2020年2月29日土曜日

パンデミック

新型コロナウイルスは、世界で感染者が8万人を超える、パンデミックとなりました。
パンデミックとは、病気、特に感染症が、ある国のあちらこちらや、国境を越えて世界中で大流行することです。

感染症は、生物の出現とその進化の歴史とともにあり、有史以前から近代まで、「ヒト」の疾患の大きな部分を占めてきました。
感染症や疫病に関する記録としては、古代メソポタミア文明の、バビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』(紀元前1300~1200年)に、四災厄のなかの一つに数えられ、同時期のエジプトでも、ファラオの威光は悪疫の年(パンデミック)における厄病神に比較されていました。
中国にあっても、紀元前13世紀における甲冑文字の刻された考古資料から、疫病を占う文言が確認されています。
医学の歴史は、感染症の歴史にはじまったといっても過言ではないほど、感染症は、民族や文化の接触と交流、ヨーロッパ世界の拡大、世界の一体化などによって、何度もパンデミックを起こしてきました。

紀元前5世紀の、アテイナとスパルタの27年におよぶ戦い、ペロポネソス戦争は、アテイナで起こったパンデミックも影響して、スパルタの勝利に終わりました。このときの疫病は天然痘だったと考えられています。
ペロポネソス戦争といって思い出すのは、高校の世界史の先生です。年号から事象からよどみなく話すその声まで思い出すほど、高校の授業で初めて知ったペロポネソス戦争をでしたが、その陰に天然痘の流行があったことは、最近まで知りませんでした。



世界規模で、何度もペスト(黒死病)が大流行しましたが、14世紀に起こったペストのパンデミックはもっとも深刻なものでした。


ミヒャエル・ヴォルゲムート、「死の舞踏」、1493年

世界で1億人ほどの人が死に、当時の世界人口を4億5000万人から、3億5000万人に減少させました。
とくにヨーロッパでは深刻で、1348-1420年にかけてのペストのパンデミックで、当時のヨーロッパ人口の約3分の1から半分にあたる人々が死亡しました。イタリアの町や村では、人口の約80%が死に絶えたところもあって社会が崩壊し、その時の影響は、ヨーロッパ社会に今でも残っているほどです。
そして、ペストは今でも発症例があり、恐れられています。


天然痘の被害を伝えるアステカの絵

コロンブスのアメリカ上陸(1492年)後、アメリカ大陸にはさまざまな感染症がもたらされ、免疫のなかった先住民の人々が犠牲になりました。
中でももっとも猛威を振るったのが天然痘で、ほとんど死に絶えた民族もあり、いくつもの文明が滅びました。
パンデミックは、白人によるアメリカ大陸の征服を助ける結果となりました。



19世紀から20世紀にかけて、地域を変えつつ、コレラが7回、全世界でパンデミックとなりました。

1919年、カリフォルニア州オークランドのスペインカゼの患者

1918年から19年にかけては、スペインカゼ(インフルエンザ)がパンデミックとなり、死者は5000万人から1億人と言われています。
この時期は、第一次世界大戦の末期で、総力戦体制のもと、全世界的に軍隊や労働者の移動が活発になったことが、被害を大きなものとしました。パンデミックは、鉄道や河川といった輸送ルートを通って海岸部の港湾都市から奥地へと広がっていきました

1980年以降では、後天性免疫不全症候群の患者が全世界で増大しました。もっとも感染の激しかったアフリカでは、全人口の30%以上が感染した国家まで存在しました。
そして、2002年から03年にかけて、SARSが世界各地で流行、香港を中心に8000人以上が感染、37か国で774人の死者が出ました。

医学を含む科学が発展し、いろいろなことが分かってきてはいますが、パンデミックはなかなかなくなりません。
というのも、今では1年間に国境を越えて移動する人口が11億人にも上り、地球全体が袖振り合う仲、封じ込めはとても難しい状態になっています。






2020年2月27日木曜日

今日は終わるかな?

テラスの床を張る作業をしています。最近、一番心配だったのは、材料がうまく足りるかどうかでした。


セールで買ったヒノキは、3メーターものでは一番多いのが、約120ミリ×53ミリのものでしたが、中には厚みが約45ミリしかないものもありました。
それでも、床材は厚い方が嬉しいので、120×50ミリにすると決めました。
4メーターものは幅も厚みもいろいろでした。140ミリ以上の幅広の材も混じっていて、厚みは約70ミリのもあれば、約45ミリしかないものもありました。

テラスの手すりは、ちょっと腰掛けたりもできるよう、幅広の方がいいので、最初に140ミリ以上の材を取り分けて、ざっと加工してあります。
そして、階段も幅は140ミリ、こちらは厚い材がもうなくなっていたので、厚みは40ミリにしました。


床材は何せ数が多い、一度に加工することができず、順次加工しては設置しているため、最後まで足りているかどうかが、はっきりしませんでした。
そうこうしているうち、あとちょっとというところで50ミリ厚の材がなくなってしまいました。

2月24日

買い足すつもりはないので、何とか工夫しなくてはなりません。

今朝

ベンチの下は目立たなくなるので、ちょっと曲がっている木や、ちょっと薄い(45ミリ厚)木などを使います。
45ミリの材の下に詰めものをして高さを揃えても、下からでは目立たないところは、その手を使います。


今朝の写真。


お昼休みの写真。


今朝の写真。


お昼休みの写真。
今日中に床張りを終わらせたいところですが、ねじ釘がなくなってきました。特殊釘で、売っているのはたった一か所だけ、一週間ほど前に、店頭に出ていた2箱を買い占めてきたのですが、補充されているでしょうか。









2020年2月26日水曜日

日本の入れ子人形


いつからあったのか、どこで手に入れたのか、すっかり忘れている箱根細工の入れ子の七福神がいます。
招き猫、だるま、福助など、庶民の信仰に結びついた縁起物が好きな私ですが、七福神はなんとなく好きになれないので、たぶん、骨董市(ほかの可能性がない)で見かけて、
「まぁ、買っておくか」
ぐらいの関心しかなかったので、時間が経つうち忘れ果てていたのでしょう。


七福神とは言え中は空っぽ、寿老人だけでほかの6人は失われていました。
それゆえ、値段も安かったものと思われます。

玩具博物館の展示

ロシアのセルギエフ・パサードの玩具博物館には、1890年代に箱根を訪れたロシア人が持ち帰り、セルギエフ・パサードの芸術村で、それをもとに、画家のマリューチンと、轆轤師スビョズドチキンによって、最初のマトリョーシカがつくられたと言われている、入れ子の七福神が展示されています。
かつて、七福神の入れ子は箱根でつくられていましたが、箱根の入れ子細工は現在は後継者もなく、寂れる一方のようです。

『ロシアのマトリョーシカ』より

しかし、こけしの産地東北では、今でも入れ子人形がつくられていて、『ロシアのマトリョーシカ』(スヴェトラーナ・コロジャーニナ著、スペースシャワーブックス、2013年)には、遠刈田の小笠原義男さんが2010年につくった七福神が載っています。

『マトリョーシカ大図鑑』より

日本の入れ子人形は七福神だけではないようで、『マトリョーシカ大図鑑』(沼田元気著、二見書房、2010年)には、だるま、こけしなどの入れ子人形が載っています。


ところで、さすがです。
道上克さんの、『マトリョーシカアルバム 2019』には、箱根でつくられた珍しい入れ子人形が載っています。
これは何でしょうか?
修験者が修行を積んで達磨になったという物語でしょうか?でも、だるまさんにしては、手が見えます。まだだるまになる途中なのかもしれません。


そして、全部女性の入れ子です。
修験者も女性も、明治時代のものです。


一番大きい女性は、手に羽子板を持っています。
全部女性であることといい、右手に羽子板を持っていることといい、まるでロシアのセルギエフ・パサードのマトリョーシカのようです。
箱根と東北、箱根とロシア、ロシアと東欧諸国など、入れ子人形は人の手によって運ばれて、それを目にした轆轤の職人さんたち、絵つけをする職人さんたちは、お互いに刺激を受け合っていたのでしょう。
もちろん、電気のない当時の轆轤は足で蹴るものや、手で回すものなどでした。


ところで、私の持っている寿老人は、筑波山と書いた紙だか巻物だかを持っているのが不思議です。
箱根でつくられていたにもかかわらず、筑波山でも売られていたのでしょうか?
道上さんのお話では、中をくりぬいたものは、入れ子人形だけでなく、経文入れもあったそうです。
ただ、これが寿老人であることから、最初から単独のものと考えるのは難しいこと、中の6人が失われてしまったと考えるのが自然に思えます。








2020年2月25日火曜日

台所のスポンジ、その後

生活用品の中には、取り替え時期に迷うものがあります。
私の場合、その最たるものはシーツです。布が古ぼけてきたけど破れてはいない、でも心の中では取り替え時かなと思うとき、ぐずぐずしてしまいます。
また、新しいのと取り換えても、何かに役立つかと、古いシーツが捨てられずに、たまったりもしています。


そんな、捨て時に迷うものに、パックスナチュロンの台所用スポンジが参加しました。
ちょっとカレーの色などがついていますが、信じられないことに、5か月も使っった今でも、形状はほぼ新品のときと同じです。
私はスポンジを使ったらすぐ、石鹸をよく流して水を切って乾かしますが、夫は使ったらそのまま流しに置きっぱなしです。そんな使い方をしているのに、傷みません。
先日は、akemifujimaさんに、
「台所仕事をしてないみたい」
と言われたほどです。


そんなスポンジですが、思い切って新しいのと取り換えることにしました。
このままでは、いつまでも使ってしまいそう、ここらが潮時と思ったのです。

しばらく前に、パックスナチュロンのスポンジがいいので、取り扱って欲しいと、私の入っている生協にお願いしたことがありました。要望などが伝えられるシステムになっていて、それを利用したのです。
すると、わりとすぐに、注文書の中にパックスナチュロンのスポンジが入っていました。
せっかく、要望を反映してくれたのだから注文したいのは山々でしたが、すでにたくさん買いためていたうえ、使っているスポンジはいつまでも古くならないし、扱っているのはピンクだったので、迷いましたが、注文しませんでした。


さて、ベージュのスポンジは、今度はどのくらい活躍してくれるのでしょうか。






2020年2月24日月曜日

茅場?

いつも車で通る道、峠に差し掛かる前に、正面に低い山並みが見えます。
その山の一角で、杉かヒノキか、針葉樹が伐採されたのはもう数年前のこと、いつまでも次の木が育たないなぁと、見ていたのですが、
「あれっ?」
もしかしたら、木を植えずに茅場にしているのでしょうか?
わき道に入ってみました。


今どき、茅場があるなんてにわかには信じられません。使っていない土地とは言え、茅場にしても経済効果はないに等しいので、茅場をつくる人がいるとは思われません。
茅は、せいぜい、工業団地として開発したけれど売れ残った空き地などを使わせてもらって、保存会の人たちが、育てたり刈ったりしているくらいです。

で、思い出しました。
すぐ近くに、昔この辺り一帯の地主さんだった、資産家のSさんの家があります。


家は瓦ぶきですが、長屋門は今でも茅葺きです。
10年くらい前に葺き替えたとき、しばらくは黄金色に輝いていましたが、今ではだいぶ古ぼけてきました。
この門を葺き替えるため、茅を育てて刈りためるつもりなのかもしれません。


あちこちに茅場があった風景というのは、こんなものだったのでしょうか?

感心しながら帰ってきたら、我が家の近くにも似た風景がありました。
でもそれは、牛屋さんが飼料のモロコシを植えたのが枯れているだけ、全然違うものです。

しかし、茅場としたら、刈る時期はいつでしょうか?
もしかしたら、雑草としてのススキが生えているだけかもしれません。





2020年2月23日日曜日

鹿島神宮


強風の吹く今日、日曜日に、鹿島神宮へ行ってみました。
鹿島信仰は、北に先住民族(蝦夷)の征伐に出かけるとき、ここで武運を祈願するといった、武士や貴族の信仰でしたが、また庶民の信仰でもありました。

その鹿島神宮の石の大鳥居は、2011年3月の地震で、倒れてしまいました。
最初の地震で根元に亀裂が入り、30分後の余震で倒壊しましたが、幸い避難誘導がうまくいっていて、怪我人などはありませんでした

笠間市稲田から切り出した御影石で、1968年に建てた鳥居

地震後しばらくして、倒れた石の大鳥居を木で再建するというニュースを新聞で見ました。


当時、東北の被災各地では、コンクリートで手っ取り早く村の神社の鳥居を再建して、みんなで元気になろうとする動きがありました。
でも鳥居は、大きいものであれ小さいものであれ、コンクリートでつくることに、私は意味を見い出せていませんでした。
そんなおり、鹿島神宮が木で再建することを知り、なんだか嬉しくて、ぜひ完成したのを見たいと思いながら、はや何年も経ってしまっていたのです。


鹿島神宮では、境内の杉の木を4本切り出して山形県坂田市の木工所に送り、乾燥・加工して送り返し、鳥居を再建したのでした。


鹿島神宮の境内に生えている木は、杉、ヒノキ、スダジイ、タブ、サカキ、モミなど、ほとんどが常緑樹で、二人では抱えらきれない太い木もたくさんあります。


拝殿や弊本殿は銅板葺き


そして奥宮は、檜皮葺きでしょうか(檜皮葺きに見えるけれど銅葺きかもしれません)

奥宮の側面

以下は、境内のいろいろです。



楼門の両側では、仁王さまではなく、検非違使が守っていました。


ご幣のいろいろ。
ご幣の前の輪切りの木は何を意味しているのか、不明です。簡単な模様が描いてありました。


これはいったい何だったのでしょう?


大鳥居近くでは、新郎新婦が撮影していました。


いただいてきた、小鹿みくじ。



中吉でした。






2020年2月22日土曜日

小さい大型船


おもちゃ骨董のさわださんの持っていた、木とブリキでできた船です。
木の船体に、プリントしたブリキを釘づけしてあります。


プリキは凹凸をつけてあり、飛び出ているところは、三か所で爪で組んであります。


そして、舳先の方は、ブリキを切り取って穴まであけてあります。
ブリキ部分に手を掛けたわりには、二本の釘でカシの木の船体に打ちつけてあるのは、あっさりしすぎているような気もしないではありません。


船体のカシの木は、太さといい、質感といい、込み栓を利用したものに見えてしまいます。それだったら、わざわざ轆轤(ろくろ)で挽かなくても、簡単に手に入ります。
ただ、いまどきの込み栓は、端をちょっと細くしてあるだけだけれど、昔は、先端を丁寧に轆轤で丸くしていればの話ですが。


船の舳先(へさき)の方は轆轤仕上げですが、艫(とも、船尾)の方は、明らかに小刀で削って仕上げてあります。

ところで、丸い棒を縦に半分に割るのは、ことのほか大変です。
私なら、ここで挫折してしまいます。
もしかしたら、ブリキ部分をパーツとして売っていて、船体の部分は、おもちゃ製造業の人がつくったのではなくて、パーツを買った人(子ども?)が、一生懸命つくったものかもしれないと、妄想を膨らませてしまいます。