八郷の日々
2026年9月12日土曜日
古賀の猫
長崎県の古賀人形の座り猫です。
16代目の小川セイさん作、白に黒と赤で鮮やかに彩色されていましたが、すっかり色褪せてしまいました。
お尻の模様が特徴的、左から見ると、ずいぶん厚みがあります。
学生時代(なんと1963年!)に窯元を訪ねたとき、私が手に入れた古賀人形のラインアップです。
阿茶さん(シャモを抱えた中国人)以外は結構地味な選択をしていますが、そのとき特にフクロウの笛がとても気に入ったのを思い出します。日本にはこんなおもちゃがあったのかと思ったことでした。
常滑系の招き猫に似せて(触発されて?)つくられた古賀の招き猫です。常滑系の猫はドロドロに溶かした粘土を型に流し込んで大量生産しますが、古賀人形は2つに分かれた型の内側に、粘土の板を貼りつけて、それを合わせてつくっているので、ずっしり重いところが違います。
「ねこれくと」によると、手足の先が斑になっているのが珍しいとか、なるほど、常滑系の猫の手足の先は白いままで、赤で線が描かれ、大きいものには金や銀で爪が描かれています。
常滑系の招き猫のスタイルが確立したのは第二次世界大戦以後なので、古賀でこの形の招き猫がつくられはじめたのはさらに後ですが、いつつくられはじめたかはっきりしていません。
底に52年9月(1977年)と書かれているので、この猫の前の持ち主が購入した年月と思われます。セイさんは1966年に亡くなられているので、これは17代目の小川索(なわ)さん(あるいは18代目の亨さん?)作のものと思われます。
現在、19代目の小川憲一さんが古賀人形制作を引き継いでいらっしゃいますが、憲一さんの猫には髭が描かれています。
また、憲一さんは首輪に模様も描いています。
2026年9月11日金曜日
秋野不矩
友人にお礼状を書こうと絵葉書を探していたら、秋野不矩さんの絵葉書が出てきました。
秋野さんの絵は大きいのですが、絵葉書サイズで見ても素敵です。
茨城県北部の五浦(いづら)にある天心記念五浦美術館に「秋野不矩展」を見に行ったのは2003年、あれからもう23年も経ってしまいました。
秋野さんは1962年に日本画の客員教授としてインドで1年間を過ごして以後、ずっとインドに行き続け、インドを描き続けました。
どれも大作ばかりで、この「プラーミンの民家」も横が212センチもあります。
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| 1998年、90歳。この年インドを1ヶ月旅しています。 |
秋野不矩さんは2001年に亡くなられて、2003年に、兵庫県立美術館、茨城県天津記念五浦美術館と静岡県の天竜市立秋野不矩美術館で追悼展が開かれたのです。
絵葉書は、結局違うもので出しました。
せっかく今まで一緒にいたこの絵(絵葉書ですが)たちをやっぱり一緒にしておこうと思って。
2026年9月10日木曜日
2026年9月9日水曜日
元気になってください
8月末にべにや民芸店で「吉田義和 今戸土人形展」をされたいまどきさんは、展示会に向けての追い込みで無理をされたに違いないのに、毎日実演のためにべにやに通われました。きっとできるだけたくさんの作品を皆さんに届けたいと思われてのことでしょう。
ところが、いまどきさんには持病があり、足が悪い身で、電車の乗り換え、駒場東大前駅での急な階段や坂道がこたえたのか、べにやにいるときに調子を崩されて、そのまま入院されました。
Facebookを拝見すると、ずいぶんよくなられているようですが、そんないまどきさんにエールを送ろうと、我が家にあるいまどき作品たちを全員集合させて集合写真を撮ろうと思い立ちました。
しかし、集めてみたら多すぎる! とても集合写真は撮れないので、個別に撮りました。
狐たちはたくさんいました。
鉄砲狐、口入れ狐、王子の狐、子守り狐、馬乗り狐、三すくみ(狐拳)などです。
次に干支人形です。私は、縁起ものが好きですが、干支人形と七福神にはあまり関心がないので、十二支全部が揃っているわけではありません。
伝統的には日本人に馴染みのなかった羊が、3匹もいました。
後ろの羊は背に羊羹を乗せていますが、ようかんという漢字に「羊」の字が入っているので、洒落ているのです。
羊羹は、もともと羊肉のスープ(羹、あつもの)で、鎌倉時代から室町時代にかけて、中国に留学した禅僧によって日本へ伝えられました。当時の禅宗では肉食が厳しく禁じられていたため、僧侶たちは羊肉の代わりに小豆や小麦粉、葛粉(くずこ)などを使って羊肉のスープに見立てた精進料理(点心)をつくり、それが羊羹になりました。
うりぼうが瓜に乗っている、これも素敵な洒落です。
一文人形(?)とお福さんの火入れです。
いまどきさんの1日も早い回復をお祈りします。
招き猫たちはまた明日です。
2026年9月8日火曜日
大雨一過
このところ、強い雨が降ったり風が吹いたりするたびに、夜の間に木が倒れて道を塞いでないかヒヤヒヤしていますが、木もなかなかしぶとく、小枝とか葉っぱが落ちているだけで、今のところ問題ありません。
昨日ブロワーで坂道の葉っぱを吹き飛ばす前、忘れずに写真を撮っておきました。
坂道の真ん中のタマリュウのグリーンベルトは、いつまでも美しさを保っていたかったのに、何度もイノシシに掘り返されて、植え直す元気も失せて、今では見る影もありません。
昨日も掘り返されて、仰向けになったタマリュウを見ました。ヌスットハギ、メヒシバ、カヤツリグサなどが生え放題ですがしばらく前に少し抜いたので、まばらです。
ブロワーは、下まできれいにする頃には、電池がもう弱々しくなっていました。その間、5分ほどでしょうか。
さて、もう一つの電池で、市道を20メートルほどきれいにできるでしょうか?
いつもは水が流れていない側溝ですが、昨日はどっとどっとと音を立てて流れていました。
残念ながら、目標達成前に電池が弱くなり、それでも使っていたらとうとう止まってしまい、ちょっとだけ残ってしまいました。
まぁ、「あまり続けて働くなよ」とブロワーが言っていると思って、やり残したままであがりましたが、箒で掃除するよりはきれいになっているので、よしとします。
電池がなくなるのはあっという間ですが、充電には30分、いやもっとかかるでしょうか?
本物の庭師さんだったら、これでは仕事になりませんね。
2026年9月7日月曜日
ランドセル
骨董市のまことさんの店に布製のランドセルがありました。普通のランドセルより一回り小さいもので、デッドストックのようでした。
「なんて可愛いんだろう!」
としばし眺めた後、別のものを見たり、お連れ合いのふくさんとしゃべっていたりしたら、ランドセルの近くで一人のおじさんが、
「じゃぁ、ランドセルもらって行くよ」
と声を張り上げたので、思わずそちらを見てしまいました。
「これからこのランドセル背負って、勉強して、おれ、ハーバードに行くからね」
と周りを笑わせながら去って行くおじさんを見ながら、「売れちゃったのか」と思いながら、ふくさんに、
「あのランドセル可愛かったね」
と言いました。
「そうね、3つあったのよ。2つが野球の模様で、もう1つは別の模様だったの」
えっ、複数あったのかと目を凝らすと、台の上の私の見たランドセルはまだ残っていたので、「私は買わない」と整理のついていた気持ちが、またざわついてしまいました。
「ランドセルの写真を撮らせてもらってもいい?」
「ああ、いいよ」
と、まことさん。
写真を撮っていたらふくさんが来て、留め金を外して、中も見せてくれました。魅力的です。
「やっぱり買おうかな」
というわけで、ランドセルが我が家にやってきました。
全体は布でできていて、要所要所に革を使っていますが、革は貴重だったのか、厚い革を使っている場所は限られていて、あとは信じられないような薄い革が使われているところもあります。
留め金を開けると時間表と名札を差し込むところがあります。
硬い布と硬い革なので、てっきりミシンで縫っているのだと思っていましたが、こうして拡大して見ると縫い目が不揃いです。ミシンで縫ったと見せかけていながら手縫いだったようです。
肩紐の留め金が、長く固定されていたからか(写真の)右側は固まってしまっていて、動かすことができません。
というわけで、残念ながら肩に掛けてみることはできません。
刺繍も手でやっているようですが、当時は手仕事より機械仕事の方がもてはやされたと見えて、ところどころで機械で刺繍した感を強調しています。
このランドセルは、もののない時代につくられたものだろうとは思いましたが、ネットで「代用ランドセル」と画像検索してみると、1件だけヒットしました。
手前の真ん中のランドセルが、私が手に入れたものと留め金などが同じ仕様になっています。
写真の出所はオークフリー、写真の下に「戦後に不要になった兵器(軍事用品の間違い?)を解体してつくられた品」と説明書きがあるのですが、そのサイトに移動してみるとすでに引き上げたのか写真も文もなくて、これ以上の詳しい情報を得ることができませんでした。
私はランドセルと無縁な小学生時代を過ごしました。田舎の、1学年が1クラスしかない小学校に通い、白い肩掛け式のカバンはちらほら見かけましたが、ランドセルは誰も持っていませんでした。そして、自分がどんなカバンで通学していたのか、全く覚えていません。
歳の離れた妹たちはランドセルを背負っていた気もするけれど、ランドセルといって真っ先に光景が目に浮かぶのは、高校通学の時いつも乗り合わせた、付属小学校に通う制服姿の小学生たちの背負っていた黒いランドセルです。今はどうか、あの頃は小学生でも一人で電車に乗って遠くまで行くことができました。
そんな、ランドセルに無縁の私、このランドセルとどうつき合うのでしょうね。
2026年9月6日日曜日
やっと読んだ本
『百年の挽歌』(青木理著、集英社、2026年1月)は、発売されてからすぐ買ったのに、なかなか開くことができませんでした。というのも、私は寝る前に本を読む習慣があるので、読んだら到底眠れないだろうと思って手が伸びず、ただ枕元に置いておく日が長く続いたのでした。
2011年3月、福島第一原発のメルトダウンからしばらくして、空中に放出された放射能が、事故後の風雨によって、山を隔てて遠く離れた飯館村に多量の放射能をもたらしていたことが判明しました。
原発近くの、放射線量の高い地域に住んでいた人たちの避難所にもなっていた飯館村には全村避難命令が出ててんやわんや、そんな4月11日から12日にかけた夜半に、農業一筋に生きてきた102歳の大久保文雄さんが自ら命を断ちました。
この本は、その大久保家のお話です。
目次は、
序章 衝撃の朝
1章 美しかった村
2章 交錯する生と死
3章 運命を変えた雨
4章 じいちゃんの生涯
5章 「国策」に殺された兄弟
6章 残された者たちの願い
終章 それでも美しい村
となっています。
文雄さんの弟は、第二次世界大戦のおり、召集されて硫黄島で戦死されています。
第二次世界大戦は、たくさんの死者を出しただけでなく、生き残った人たちにも大きな傷を残しました。その傷を抱えて、しかし明るく土と共に生きてきた文雄さんの悲しみ。そんな文雄さんが原発事故で絶望してしまったことに対して、何ができただろうかと悩む、残された家族たち・・・。
悲しみを抱えて生きなくてはならない人をたくさんつくりながら、経済のためとして戦争に向かったり原発を受け入れようとする昨今の風潮に、なぜ人(や他の生物たち)を殺してもお金や権力が欲しい人たちがいるのだろう、人とは何か、人はそれでもなぜ生きるのだろうなどと、考えずにはいられない一冊です。















































