2014年3月11日火曜日

あの日


2011年3月11日の地震から、三年の月日が流れました。
あの日、高台に逃れて、さむ空の下で一夜明かして、命をつないだ人もいましたが、つなげなかった命もたくさんありました。


また、地震に続いて起こった福島の第一原発の事故は、取り返しのつかない身体への影響と心への影響を生んだまま、三年経った今でも解決されるどころか、ますます傷は深くなるばかりです。


今日一日私にできることは何でしょう?
せめて、一日だけでも食べものを断って、少しですが痛みを感じたいと思っています。




2014年3月10日月曜日

遊び心


自然木をそのまま利用してつくる椅子は、木工家おだじまさんの定番です。
 

なんちゃって、座面の直径が3センチほどの、小さな小さなミニチュアの椅子でした。
本当の椅子と対比させることができればよかったのだけれど、家には本物の椅子はありません。


こちらは、めざしです。
残った小さい木片たちも、命を与えられて喜んでいるようです。





2014年3月9日日曜日

菜切り包丁

昨年の暮れに、Oさんの家を訪ねました。
ちょうどお餅が届いたこともあり、
「お雑煮をつくるから食べて行って」
と、さそわれて、お言葉に甘えました。


見るともなく見ているとOさんは、のし餅を菜切り包丁で切っています。
「あら、菜切り包丁を使っているんだ」
「そう、私のというより、Mさんのね。お料理好きだったから」
「じゃあ、Mさんは出刃とか柳刃とかも持っているの?」
「うん、あるよ」

Oさんのお連れ合いのMさんは、三年前に亡くなられました。もともと音楽をやっていて、五十を過ぎてから鉄作家になられた方で、絵も字もうまい、何でもできた人でした。さぞかしお料理もうまかったのでしょう。

菜切り包丁を見たのは、とても久しぶりでした。
小さい頃、祖母が使っていたのは確かですが、母は使っていたでしょうか?母は文化包丁というか、三徳包丁を使っていたような気がします。

その日から、台所に立つたびに菜切り包丁のことが思い出されました。
私は、「売れ行きナンバーワン」とか、「みんな持っている」とかのうたい文句で、購買欲をそそられることはまずありません。でも、知っている人が、しかも素敵に使っているものを見ると、すぐに欲しくなります。私の弱点なのです。

ずっと昔、元職場仲間たちと集まって「お寿司を食べる会」を開いたとき、学生時代にお寿司屋さんでアルバイトをしていたMくんが、 大切そうに柳刃包丁を持って来て、お寿司をつくってくれたことがありました。
そのときはすっかり柳刃に魅せられ、しばらく買おうかどうか迷いました。
でも、なにせ魚をさばくのは一年に一回あるかないかのこと、何度か気持ちがむし返しましたが、思いとどまりました。ところが、菜切り包丁は毎日のものです。

「やっぱり毎日のことだから、気持ちいい包丁を使いたいかなぁ」
という気持ちが去って行きません。
というわけで、お正月明けにネットショップで菜切り包丁を見てみました。
「うっ、高い」
最初に見たものは超高額で、すっかり熱が下がってしまいました。ところが毎日、野菜を切るたびに、やっぱり菜切り包丁のことを思い出してしまいます。
しばらくして、落ち着いてネットショップ見ると、なぁんだ、手ごろな値段のものもいろいろあります。
迷うこと数日、とうとう決心して注文しました。

ところが、なかなか連絡がありません。どうなっているのかと思っていたら、一ヶ月ほど経ってからやっと払込金額の連絡があり、払い込みました。
それから、またもや何の音沙汰もありません。催促してみると、
「準備が整うまでお待ちください」
という返事でした。
きっと、今どき菜切り包丁を使う人がいないので、注文を受けてから、鋼を打つところからはじめたに違いありません。

注文から約二ヶ月、やっと包丁が届きました。


ちょっと刃がまっすぐではないような気もしますが、よしとしましょう。
今使っている、夫の母が遺した三徳包丁も決して悪いものではありませんが、多少雑に扱っても錆びたりしないものですが、この菜切り包丁は錆びそうです。

説明書を読むと、使ったらすぐ洗って拭くと書いてあります。
ただでさえ、たとえ料理が冷めようと、洗いものを先に済ませたい私ですが、これからは、包丁を洗って拭くために使うなんてことになりそうです。
説明書にはまた、鉈代わりにしたり、無理にこじったりすれば、刃が欠ける恐れがあると書いてあります。夫にはあまり触らせないようにしないといけません。我が家の果物ナイフはみな、どうしたことか先が曲がっています。


菜切り包丁には、東型と西型があります。東型は切っ先とあごの丸みが大きく、柄は太くて短いものです。
でも、私にとっての菜切り包丁は、西型です。



2014年3月8日土曜日

ウクライナ・チョコレート


今緊張が高まっている、ウクライナのチョコレートを買ってみました。
シリアのアレッポ石鹸は、アレッポがあれだけ破壊されているのだから、どうかなっているかしらと心配していましたが、ジムネットでも売っているくらいだから大丈夫なのかとも思います。

ウクライナのチョコレートを買っても、何の足しにもならないかもしれません。
ちょっとした気休めです。

どちらもシュガーフリー、板チョコはミルクチョコレートです。


シュガーフリーって、甘くない?
いえいえ、サトウキビの砂糖を使っていないというだけで、果糖が入っていて、甘くておいしいチョコレートでした。


2014年3月7日金曜日

鹿島信仰

「高浜のSさんの家に行くけど、一緒に行く?」
「あっ、行く行く」
先日、大人形(ダイダラボッチ)を見たとき、代田の大人形を見逃していたのです。
私の中で、ダイダラボッチブームは、まだ続いています。


代田の大人形です。
「なかなか、かわいいねえ」
とうとう見ても異人と感じなくて可愛いと感じるようになっていますが、本当は、顔はあくまでも恐ろしく描くことが求められているのです。


代田の大人形で一番気に入ったのは場所です。
人家の塀が、大人形が座れるようにへこんでつくられています。つまり、塀がつくられるずっと前から、大人形はここにいたのです。

そして、写真には撮りませんでしたが、修理中だった梶和崎の大人形は、鉢巻きも額に直していて、すっかりきれいになっていました。

 
先日、小松﨑章さんからいただいた冊子『大人形』を、一冊郵便局長さんにさしあげました。
すると後日、
「大人形は『鹿島信仰』の中にある、秋田の「鹿島さま」とそっくりですよ」
と、『鹿島信仰-常陸から発信された文化』(茨城県立歴史館の特別展の本、2004年)を貸してくださいました。

鹿島神宮に祀られている神さまは、『古事記』の「国譲り」などで武神的性格を強く印象づけられる、武甕槌神(たけみかづちのかみ)だそうです。
その存在は、古代の東国開拓における守護神的な役割を担い、中世以降の武家政権とのかかわりを生みました。


これは、高浜にある高浜神社ですが、ここは鹿島神宮と密接な関係があります。

七世紀末に、現石岡に国府が置かれました。
当時、それぞれの国府には、都から国司が着任すると、まずその国の大社に参拝し、毎年奉幣や祈願に参向する習わしがありました。『常陸風土記』によれば、常陸国では鹿島神宮が第一大社であったため、国府の外港である高浜から舟で鹿島まで行くことになっ ていましたが、天候が悪くて出航できないときは、高浜の渚にススキ、マコモ、葦などの青草で仮殿(青屋)を造り、鹿島神宮を遥拝しました。

現在の高浜神社の神殿は後世に、かつての遥拝のつくられた場所あたりに建てられたものです。


これは裏手から見たところ、拝殿も本殿も萱葺きになっています。

さて、鹿島信仰は、朝廷や都の貴族と深く結びついていた一方、人々の生活とも深く結びついていました。
鹿島の神を祀った神社が存在しない常陸の国内外の地域でも、「鹿島」の名をつけた行事が伝承されています。例えば村境に立てる「鹿島さま」と呼ばれる巨大なわら人形、疫病や害虫を送る行事に用いる「鹿島舟」、「鹿島人形」、豊作・豊漁を祈って踊る「鹿島踊り」、安産を祈る「鹿島講」などです。
これらは、鹿島の神に対する信仰が、従来からその土地に根づいていた他の信仰や風習を、包み込んで生まれてきたものと考えられます。

『鹿島信仰』によると、「鹿島人形」は、おもに秋田県の南部に見られます。
確かに、井関の大人形とよく似ています。
写真で見る限り、「鹿島さま」はあまり杉の葉を使っていません。稲わら、こもなどでできています。でも、さんだわらを使い、槍や刀を持ち、大きく、強面で、村の入り口に一年を通じて立てるというところは、まったく同じです。
 

『鹿島信仰』に載っていた「鹿島さま」たちです。

秋田県湯沢市岩崎の「鹿島さま」。
岩崎には、四体の「鹿島さま」 が立っていて、うち三体は一年に一回、一体は半年に一回つくり直します。


秋田県平鹿郡(現横手市)大森町末野の「鹿島さま」です。
他の集落でコレラが流行ったときも、末野は「鹿島さま」のおかげで犠牲者を出さずに済んだと言われています。この神さまは村人を守りますが、同時に荒ぶる神さまなので、粗末に扱ってはいけないとも言われています。
7月初旬につくり替えます。
 

秋田県平鹿郡(現横手市)大雄町藤巻の「鹿島さま」です。
「厄神さま」とも呼ばれ、6月に田植えが終わってから、集落の大人によってつくられ、若者たちによって、ここに運ばれます。
「鹿島さま」がしめている横綱部分にろうそくを立て、お餅など供えて、無病息災を祈ります。
明治の一時期に、制作を中断したことがありましたが、明治36年に雄物川沿いに赤痢が流行した際に復活しました。


秋田県平鹿郡(現横手市)雄物川町深井の「鹿島さま」です。
この地域では、村全体でつくって村境に立てる「鹿島さま」と、各戸で「鹿島人形」をつくって「鹿島舟」に乗せて「鹿島流し」をする行事の両方をやっています。
「鹿島さま」の頭のあたり、杉かどうか写真ではよくわかりませんが、


同じく深井の「鹿島舟」を見ると、杉が使われているのがわかります。


「鹿島流し」の様子です。
新鮮な杉の葉が緑なのが見えます。


秋田県千畑町の「草仁王」は、井関の大人形に一番よく似ているでしょうか?お顔の周りに杉の葉が見えます。
現在は「鍾馗(しょうき)さま」と呼ばれていますが、千畑町には、「鹿島舟」の行事も伝承されているそうです。


昔の文献では、「鹿島さま」に杉の葉が使われていることが記されています。

村里の入り口毎に立る 疫病祭草人形 其郷村に依て制作も ことなれと 凡そその尺五六尺 或七八尺に過さる也 杉の葉をもてとし板に 眼鼻画キ藁にて 造り胸に牛頭天王の 木札をさし剣をもたせ 或は木刀をさヽせ また つるぎをさヽせたるあり としとし春秋の是を作る(出典、『月の出羽路 仙北部』) 


村の入り口に立つ「鹿島さま」の絵、なんと素敵な風景でしょう。

小松﨑さんによれば、全国で東北を中心として、わら人形は300ヶ所ほど見られたそうです。


冊子『鹿島信仰』の中で、とくに興味深かったのは、「鹿島人形」とか、「大助(おおすけ)人形」と呼ばれているわら人形で、茨城県北部で見られるものです。

旧暦7月10日に、各戸で大助人形をつくります。麦わらで身体をつくり、半紙に武者の顔を書いて、篠竹の刀をさして、お腹にはだんごや饅頭を入れます。それを家の庭に立てておきます。夕方になると子どもたちが人形を担ぎ出して、村の境まで行き、隣村の人形と戦わせて、饅頭を奪い合います。
 

そのあと、村の境に近い田んぼや川原で人形を燃やし、お腹の饅頭を食べるそうです。
写真は、1955年、茨城県北部の大宮町鷹巣で撮影されたものです。

なんて素敵なお祭りでしょう。
私も子どもの頃こんなお祭りと出逢いたかった。今どきのゆるキャラなどとは大違いの、一生忘れられない奥深さです。


そんなおりもおり、3月6日の『東京新聞』に、「鹿島さま」を見つけました。
3月8日、9日のNHK放送センターと代々木公園で「ふるさとの食 にっぽんの食」という催し物が開催され、「東北応援ゾーン」には高さ4メートルの「鹿島さま 」が登場するそうです。

まあ、民間信仰でない方の鹿島信仰は、アイヌ討伐などの大きな力になっただろうことを思うと、複雑な気持ちにはなりますが。




2014年3月6日木曜日

アンクルウエイト


夫が、1キログラムのアンクルウエイトを買いました。
「あらっ、どうするの?」
「病院で進められたんだ。体操するときつけるといいって」
夫は膝の軟骨が減っていて、骨が擦れてときどき痛くなります。そして、痛さが我慢できなくなったら、病院でヒアルロン酸の注射をしてもらいます。

私は、背骨を傷めて入院していたとき、リハビリの時間に足につけてもらって、初めてアンクルウエイトを知りました。その後、こいけさんが足首に巻いているのも見ました。

「こいけさん、これをいつもつけているのよ」
「えっ、体操する時じゃなくて?」
「うん、四六時中」
「家の中でだけだろう?」
「ううん、外へ行くときも。だって私が見たの外でだもん」
草の根鍼灸院のこいけさんとお連れ合いのようこさんは、息子たちより若いのに、いまから足が悪くならないよう、アンクルウエイトをつけて予防しています。人は足から衰える、だったら足を鍛えておこうというのが、彼らご夫婦の考えです。

「欲しいかい?」
「そうねぇ」
夫のアンクルウエイトをつけて歩いてみましたが、しばらくすると、重くて歩き方が変になります。
「500グラムのを買ってもらおうかな」


500グラムのアンクルウエイトが届きました。足首に巻きつけても普通に歩けます。

先日、暮しの実験室でライブがあったとき、こいけさんにお会いしました。
「あ、ちょっと重しを見せてやって」
と足元を、夫に見せてもらいました。

なんと1キロではなく、彼は2キロのものをつけていました。二年ほど前に1キロからはじめ、1.5キロ、2キロと増やしたそうです。
「歩きにくくない?」
「もう慣れちゃって全然平気。でも、2.5キロに増やそうか、3キロにしようか迷っているんだよね。3キロのはけっこうかさばるから」


すごい!
2キロなんて今はとうてい考えられませんが、私も0.5キロのアンクルウエイトをつけはじめました。長時間座っていて立ったときなど、つけていたことを思い出しますが、ほとんど忘れて過ごせます。





2014年3月5日水曜日

音楽な夕べ


先日、近くの「暮しの実験室」でコンサートがありました。
四つのバンドが出演して、賑々しいひと時でした。
うち、フォルクローレ、フォークソングなどは耳にする機会もありますが、まったく聞いたことがない音楽があり、新鮮でした。


途中で起きてしまった娘が泣きやまず、娘を肩車してドラムに向かうお父さんがいました。


時々ほえる犬もいたし、太った犬を追いまわしてからかう子猫もいたし、我関せずと終始目を閉じて、眠っていた猫もいました。


赤ちゃんどうしの交流も見受けられました。


馬喰町バンドは特に面白かった。
アイヌの歌や、各地に伝えられてきたわらべ歌や民謡を掘り起こし、彼らなりの解釈でつくった歌もあり、演奏も歌も素晴らしい迫力でした。彼らの手や口がどうにかなってしまうのではないかと思うほど、激しい演奏と矢継ぎ早の言葉でした。

東北から宮古島までの八曲のわらべ歌をメドレーにして編曲した歌の中に、私が小さい頃、まりつきで歌っていたわらべ歌が入っていました。
♪いちりとらんらん らっきょくってしっし ちんがらほけきょう とんがら ちんがらほい♪
何十年ぶりに聞いたことでしょう。これは、まりつきに成功すると、
♪にぃりとらんらん.....♪
と進むもので、十まであります。

それにしても、まったく違う世界を生きている人がいるなぁと、しみじみ感じた夕べでした。


さて、暮しの実験室には二、三匹の犬と、四、五匹の猫もいます。
その中の一匹は、死んでから五年になる我が家の小春に生き写しです。
私は、この犬が私の取りあげたうなぎの子どもであり、小春の兄弟で、めぐりめぐって暮しの実験室にいると、固く信じていますが、経緯を知る人がずっと前にいなくなり、証明できるものはありません。

それにしても、トマト、太りすぎだよ!