弁慶の入れ子です。
弁慶の入れ子は、7つ組のものと9つ組のものがつくられましたが、『木地師研究 第206号』に「弁慶入れ子、七福神入れ子、羽子板入れ子について」という文を寄稿している飯島進さんによると、9つ組のものにはめったにお目にかかれないとのこと、写真は両方とも7つ組です。
私が修験者と間違えたのも無理もありません。弁慶は山伏の姿をしています。
『木地師研究』で、飯島進さんは「弁慶入れ子」と表現されていますが、『マトリョーシカアルバム【追加分】』では、道上克さんは同じものを「勧進帳」と表現されています。
歌舞伎十八番の一つ「勧進帳」は、源義経が兄の頼朝の追手から逃れるために奥州に向かう途中、安宅の関での出来事を描いた物語です。
加賀の国の安宅の関の関守の富樫左衛門は、義経一行が山伏の姿で現れるという情報を得ており、義経をとらえるよう厳命されていました。
安宅の関で、弁慶は焼失した東大寺再建のための勧進を行っていると偽りを言ったので、富樫は勧進帳を読むよう求めます。
勧進帳など持っていない弁慶は、白紙の巻物を勧進帳に見立てて読み上げます。さらに富樫は弁慶に山伏問答を挑みますが、弁慶は機転を利かせて見事に切り抜けます。
しかし、富樫の家来が、弁慶の供回りにいた強力(荷物持ち)が義経ではないかと疑います。弁慶は主君である義経を下男のように杖で打ち据えることで、義経ではないと富樫を納得させようとします。この弁慶の行動に心を打たれた関守の富樫は、義経一行を関所を通すことを決意し、歓待もします。
弁慶は富樫と神仏に感謝し、一行は奥州へと旅立ちます。
飯島さんによると、弁慶入れ子は明治末から大正時代の交易品として海外に輸出されたので、日本国内ではほとんど見かけられません。21世紀になって、海外から逆輸入して日本で販売する人が現れ、巷に出回りましたが、今ではそのルートもなくなったとか、そして完品は少なく、1つ2つ欠けているものがほとんどだそうです。
この2組は、どちらも底に輸出用のゴム印はありません。おそらく明治32年以前のものと思われます。
江戸時代から箱根でつくられた弁慶入れ子は、やがて産地を東北の、鳴子や遠刈田に移していきました。
0 件のコメント:
コメントを投稿