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2025年12月11日木曜日

クリスマスの飾りつけに向けて

昨日までは、
「億劫だなぁ」
と思っていたクリスマスの飾りつけをする気が起きてきて、重い腰をあげそうになっています。
掃除や片づけは、いつも関係なさそうな遠いところからはじめる私ですが、今回もお手洗いの人形たちの埃を払うところからはじめることにしました。
小さな人形たちをまとめて外に出し、埃を払うためには、大きなお盆が必要です。ラタンのお盆が思い浮かびましたが、編んだお盆は凸凹していて不安定なのを思い出し、次に大きな木のお盆を取り出してみました。
ずっと前に骨董市で買ったものです。


少し彫り込みがありますが、人形たちを置くのに差しさわりがあるほどには凸凹していません。


彫り込み模様のユリと柿(?)はともかく、きのこみたいな、蕗みたいなのは何でしょう? 
市販のお盆に、買った人が彫ったのでしょうか?
素人にしてはうますぎますが、玄人にしては.....。趣味人の仕業でしょうか?
などと妄想していたら、これまで注目したこともなかった文字が目に入りました。
「百事如意」とは、すべてがうまくいくという意味、これは掃除の幸先がよさそうです。


棚に置いてあるものをお盆に移し、吊ってある棚は、棚ごと外しました。
まず、お盆に乗せたアイヌの人形たちを外に持って行って埃を払いました。


人形たちを取り払ったお手洗いはすっきりしている? 私の目には殺風景です。


アイヌの人形たちをもとの場所に移した後、吊り棚のものをお盆に移し、これも埃を払いました。


これはもともと、置く箱として売られていましたが、後ろに金具をつけてぶら下げることができるようにしたものです。
どこの国でつくられたものでしょう? インドかインドネシアでしょうか?


お手洗いの棚の掃除の後、玄関のマトリョーシカの棚もきれいにしたところで、今日の大掃除は終了です。
明日は土間入り口の棚の掃除かなぁ?
今週中にクリスマスの飾りつけに行きつくのが目標です。





 

2025年9月23日火曜日

きむらさちよワールド


きむらさちよさんのマトリョーシカ、チョゴリを着た韓国の娘です。


マトリョーシカの中には、十長生と呼ばれる、不老長寿や健康を願う十のものを表した、土でつくったおはじきが入っています。


おはじきは、左奥から鹿、鶴、水、山、太陽、竹、不老草、松、亀、雲となっています。


型抜きした粘土を素焼きして彩色してあります。


きむらさちよさんは、マトリョーシカの絵つけだけでなく、張り子や土人形もつくっていらっしゃいます。写真は、さちよさんの作品たちです。
前列と中列は全部土鈴になっています。
ブリキの金魚が随所にいると思っていたけれど、並べてみると前列真ん中の黒猫が乗っているのは、もしかしたら金魚ではなく鯉なのかもしれません。金太郎の代わりに黒猫がこいのぼりに乗っているとか.....。


猫のマトリョーシカは、夏祭りに行った猫の姉妹が、夜店で買ったいろいろなおもちゃを持っているものです。






 

2025年7月26日土曜日

マイダンのマトリョーシカ


ロシアのマイダンでつくられたマトリョーシカ8個組です。高さ19.5センチです。
顔はみんなコンパスを使って正円を描いていますが、木地の凹凸によって、いろいろな形に見えています。
入れ子になっているすべての娘たちが頭に花を描いたものも多い中、このマトリョーシカは、一番大きい娘しか頭に花をつけていません。


大きい2人は全体に渦巻き模様で、3番目と4番目はプラトーク(スカーフ)の縁だけに渦巻き模様、そして7番目は思い出したように全体に渦巻き模様になっています。
この当時は職人さんたちが分業していたので、それぞれの娘たちの表情も違ったりしていますが、それにしても統一感がありません。


底に貼ってあるラベルには、「1979」の文字が見えます。
1979年製と言えば、古いと言えるか新しいと言うか? 私の感覚では新しいと認識してしまいますが、考えれば45年程前のものではあります。

先日、鎌倉からいらした客人(珍しく郷土玩具に関心のある方)が、京都の祇園祭の粽(ちまき)を見て、懐かしそうに
「古い粽ですね」
と言ったので、
「いえ、これはまったく新しいものです。20年くらい前にもらったものですから」
と答えたら、
「20年前は十分昔ですよ」
と笑われてしまいました。
「そうですか? 新しいものを貰ったものですから、てっきり新しいと」
と大笑いでした。


さて、我が家のマイダンのマトリョーシカたちです。
写真の一番小さいマトリョーシカは、最初から一番大きい娘が失われていたので、2番目以下のもの、だから頭に花がありません。





 

2025年7月25日金曜日

お茶にしましょう



ロシアのバガロツカエ(ボゴロツカヤ)でつくられたおもちゃ、2匹のクマがロシア伝統のお茶道具のサモワールをはさんでお茶を飲んでいます。


台を手に持って水平に円を描くように回すと、ぶら下がった玉が動いて、クマの手と玉をつないだ糸が引っ張られたり緩んだり、それにつれて2匹の熊たちがお茶を飲みます。
普通、バガロツカエのおもちゃは白木のままの仕上げですが、これはマトリョーシカ作家のオリガ・ロバノワさんが絵つけしたもので、クロスを掛けた白樺のテーブルや湯飲みなど、白木とはまた違った味わいがあり、とくにクマさんたちの表情には、ほっこりしてしまいます。


白木が基本のバガロツカエの動くおもちゃですが、クマ画伯も、部分的(マトリョーシカは既製品を使ったとしたらパレットだけ?)ですが彩色されています。


クマのおもちゃの周りには、なにかのんびりした時間が流れています。




 

2025年7月17日木曜日

達磨入れ子

雨の日が続いています。
農業の人たちは大助かり、やっと降った恵みの雨ですが、建設現場は大弱り、足元がぬかるんで、工事は一向に進みません。
でも、この世はすべてお陽さまや雨のおかげ。生きているだけで丸儲け。どんな日も楽しんで生きたいです。


さて、日本のマトリョーシカ入れ子の最後は、達磨の入れ子です。
よく焼けていて、下半身の模様でやっと達磨とわかるほどですが、顔はわかりません。


並べて飾っていたのでしょう。二つ目も達磨も焼けています。


箱根でつくられたものでしょうか、東北でつくられたものでしょうか?
いかにもシンプルなので、箱根でつくられたものではないかと思われます。高さ4センチの小さな達磨です。






 

2025年7月15日火曜日

羽子板入れ子


羽子板入れ子です。
あまり幼くは見えませんが、もしかして禿(かむろ)でしょうか?
前髪を降ろしていると、見えなくもありません。


一番上の写真の右の、羽根が色落ちしないでしっかり残っている羽子板入れ子です。
5つ目が失われています。


みんな袴をはいているよう、では禿ではないのでしょうか?

禿、「和ナビブログ」からお借りしました。

日舞の禿が袴をはいているというイメージはありません。


3つ目、4つ目が、とくにかわいい。


もう一つの羽子板入れ子は、6つ目が失われています。


この2組から考えるに、どちらも6つ組だったのではないかと思われます。


どちらも、羽子板の模様は烏帽子をかぶった人が扇子を広げています。おそらく、正月にふさわしい、おめでたい三番叟の絵柄なのでしょう。

『木地師研究 第206号』に一文を寄せた飯島進さんによると、羽子板入れ子について、東北の文献には全く見当たらないので、箱根だけでつくられたものと断定できるようでした。
箱根では昭和30年以降、入れ子をつくる工人はいなくなりました。熱心に調べた方がおられましたが、羽子板入れ子の詳細は全く不明だったそうです。






 

2025年7月14日月曜日

弁慶入れ子


弁慶の入れ子です。
弁慶の入れ子は、7つ組のものと9つ組のものがつくられましたが、『木地師研究 第206号』に「弁慶入れ子、七福神入れ子、羽子板入れ子について」という文を寄稿している飯島進さんによると、9つ組のものにはめったにお目にかかれないとのこと、写真は両方とも7つ組です。
私が修験と間違えたのも無理もありません。弁慶は山伏の姿をしています。
『木地師研究』で、飯島進さんは「弁慶入れ子」と表現されていますが、『マトリョーシカアルバム【追加分】』では、道上克さんは同じものを「勧進帳」と表現されています。

歌舞伎十八番の一つ「勧進帳」は、源義経が兄の頼朝の追手から逃れるために奥州に向かう途中、安宅の関での出来事を描いた物語です。
加賀の国の安宅の関の関守の富樫左衛門は、義経一行が山伏の姿で現れるという情報を得ており、義経をとらえるよう厳命されていました。
安宅の関で、弁慶は焼失した東大寺再建のための勧進を行っていると偽りを言ったので、富樫は勧進帳を読むよう求めます。
勧進帳など持っていない弁慶は、白紙の巻物を勧進帳に見立てて読み上げます。さらに富樫は弁慶に山伏問答を挑みますが、弁慶は機転を利かせて見事に切り抜けます。
しかし、富樫の家来が、弁慶の供回りにいた強力(荷物持ち)が義経ではないかと疑います。弁慶は主君である義経を下男のように杖で打ち据えることで、義経ではないと富樫を納得させようとします。この弁慶の行動に心を打たれた関守の富樫は、義経一行を関所を通すことを決意し、歓待もします。
弁慶は富樫と神仏に感謝し、一行は奥州へと旅立ちます。

というわけで、弁慶が手に持って広げているのは勧進帳に見立てた白紙とわかります。


そして、義経も山伏姿であることにうなずけます。


弁慶入れ子の発祥地は箱根の南部に位置する畑宿で、江戸末期からつくられました。
弁慶の中には、義経、義経四天王(亀井六郎、片岡八郎、伊勢三郎、駿河次郎)そして静御前が入っています。


追手を逃れての逃避行だというのに、静御前の愛らしさには、心なごみます。


もう1組の弁慶入れ子は、四天王が1体失われています。
9つ組のものには、四天王ではなく六人衆として新たに2名が加わるそうです。

飯島さんによると、弁慶入れ子は明治末から大正時代の交易品として海外に輸出されたので、日本国内ではほとんど見かけられません。21世紀になって、海外から逆輸入して日本で販売する人が現れ、巷に出回りましたが、今ではそのルートもなくなったとか、そして完品は少なく、1つ2つ欠けているものがほとんどだそうです。


この2組は、どちらも底に輸出用のゴム印はありません。おそらく明治32年以前のものと思われます。
江戸時代から箱根でつくられた弁慶入れ子は、やがて産地を東北の、鳴子や遠刈田に移していきました。






2025年7月12日土曜日

七福神の入れ子

ひょんなことから、箱根でつくられた入れ子人形たちを手に入れました。
蒐集家の収蔵品だったようで、『木地師研究 第206号』(2016年)という日本木地師学会の機関紙もついていて、それに蒐集家であった元の持ち主の飯島進さんが書いた、入れ子人形に関する一文、「弁慶入れ子、七福神入れ子、羽子板入れ子について」が掲載されていました。
これによると、これら入れ子人形は日本国内で売られるというより、明治、大正期の交易品として使われたもので、日本国内ではほとんど見受けられなかったとのことですが、題材は弁慶、七福神など日本人になじみの深いものだったので、生み出された初期には国内向けだったことが考えられます。
しかし、電動轆轤の無かった時代に、木を薄く挽いてしかも入れ子にできる高度な技術を持った職人さんは限られていただろうし、手間賃も売値も高額であったろうから、だんだん輸出品として定着したのではないかと推測します。


と言っても、七福神や達磨の入れ子は、日本でも広く売られていました。
それを裏づける一つに、19世紀末にロシアでマトリョーシカが生まれましたが、マトリョーシカ誕生は、箱根にロシア正教の保養所があり、そこを訪れたロシア人が持ち帰った七福神の入れ子に触発されたのではないかという一説があります。
もっとも、ロシアの「玩具博物館」に収蔵されている「日本の老人(七福神?)」の底には、『マトリョーシカのルーツを探して』によると、MADE IN 〇〇〇〇〇との赤いゴム印が押されているようなので、日本ではなく海外で手に入れたものとも考えられます。
また、道上克さんの『マトリョーシカアルバム【追加分】』によると、底にゴム印が押されるようになったのは、明治32年(1899年)以降ということなので、そうすると、マトリョシカの誕生と、ロシアの「玩具博物館」に収蔵されている「日本の老人」の関係はなかったとも考えられます。

それはさておき、私は箱根ではなく筑波山(の温泉?)で土産物として売られたと思われる、「筑波山」と書かれた七福神を持っています。

『マトリョーシカアルバム』より

また、道上克さんの『マトリョーシカアルバム』に、底に書き込みがある七福神が載っていて、それには「明治32年9月中島兼房草津温泉ヨリ」と書かれています。これらのことから、箱根でつくられた七福神の入れ子は、日本の箱根だけでなく、箱根以外の観光地でも、土産物として売られていたことがわかります。もっとも、『マトリョシカアルバム【追加分】』には、各地の温泉地で販売されていたのは明治時代と書かれています。

私が七福神の入れ子の存在を知ったのは、『マトリョシカ大圖鑑』(沼田元氣著、二見書房、2010年)だったと記憶しています。
『マトリョーシカのルーツを探して』には、「箱根細工と入れ子七福神」という章もありますが、これらで語られているのは七福神の入れ子だけで、飯島さんの紹介している弁慶入れ子や羽子板入れ子には言及されていません。
ところが、道上克さんの『マトリョーシカアルバム』や、『マトリョーシカアルバム【追加分】』には、七福神でもない、達磨でもない、弁慶と羽子板を含む入れ子人形が数種類紹介されています。


さて、手に入れた3体の七福神のうち、一番大きい七福神の福禄寿は高さが13センチほどで、その中には順番に、布袋、大黒天、恵比寿天、毘沙門天、寿老人が入っていますが、最小の弁財天が失われています。


底にスタンプはありません。明治時代につくられたものと思われます。


中サイズの入れ子は、中がまったく失われていました。いつごろつくられたものか、不明です。
そして、小さいサイズの入れ子は5体組みのもののようですが、3番目と5番目の2つが失われています。


上の写真の右は、小さいサイズの入れ子と、同時期に同地域でつくられたと思われる入れ子です。
これは昭和58年ごろつくられたもの、箱根では昭和30年(1955年)から入れ子がつくれる工人がいなくなり、以後、七福神などの入れ子人形はつくられてないので、どちらも宮城県の鳴子、あるいは遠刈田でつくられたものと考えられます。

 
5体だけで完全形なので、5福神なのか、ただの老人たちなのかどちらでしょう?
サイズを小さくしたので7体つくるのが困難になった結果と思われます。


『マトリョーシカのルーツを探して』によると、箱根細工は、湯宿を経営する主人たちが自ら挽き物をつくって土産物として売る場合もあれば、東海道の方から荷を担いで売りに来た行商人が宿を回って販売することもありました。
弘化2年(1845年)刊行の滑稽本『温泉土産箱根草』は、江戸の町人3人が箱根七湯に出かけて行く道中と、湯治の様子を愉快に描いたものですが、宿に箱根細工の荷を担いできたあきんどと、くつろぐ町人3人のやり取りの中に、
「面白いものがあれば買ってやろう」
「新工夫の細工物がございます」
(中略)
「菓子盆に乗っているのは何だい」
「玉子でございます」
「茹でてあるのか」
「いえ、木でできています。割ってご覧じまし。中にまだ幾側にも玉子ができております」
というのがあることからも、箱根の入れ子細工としてはまず入玉子ができ、そののちに七福神などができたようだと、著者の熊野谷葉子さんは書かれています。

滑稽本『温泉土産箱根草』の挿絵

挿絵を見て、熊野谷さんはあきんどが担いできた箱の片隅に入玉子が見えるようだと書かれていますが、どうでしょう?






2025年7月8日火曜日

スイカのペンギン

先日、新宿の画廊に「川崎毅遺作展」を観に行った帰り、夫が、
「お茶飲んでいこうか」
と言います。暑い中遠くまで歩くのは面倒です。
「このあたりだと高野くらいしかないんじゃない」
「高野ってなんだ、フルーツパーラーか? ばかいえ、あんな気取ったところには行かないよ。確かこのあたりに風月堂があったよなぁ」

 
新宿風月堂は本当によい喫茶店でした。
天井が高くゆったりしていて、40円でおいしい紅茶が飲めて、すてきな音楽が聴けて、高校生でも気軽く入れて、おしゃれで、どんなに長くいても嫌な顔一つされませんでした。
「風月堂だって! 70年代に閉店したわよ」
最後の方は、やたら西欧からのヒッピーたちで混み合うようになっていましたが、1973年に、区画整理か町の再開発かで、惜しまれながら閉店しました。

ちょっと歩きはじめたら、スターバックスがありました。好きじゃないけれど、
「スターバックスで我慢する?」
「仕方ないか」
ところがドアを開けてみたら人がいっぱい、
「だめだ、新宿はやめて上野まで行こう」
というわけで、上野まで行き、駅構内にあるスイカのペンギンのカフェに入りました。


そこで食べたホットサンドについていたペンギンのピック、なかなかかわいいのです。


というわけで、いただいてきました。


我が家にいる缶マトリョーシカとの記念撮影。
そういえば、カフェの片隅には、スイカのペンギングッズもいろいろ並んでいたようですが、列車の時間が迫っていたので見ないで帰ってきてしまいました。