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2026年3月17日火曜日

どこで織られた布だろう?

骨董市で、柳で編んだ文箱を見つけました。
スズタケの文箱はよく見るのだけれど、柳の文箱は初めて、しかし、細長くて何を入れる? と考えていたら、その隣に畳んであった布に目が行きました。
東南アジアの布(もしかして南米って可能性がある?)ですが、どこでつくられたものかわかりません。わかったら買わなかったかと思いますが、さして古くもない、草木染でもない、しかも地糸がレーヨンの布を、柳の文箱をうっちゃって買ってしまいました。


写真の下から上へと織ったもの、2枚の布を真ん中でつないでいて、腰布として使ったと思われます。


すべて化学染料染めの糸で、一番大きな模様に銀糸が使われています。
インドで、サリーなどに盛んに使われる金糸、銀糸ですが、金や銀を信じられないほど薄く延ばして絹に巻きつけた「本物」は値が張るので、銅などに銀メッキしたものや、最近では光る化学繊維やアルミ糸などもあります。
この銀糸はなんでしょう? 錆び具合からして銀メッキの糸ではないかと思ったのですが、違うかもしれません。

機械ではなく手機で織ったものであることは確かですが、どこで織られたものかについて、地糸がレーヨンであることがヒントになるでしょうか?
タイやラオスの市場では、第二次大戦後、自宅で布を織る人たちが市場で工場製の糸を買おうとすると、レーヨンしか手に入らないということがありました。しかも、1900年代初頭に綿の栽培を手放して、ヨーロッパの木綿糸を買うようになっていたので、市場で売っている糸を買わざるを得なかったのですが、レーヨンの糸を木綿と思って使っている人もいました。
余談ですが、今では改善されたかどうか、1960年代のガーナでも、ケンテを織るための市販の糸はレーヨンしかありませんでした。

そんなに第三世界を席巻していたレーヨン糸ですが、インド、インドネシア、マレーシアなどの手織りの布でレーヨンを使ったものを見たことがありません。絣をよくした彼らは、染められた糸で織るのではなく、染めてから織ったので、植民地化されていたにもかかわらず、木綿を育てて紡ぐ伝統を守ったのかもしれません。
というわけで、インドネシア、マレーシアの布ではないと考えます。


布を裏から見たところです。裏には糸がたくさん出ない織り方をしていています。


同じ模様の裏(左)と表(右)を比べてみました。


ラオスにも同じ織り方はありますが、ラオスの腰巻布のシンはわりと短く着るもので、裾にはボーダー模様を持ってきますが、織り幅が狭いときは腰側に別布を足すので、このように模様が上下対称になるようにつないで、幅を広くすることはないと思われます。また、昔は藍染め糸、市販の糸になってから黒を基調としているので、えんじ色もなかなか見ないものです。

タイでは普段の腰巻は簡便なプリント布のもの、改まったところならレーヨンではなく絹の布をまとうでしょうか。
ブルネイ、シンガポール、ヴェトナムで織られたものではなさそう、残るはビルマとフィリピンですが、どうでしょう?
銀糸が手に入りやすいインドの近くで織られたのかとも思います。


テーブルクロスなどとして、惜しげもなく使えそうな布、しかし、銀糸の洗濯はどうかしら?
手元にあって、嬉しいと思いながらも、
「あんたじゃなくて、柳の文箱にすればよかったかしら?」
と、布に話しかけたりしています。 





2026年3月5日木曜日

スカート


重い箕を扱いながらスカート姿の女性、しかし、20世紀初頭までのヨーロッパには、女性にはスカート以外の選択肢はなかったようです。

世界の籠文化図鑑』より

スペインのムルシア地方で、蚕のために桑を摘む女性たち。
脚立に上るとき降りるとき、スカートはすごく邪魔、裾を踏んだりすると危険な目にあってしまいます。

13歳のとき、メアリー・アニングは魚竜化石を発見した。『メアリー・アニングの冒険』より

さて、メアリー・アニング(1799-1847)は、「天地創造」が生命の起源とされていた時代を終わらせ、博物学から出発した地質学、古生物学が誕生した19世紀のイギリス・ヴィクトリア時代に、イギリス南部のライムで、少女時代から数々の化石を掘り当てた人です。
メアリー・アニングの化石発見は、その後恐竜学の扉を開く礎となり、ダーウィンに『種の起源』執筆を促し、世界中の人々の生命観を大きく変えました。

学者たちや国内外の博物館に頼まれて、化石を掘ることで暮らしを立てていたメアリー・アニングに触発されて、たくさんの人たちが化石探しを目指しましたが、引き潮時でさえ波も荒い危険な崖地で、命を落とした人も少なくありませんでした。

ロンドンの自然博物館に飾られたメアリー・アニングの肖像画、『メアリー・アニングの冒険』より

上は、メアリー・アニングの肖像画です。
滑りやすく、地元の人でも命を落とすような岩場に行く服装としてはかなり不適切な姿、想像しただけで背中がぞくぞくしてしまいますが、当時は宗教上の禁忌などもあり、これ以外の服装は考えられなかったのでしょう。

『百年前の日本』より

それに比べると、日本には少し自由があったようです。田の草取りの女性たちは着物を短く着て、脚絆を巻いています。
もっともこの写真は、モース(1838-1925)の写真で、モースは19世紀末から20世紀にかけて日本に滞在していたので、メアリー・アニングの時代とは50年以上違うので、単純に比較はできませんが。

モースの写真には、女性が着物の下に股引を履いているものもあります。やがて昭和も戦後になると、着物を短く着てその上からもんぺをはき、さらに脚絆を巻く姿になって、もっと機能的になりました。


『メアリー・アニングの冒険』(古川惣司・矢島道子著、朝日新聞社、2003年)の表紙はサウスケンジントンにある自然史博物館の写真です。
メアリー・アニングが掘り当てた首長竜のプレシオサウルスの標本の下に飾られたメアリー・アニングの肖像画に見入る少女は、メアリー・アニングが初めて魚竜化石を発見した13歳と同じくらいの年の少女でしょうか?
200年の時を経て、こんな姿でいられるのは、おそらく生命観が変わったことと深く関係があることでしょう。






2026年2月2日月曜日

民族衣装の人形


骨董市で、水屋さんのお連れ合いが小さな人形たちを並べている中に、東欧諸国のものと思われるろくろ細工の人形がいました。男性も女性も民族衣装を身に着けています。
焼きごてで模様を描いてから彩色したもので、最初は男女しか目に入らなかったのですが、近くには同じつくり方の塔みたいなものが置いてあり、それには「BULGARIA」の刻印がありました。ブルガリアの人形を見るのは、たぶん初めてです。
同じ手法でつくられていることから、この塔も仲間だろうと思いながら値段を訊いてみると、1つ300円でばらで売っているとのこと、3つともいただいてきました。


ブルガリアの民族衣装には、いろんな種類がありますが、エプロンをつけて、レースの下スカートが見えるように上スカートを重ねて、スカーフは後ろで結ぶとすると、こんな衣装かと思われます。
腕を腰に当てているところ、人形とそっくりです。


男性の民族衣装の写真も探してみましたが、パンツの上にアイルランドのキルトのような短いスカートをつけているものが多く、上半身はそっくりだけど足元にゲートルみたいなものを巻いていなかったりして、なかなか見つからない。パンツの色が違うけれど、この絵が一番よく似ていました。


さて、家に帰ってから、よく見ると女性は上半身と下半身が別もののようです。
上下に引っ張ってみると、案の定蓋と身に分かれ、中がくり抜かれて、何か入っていました。男性も引っ張ってみると二つになりましたが、男性には何も入っていませんでした。


女性の中に入っていた小さなガラスビンには、斜めに紙が貼ってありました。
いまどきのことだからスマホで文字を読み取れるかと、老眼鏡の上に拡大鏡までかけて見たのですが、しみ出した液体のせいか、貼ってある紙の文字を読むことができませんでした。

ソラシカ散歩からお借りしました

では別の方法でと、ネットで「ブルガリア 人形」と検索してみると、ろくろでつくられたと思われる木製の人形が見つかりました。


中に収められているのは、ローズオイルと呼ばれるものでした。

セレクトショップdomacaよりお借りしました

香水に疎い私は、ローズオイルが何か知りませんでしたが、朝日が昇る前に摘み取ったバラの花を蒸留してつくる香水だそうです。

中身がローズオイルとわかる前に、塔みたいなものも容器になっているのではないかと、引っ張ってみましたが、抜けませんでした。そこで回してみたら、こちらはネジ式になっていました。


どちらかと言えば、これが典型的なローズオイルの容器のようでした。


似た形のものが、いろいろあるようです。


ガラス瓶の中には、コルクの蓋に刺したガラス棒が入っています。


今ではビンの蓋は、棒と一体型になったプラスティックのようですが、かつては一つ一つ手作業で、コルクの蓋にガラス棒を取りつけていたものとみえます。


ブルガリアは1946年に王制を廃止、ソヴィエト連邦主導の東欧諸国の傘下に入って社会主義国になりましたが、1989年の革命後に複数政党制になりました。
1989年が人口のピークで900万人いましたが、2024年には680万人に減少、人口危機が深刻な問題のようです。
この人形がつくられたのはいつごろか、1989年以前につくられたのは間違いないと思いますが、おそらくもっと前でしょう。
詳しいことはわかりませんが。





 

2025年9月7日日曜日

パレスチナの民族衣装の本

しばらく前に、フィッシングに引っかかってしまいました。
何のサイトを見ていた時か忘れましたが、広告として『Tradithonal Palestinian Costume』を売っているサイトが出てきました。


昔のパレスチナの写真満載の、『Palestinian Costume』(Shelagh Weir著、英国美術館、1994年)は持っているのですが、


『Tradithonal Palestinian Costume Origins and Evolution』(Hanan Karaman Munayyer著、アメリカのパレスチナ美術館、2025年)は分厚くて、最新の技術を使って図版もきれいに違いない本、値段は約13,000円でした。

カートに入れて、クレジットカードで支払いをしたら、注文承りのメールが来たのですが、その文の中に、「支払いについては別途お知らせします」と書いてありました。
「あれっ、もう支払ったのに。ちょっと変」
と思っていたらすぐ、知らない人が知らないものを注文して支払っているという、わけのわからないメールが続々と届くようになりました。変なメーリングリストに入れられてしまったようでした。
夜でしたが、クレジットカード会社に連絡して事情を話し、カードを差し止めてもらいました。いったんは不正に請求された代金が引き落とされたという明細書が届くけれど、後から払い戻してくれるので安心するようにとのこと、1円も損することなく処理していただくことができました。
しかし、怪しいメールは止まりません。次の日、警察に連絡して相談してみたものの、止めようがないとのこと(本当か?)、迷惑メールとして処理して放置しましたが、数週間は、「新規注文、お支払いありがとうございました」という、いろいろな店名といろいろな名前の人のメールが来続けました。

さて、問題が解決し、新しいクレジットカードが送られてきて一段落してからも、ときおり未練たらしく『Tradithonal Palestinian Costume』を適切な値段で売っているサイトはないかと探していたところ、アメリカのサイトが見つかりました。送料も7.5ドルと高くなかったので、数日は逡巡したものの、思い切って注文してみたのですが、なぜか支払いができませんでした。

次の日だったか、次の次の日だったか、クレジットカード会社から、「不正にカードが使われたようなので差し止めたけれど、心当たりはないか?」とのメールがあり、さっそく電話してみました。
メールには値段がドルではなく円で示されていたし、『Tradithonal Palestinian Costume』は支払えなかったので解決済みと思っていたので、最初は、カードを新しくしたばかりなのにまた詐欺にやられそうになったのかと思いましたが、よくよく話し合ってみたら、クレジットカード会社が『Tradithonal Palestinian Costume』の注文を怪しいと思い、会社の判断で支払いを差し止めたのだとわかりました。
双方で事情を理解し、カード会社から「これは止めてしまったので、同じものが欲しいならもう一度買いなおしてください」と言われたのですが、さすがにめんどくさくなりました。
もう一度試みれば、「二度あることは三度ある」か、「三度目の正直」かどちらかの結果が出るはずですが、きっぱりと諦めました。

『Tradithonal Palestinian Costume』をアマゾンで見ると、正規の値段(円では不明。アマゾンUSAだと100ドル。こちらも在庫切れ)の本は在庫切れで入荷予定は立っていないとのことですが、なんと、13万余円、14万余円という値段がついたものが、堂々と売られています。
「うそでしょう!」

まぁ、『Palestinian Costume』があるだけで、十分としましょう。この本にも古き良き時代の写真がたくさんの載っているのですから。

『Palestinian Costume』より

上は、ベツレヘムの街をオリーブ畑からのぞんでいる、1900年代初頭の写真です。1900年代の終わりにも、景色は同じようなものでした。
パレスチナには、樹齢2000年と言われている風格のあるオリーブの木もありましたが、パレスチナ人の土地所有をあいまいにし、経済的な自立をさせないために、イスラエル人によって、意味なくあちこちで強制的に切られてしまいました。また、ベツレヘムの周りには分断壁が建設されたので、街は近郊からはのぞめなくなりました。

『Palestinian Costume』より

石を積み上げてつくった伝統的な家の内部です。
1990年ごろ、これとそっくりの農家に泊めていただいたことがありました。壁の厚い、見上げれば天井がドームになっている、気持ちのいい家ですが、窓からは丘の頂上付近にあるイスラエル人の入植地が見えました。
ほかの土地にあれば世界遺産にも匹敵した家々ですが、次々と壊されたりしています。

『Palestinian Costume』より






2025年5月31日土曜日

紋織りのブラウス

いつも、身体をどこも締めつけない普段着で出かけてしまいますが、クラス会などだと、ちょっと着ていく服を選ばなくてはなりません。そんなとき、服選びより全然着ない服を手に取って懐かしんだり、こんなに着てないのだから処分しなくてはと選り分けたりする方に、つい力が入ってしまいます。


そんなとき、あることさえ忘れていたブラウスを見つけました。肩パッドが入っていて、即処分する服に分類しましたが、処分する服をまとめる段になって、待てよと思い、羽織ってみました。
既製服だったので余裕で着ることができ、肩パッドを取ったら、着られそうでした。余裕で着ることができるなら、友人の結婚式のときに、きつくなった服をなおしたり、痩せたりする苦労しなくてよかったのにと思いましたが、あれは寒い季節でのこと、袖なしを着ていた人もいましたが私は無理、いずれにしてもこのブラウスは結婚式には着ることはできないものでした。


この布は紋織りで織られています。


紋織りですから、裏と表で色(糸の出方)がちょうど反対になっています。
布は、タイの農村で織られた手織り布です。手織りで紋織りの布を織るなら、模様綜絖さえあれば織れますが、機械で織るならかつてのジャガード機ではパンチカードが必要だったし、今ではコンピュータで、模様を制御しています。


手織りですから、何ヵ所か「織り間違い」があるのもご愛敬です。
しかし、このブラウスに合うホールがあるかしら?


仕事着で着ていた黒いホールは合いそうですが、おめでたいときには着られません。
おそらく取っておいても着る機会はなさそうですが、こうして引き出しの中はなかなか片づかないのです。

いろいろ物色したにもかかわらず、結局クラス会にはいつも着ている服で行きました。着る服が限られているのだから、もっと整理ができるといいのですが.....。






 

2025年5月7日水曜日

『柳宗悦、浅川巧が愛した韓国を歩く』に見る竹籠


『柳宗悦、浅川巧が愛した韓国を歩く』(藤本巧著、工房草土社、2022年)は、写真家藤本巧さんの、おもに1970年の最初の韓国行きで撮られた写真を集めた本です。
藤本巧さんが「民藝」に造詣の深かったお父上の均さんと最初に韓国を訪れたとき、均さんは古い品々を心いくまで見るために仁寺洞(インサドン)に留まり、巧さんは各地を歩き回ります。草屋根が続く村々のあまりの美しさを目にした巧さんの興奮が伝わってきます。

私が最初に韓国に行ったのは1981年、夫の仕事に同行したのですが釜山の都市部だけ、バスで行ける郊外にも行ったけれど、草屋根の家を見ることはありませんでした。
そして、ほぼ全国の農村(島嶼部を除く)を回ったのは1993年、各地で見られる土饅頭の柔らかい優しさには見惚れましたが、藤本さんの韓国紀行から20余年経っていた1990年代に、民俗村以外で草屋根の家を見ることはありませんでした。

この写真集のところどころに籠が写り込んでいて、思った以上に草籠ではなく竹籠が多いことに驚きました。
そんな竹籠にまつわる写真をお借りしてみたいと思います。


慶尚北道(キョンサンプクト)の金泉(キムチョン)の市場で。
籠師さんが作業中です。


全羅南道(チョルラナムド)の竹細工の町潭陽(タミャン)の光景。


全羅北道(チョルラプクト)南原の(ナㇺオン)の市の日。
手前に竹籠が見えて、奥には、稲縄か草縄か、縄にしてから編んだ草籠が見えます。


南原の市の日。
石臼(石鍋?)屋さんに置いてある籠。左は竹籠ですが、右はどんな材料を使ったのでしょう?


南原の石職人の後ろに見えている籠も、竹の籠に見えます。


金泉の村で。
大きな自転車籠は、日本のとつくりがまったく同じです。

『柳宗悦、浅川巧が愛した韓国を歩く』には、村の写真、子どもたちの写真、焼きもの登り窯など興味深い写真がたくさん掲載されていますが、織りものの写真に、私の目は釘づけになりました。


北慶北道(キョンサンプクト)麻の村、安東(アンドン)の写真です。
座板の高い「地ばた」、座らずに腰掛けてはいるものの、

カササギの織り機の歴史より

日本の地ばたとまったく同じ構造です。そして、上の写真では織り手の手前に見えている杼が、大きく写されている写真もありました。


一般的な杼は、小管に巻いた緯糸を細い竹や金属の串状の棒で杼に仕込みますが、これは俵形に巻いた緯糸を杼に入れて、それを竹で押さえています。
「こうやって使ったのか!」


内側が変な風にえぐれているのに小管を収める穴がない韓国の杼の、長年の謎が解けました。筒形の杼も(私にとって)珍しいものでしたが、緯糸を杼に閉じ込めている韓国の杼も不思議な、不思議な杼でした。 


さて、写真は1970年の仁寺洞です。
仁寺洞は、19世紀末に困窮した両班たちが先祖伝来の品を売る店を開いたことから骨董屋街となりましたが、1970年の仁寺洞と私の知っている1990年代の仁寺洞とは、ずいぶん印象が違います。


そして現在の仁寺洞。
韓国の骨董や工芸を日本で商っている朴さんの話では、何軒か民俗品や骨董品を扱う店が残っているものの、昔に比べるとだいぶ減ってしまっているそうです。そして、ものが確かな店もありますが、そうでない店もあり、場所柄(ソウルの中心地)値段が張るので、仁寺洞はもう買う場所ではない、勉強として楽しむ場所になっているということでした。
人の世は、変わったようで変わってはいないのかもしれない。変わらないようで少しずつ変わって行く。そんなことを考えさせてくれる、仁寺洞の昨今でした。





 

2025年3月2日日曜日

酒袋

しばらく前から酒袋を探していました。
酒袋とは、もろみを入れてお酒を絞るときに使われてきた袋のこと、袋の耐久度を増すために手織木綿(帆布)を使い、柿渋に浸けて、防腐・防虫効果を出していたものです。


というのは、リネンでできた古いフランスの作業着を持っていて、日常的に着たいのですが、下に重ね着をしていると腕のつけ根あたりがきついので、袖をもっとたっぷりさせたいと思ったとき、この厚手の手織り布に対応できるのは酒袋くらいしかないかと思ったのです。
酒袋1枚では足りないので2枚欲しいのですが、何分にも使い古して破れているものが多く、なかなか見つかりませんでした。


と、骨董市で水屋さんのお連れ合いが2枚持っていらっしゃいました。
1枚は無傷ですが、1枚は大きく破れていました。以前も同じような2枚を見たことがあって、それなら1枚でも買っておけばよかったと後悔しましたが、ぼろぼろの方も繕い方が素敵だったので何とかなるかもしれないと、2枚ともいただいてきました。


あちこちぼろぼろです。


繕った後も使われたのかどうか、繕い方はお見事です。
破れた方は取って置いて、ずっと前に買った別の酒袋を使ってはどうかしらと出してみました。


久しぶりに見たこちらは、さして使わないうちに酒絞りが機械化されて使わなくなったものか、柿渋の色がしっかり残っていて、白いシャツに柿渋色の袖下でさえどうかと思っているのに、普段着とはいえ左右の色が違うのどうでしょう? やっぱり破れているのを使うべきでしょうか? 


酒袋の方はただ裁つとして、作業着の方は解かなくてはなりません。ミシンと手縫いを合わせて、固くがっちりと縫ってあります。
解いている途中で放り出して縫うところまでたどり着けないくらいなら解かない方がいい。ここも思案のしどころです。


と、迷いながらも解きはじめています。