2024年8月30日金曜日

再会

昨日、5泊7日、1機内泊のタイへの旅から戻ってきました。
私にとっては、かつてタイ人の同僚たちや農民たちと、大きな希望を持って立ち上げた農村生活改善活動の地を訪れることがおもな目的、夫にとっては着工したばかりのafさんの家の長椅子を見つけて注文することと、


好きなおそば(クイッティオ・ナーム=ビーフンスープ)をいっぱい食べることがおもな目的でした。

訪れたい農村は、中央部北のチャイヤプーン県のワンヤイ村とヒンダート村、東北部ブリラム県のサクーン村、そしてもう一つ、夫がその変貌を見たがった、森林破壊がひどかった北部ナーン県のナーファン村がですが、お互いに遠く離れていて、全部まわると約1600キロ走らなくてはなりません。短い期間でそれはちょっとたいへん、結局、一番会いたい人のいる、会える可能性の高い、片道が約370キロのチャイヤプーン県だけにしました。


訪問3日目に、レンタカーをして、タイ好きの女性Hさん、Hさんの友人の建築家のUさんも一緒に、チャイヤプーンを目指しました。昔からの道である、国道2号線から21号線に入り、225号線を通って、街道沿いのパクディチュンポンという町を目当てに行くつもりでしたが、今はスマホのナビがある時代、往路はグーグルのナビに従って行くと、これまでまったく通ったことのない道を通りました。新しくできた広い道もあるのですが、それとそれをつなぐ細い道もあり、わくわくする、とても楽しい旅路でした。
復路は、昔ながらの225号線から21号線に出て、一路バンコク目指して南へ走ったのですが、幹線はだだっ広い片側2車線(バンコクに近づくに連れて3車線)の殺風景な道路になっていて面白味はまったくなく、行きだけでもナビに従ってよかった、二倍楽しめました。


さて、これがパクディチュンポンの中心です。
かつては細い通りで、道路わきにがらんとした平屋の市場の建物があり、そのわきにぽつぽつと店や家があるだけ、食堂さえ市場の中にしかなかった町は大きく変貌していました。町の中心部の2キロほどは中央分離帯のある片側2車線の道路になっていて、両側には店やレストラン、「リゾート」という名の簡易宿などが建ち並び、大きな病院もできていました。
かつては道路沿いに建物があるだけで、一歩脇に入ると人工物が何もないところでしたが、今は奥へと広がって町は線から面となっていて、市場は街道から1キロも入ったところに移転して、青空市場になっていました。


かつて、市場の中の食堂(屋台みたいなもの)で食べることが出来たのは、チャーハンか、カオパッ・パックラパオ(いわゆるガパオライス)だけ、昔をしのんで町の食堂でカオパッ・パックラパオを食べてみましたが、すっかりおしゃれな一皿になっていました。


さて、パクディチュンポンからそう遠くないと思っていたワンヤイ村は、15キロ離れていました。やっとたどり着いたらここも変貌、家々は新しく、緑は深く、舗装道路もできていて、私たちが拠点にした改善活動の中心となった事務所跡地は、村のお寺になっていました。
この写真、境内の赤い屋根の本堂が見えるあたりに事務所がありました。


そして、研修センターがあったあたりには、サーラーと呼ぶ、みんなが日常的に集まる建物が立てられていました。お寺の諸行事を行う場所兼村の公民館といったところでしょうか。
このサーラーの入り口でピチットさんの家を尋ねると、
「ピチットならお寺にいるよ」
とのこと、まさにここで、ピチットさんのお母さんの没後8年の法要が行われるようとしており、ピチットさん一家や村の人たちが集まっていたので、30年ぶりに再会することができました。


ピチットさんのお父さんが亡くなったのは1990年ごろだったか、お母さんとピチットさんがすっかり気落ちしたので妹のノイさんが一時的に一緒に暮らしていたのですが、そのとき泊めてもらった私は、ピチットさんの家族全員と合計7人もで川の字になって寝ました。7人で横に並んで寝るのは壮観な眺め、忘れられない思い出です。
大好きだったお母さんも8年前に亡くなり、今はピチットさんはノイさん一家と一緒に暮らしています。

ピチットさん一家はもともと、バンコクからそう遠くないコーラート高原に住んでいましたが、その村の人口が増え、農業が立ちゆかなくなって、1970年末に新天地を求めて山の中への移住を決め一家で移ってきました。
すでに結婚していたピチットさんでしたが、両親を大切にするタイ人のこと、夫婦どちらもその両親と離れられず、ピチットさんの前妻は、離婚して親と残ることを選びました。妹のノイさんは、ワンヤイ村に移ってから結婚、1980年代の終わりごろ、私が彼らに初めて会ったころは、ピチットさんは両親と暮らし、ノイさん一家は2人の子どもたちと近くの家で暮らしていました。


前列左がノイさん、その右が娘さん(名前を忘れた)、中列左から2人がノイさんの息子さんと娘さん、あとは村の人たちです。
初めて会ったとき、ノイさんの息子のムウはちょうど今のノイさんのお孫さんくらいの年、ノイさんの娘さんは、黄色い服の女の子よりずっと小さな幼女でした。


さて、そんなパクディチュンポンで泊まったのはチャルニーという名のリゾート、正面に見えるのがレンタカーした車です。
バンコク市内から郊外にかけての、急な割り込みや無理な車線替えなどなど、何でもありの混雑した道は、そんな道の運転が得意な夫が運転して、どこまでも走るだけの、夫にとってはたいくつで眠くなる道は、私が運転しました。


チャルニーリゾートにはこんなバンガローが5棟建っていますが、お客は私たちしかいませんでした。誰がどんな目的でパクディチュンポンに来るのか(近くで山登りする人がいるらしい)、日本なら瞬く間につぶれそうですが、食堂やらなにやらいろいろ複合経営しているに違いないタイだから、お客さんがいればよし、いなくても大丈夫なのでしょう。ちなみにお代は、エアコンとシャワー付き、ダブルベッドで1人250バーツ、1,000円ほどでした。


翌日、ヒンダート村を訪ね、こちらは変貌が激しく家が建ち並んでいて、探しに探してやっとプラスートさんに会えました。
バンコク暮らしが嫌で、ここにきて農民になり、素晴らしい畑や田んぼをつくっていたプラスートさんもおそらくは働きすぎ、ピチットさんと同じように足を悪くしていて、小さな何でも屋をやっていました。

30年と言えば人生の3分の1から半分ほど、誰もが変わってしまうのは当たり前です。ピチットさんもプラスートさんも、そして私も年取りましたが、あのときの幼女が母親に、しかも肝っ玉母さんになっているのは素晴らしい、命が脈々と流れているということです。
もう彼らと会うことがないかもしれないけれど会えてよかった、「またね」と別れました。






4 件のコメント:

hiyoco さんのコメント...

お帰りなさい!台風の影響などでフライトは大丈夫なのか心配でしたが、ご無事で何よりです。
会いたい人たちに会えてよかったですね!お寺で床に横座りの皆さんに何だか親近感が湧きました。海外では靴を脱いで地べたに座るってあまり見ない気がして(そんなことないですかね?)。黄色い服の兄妹はムイさんのお孫さん?
リゾートと聞いて想像したホテルとは全然違っていました(笑)。

さんのコメント...

hiyocoさん
お久しぶりです。安い航空会社はいつも遅れるし、すぐにキャンセルになるとほかを勧められたのですが、直行便で時間は短いし、遅れなかったし、なにせ安い!2人往復で135,000円ほど。35年前でさえ、格安のエジプトエアーやフィリピン航空でマニラまわりでも1人90,000円はしました。座席の前はちょっと幅が狭く、ご飯や飲み物は機内で買わなくてはならないのですが(わりとおいしい!)、そんなこと何でもありませんでした。
タイのお寺はどこでも裸足で上がらなくてはなりません。観光寺と化しているワットプラケオなども同じです。また、通りを托鉢するお坊さまは裸足、食べ物を差し上げる方も、その時は外でも裸足にならなくてはなりません。蟻など踏みつぶして無駄な折衝をしないということのようです。
黄色い服の兄弟は真ん中にいるガタイのいいノイの娘の子どもたち、ノイの孫です。ガタイのいい娘は幼児のときの印象しかないのに、一緒に行ったUさんとラインを交換していたので驚きでした(笑)。年取った!
リゾートホテルはタイ語で「リゾッ」、国中にできていて簡便なようです。モーテルのような感じかな?モーテルに泊まったことがないけれど(笑)。

hiyoco さんのコメント...

ちなみにどこの航空会社だったのですか?今後の参考のためにお願いします!

さんのコメント...

hiyocoさん
エア・アジアXというタイの航空会社です。
ちなみに客室乗務員というものは髪をきりりと上げてまとめているものだとばかり思っていたら、エア・アジアの方たちはみんな長い髪をぞろっとさせて、まるでガールズバー(行ったことがないけれど)のホステスさんのようでした(笑)。男性の客室乗務員もホストクラブ(行ったことないけれど)のホストさんみたいだったし。
もしかして不適切な発言があったら、お詫びします。