来週、MSさんとFTさんが遊びに来るので、だいぶ伸びて通りにくくなっていたM+M家への道の草を刈りました。
MくんとMちゃんだけでなく、MSさんとFTさんとも1980年にタイのバンコクの日本人会の建物で出会った仲です。
当時、カンボジアでは、ヴェトナムを後ろ盾にしたヘンサムリン・フンセン軍がポルポトの圧政わ終わらせようと攻め入って、各地で戦闘が繰り広げられたのち、カンボジア西部にまで追い詰められたポルポト派は、西部で連日、激しい抵抗を続けていました。タイ東部には命からがら国境を超えたカンボジア人が連日押し寄せ、アランやプラテートに国連が難民キャンプを開設、各国のNGOが救援活動をしていました。
日本は「金は出しても人は出さない」と国際社会から白い目で見られていたのですが、実際には、若い人を中心にたくさんの日本人が休暇をとり、学校を休み、仕事を辞めてバンコクの日本人会の建物に集まっていました。
しかし、国連にNGOとして登録しなければ、難民キャンプに入ることさえできません。バンコクの日本大使館にもなんとかしたいと考える人もいて、いろいろな人たちが力を合わせて、日本人会の1室を借りて事務所として、日本で最初の国際協力NGOが誕生しました。
Mくん、Mちゃん、FTさん、MSさんはそんな、日本から駆けつけた中の一人で、以後も活動にかかわった人たちでした。そして私たち家族は、1979年暮れにバンコクに来ていたのですが、誘われて活動に参加するようになり、そこで、Mちゃんたちと出会ったというわけでした。
当時、カンボジアでは、ヴェトナムを後ろ盾にしたヘンサムリン・フンセン軍がポルポトの圧政わ終わらせようと攻め入って、各地で戦闘が繰り広げられたのち、カンボジア西部にまで追い詰められたポルポト派は、西部で連日、激しい抵抗を続けていました。タイ東部には命からがら国境を超えたカンボジア人が連日押し寄せ、アランやプラテートに国連が難民キャンプを開設、各国のNGOが救援活動をしていました。
日本は「金は出しても人は出さない」と国際社会から白い目で見られていたのですが、実際には、若い人を中心にたくさんの日本人が休暇をとり、学校を休み、仕事を辞めてバンコクの日本人会の建物に集まっていました。
しかし、国連にNGOとして登録しなければ、難民キャンプに入ることさえできません。バンコクの日本大使館にもなんとかしたいと考える人もいて、いろいろな人たちが力を合わせて、日本人会の1室を借りて事務所として、日本で最初の国際協力NGOが誕生しました。
Mくん、Mちゃん、FTさん、MSさんはそんな、日本から駆けつけた中の一人で、以後も活動にかかわった人たちでした。そして私たち家族は、1979年暮れにバンコクに来ていたのですが、誘われて活動に参加するようになり、そこで、Mちゃんたちと出会ったというわけでした。
FTさんには1981年に、ビルマに連れて行ってもらったことがありました。
私は長期ビザを持っており、短期で取り直す必要はありませんでしたが、難民キャンプで働く人たちは3ヶ月のビザしかなく、3ヶ月ごとにマレーシアのペナンまで行って、タイに再入国するということをしていました。すでにペナンに何度も行ってビザを延長していたFTさんはそのときビルマに行くことにして、同じくビザが切れるTちゃんとYちゃんを誘っていました。それを聞いた私は、俄然ビルマに行ってみたくなり、一緒に連れて行ってもらうことにしました。
ビルマは、外貨獲得のために1週間に限って観光客を受け入れていたのですが、外国人の行ける場所は数ヶ所に限られていました。そのため観光客(ほとんどは一人旅のヨーロッパ人)の目的地はほぼ一緒なので、列車の切符も国内線の飛行機の切符も宿泊所の予約も早い者勝ち、取り合いでした。誰もが、目的地に着くや否や、文字通り走って地域の旅行局に駆け込み、次の目的地までの乗り物の予約をし、宿を予約しました。
首都ラングーンからマンダレーまで飛行機が取れなくて列車旅をした私たちは、それはそれで楽しかったのですが、時間が限られている中、以後はうかうかしてはいられません。行く先々で二手に分かれてそれぞれの窓口に走り、予約が取れてよかったと胸を撫で下ろす場面が多々ありました。
例えばマンダレーからパガンへは、飛行機で行けば1時間ほどですが、席が取れなければイラワジ川を船で行くしか交通手段がありません。船旅は風情がありそうなものの、24時間以上かかってしまうのです。
ビルマで感心したことは、列車でも飛行機でも、観光客が座れる席は限られていて、地元の人の移動を制限しないように考えられていたことでした。
1990年前後にカンボジアに駐在していたMSさんには、タケオやプレイヴェンに連れて行ってもらいました。タイ・ラオス・カンボジア3国の農民を集めて、それぞれが行なっている持続可能な農業を共有し合う会議をタイで開く準備のために、私は初めてカンボジアを訪問したのです。パリで和平協定が結ばれる前の年のことで、まだプノンペンは人影もまばらでした。


































