八郷の日々
2026年7月31日金曜日
自然の一部の私たち
6月26日の『東京新聞』に、東京都世田谷区の等々力渓谷の地力再生の記事が載っていました。
2023年にシラカシが倒れて遊歩道をふさいだことから樹木医に調査を頼むと、この数年の暑さで害虫にやられて、水も吸い上げなくなって枯れたとわかりました。他にも傷んだ木があったことから、区は斜面全体の環境の悪化を重く受け止め、環境再生の専門家の高田宏臣さんに相談して、27年度までに総延長500メートルほどの斜面を改善することにしました。
人工物を取り除いて土中の滞水を防ぎ、健全な循環を促す土留めをして、水や空気が地中深くに届くとともに、湧き水は渓谷に流すよう、逃げ道をつくってやりました。
その記事がきっかけで、新聞を共有しているGさんが、『土中環境 忘れられた共生のまなざし』(高田宏臣著、建築資料研究所、2020年)と、『よくわかる土中環境』(高田宏臣著、PARCO出版、2022年)を貸してくれました。
高田宏臣さんには一度、筑波山麓のCご夫妻の家でお目にかかったことがありました。Cご夫妻は、斜面に立つ家の土中環境の改善を高田さんにお願いしていて、そのお話を聞く集まりがあったのです。三春の友人Wさんも、高田さんを招いて丘の斜面を地域の親子たちと再生させるワークショップを催していたし、いろいろな場所でお名前を聞きます。
というわけで、この2冊を読ませていただきました、
以下は、『よくわかる土中環境』の一節です。
私たちは自然の一部です。空気を吸い、水を飲み、そして命を食物として摂取する。その循環の中にすべての命が営まれる事実は、どんなに時代が変わろうが、あらがえない事実であります。自然と切り離された現代の暮らしの中で、そのことを忘れ去ってしまっても、人間として、そして生き物として、命のバトンリレーの中で万年億年と刻まれてきたその細胞の記憶の奥に、調和のとれた自然、多様な命の息づくことができる環境を美しいと感じ、心地よいと感じる完成が必ず眠っているものでしょう。
現代の発展の中で、そして自然と切り離された暮らしの中で、そういう大切な感覚を私たちは見失ってきました。その結果、社会の変化、科学技術の進歩の陰で、環境の問題をより複雑にしてしまい、そしてそれを大きく積み上げてしまったように思えます。
今私たち一人一人が、そんな心の奥にある自然との絆に気づき、それを再び取り戻すこと、そこに豊かで美しく、温かく懐かしい、そんな素晴らしい未来への扉を開く鍵があることでしょう。
日本には自然の循環を壊さず暮らしてきた長い歴史があります。それを壊してきたのはわずか数十年です。それは、土中を含めた自然の仕組みを知らないからであり、山とか、里、海をつながりから見ていないからです。まずは、そこを知ることから始めてほしいと思います。土の中が見えてくれば、先人の営みが見えてきます。
久しぶりに、畠山重篤さんの『森は海の恋人』(北斗出版、1994年)も手に取ってみました。山が健康でないと海は健康でない。海の健康を取り戻すために山の再生を身をもって実践された畠山さんは昨年逝ってしまわれました。
2026年7月30日木曜日
おもちゃ談義、直し談義
昨日は、昔の仲間のMSさんとHTさんが遊びにきました。
MSさんは東京郊外の日野に育った家があります。ご両親を見送って一人暮らしとなってから、NPO法人「コレクティブハウジング社」と協力して、母屋をシェアハウス+「まちのコモン」 として建て替え、コモンスペースはイベントなどにも使います。
MSさん自身が住む家は敷地内にあり、隣に建つ、かつてご両親が暮らした母屋は小さな共同住宅となり、ふらっと立ち寄れるみんなのコモンとして庭と居間を開放したのです。完成間近で、4室ある部屋は3室埋まりましたが、もう1室残っているそうです。
HTさんはニューヨーク州立大学で美術を学んだ後、デザインの仕事などしていましたが、インドシナ難民キャンプの保育所で「平和は子どもから始まる」という言葉に出逢い、国際モンテッソーリ教師の資格を得て、以後子どもの教育に携わってきました。
モンテッソーリは、「大人は場を与えるだけ、学ぶのは子どもたち自身」(違うかな?)という考え方から、学び舎を大切にしています。というわけで、HTさんはこの度『モンテッソーリの建築 子どもの学び舎のためのデザイン』という本を翻訳され8月7日に発売されます。
共通の友人のM+MのMちゃんは、残念ながら東京で仕事でしたが、Mくんとも一緒にご飯を食べて、楽しいひと時を過ごしました。
さて、HTさんは子どもの教育に携わるくらいだから昔から子どもの遊び(おもちゃも)が大好き、2階の展示室で動くおもちゃを色々動かしながらおもちゃ談義が弾みました。
ヘビのおもちゃでこんなに喜んでくれる客は、滅多にいません。
竹のヘビだけでなく、紙でできた走るヘビも見せようと手に取ったら、壊れていました。ゴムを車に巻いて、それが元に戻る力で動くのですが、輪ゴムはすぐ劣化してしまいます。
その夜、彼女たちが帰ってから、紙のヘビたちを修理しました。
切れてしまったゴムを取り除き、新しい輪ゴムを切って、紙粘土でできた車の2つの穴に通して結び、ヘビ本体の金属でできた引っ掛ける場所に引っ掛けたら修理完了です。
ヘビたちは元通り走るようになりました。
フィリピンのヘビは色が綺麗に残っていますが、タイの路上で出逢ったヘビはすっかり色褪せてしまいました。
修理といえば、修理してある民具の話でも盛り上がりました。
HTさんのお連れ合いは、ユネスコで世界遺産の選定などに携わっていた方ですが、現在は東京の国分寺でカフェ「スロー」をやっています。有機栽培された野菜を使った美味しい食事やコーヒーを出す、80席もある大きなカフェで、映画上映会など様々な集いも企画しています。
その中に「直して使う」という企画があって、地域の人たちが集まって、割れた器を金継ぎしたり、自転車の修理をしたりしているとのことでした。
というわけで、修理してあるものたちに目をとめていただいて、話が弾んだことでした。
いいよね、直してあるひょうたんや木の器たち。
2026年7月28日火曜日
アヒル(?)の行進
2026年7月27日月曜日
アケビの背負子
先週、朝見ると家の壁に掛けていた背負子が落ちていました。
これで落ちたのは二度目、吊るしていたタコ糸が切れていたので結び直しておいたのですが、全体的に劣化していたようで、また落ちたので新しいタコ糸に交換しました。
それにしても、元の自然素材の強さに感心です。タコ糸は傷んでも籠自体はびくともしていません。
篠竹(鈴竹?、根曲竹?)の骨組みにアケビを巻きつけた籠、我が家に来る前に長く使われて、我が家に来てからも、何年も戸外に置かれています。
室内に置くことができればいいのですが、大きすぎて、外で甘んじてもらっています。
しかし、この籠はどこでつくられたものでしょう?
底が尖っているので、急峻な山に農地があった地方で使われたものだと思われますが、長野県あたりか、それとも青森、秋田、宮城県あたりで使われたものか、知りたいものです。
2026年7月26日日曜日
四葉のクローバー
「安住紳一郎の日曜天国」で数週間前に、四葉のクローバーが話題になっていました。
リスナーから、「私は足を止めないで歩きながら四葉のクローバーを見つけるのが得意」という投書があり、それに応えて、今年になってすでに1000本以上(だったかな?)見つけた人、たくさんのものの中の異物を見つけ出すのを職業としているので四葉のクローバーを見つけるのが得意だという人など、たくさんの「私得意です」というメールがある中、熱心に探してもこれまで一度も探し当てたことのない人(安住さんもそのひとり)もいて、2週にわたってその話で盛り上がっていました。
私もかつて、四葉のクローバーを見つけるのが得意でした。行く先々で、意図しないでも見つけたし、何人かで探してもすぐ見つけるのは私でした。ところがラジオを聴いていて、最近はとんと見つけてないなと思い、庭に出た時には下を見て歩いてみました。我が家の庭には、最近はクローバーが増え、刈っても刈っても勢力範囲を広げているのです。
ところが1本も見つかりません。ではと立ち止まって、しかししゃがむと立ち上がるのが大変な年になっているので立ったままでクローバーの群生を見つめても、四葉のクローバーはまったく目に入りません。
これは、このところ生えすぎるクローバーを暇さえあれば抜いている私へのクローバーの報復に違いないと、四葉のクローバーを見つけるのはあっさりと諦めました。
ところが一昨日のことです。
夫の机の上でスマホが鳴りました。例によって夫はスマホを携帯せずに庭に出ていました。そこでスマホを届けて、ふと足元を見ると四葉のクローバーが目に入りました。
わおぅ! 久しぶりです。
見つかると、やっぱり嬉しいものでした。
2026年7月25日土曜日
浜松張子の鯛車(2)
浜松張子は明治元年ごろ、明治維新により禄を離れた旧幕臣三輪永保(ひさやす)が反古紙を使って江戸風の張子玩具をつくったのがはじまりです。永保は息子の永智(ながと、ー1955年)にも張子の技術を習得させて、父子二代で、武家好みの気品のある張子を制作しました。
昭和20年6月18日の浜松大空襲で工房は焼け落ち、張子の木型、資材などはすべて灰燼に帰しました。永智の妹の三代目二橋志乃さん(1880−1973年)は、戦後すぐに精力的に古型の復元に取りかかり、昭和32年(1957年)には、古型をほぼ復元して、浜松張子の継承に貢献されました。
写真は、志乃さんのご子息の妻、四代目の二橋加代さん(ー2017年)作の鯛車です。
左は加代さんの娘の五代目の鈴木伸江さんのつくった鯛車、祖母の志乃さんが復元された型を使っています。
右の、加代さんの鯛車には銘はありませんが、「浜松鯛車 56/1/11 例会」と書いたシールが貼ってあるので、「日本郷土玩具の会」か何かの昭和56年(1981年)の正月例会で、領分されたもののようです。
母と娘の鯛車を比べてみると、右の加代さんの鯛は、伸江さんの鯛よりも胸びれが横に開いていて、お腹が白いという違いが目につきます。
浜松張子には「ころがし」と呼ばれる車のついたものや、「首振り」、「起き上がり」、吊るして手足が動くものなど、動かして遊ぶ玩具も多く、どれをとってもかわいらしいのですが、ころんとした鯛車の可愛さは格別です。
2026年7月23日木曜日
お久しぶり!
来週、MSさんとFTさんが遊びに来るので、だいぶ伸びて通りにくくなっていたM+M家への道の草を刈りました。
当時、カンボジアでは、ヴェトナムを後ろ盾にしたヘンサムリン・フンセン軍がポルポトの圧政わ終わらせようと攻め入って、各地で戦闘が繰り広げられたのち、カンボジア西部にまで追い詰められたポルポト派は、西部で連日、激しい抵抗を続けていました。タイ東部には命からがら国境を超えたカンボジア人が連日押し寄せ、アランやプラテートに国連が難民キャンプを開設、各国のNGOが救援活動をしていました。
日本は「金は出しても人は出さない」と国際社会から白い目で見られていたのですが、実際には、若い人を中心にたくさんの日本人が休暇をとり、学校を休み、仕事を辞めてバンコクの日本人会の建物に集まっていました。
しかし、国連にNGOとして登録しなければ、難民キャンプに入ることさえできません。バンコクの日本大使館にもなんとかしたいと考える人もいて、いろいろな人たちが力を合わせて、日本人会の1室を借りて事務所として、日本で最初の国際協力NGOが誕生しました。
Mくん、Mちゃん、FTさん、MSさんはそんな、日本から駆けつけた中の一人で、以後も活動にかかわった人たちでした。そして私たち家族は、1979年暮れにバンコクに来ていたのですが、誘われて活動に参加するようになり、そこで、Mちゃんたちと出会ったというわけでした。
FTさんには1981年に、ビルマに連れて行ってもらったことがありました。
私は長期ビザを持っており、短期で取り直す必要はありませんでしたが、難民キャンプで働く人たちは3ヶ月のビザしかなく、3ヶ月ごとにマレーシアのペナンまで行って、タイに再入国するということをしていました。すでにペナンに何度も行ってビザを延長していたFTさんはそのときビルマに行くことにして、同じくビザが切れるTちゃんとYちゃんを誘っていました。それを聞いた私は、俄然ビルマに行ってみたくなり、一緒に連れて行ってもらうことにしました。
ビルマは、外貨獲得のために1週間に限って観光客を受け入れていたのですが、外国人の行ける場所は数ヶ所に限られていました。そのため観光客(ほとんどは一人旅のヨーロッパ人)の目的地はほぼ一緒なので、列車の切符も国内線の飛行機の切符も宿泊所の予約も早い者勝ち、取り合いでした。誰もが、目的地に着くや否や、文字通り走って地域の旅行局に駆け込み、次の目的地までの乗り物の予約をし、宿を予約しました。
首都ラングーンからマンダレーまで飛行機が取れなくて列車旅をした私たちは、それはそれで楽しかったのですが、時間が限られている中、以後はうかうかしてはいられません。行く先々で二手に分かれてそれぞれの窓口に走り、予約が取れてよかったと胸を撫で下ろす場面が多々ありました。
例えばマンダレーからパガンへは、飛行機で行けば1時間ほどですが、席が取れなければイラワジ川を船で行くしか交通手段がありません。船旅は風情がありそうなものの、24時間以上かかってしまうのです。
ビルマで感心したことは、列車でも飛行機でも、観光客が座れる席は限られていて、地元の人の移動を制限しないように考えられていたことでした。
1990年前後にカンボジアに駐在していたMSさんには、タケオやプレイヴェンに連れて行ってもらいました。タイ・ラオス・カンボジア3国の農民を集めて、それぞれが行なっている持続可能な農業を共有し合う会議をタイで開く準備のために、私は初めてカンボジアを訪問したのです。パリで和平協定が結ばれる前の年のことで、まだプノンペンは人影もまばらでした。





























