今からクリスマスの話は早いでしょうか?
いえいえ、イギリスのクリスマスプディングをつくるなら、早すぎないようです。
クリスマスの数か月前につくったものはまだ味がなじんでないなどと言いますが、私にはよくわかりません。
でも、もうつくってもいいころであることは確かなのです。
クリスマスプディングは、つくるとき六時間ほど蒸して、食べる前に一時間ほど蒸さなくてはなりません。それを考えただけで、二の足を踏んでしまいます。
食べるのはあっというまですから。
二の足しか踏んでいない私ですが、クリスマスプディング専用の型を持っています。
そして、毎年クリスマスプディングを欠かさずつくっている、逗子に住むイギリス人(ウェールス人)の友人は、「横川の釜めし」の釜でクリスマスプディングをつくっているのですから、笑ってしまいます。
アルミのプディングの型は、中心を外れたところに固定してある留め金を、半径の長い方向に回すと、簡単に蓋が閉まります。
熱いのを、取っ手をつまんで取り出すのも簡単そうですし、何より冷蔵庫の中で長い間保存しておくのに、アルミ箔で蓋をしたものより、ずっと便利そうです。
「今年はクリスマスプディングつくってみるかなぁ」
と一瞬思ってみますが、なかなか重い腰は上がりません。
以前つくっていた、ナッツだくさんの、ほとんど小麦粉の入っていないフルーツケーキさえ、もう長い間つくっていません。あれもおいしかったなぁ。
2012年5月22日火曜日
2012年5月21日月曜日
日食
今日は金環日食が見られる日、日食用のメガネなど用意していませんから、ダメと言われているサングラスでのぞいてみました。
まぶしくて見えない。二枚重ねてもだめ、三枚重ねてもだめ。私はあっさりあきらめてしまいました。
夫が何かごそごそ探していると思っていたら、四つ目のサングラスが出てきました。四枚重ねると、あら素敵、日食がばっちり見えました。
どのサングラスも東南アジアの市場で買った、2ドルほどのサングラスです。あってよかった。
というわけで、めでたく金環日食を見ることができました。
さて、金環も崩れたころ、坂道を降りようとしたら、木の葉の影がみんな三日月形になっています。
もっと早く気がつけばドーナツ型の影が見られたのに。
惜しいことをしました。
日食がほぼ終わったころ見ると、木の葉の影は元通りになっていました。
2012年5月20日日曜日
仲間入り
骨董市で、いつもがんこさんのお隣にいる、がんこさんが「親方」と呼んでいるお方、小さいものは飾りつけもせず、いっしょくたに段ボール箱に入れたまま、土の上に無造作に並べています。
通りがかりにふとのぞいたら、見覚えのあるものが。
ペルーのひょうたん(かんぴょう?)を彫って彩色したものです。 半分に割って、皮でつないであります。
開けてみると、あらぁ、降誕人形でした。
「これはいくら?」
親方手にとって、ちょっと眺めてから、
「500円」
おぉ、よい値段だこと、もちろんいただきました。
左側に馬小屋で生まれたイエスキリストやマリアさまなど、
右には、賑やかな楽隊がいて、ケーナも見えます。
我が家のペルーのミニチュアたちと合流しました。
さらにひっかきまわしたら、同じ箱の中から、鯛車も出てきました。
稚拙な鯛車で、車が動きません。
鯛というよりトカゲっぽくてユーモラスです。
「親方これは?」
手に取った親方、
「う~ん。これは微妙...。300円」
「高いよ、親方!」
と言いながら購入、何が微妙なのかわからずじまいでした。
その昔、確か浅草の助六で見つけた鯛車は、爪の先ほどの大きさですが、車がちゃんと動きます。
でも、まあいいでしょう。変な鯛車があっても。
というわけで、鹿児島の鯛車、大中小とそろいました。
2012年5月19日土曜日
酵素な日々
夫が、一ヶ月ほど前に整体師のKさん伝授の、酵素風呂をつくりはじめました。
地面から浮かした箱をつくって、雨よけの覆いをかけます。
米糠は150キロくらいも集めてきたでしょうか。
その米糠に水を加え、発酵を促進するためにヨモギの天恵緑汁をつくって入れたりもして、切り返したり、陽に当てたりしてきました。
酵素風呂の横にはシャワーまで設置しました。シャワーができたのが数日前のこと、その夜から入りはじめました。
発酵させるために山にしている糠を、脇に寄せて横になり、顔以外に糠をかぶせます。これは残念ながら一人では楽しむことができません。誰かに全身に糠をかけてもらわなくてはならないからです。
米糠の温度は50度くらいになっていますが、入って熱過ぎるということはありません。ぬるすぎもしません。気持ちよくて、いつまでも入っていたいくらいです。
出てからがまた気持ちいいのです。身体が温まっていつまでもぽかぽかしているのですが、それだけではなく身体が洗われて、軽くなった気持ちもします。
毎朝食べているヨーグルトも酵素です。
種をわけてもらったのはもう十年以上前のこと、以来毎朝食べ、そのたびに牛乳を足し、酵素は生き続けています。
ジャム、生のブルーベリー、冷凍したバナナなど、ヨーグルトと一緒に食べるものは、時折々でいろいろありましたが、最近は、桑の葉の粉末を混ぜて食べるのが定着しています。
抹茶の味がします。
生チーズも酵素でできています。
夫の古い友人Kさんは本業は彫刻家ですが、山羊を飼ってチーズをつくっています。子どものころから山羊は飼っていたそうですが、どちらかと言えば、チーズづくりの方が本業のようにも見えます。
山羊乳100%のチーズは、乳を集めるのが難しいことから大企業ではつくれません。個人でも搾乳がたいへんですから、ほとんどなくて、Kさんのチーズは貴重なチーズです。
ときどき注文して送っていただいていましたが、とぼしい予算ではちょっとだけしか買えず、しかもこのごろは立ち消えになっていたのですが、お土産にたくさんいただいてしまいました。豪華!
いったい、何リットルの山羊乳からできているのでしょう?
山羊を飼っている人は、一頭だけでも乳搾りで手が痛くなると言います。それなのに、Kさんは多いときは二十頭も飼っていました。強靭な手の持ち主です。
このチーズ、白いのは白カビで、黒いのは黒カビで包んであります。
贅沢な、酵素の時が流れます。
地面から浮かした箱をつくって、雨よけの覆いをかけます。
米糠は150キロくらいも集めてきたでしょうか。
その米糠に水を加え、発酵を促進するためにヨモギの天恵緑汁をつくって入れたりもして、切り返したり、陽に当てたりしてきました。
酵素風呂の横にはシャワーまで設置しました。シャワーができたのが数日前のこと、その夜から入りはじめました。
発酵させるために山にしている糠を、脇に寄せて横になり、顔以外に糠をかぶせます。これは残念ながら一人では楽しむことができません。誰かに全身に糠をかけてもらわなくてはならないからです。
米糠の温度は50度くらいになっていますが、入って熱過ぎるということはありません。ぬるすぎもしません。気持ちよくて、いつまでも入っていたいくらいです。
出てからがまた気持ちいいのです。身体が温まっていつまでもぽかぽかしているのですが、それだけではなく身体が洗われて、軽くなった気持ちもします。
毎朝食べているヨーグルトも酵素です。
種をわけてもらったのはもう十年以上前のこと、以来毎朝食べ、そのたびに牛乳を足し、酵素は生き続けています。
ジャム、生のブルーベリー、冷凍したバナナなど、ヨーグルトと一緒に食べるものは、時折々でいろいろありましたが、最近は、桑の葉の粉末を混ぜて食べるのが定着しています。
抹茶の味がします。
生チーズも酵素でできています。
夫の古い友人Kさんは本業は彫刻家ですが、山羊を飼ってチーズをつくっています。子どものころから山羊は飼っていたそうですが、どちらかと言えば、チーズづくりの方が本業のようにも見えます。
山羊乳100%のチーズは、乳を集めるのが難しいことから大企業ではつくれません。個人でも搾乳がたいへんですから、ほとんどなくて、Kさんのチーズは貴重なチーズです。
ときどき注文して送っていただいていましたが、とぼしい予算ではちょっとだけしか買えず、しかもこのごろは立ち消えになっていたのですが、お土産にたくさんいただいてしまいました。豪華!
いったい、何リットルの山羊乳からできているのでしょう?
山羊を飼っている人は、一頭だけでも乳搾りで手が痛くなると言います。それなのに、Kさんは多いときは二十頭も飼っていました。強靭な手の持ち主です。
このチーズ、白いのは白カビで、黒いのは黒カビで包んであります。
贅沢な、酵素の時が流れます。
2012年5月18日金曜日
なつさんの招き猫
整体師Kさんの家に、おぬきなつさんからプレゼントされた、招き猫が飾ってありました。
黒は、お客さん(この場合患者さんか)を招く色だそうです。
「おかげで、昨日は朝早くから夜遅くまで働いちゃったよ」
実は、私も日を間違えて、予約より一週間前に行ってしまったのです。
「私も、猫に招かれたのかしら?」
招き猫の周りに飾ってあるのは、Kさんの娘あーちゃんの作品。これもお客を招いているのかもしれません。
なつさんの招き猫は、家にもあります。
ちょっと不気味な(失礼!)顔の、マトリョーシカ招き猫。中くらいの大きさの猫は、先の地震で割れてしまい、残っているのは大と小です。
大きな招き猫の中に入っているのは、地震で割れた土鈴の中の玉だけ残ったもの、玉はまだまだあったはずです。
これは、ずっと前に知人にさしあげた招き猫。 写真だけ残っています。
「なつさん、これかわいいよ!」
さて、我が家の招き猫たちは、何を招いてくれているのでしょう。
なつさんのマトリョーシカと言えば、こんな娘たちもいます。塩胡椒入れです。
2012年5月17日木曜日
パレスチナの民族衣装 その二
エルサレムの旧市街の骨董屋さんで見つけたパレスチナの古着です。エルサレムの旧市街は城壁に囲まれていて、岩のドーム(イスラム教)、嘆きの壁(ユダヤ教)、聖墳墓教会(キリスト教)などのあるところですが、市場もあります。
身長158センチの私にちょうどいいサイズですが、誰かがこのワンピースを着ているのを、一度も見かけたことはありません。
ありがたいことに、『Palestinian Costume』 (Shelagh Weir著、British Museum Press、1994年)で、この服と布のことを知ることができました。
それによると、藍染めの木綿の端に、絹の配色糸を配した、33-34センチ幅の細い布は、今ではイスラエル領内になっている、現在のヤッファで織られてい ました。どうして、配色糸は綿ではなく、輸入しなくてはならない絹だったのでしょう?おもしろいことです。
8メートルから8.5メートルの、一着のドレスがつくれる長さに切って売られていたそうですから、一反に切って売られていた、日本の呉服地と同じ考え方です。
この布は1948年のイスラエル侵攻までヤッファで見られ、その後ガザの難民キャンプでは、1960年代末まで見られました。
ガザの難民キャンプで、この布が織られている写真は、1967年に撮影されたものです。
織り上がって巻き取った布を、身体に結びつけてこそいませんが地機です。張った経糸(たていと)に、縞模様が見えています。
『Palestinian Costume』には、私が持っているのとまったく同じドレスも載っていました。細い幅の布は、手で刺繍しながらつなげてありますが、端と端をつなげることによって、倍の太さの縞をつくり出しています。
そして、これはイギリスの委任統治時代(1923-1948年)に、この布のドレスを実際に来ている親子の写真です。
装飾的に彩色した家の前で、子どもも縞のドレスを着ています。
胸元の刺繍。
布端と布端をつなぎ合わせてある部分です。
よく似たワンピースをもう一着持っていますが、こちらは縞のない無地の布を使い、刺繍がしてあります。
これも同じく海岸地域の衣装でしょうか?『Palestinian Costume』には、記載はありませんでした。
横線の刺繍は、前側に一段、後ろ側には六段してあります。
刺繍の詳細です。
後ろ裾の刺繍は長い間着られていたのか、擦り切れています。
豪華な刺繍がされた、パレスチナ民族衣装も素敵ですが、惜しげもなく着て楽しむなら、こちらの衣装の方でしょうか。もっとも、豪華な衣装は、もし売られていたとしても(市場に出ることはほとんどない)、百倍、千倍のお値段ですから、手も足も出ないのですが。
2012年5月16日水曜日
パレスチナの衣装 その一
今、パレスチナで、手の込んだ刺繍のある伝統衣装をまとっているのは、年配の方だけです。年配の女性には太っている人(お相撲さんなみ)が多いこと、伝統衣装の生地や刺繍糸が化繊であること、スカーフなどの小物が安っぽいことなどから、着ているのを見ても、あまり美しいと感じることはありません。
これは、『Palestinian Costume』 (Shelagh Weir著、British Museum Press、1994年)に載っている写真で、1970年代末に撮影されたラマッラ(エルサレムの北)の女性です。
ナブルス(ラマッラの北)郊外の村の女性、やはり1970年代末に撮影されたものです。色は違いますが、どちらも同形のワンピースになっています。
これほど素敵ではありませんが、似たおばあちゃんたちなら今でも、あちこちで会うことができます。ところが、民族衣装を着た若い女性となると、パレスチナの隅から隅までさがしても、まずお目にかかることはないでしょう。
1997年にベツレヘム大学で、伝統衣装のファッションショーが開かれたことがありました。パレスチナ衣装のコレクターが、そのコレクションを提供し、モデルはすべて高校生でした。
ドレスには、それに合ったヴェスト、アクセサリー、かぶり物などを組み合わせることで、その完成度が高まります。
二十着、あるいはもっとあったでしょうか。どの衣装もため息の出るような美しさで、高校生たちが本当にかわいく見えました。
会場には、モデルになった女の子たちの親姉妹や友だちも陣取っていて、知り合いが出てくるたびに大騒ぎ。
微笑ましいことでした。
衣装の胸元は、どれも手の込んだ刺繍でびっしりと埋め尽くされています。
このドレスは、袖にも刺繍が見えます。
ずいぶん前のことですから、忘れてしまいましたが、これはかぶり物から見て、花嫁衣装だったでしょうか?
ドレスのスカート部分にアップリケが見られますが、これは南部のヘブロン(ベツレヘムの南)あたりの模様です。
どちらを向いても、こんな美しい衣装を身にまとった人ばかりが暮らしていた世界というのは、どんな感じだったのでしょうか?
女性ばかりが、素敵だったのではありません。
上の女性の写真はラマッラで、1906年に写されたもの。下の写真は1905年、同じくラマッラで写されたもの、いずれも、『Palestinian Costume』に載っていた写真です。
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