので、自動車を横づけできるのか、無料駐車場はあるのかなど確かめて、内部の空間も、再度確認してきました。


池には鴨が泳いでいました。
池の近くに、「人間が泳ぐための池ではないので、泳ぎたい人は自分で責任を持つように」との貼り紙があって、笑ってしまいました。


もう準備がほとんど整っているし、ギャラリーを2月24日から3月1日まで借りているのに、開催日は2月27日、28日、3月1日の3日間だけなので、余裕たっぷり(?)です。