上の写真の箕は、どこの箕でしょうか?
『自然を編む知恵と技 箕』の「全国片口箕産地一覧」の写真と見比べたり、奥畑正宏さんの「調査ノート」を読んだりしながら推測して、「津軽箕」かなと思いましたが、はっきりとは特定できませんでした。幅90センチ、奥行き73センチ、高さ16センチの大きな箕です。
もしかしたら津軽箕ではないかも知れませんが、津軽箕であると仮定して、以下、津軽箕について書いてみたいと思います。
津軽箕の経材(たてざい)はフジ、緯材(よこざい)はイタヤカエデ、縁材はネマガリダケ、巻材はサルナシ(=ニギョウ)、補強材はヤマザクラの樹皮で、ヤマザクラは補強というより素敵な装飾に見えます。
『自然を編む知恵と技 箕』の第6章資料編の、「全国片口箕産地一覧」の表によれば、1950年代には、青森県弘前市の東目屋村と西目屋村の2カ村合わせて、箕のつくり手の家が約30軒ありました。
時代的に、津軽箕の生産量が最も多かったのは1955年(昭和30年)で、一人のつくり手が年間で300個ほど箕をつくり、できた箕は、つくり手自身がおもに青森県内を行商して売りさばきました。
30軒のつくり手がそれぞれ300個ずつつくったということは、1年間で9000個もの箕が生産され、青森県の農家に供給されたことになります。
太平洋戦争終戦以前の農業形態は、少数の地主が農地を所有していて、多くの農民は地主の農地を耕す小作農でした。
戦後まもなくの1946年(昭和21年)に、占領軍発案の民主化政策として「自作農創設特別措置法」が制定され、地主から農地を強制的に買収し、その土地を耕している小作人に払い下げる大規模な改革が行われました。また、農地改革によって創出された自作農が自身の土地をより効率的に耕作するためと、土地改良事業の一環として、1950年ごろから急速に区画整理(圃場整備)が組織的に行われるようになりました。
それらのことと、1955年が箕の需要のピークだったことは、深く関係していたように私には思われます。この頃までに箕が自作農になった各農家にいき渡ったのではないでしょうか。
私は昭和30年に1000円で購入したと墨書きのある箕を持っています。箕は自作農家には必需品だったものの、値が張るものでした。

さて、日本の片口箕の、もっとも古い出土品は、弥生時代前期(紀元前8世紀ごろ)のもので、箕は水田稲作とともに朝鮮半島からもたらされたものと推定されています。
もたらされて以後、箕は何千年にもわたって、農業などに欠かせないものとして、途切れることなくつくられ続け、使われ続けてきましたが、1960年代(昭和20年代半ばから30年代半ば)に、生業である稲作を含む農業の劇的変化により、衰退を余儀なくされました。
もたらされて以後、箕は何千年にもわたって、農業などに欠かせないものとして、途切れることなくつくられ続け、使われ続けてきましたが、1960年代(昭和20年代半ばから30年代半ば)に、生業である稲作を含む農業の劇的変化により、衰退を余儀なくされました。

箕は、農具の中でも特別なものでした。
2025年に発行された『秋田県立博物館研究報告第50号』の、齊藤壽胤さんと丸谷仁美さんが書かれた、「箕を売る 太平(おえだら)箕の行方と箕売り習俗」には、以下のような一文があります。
2025年に発行された『秋田県立博物館研究報告第50号』の、齊藤壽胤さんと丸谷仁美さんが書かれた、「箕を売る 太平(おえだら)箕の行方と箕売り習俗」には、以下のような一文があります。
「箕」は、穀物を入れてあおり、籾殻や塵を選別する、または穀類を集める、入れる、 運ぶ、などに使われることが多いことから、箕そのものが穀類の豊穣をもたらすと感受され、刈り上げの節供や小正月の御霊の飯を盛る祭器具とも なり、また、病気や悪霊除却の呪具とも見なされて、他の農具とは格段な信仰的に扱われることが明らかである。






































