『漂民ダンケッチの生涯』が面白かったので、幕末に外から日本を見た漂流民のことをもっと知りたくなり、『漂民ダンケッチの生涯』の中に登場して、とくに気になっていた音吉と、ジョセフ・ヒコの物語を読んでみました。
1854年に中国人アトウとして来日した通訳の音吉と、浦賀沖で砲撃を持って追われたモリソン号 |
『にっぽん音吉漂流記』(春名徹著、中公文庫、1988年、晶文社版は1979年)の音吉は、廻船の宝順丸の下っ端船員でした。
1832年、宝順丸は遠州灘でしけに遭って操舵不能となり漂流、14人の乗組員中11人が次々と命を落とす中、14か月後に、音吉を含む3人がアメリカに流れつきました。漂流者たちは先住民の手からイギリス人の手へと渡り、帰国を希望する3人を、イギリスは統治下にあったマカオに送ります。
1837年、音吉たち3人はほかの漂流船の4人とともに、イギリスのモリソン号に乗せられて日本に到着しました。しかし、モリソン号は浦賀沖で陸からの砲弾を浴びて上陸がかなわず、マカオに舞い戻ります。以後、音吉は中国人通訳と偽って1度、日本人通訳として2度日本の土を踏みましたが、帰国することなく上海やシンガポールで暮らし、シンガポールで亡くなりました。
『にっぽん音吉漂流記』は、最初は研究論文を読んでいるようで、音吉がまったく見えてこなくて、途中で何度かやめようかと思ってしまいましたが、読み進むにつれて読みやすくなり、引き込まれても行きました。
読み終えてから、初版(晶文社、1979年)のあとがき、文庫版のあとがき、そして鶴見俊輔さんの解説を読んで、初めて熱い思いが伝わってきました。
あとがきによって、『にっぽん音吉漂流記』が春名徹さんの処女作であったこと、幕末の一日本人が何を感じたかを書きたいという気持ちが先行していたことなどがわかりました。たくさんの文献を駆使して、当時の周辺事情を一つ残らず盛り込もうとしたことが、ひとつの幕末史にはなっているのだけれど、音吉があまり浮かび上がってこなかった原因になっていたようです。
春名さんの熱情をあらわすように、多くの文献紹介を含む巻末の「注」は、60ページに及んでいました。
『漂流 ジョセフ・ヒコと仲間たち』(春名徹著、角川選書、1982年)の彦太郎(彦蔵)は、1953年に廻船の栄力丸に乗り合わせていました。栄力丸はしけに遭い、操舵不能となって漂流中、アメリカの船に拾われ、サンフランシスコに上陸します。
帰国したいと願う漂流者たちですが、なかなか好機は訪れず、やがて香港に送られます。香港やマカオでも待っていても機会がこなくて憔悴の年月を過ごす中、一つだった乗組員たちの気持ちは割れて、彦太郎ら3人は、帰国をあきらめて新天地で生きようと、再びアメリカに渡ります。
浜田彦蔵 |
音吉は、やむを得ずイギリスのもとで生きながらも、祖国を案じ続けますが、彦太郎はすんなりとアメリカに同化していきます。とくに、身元引受人になってくれた人に連れられてアメリカ大統領に会いに行ったとき、警護もないささやかな場所(ホワイトハウス)で、平服の大統領から握手を求められた彦太郎は衝撃を受け、「自由」や「個人」に目覚めていきます。
1859年、彦太郎はハリスとともにミシシッピー号で、アメリカ市民として日本への帰還を果たし、アメリカ領事館で働きます。
しかし、彦太郎の苦悩は、ジョセフ・ヒコとなってからはじまりました。アメリカと日本の仲介者として、どちらからも信頼されず、どちらからも不信を持たれるという現実にぶち当たったからです。日本生まれでありながらアメリカ人としてふるまうという根無し草。14歳で日本を離れたので、日本語の読み書きがおぼつかないことも、彦太郎が自信を持てない一因で、職を転々と変えていきます。
当時、日本には確固たる身分制度がありました。平民出身の音吉や彦太郎は、たとえ通訳として来日しても、取り調べの武士たちの前では、土下座するなどそれなりの態度を取ることを暗黙のうちに求められますが、2人はそうはしませんでした。面を上げたまま対応して、日本人の心証を害します。
1862年に幕府が送った遣欧使節団一行の中にいた福沢諭吉は、寄港したでシンガポールで音吉と会っていますが、音吉が平民であるからか、音吉から特に中国に関する貴重な情報を得たのに、敬意を払ってないことが、彼が書き残したもの(西航記)から偲ばれます。
春名さんは、
「ヨーロッパとの接触がアジアにもたらした自立的な傾向を〈近代〉と呼ぶなら、音吉に代表される〈庶民の近代〉と、福沢らに代表される〈為政者の近代〉は、このとき(シンガポールで両者が会ったとき)一瞬鋭く相まみえ、後者が前者を無視することによって、たちまち離れ離れになった」
と、『にっぽん音吉漂流記』に記しています。
1862年に幕府が送った遣欧使節団一行の中にいた福沢諭吉は、寄港したでシンガポールで音吉と会っていますが、音吉が平民であるからか、音吉から特に中国に関する貴重な情報を得たのに、敬意を払ってないことが、彼が書き残したもの(西航記)から偲ばれます。
春名さんは、
「ヨーロッパとの接触がアジアにもたらした自立的な傾向を〈近代〉と呼ぶなら、音吉に代表される〈庶民の近代〉と、福沢らに代表される〈為政者の近代〉は、このとき(シンガポールで両者が会ったとき)一瞬鋭く相まみえ、後者が前者を無視することによって、たちまち離れ離れになった」
と、『にっぽん音吉漂流記』に記しています。
歴史の教科書には、為政者のことは詳しく書かれていますが、その陰にいた市井の人々のことは書かれていません。
音吉や彦太郎の国際感覚が、有形無形に開国や近代化に貢献していたこと、そして一個人としてはアイデンティティーの問題で悩み続けたことがわかる、興味深い本でした。
2 件のコメント:
春さんのお蔭でhattoさんと有難う。
昭ちゃん
こちらこそ、いろいろありがとう。
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