2026年5月15日金曜日

高校の卒業アルバム


4月に5日ほど来ていた長男が、自分の昔の写真やノートなどを探すために、2階展示室の飾り棚の下の戸棚をあさっていて、
「こんなのがあったよ」
と、私の高校の卒業アルバムを出してきました。
戸棚には家族写真、卒業アルバム、卒業証書やその他の証書、いろいろな人の結婚写真、新聞の切り抜きなど、何でも放り込んでいるので、「それはあるだろうよ」と思いながらも、久しぶりに開いてみました。
卒業アルバムは、アルバム制作委員を決めて制作に1年近くをかけたものらしく、個人写真と、運動会、体育祭、文化祭、遠足、修学旅行などの行事だけでなく、日常の学校生活も丁寧に拾って編集していましたが、驚いたのは巻末に全員の連絡先が記載されていたことでした。電話には、「呼び出し」と「注」のあるものもあります。家に電話がない人は、ご近所の電話番号を自分の連絡先として登録しておいて、そこに電話してもらって、「電話ですよ」と、取り次いでもらっていたのです。

みんなおかもとさん!

個人写真を見ながら名前を当てようとしましたが、135人中、名前を覚えていたのはたったの20人くらい、私と同じ苗字の人が3人いたこともすっかり忘れていました。

クラブ活動紹介のページもあって、それぞれの部に過不足なく部員がいました。もっとも、クラブ活動していたのは、2年生までだったと思いますが。
語学は、英語部、フランス語部、ドイツ語部。身体を動かす部では、バレー部、バスケット部、テニス部、卓球部、山岳部。趣味(?)の部では、音楽部、演劇部、文芸部、美術部、華道部、箏曲部、書道部。勉強系では化学部、古典部。そして、Y.M.S部、社研部、聖書研究会というラインナップでした。
私は、祖母の家にお琴があったので、弾ければ祖母が喜ぶだろうと思って、箏曲部を覗いたのですがすぐギブアップ、テニス部で他校との試合に出たこともありましたが長続きせず、演劇部に落ち着いていました。
「んっ? Y.M.Sって何だったっけ?」
ネットで調べると、Youth Mobility Schemeの略、今はイギリスのワーキングホリデーを指しているようです。
西武線沿線の萩にあった学校の付属の農場に、年に数回農作業に行ったのですが、その農作業の帰り道に、Y.M.S部の友だちに一緒させてもらって、高田馬場の駅前にあった米軍の旧かまぼこ兵舎を利用した孤児院に寄ることがありました。この活動は「セツルメント」と称されていて、孤児たちと遊んだり、飴をあげたりしてひとときを過ごすのです。
当時はY.M.Sもセツルメントも意味を知らず、知ろうともせず、そのまま受け入れていましたが、キリスト教系の学校でもないのに、クラブ活動としてY.M.S部や聖書研究会があったことの謎に、今ごろになって驚いています。
設立の背景に何があったのでしょうか?

朝霞基地跡のかまぼこ兵舎。高田馬場駅脇にも同様の建物の孤児院があった

当時は、高田馬場から新宿、渋谷のあたりまで、山手線の外側には広々とした空き地が広がっていて殺風景でしたが、今ではその面影も残っていません。






 

2026年5月14日木曜日

f邸の玄関ドア

昨日、建具屋さんから、f邸の玄関ドアができたので取りつけたいとの連絡があり、風邪がまだ抜けない夫に同行してf邸へ行き、建具屋さんを待ちました。
玄関ドアの全体の枠とドアのフレームは木サッシ屋さんがつくっったものですが、ドアはフレームだけでぽっかり穴が空いた状態。それに建具屋さんが木で細工して、中には断熱材を挟んで、一部にはガラスも入れたドアをつくってくれたのです。


建設中は、穴を塞いだドアを取りつけていましたが、穴に細工をするために建具屋さんがドアを持って行っている間は、玄関は合板で塞いでありました。


建具屋さん到着。塞いでいた合板を外しました。


実はこのドア、我が家の玄関のドアにそっくりです。夫が図面を描いてお願いしたもので、建具屋さんは、
「いやぁ、これは細工が大変だった」
とおっしゃっていました。
写真で比べてみたら、枠への埋め込み方、内側の処理などが、私のつくったものより数段美しくできていました。それもそのはず、安達建具屋さんは2005年の第23回技能グランプリ全国競技大会で、1位に輝き、厚生労働大臣賞と全国建具展示会林野庁長官賞を受賞それを新聞で見て我が家の障子をお願いしたという経緯がありました。


外から見ると、オレンジ色のガラスに夕日に映えるそうです。


あとは障子だけが残っています。





 

2026年5月13日水曜日

マニュアル車で町へ

昨日は軽トラックのオイル交換を予約していました。
我が家には、軽乗用車、乗用車、軽トラックの3台ありますが、数年前にボロボロになった軽トラックを新しく買って以後、軽乗用車、乗用車の具合が次々に悪くなってそれぞれ廃車、同じ中古車店で買い替えました。
そのお店では3ヶ月に1度、無料でオイル交換をしてくれます。 乗用車2台に関しては、私が管理しているので、定期的にオイル交換していますが、軽トラックはと見ると、昨年の8月に交換したきりでした。

さて当日は、夫は(私がうつした)風邪で絶不調でした。熱はないのですが、身体がだるくて、ときおり苦しそうな咳もします。
「どうしよう?」
私はこの数年、マニュアル車で町中まで行ったことがありません。お店までは約15キロ、夫が運転して行くものと思って予約したのですが無理なので、私が運転して行く以外ありません。一人では心細いので、せめて助手席に乗って行ってくれないかと夫に頼んでみましたが、即座に却下されました。
ああぁです。

そんな状況でしたが、運転しはじめると心配するほどのことではありませんでした。というか、オートマティック車にはない爽快感もあり、曲がるときも不精せずクラッチをこまめに切り替えて、お店にすいすい到着しました。


オイル交換をしてもらっている間、お店の人に断って、国道の反対側にあるショッピングモールにパンを買いに行きました。
いつもだったら国道を横切るのが億劫なので、オイル交換が終わった後に車で行きそうですが、できるだけマニュアル車に乗らないようにしようという魂胆が働いてしまいました。


お店に帰ってみたら、オイル交換とオイルエレメント交換がちょうど終わりかけたところでした。

我が家では、何となく棲み分けていて、軽トラックは夫、軽乗用車はおもに私、乗用車は遠出でどちらもとなっていますが、これからもときおり、軽トラックにも乗ってみようと思いました。







2026年5月11日月曜日

かせ繰り機

 

織物教室に置いてあった、かせ繰り機です。
近藤さんがどこかでもらったものなのか、使っていた形跡のないものでした。


というのも、鉄の心棒が曲がっていて、竹も折れていて、おそらく手に入れた時から使えない状態だったと思われます。
竹を切るのに最も適した季節の11月に修理しようと思って、昨夏には鉄棒を買って冬の来るのを待っていたのですが、うかうかしていて、竹を切る季節はとっくに過ぎてしまいました。


このまま、次の竹切りの季節を待っていても、また切らないかもしれない。それよりはと、テーブルソーで落とした杉の端材を使ってつくってみることにしました。織物教室の現役のかせ繰り機も杉材を使っています。


まず、元の竹と同じ長さで6本揃えました。


きれいに磨いてから、端に紐を結ぶためのくびれをつくります。


心棒には細めの篠竹を通しておき、その両端に穴を開けた薄板を通し、麻紐で左右の薄板をつなぎます。
麻紐は持っていた麻の双糸をもう一度撚り合わせて、それをダブルにして使い、次々と3組つくりました。


さて、使いものになるかな?


心棒を片側は穴に通すので、薄板などを取りつけた後では、本体に据えつけにくかったけれど、手前だけ押し上げてかせを掛ければいいので、かせ繰り機として十分使えそうです。


かせを掛けてみました。
かせによって長さが違います。自分でつくったかせでも、糸を洗ったら縮むので、そんなとき長さの違うかせに自在に対応できるかせ繰り機が必要になるのです。
また、反対に糸の長さを知りたい場合は、1回転で150センチなど、あらかじめ長さが固定されたかせ繰り機の方がずっと便利です。


いらなくなった部品をばらしました。
木綿の残糸を合わせてつくった紐など、有り合わせのいろいろな紐が使われているのはわかっていましたが、なんとその1本は紙の紐でした。ちょっとびっくりです。


竹の厚みも幅もまちまちだったので、使う人かその家族などがつくったものに違いありません。








2026年5月10日日曜日

ロシアに遺るアイヌの民具


『ロシア民族学博物館アイヌ資料展ーロシアが見た島国の人々』(編集・発行 財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構、2005年)の存在を知ったのは、『織物技術民俗誌』の中にアイヌの織り機のイラストを見て、「実物はどんなだったのかしら?」と検索したときだったでしょうか。
 『ロシア民族学博物館アイヌ資料展ーロシアが見た島国の人々』は、2005年に北海道開拓記念館と川崎市民ミュージアムで同名の展覧会が開催されたとき、そのカタログとしてつくられた冊子です。

左下は紐ほどき、右下は織り機の腰当て

カタログに載っている織り機の美しさ、かわいらしさをなんと形容すればいいのか、道具たちの隅々に、愛が満ち溢れています。

ロシアのサンクト・ペテルブルク市にあるロシア民族博物館には、約2600点のアイヌ資料が収蔵されています。そのほとんどは同博物館の嘱託職員であったV.N.ヴァシーリエフが、サハリン(1910=11年)や北海道平取(1912年)などで収集したもので、収集年、収集地が判明していることと、日本には遺っていないものが多くあることなどから、アイヌの貴重な資料となっています。

ヴァシーリエフのアイヌ資料収集地

ヴァシーリエフは、1877年に、ロシアのヤクーツク州で、政治流刑囚の父と、ヤクートの血を引く地元農民の母との間に生まれました。父が早逝したために母と母の一族に育てられ、幼い頃から培ったヤクートの伝統文化と言語の知識が、のちに彼を民族学や民俗学に傾倒させることになりました。
日本での収集は、日本語も英語もできないので危ぶまれましたが、ロシア大使館などのサポートがあり、北海道でも素晴らしい収集ができて、アイヌ文化の貴重な一端を遺すことができました。
この織り機も、ヴァシーリエフが訪れた時にはすでに消えようとしていたものだそうです。


ヴァシーリエフの目は、いろいろな小さいものにも注がれています。
これは背負い縄です。


上は紐編み機、下は糸巻きです。
男性の技と女性の技が共同して、美しいものを生み出しました。


左上は杓子、左中と下はどぶろく用の米やキビを混ぜる団子べら、右上は木彫りの酒入れ、右下はトドの内臓でつくった酒入れです。

男性が織り機をつくって女性が織り、男性が紐編み機をつくって女性が紐を編み、男性が杓子や酒造りの道具をつくって女性がつくる。
道具たちから、幸せだったアイヌの日常が蘇ってくるようです。








2026年5月9日土曜日

PCとスマホ、お世話になっていますが.....


5月3日に「津軽箕?」をUPしましたが、やっぱり津軽箕ではなかったようです。
これに関して、あまよかしむさんが、「箕の研究会」にはかられて、さまざまな分野の専門家の方たちが、これがどこでつくられた箕か検討してくださっている模様で、ありがたいことです。
あまよかしむさんのお話では、メンバーの一人に測定技術を使って箕の産地を推察する方がいらして、「スマホで簡単にできるから、3Dスキャンで比べたらどうか」という提案があり、アプリも教えていただきました。
いえ、それは無理、無理です。
スマホはカメラ機能とラジコを利用するのがメインで、あとは歩数計と計算機、お天気のチェックとたまに電話くらいしか使ってないので、結局3Dスキャンは試してみませんでした。


ところで、何もしていないのに、ブログの「最新のコメント」がPC画面上に表示されなくなりました。
おかしいなぁ。コメントの「設定」を調べても、問題ありません。プロバイダーの事情かもしれませんが、私としてはなすすべもありません。もっとも、昔の記事にコメントいただいても私には伝わるので問題ないのですが、なんだか寂しい気がします。
原理も何も知らずにコンピュータやスマホの恩恵を受けている私ですから、コメントの不具合も、いつか勝手になおったらよしとすることにします。


写真は、今年初めて見た我が家のククルカン、7時15分でした。
陽が沈む時にも、かつては西からも見えていましたが、コブシやケヤキが大きくなりすぎて、もう何年も前から見えなくなってしまっています








2026年5月8日金曜日

生名島

afさんが、ゴールデンウイークにしまなみ海道をサイクリングしたとFBにUPされていました。尾道から向島、因島、生口島、大三島を駆け抜けたというのです。
因島と聞くと、小さいころのおぼろな記憶が蘇ります。

私が小学校低学年のころ、父の妹一家が因島の隣の小さな島に2年ほど住んでいたことがありました。叔父は若い医者で、その島の病院に勤務していました。島の名前はうろ覚えでしたが、ネット検索すると生名島(いきなじま)とわかりました。


叔父の勤めていた因島病院の分院の生名村診療所は、1952年に設立された結核病棟で、150床ありました。ちなみに、因島病院は、1917年に因島に日立造船所の病院として設立され、のちに総合病院として地域医療に尽力してきました。


因島総合病院の昔の写真は、ネットで見つかりましたが、生名村診療所の写真は見つかりませんでした。
記憶では、緑の木々に囲まれ、海辺に面してひっそり建っている病院でした。

現在の因島総合病院

当時は、私の祖父も元気で、祖父母や母と一緒に、私は何度か生名島に叔父一家を訪ねています。
ある夏休みには、祖母と丸々一夏逗留したこともありました。祖母は、次女を出産した叔母の手伝いに行ったものだと思いますが、子どもだった私は毎日、家から30秒で行ける遠浅の海で従妹と遊んだり、狭い海峡を忙しく行き交う大型船や小舟の絵を描いたり、夢のような楽しい毎日を過ごしました。


生名島までは、住んでいた岡山県の倉敷から尾道まで汽車で行き、尾道からは畳敷きの船室のあった船に乗って因島まで行き、そこから小さな渡し舟で生名島に渡りました。
上の写真は、祖父、母、弟と一緒に叔父一家を訪ねた時のものです。

叔父と祖父、弟と従妹と

残念ながら、叔父一家の住んでいた家や海辺の写真は(あったはずですが)見つかりませんでした。

生名島は子どもの足でも簡単に一周できるようなかわいい島で、人影もまばら、行き交う船の汽笛やセミの声が聞こえるばかりの島でしたが、ときおり、渡し舟で買い出しに行く因島の市場は、いつも人で賑わっていて、別世界でした。
生名島の浜で拾った桜色のナミマガシワには、コインの模様のような、男性の横顔の模様がついていました。
長く大切に持っていましたが、いつの間にか失われてしまいました。