2020年11月30日月曜日

ソフトビニールVS.



イギリスのソフトビニール製の猫です。
かなり大きなもの、子どものおもちゃならぬいぐるみの方がしっくりくるし、飾りものだったら格調が低すぎる、いったい何のためにつくられたか、つまんでみても笛にはなってないし、貯金箱にもなっていません。



イギリスの猫のおもちゃは他には持っていませんが、猫の絵が描かれたならいくつか持っています。


どの缶も精密な、かわいい猫が描かれていますが、それに比べると、ソフトビニールの猫はちょっと不気味です。


こちらはソヴィエト連邦時代の、ソフトビニールの猫です。
子どものおもちゃに間違いないと思いますが、ソフトビニールだとどんな成形でもできるのか、身体などかなり複雑な形をしています。


この猫は、不気味とまでは言えませんが、ロシアのマトリョーシカたちと比べると異質です。
もっとも、ソヴィエト時代の姿を踏襲しているマトリョーシカは、後列のものと中列左端のものだけですが。


スマフォもアニメもなくて、世界の好みが平準化していなかった時代、この猫たちはイギリスやソヴィエトで子どもたちに受け入れられた、「かわいい猫ちゃん」だったのでしょうか。
もっとも、ソフトビニールの人形はどんな形にも成形できたからか、やりすぎているものが多いと思いますが。





2020年11月29日日曜日

2回目のコンクリート打ちの準備

11月20日


お天気が良い日が続いているので、作業はそれなりにはかどっています。
と言っても遅々としたもの、昨日Iさんから電話があって話したとき、
「もう棟上げしたんだろう?」
「いえいえ、まだ基礎よ」
「あれっ、こないだコンクリートやったって言ってたじゃない?」
「まだ、何度もやるわよ」
「なーんだ」
なんて、言われてしまいました。

11月28日

まあまあ、一週間前より進んでいます。


暖かい空気を自由に行き来させるため、床下は閉じないでつながるようにつくっています。



昨日は釘の整理をしました。
いつも作業を始めるときは、長さごとに小分けして使っていたはずが、そのうち、長さもまちまちの新しい釘と型枠から外した古い釘、しかも再利用できる釘だけでなく、頭が潰れたり曲がったりして使えない釘などがごちゃごちゃに混じって使いづらくなっています。


それを長さごとに選り分けて、釘箱に戻したり捨てたりします。
型枠に使うには、再利用の釘で十分ですが、あまり頭にセメントが入ってしまったような釘を使うと、次に抜くときに苦労します。
ちなみに、頭にセメントの入ってしまった釘は、頭の十字の中心に釘を当てて金づちで叩いて穴を開けると、ビットが引っかかるので抜けます。しかし、それが簡単にできるのはコンクリートがまだ固まり切っていない数週間だけです。
セメントはだんだん固くなるので、パネルを分解しないで長く置いておくと、釘の頭に穴が開かなくなって、抜くのに四苦八苦することになります。


ストーブを置く場所には、薄くベタ基礎を打ちます。


テラスの支柱を支える水平基礎の型枠を置くために穴を掘って配筋するのは、骨の折れる仕事です。というのも、そこら中に太い木の根が張り巡らされていて、それを切りながら作業しなければならないからです。
次のコンクリート打ちは、年内にはできると思うのですが。




 

2020年11月28日土曜日

深いお鍋



2010年の記事では壊れていなかった、直径16センチ、高さ14センチの深いお鍋は、その後数年して、底に貼りつけてあるステンレス板の一部がペコっと浮いてしまいました。
メーカーであるEVA TRIOの製品を扱っている店に、修理できるかどうかを問い合わせたところ、底が剥がれたものは修理できないとのことでした。私がこのお鍋を買った1980年代半ばには、EVA TRIOはデンマークでつくられていましたが、2015年頃にはすべて中国でつくられていることも知りました。
修理できないなら、同じサイズの新しいものを買いたいと思いましたが、その店では取り扱っていないどころか、そのサイズのお鍋は一度も見たことがないとのことでした。
2015年に、友人を訪ねてデンマークに行ったとき、日本にはないけれどデンマークには残っているかと、このお鍋を探しましたが、見つかりませんでした。それにもう、ステンレスのお鍋はEVA TRIOの主力商品ではなくなっているようでした。


毎日、剝がれたお鍋の底を見るのも耐えがたく、直径は同じだけれど高さが10.5センチのお鍋をもう一つ買い足しましたが、深いお鍋も捨てがたく、食品庫の棚に置きました。
毎日ではないけれど、ときおり深い鍋が欲しいときがあって、そのつど出してきて使っていましたが、底が剥がれてペラペラしている部分だけが高温になり、うっかり木の調理台の上に置いたりすると、木が焦げてしまいました。
底が剝がれたのは、急激な温度変化を与えたからに違いないと、夫に、「お鍋は熱いままで水に濡れたシンクに置いて、底を急激に冷やしたりしないで」と、何度も言っているのですが、なかなか実行されません。


さて、先日、食品庫に入ると、棚に置いてあるお鍋が足元に転がっていました。地震では落ちないでしょう、夫が柄にぶつかって落としたに違いありません。お鍋を拾うと、「あれっ、変!」、鍋底に貼りつけていたアルミ板(鉄板?)が剥がれ落ちていました。


こうなってはさすがに捨てる以外ないとも思いましたが、底が厚くなくて困るのは急いで料理をしたいときや煮込みをするときで、糸寒天を戻したりするにはどうせ弱火なので、熱回りの遅いステンレスの底だけでも問題なさそうです。


使う機会はすぐにやってきました。常温では固まっているココナツオイルを、いつも湯煎して溶かし、トレイに入れて冷やすのですが、湯煎はやはり高さのあるこのお鍋に限ります。


ココナッツオイルは、キューブにして保存容器に移し、炒めものなどのときに使います。

それにしても、メーカーが違ってもいいのですが、直径が小さくて深いお鍋、すごく便利なのに全然見かけない、不思議です。

お借りした画像です

以前、似た形の日本製の鍋も持っていましたが。持ち手が水平についていたので水をたっぷり入れると持ち上げにくくて、まったく使いものになりませんでした。
それは浅い鍋、深い鍋、コランダー(水切り)、手つきボウルと蓋がセットになっていたのですが、収納に便利なようでどれも役立たずで、とっくの昔に処分してしまい、浅いお鍋だけが残っています。


その残った浅いお鍋は、台所の安全弁です。
夫が、何度もコーヒーを少量お鍋に入れて火にかけてはほかのことに夢中になって忘れ、コーヒーは蒸発して底に炭が残り、ガスは勝手に消え、部屋中に焦げたにおいだけが残るということを繰り返しています。
そのつど、スチールたわしで、ときには電動のやすりで焦げを落とされ、今日もこのお鍋は、ほかのお鍋に手を出されないために、台所で頑張っています。





 

2020年11月26日木曜日

マッチボックス猫



買ってしまったねぇ!
この可愛さには抗えませんでした。



4つのマッチ箱です。



引き出しを引き出してみます。


猫が現れます。シャム猫、ハチワレ猫。
いやはやかわいい!!!


そして、三毛猫に茶トラ猫がマッチ箱から顔をのぞかせました。みんな赤い前垂れをつけています。


船橋つとむさんデザインのマッチボックス猫たちです。


キジトラがいないのだけが残念ですが、このつぶらな瞳、うぅぅ、かっわいい!




 

杓子をつくる人について

hiyocoさんから、「傘のろくろとはいったい何かしら?」と調べていて、岐阜のエゴノキプロジェクトを知ったというコメントをいただきました。ごく最近、エゴノキをみんなで伐ってきたばかりだと書いてあったので、中心的に活動しているKさんのFacebookを覗いてみました。
すると、エゴノキプロジェクトの記事がたくさんありましたが、Kさんも昨日(fbを書いた時点)知ったという報告書、神戸芸術工科大学安森弘昌さんが2007年にまとめられた、新子(あたらし)薫さんの杓子づくりの報告書を紹介していました。
公開されているものではあるし、とても興味深いので、私も転載させていただきたいと思います。


それは、『生成りの造形、生地師の聞き取り調査から という9ページの報告書で、2006年に、奈良県吉野郡大塔村(現在の五条市)に住んでいた、新子薫さんに密着して、栗の木の杓子づくりの一部始終を記したものです。 報告書をまとめた安森さんは「おわりに」で、新子さんは弟子を取らない、なぜなら杓子をつくる技術を覚えても、道具をつくる鍛冶師がいないからだとおっしゃったと書いてあり、転載したKさんも、「現在大塔村では誰も杓子をつくっていないようだ」と書いているのですが、お孫さんの光さんは、どうしていらっしゃるのでしょう?薫さんは2012年3月に亡くなられましたが、お孫さんの光さんがあとを継いだはずです。 さて、些細な話ですが、「はじめに」で安森さんは、新子さんを山中で生活した「最後の木地師」と書かれています。それでいて2ページで、木地師の定義に「大辞林、第二版」を引用していて、大辞林では木地師は轆轤を使う人と限定されています。 【木地師】:轆轤(ろくろ)を使って椀や盆など、木地のままの器物を作る職人。かつては良材を求めて山から山へと渡り歩いていた。明治以降、急減。木地屋。木地挽(び)き。轆轤師。「大辞林、第二版」(三省堂)

報告書の中での木地師の使い方が矛盾していますが、安森さんが新子さんを「木地師」と呼ぶ気持ちもよくわかります。

ここからは、まったくのあてずっぽうですが、私見を述べてみたいと思います。
轆轤は、早くに手動から電動に取って代わりました。それにつれてノミなどの道具もそれなりに改良されたり、近代的な工法で機械でつくられるようにもなりました。

新子光さんと祖父新子薫さんの遺した道具

その轆轤細工に比べると、刃物は多少甘くても、農家の副業などでもつくれた杓子づくりは、特殊な道具を使う仕事ゆえ、鍛冶屋の減少とともに道具が手に入りにくくなる、加えてアルマイトなどの安い杓子が出回って需要が少なくなるなどの相乗効果で、消えていった。そのため伝統的な木地師としての生活が、轆轤を使った木地師より長く残ったのが杓子をつくる工人たち(この場合は新子薫さんだけ)だったのかもしれません。

どうか、光さんに杓子づくりを続けて欲しいものと思いますが、ネットで検索してみると、新子光さんの古い記事は見つかりますが、最近の記事は見つかりません。私の検索が未熟なだけだといいのですが。


さて我が家では、カレーなどを取り分ける杓子として、大きすぎない、小さすぎない、深すぎない、浅すぎない、
柄が長すぎない、柄が短すぎない、新子薫さんの杓子は最高で、ついつい手が伸びてしまいます。





2020年11月25日水曜日

唐笠のろくろ

轆轤仕事のことで、消えつつある和傘の「ろくろ」を思い出しました。



手元には、ビルマの傘とタイの傘しかありませんが、原理は和傘と同じです。上がビルマの傘、下がタイの傘です。
傘のてっぺんにみえているのが、「ろくろ」、岐阜県に住む友人が、「ろくろ」の伝承に力を入れています。



和傘はろくろ部分をすべて油布で覆って、木部が見えないように保護していますが、ビルマの傘もタイの傘も、基本は雨傘でなく日傘なので、雨にも対応できるように油布は使っていますが、てっぺんの木が見えています。


この絵のように、ろくろには、「天ろくろ」と「手元ろくろ」があります。
どちらも、傘の骨を収めるための切込みが入っています。



ビルマの傘を開いたところ、「天ろくろ」の切込みが見えています。



そして、タイの傘を開いたところ、どちらも切込みの美しさが目立ちます。


そして、開閉のために上下に動かす「手元ろくろ」です。


タイの傘は日本の傘のように骨がまっすぐですが、ビルマの傘は骨がちょっとたわんでいて優雅。小豆色の衣を着たお坊さまたちがみんなこの傘をさして、列をつくって歩いているさまは、とても絵になっていました。
ちなみに、お坊さま以外でこの傘をさしている人は、見かけませんでした。


唐笠という名前があるほどですから、もとはといえば中国から来たものなのでしょう。
ビルマの傘もタイの傘も、骨には紙ではなく布を貼っています。


追記:

hiyocoさんのコメントに、岐阜で傘ろくろの材料であるエゴノキを共同で切り出したという記事を見たとあったので、それにかかわっている友人のKさんのFacebookを見たら、日本でただ一人の「傘ろくろ」職人の長屋一男さんがつくられた轆轤の写真が載っていたので、転載させてもらいました。


長屋一男さんはこのたび、岐阜県の卓越技能者として県知事表彰を受けたそうです。

 



2020年11月23日月曜日

木地屋のふるさと


『木地山のふるさと』(橘文策著、未来社刊、1963年)は、こけしの一蒐集家であった橘文策さんが、こけしの村に通ううち、こけしをつくる生地屋に関心を持ち、生地屋の歴史や暮らしを足で調べて書いた本で、古文書や聞き書きを駆使し、奥の深い本となっています。
章立ても、マニアックです。

 生地屋のふるさと
 蛭谷文書に見る生地屋の生活
 古代の近江と轆轤師
 轆轤の変遷
 生地屋の女
 遠刈田新地の民俗
 三川の木地屋
 東美濃の木地屋
 佐治谷紀行
 東北地方木地屋の用語

全編を読んでわかってくるのは、9世紀から千年以上に及ぶ木地屋の全貌です。
全国に点々とある木地屋の村の工人(職人)たちは、元をたどればすべて近江から出た人々で、世襲を続けながら、技術を守ってきました。今では轆轤仕事は動力に電気を用いていますが、かつてはすべて人力でした。そのため、工人たちは生地の手に入りやすい山奥に住みました。


目次に「木地屋の女」という章がありますが、木地屋の女房には木地屋の娘がなったことが書かれています。木地屋の女房は、轆轤を回す手伝いだけでなく、山奥に住むため、土地を切り開いて雑穀や野菜を植えて育てたり、キノコをはじめとして食べられる山菜を採ってくるなど食糧を確保し、生存のためのすべてを担ったうえ、雪深い冬ともなればできたものを温泉地や木賃宿などを廻って売りさばく裁量も持ち合わせた女たちで、とても農民の娘では務まらなかったそうです。
この本に寄せた渋沢敬三の序文で、本書の一端を知ることができるので、長いけれど全文載せてみます。

序                     渋沢敬三

 木地屋について三十余年の長い間関心を持ちつづけて来た橘さんの書物が出版せられることになったのはほんとに喜びにたえない。橘さんはそのはじめコケシの美しさに心をうたれ、コケシをつくる人たちに関心をもち、昭和七年東北地方をおとずれて以来、何回か木地屋の村をおとずれ、また本山である近江の東小椋村をたずねて研究をすすめられた。
 橘さんの関心はその間にコケシの美しさから、これをつくる人びとの素朴な誠実さ、その誠実さを失わないで木地屋をさせている伝統的な誇ともいうべきものと、その誇の由来をさぐることへとだんだん深まっていってついに木地屋の歴史学的民俗学的な追及をつづけられるにいたった。
 その間に大きな戦争があり、橘さんも満州にゆかれたりなどして中絶の時期があったが橘さんの研究は人と人の深いつながりにたっていたから、戦後木地屋の人たちとの手紙の往復から、また戦前の関係がよみがえり、ただ過去をなつかしむだけでなく、いよいよ研究は深まり、ついに調査される人びとからすすめられて、この書が公刊される運びになったという。
 そうした人と人のつながりのあたたかさが、行間にあふれているのがこの書物の大きな特色といえるとともに木地屋について、一通りのことを知り得ることに特色がある。
 木地屋について最初に注意ぶかい眼を向けられたのは柳田國男先生で、雑誌「史学」(大正一四年五月)に「資料としての伝説」と題して木地屋の変遷について述べられた。これに答えたような形で、牧野信之助氏が「歴史と地理」(昭和二年一二月)に「所謂木地屋根本地の史料」を発表し、ようやく世人の関心をよぶようになったのであった。それと前後して東北地方でコケシを蒐集している人たちの間で、生地屋の事を問題にするものが出はじめたが、その中でもっとも本格的に木地屋の学問的調査にとりくんだお一人が橘氏だった。
 戦後旧来の木地屋の技術伝承など次第にほろびつつある有様に対して、文化財保護委員会でも調査記録の必要を感じ、各地に残存する木地屋の文書資料、技術伝承などの記録作成して来、また橋本鉄男氏によって木地屋の全国的な移動分布の研究もすすめられ、漸くその全貌があきらかになろうとしているとき、この書がでることになったのはまことに時宣を得ていると思う。この書はもっとも要領よくまとめられていて、木地屋の全貌について知らしめてくれるとともに、前記のようなさらにこまかな研究への橋渡しをする役目も果たすであろう。それはこの書を読むものに木地屋に対して深い関心を持たせるばかりでなく、各自がこうした世界にふれてみたい希望を抱くにいたるであろうと思うからである。
 事実木地屋は高い文化を持っていたし、また文化のにない手でもあった。日本の古代にあっては液体容器は主として土器を用いたが、平安、鎌倉時代には木器が多く用いられるようになり、それが陶器が盛んに用いられるにいたるまでつづく。これは良質の鉄を産出したことも原因しているが、何よりも木地物に適した木材の多かったことによる。大陸でも漢代までは樹木が多く、木地物の発達を見ていたが、それ以後樹木が減少し、したがって木器の用いられることは少なくなった。しかし日本の場合は木器時代ともいうべきものが長くつづいた。これは一つには漆による加工、すなわち塗漆の技術と深く結びついたことにもある。岩手県二戸郡の浄法寺塗の木地など、よくこれほどまでに薄く挽いたものだとおどろくほどだが、その生地を生かす漆器の技術があったことを忘れてはならない。

浄法寺塗

 こうして木地屋のつくった食器類は常民の生活に深く浸透したのであるが、これをつくった人びとの生活を理解するものはすくなかった。それはこの人びとが材料を入手しやすいところに住居をもとめる関係から多く山奥に住み、また移動を事としたためである。つまり一般常民はその恩恵にあずかりつつ、その人びとに接触することなしにすぎて来たのである。むしろ世人は木地屋を警戒し、また伝説的な社会と考えているものすら多かった。
 だが本書をよむことによって多くの疑点がはれるとともに、人びとが一般常民の文化向上のためにはたした役割もあきらかになって、その功績の感謝の念をもちつつ民衆の歴史の上にこの人びとの登場していただける喜びを持つであろう。
  昭和三十八年六月二十八日

確かに、この本がなければ、木地屋の実態は知られないままで忘れ去られた可能性があります。



上の2枚は、『木地屋のふるさと』に挿入されている、木地屋の住んだ小屋のスケッチです。
ほとんど知られてないことですが、山中生活者、船上生活者など、土地を所有する生活を良しとはしなかった人々は、日本につい最近までたくさんいました。


1960年代には、ほとんどの木地屋さんたちは、『木地屋のふるさと』に書かれたような山奥ではなく、里に下りてきて電動轆轤を使って仕事をしていました。
私が学生時代に友人と東北各県を旅行したとき手に入れた、鳴子の伊藤松三郎さんのこけし(右奥)は、当時としては珍しかった足踏みの轆轤でつくられたものです。友人連れで、限られた旅程の中で、山奥に住んでいらっしゃった伊藤松三郎さんの家までお伺いすることはできませんでしたが。


戦後から1960年代までは、椀や盆に加えて手軽なおもちゃがたくさんつくられた時代でした。生活が安定し、旅行なども増えた時代、お土産ものや小さな創作こけしは、どこででも目にしたものでした。
木地屋さんたちが最後の花を咲かせた時代でもあったでしょうか。


やがて木地仕事は、プラスティックの椀や盆、おもちゃやお土産ものに取って代わられてしまいました。


さて、『木地屋のふるさと』の序文の中で、渋沢敬三さんがちょっと触れていますが、木地屋と鉄は深い関係にありました。
『塩の道』(宮本常一著、講談社学術文庫、1985年)を読むと、何故近江が木地屋のふるさとなのか、よくわかります。
木地屋のノミはとても精巧なもので、刃が鋭く、しかも刃こぼれしないものでないとうまく削れないのですが、そのいいノミの材料のマンガンを含んだ鉄が、近江で採れたというのです。それゆえ、よいノミを手にした近江の木地屋が全国に広がり、各地で椀や盆をつくりました。
宮本常一さんは『塩の道』で、かつてたくさんいた非定住者たちは、必ずしも根拠地にそれほど密接に結びついていないのに、木地屋だけは全部、滋賀県永源寺町筒井と君ヶ畑の両方のお宮に結びついている、それは鉄が関係していたのではないかと書かれています。要するに、近江から出る鉄でないと、木地屋のあの椀をつくれなかったのではないか、鉄の供給者と絶えず連絡を取っていなければ、木地屋がよい仕事をできなかったのではないかと推察しているのです。
塩づくりには、鉄(煮詰める鉄釜、あるいは石釜をつくるノミ)と木(薪)が欠かせなかった、そして木地屋にも鉄(ノミ)と木(材料)が欠かせなかった、そしてその鉄をつくるにも、燃料としての木が欠かせなかったのです。
どうやって日本人の生活が成り立っていたか、あまりにも知らない部分が多いことに、これらの本を読むと、ちょっと驚いてしまいます。

祖母の家にあったお平椀。寄合のためどの家でも20客くらい常備していた。

余談ですが、『塩の道』のなか、塩に関する記述は6章の中の1章だけです。
塩が生活にどれほど大切だったか、そしてどうつくられ、どう運ばれたかはわかりましたが、全国にあった塩の道について、もっと知りたいものだと思っています。