ブログは1日1本を原則としていますが、息子が彼の有料ブログで面白いことを書いていたので、しかも今日の話なので、転載してみました。
以下、息子の文です。
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これは、嫌みではなく、本心だ。そもそも、オリンピックは「祭り」だが、祭りには、「膿を出す」という機能がある。
文化人類学に、「ハレとケ」という概念がある。「ハレ」とは「晴れの場」のハレで、結婚式や祭りなどのこと。「ケ」とは「日常」のこと。今ウィキペディアを見たら、柳田国男が編み出した言葉だと知った。さすが柳田国男だ。
今回は、このハレとケについて、ぼくの考えを書いてみたい。
人間には、日常生活というものがある。農民だったら、毎日畑や田んぼに行って、こつこつと仕事をするという日常。それが「ケ」だ。
こういう日常は、とてもだいじではある一方、いろいろと問題もある。その問題とは、一言で言うなら「淀む」だ。あるいは、「固着してしまう」ということである。
たとえるなら、カレーを煮るとき、ときどきかき混ぜないと、固まってしまって食べられなくなることだ。日常も、延々と続くと、固まって、いろいろなものが動かなくなる。農民なら、病気になったり、農作物が育たなくなったりする。
その「固着する」ということを防ぐために、古来より、自然発生的に「祭り」が生まれた。祭りでは、固まりかけた日常を解きほぐすために、あえて無茶をする。ぐちゃぐちゃにかき回す。
例えば、だんじり祭りみたいに、暴力的にぶつかり合って、かき回す。もしくは、相撲なども、昔は神事(祭りの余興)で、参加してかき回し、見てかき回す。ぶつかるというのは、かき回すときの一つのポイントだ。
さらに、体だけではなく、心もかき回す。「牛」というだいじな財産を神に捧げ、「ああ、だいじなものを捧げて損した!」という気持ちを味わう。牛は、たいていどこの部族でもだいじなものだったので、よく神前に捧げられた。だから「犠牲」という字は「牛偏」なのである。
そういうふうに、祭りという「ハレ」の場は、元々は「そこに参加して楽しい!」というイベントやフェスではなかった。それよりも、「日常で積もりに積もった鬱々とした感情を爆発させ、気づかなかった本心を取り戻す」という役割だったのである。「垢を落とし、根っこのところに戻る」というのが、ハレという場の役割なのだ。
そして、根っこのところに戻るには、垢と同時に、固着した膿を出す必要がある。日常生活で凝り固まった悪いものを振り払う必要がある。
そう考えると、東京オリンピックほど、さまざまな膿をあぶり出してくれたイベントが、かつてあっただろうか? それは、プロ野球やJリーグなどのプロスポーツや、ロックフェスなどの音楽イベントでもなかった。もともとは「ハレ」の場だった相撲も、もはや違うイベントになってしまったので、我々の日常生活で溜まった膿は出してくれない。
唯一、オリンピックだけが出してくれた。だから、これを中止にしてはいけなかった。中止にしなかったからこそ、ハレの場として機能し、膿が出せた。
そう考えると、「オリンピックを中止しろ」などと言うのは、やはり言語道断である。それは、我々の膿を出すことをやめさせ、悪い状態で固着しろ、ということだからだ。
というより、「オリンピックを中止しろ」という人そのものが膿だった。それが分かったので、その意味でもオリンピックにはすごい効果があった。
しかしながら、この記事が配信される日がオリンピック開会式なのだが、ここにきて小山田圭吾氏と小林賢太郎氏という、二人の巨大な膿が連続してあぶり出され、とにかく大変なことになってきた。これで開会式は振り出しに戻り、たった1日でほとんどゼロから作り出さなければならなくなった。
ぼくは、テレビを持っていないので開会式を見られるかどうか分からないが、この開会式は逆に「みもの」になった。みんな、見るべきだ。そこで、膿を出した人々が、どのような根っこを取り戻すのか、その姿が確認できるかもしれない。
あるいは、「ハレ」の本番はこれからでもある。本番では、もっとすごい膿が出てくるかも知れず、ぼくは、それが楽しみでもある。
これは、本当に祭りのすごい機能であり、「ハレ」そのものだ。そういう超弩級のハレへと昇華した東京オリンピックは、紛うことなき「成功」である。そうとしか言いようがない。
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8 件のコメント:
1940年は戦争で流れ前回はお助け3号が1才でした。
いろいろ思い出します
昭ちゃん
コロナもそう関係ありませんが、ここではオリンピックも生活にはまったく関係ありません。
数週間はラジオも聴かず過ごすつもりですが、昭ちゃんみたいに音楽を聴く習慣がないので(笑)、静かに過ごします。
こんにちは。
新型コロナをめぐる状況はオリンピックをやってもやらなくてもたいして変わらないでしょうから、それならやるしかないとは思いますけどね。
でも正直に言うと、20年以上前の発言が時効にならずに今の仕事を奪ってしまうなんて、嫌な時代になったなあと思います。
かねぽんさん
世界をほぼ覆っているのは都市的価値です。「自然」を資源やエネルギーとして盗み、巡り巡ってまた「自然」に廃棄物の処理を託して、平気な顔をする。心は殺伐として当たり前です。
新型コロナはその一つのしっぺ返しなのでしょうね。
当時のベルリンオリンピックは民族の祭典という
キャッチフレーズでナチス党の宣伝に結構乗せられ
前畑頑張れや実況中継が耳に残っています子供心に雑音も。
その後日本橋の白木屋で記録映画を見ました。
昭ちゃん
オリンピックも国際援助も、裏のないものはないですね。
その裏をどう感じることができるか。
昨日NHKの、50年前の「新日本紀行」をよい画面にしたものを見ました。
みんな顔が違う!一生懸命生きている!
こけしをおんぶした子ども、かわいかったです(^^♪
貴重な記事を無料でありがとうございます!
ハレという視点を知ることができました。
実際いろんな変革があったと思います。
一つめは、昨日東京往復したのですが、首都高速がガラガラでした。往復+2000円の出費ですが、それを有り余る快適さでした。開会式のために17時半までに首都高に乗らないと帰ってこれないという制約の中、母の見舞いと一時帰宅をサポートしてきました。混雑緩和を割増料金で解決できる、これが実証されました。
2つめは、テレワークです。コロナで加速しましたが、もともとはオリンピック開催期間中のための都内企業は粛々と準備を進めていて2020年の春には予行練習が予定されていたのが、コロナの第一回緊急事態宣言となりました。過密なオフィス、体力を浪費する通勤、これらが一斉に見直されました。
3つめは、、、改革に至らなかったけど、医療の脆弱性。国民一人当たりの医療従事者がヨーロッパに比べても非常に少なく、医療従事者の過労のもとにギリギリ成り立っている現実が露呈したと思います。
まだまだ、たくさんの膿ができて、共通理解となり、従前に捕らわれず、変わっていくといいのですが、期待ができる要素もなく・・・まずは、半農半Xを目指します。
akemifさん
こちらこそ、興味深い情報をありがとうございます。
私は今回、手厚い医療で生かされて、それゆえ、オリンピック下の毎日のコロナ新規感染者の受け入れがどうなっているのか、気になることしきりです。
確かにベースが変わったのですから、テレワークなど生活も変わることができるはず、変わるか変わらないか、もう変わっているとも言えるし、変わるにはさらに時間が必要とも言える、のでしょうね。
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