と聞いて、その箱の包みを開けてみると、古い土人形が四、五体出てきました。
どれも、わりあいへたくそな人形でした。
やがて、まことさんも帰ってきて、人形を見ている私に、
「これ今戸だよ。今戸の群青でしょう?」
と、言いました。
「えっ、今戸?」
見るだけと思っていましたが、今戸と聞いたら、いまどきさんを思い出してぐっと関心が高まります。
今戸焼は江戸時代から戦前まで、主には日用雑器を焼く窯でした。
火鉢、植木鉢、瓦など焼く窯の中には、人形を焼く窯もありました。
戦後、今戸焼の窯は一軒を残して、すべて廃業しましたが、戦後まで残った窯元は、戦前は人形をつくっていなかった窯でした。しかし、他の窯から人形の型をもらい受けてつくりはじめ、現在は、古い今戸人形を継承しているというより、新しく創作した人形をつくっていらっしゃいます。
また、各家庭にあった古い今戸人形は、関東大震災と東京大空襲で、多くが失われてしまいました。
そんな中、高校の先生で今戸人形の収集家でもあったいまどきさん(吉田義一さん)は、手に入らないなら自分でつくろうと、古い人形から、数々の今戸人形を復元し、私たちに昔の今戸焼を見せてくださっています。
そんないまどきさんですから、古い今戸人形なら見たいと思っているに違いありません。。
「全部持って行く?」
とまことさん。
「いやいや、 そんな」
というわけで、自分用といまどきさん用に姉さま二体だけをいただいてきました。
人形の写真をメールでいまどきさんに送って、今戸焼かどうかたずねたあと、その日は外出してしまいました。
二時過ぎに家に戻ったら、いまどきさんから返事が来ていました。それによると、この人形は今戸焼よりもっと入手困難な飯岡人形で、めったにないものだと書いてありました。
「ひゃぁぁ」
そんなことなら、買わなかった二体も手に入れようと、もう一度骨董市に行ってみたら、骨董屋さんたちは片づけている最中でした。飯岡人形もとっくにプラスティックの箱に仕舞われて、どの箱だかわかりません。
「あっ、他のも欲しかった?第三日曜に持ってくるから」
とまことさん、次の骨董市を待つことにしました。
さて、いまどきさんのお話では、今戸人形は明治の頃、下総、上総あたりにかなり流通していました。
中でも裃雛は「下総雛」と呼ばれていたくらい、出回っていて、千葉県多古町には、今戸人形を仕入れて中継ぎ販売をする家さえありました。
その今戸焼人気にあやかろうと、銚子近くの飯岡の人が型を真似て、土人形をつくりはじめました。
ネットで探したら、飯岡人形の写真が見つかりました。
明治中期頃、今戸人形や芝原人形を真似て、飯岡町の荒物雑貨商「甘酒屋」の武多和利男と、その息子の孝次郎が二代にわたって、土人形をつくったそうです。
飯岡人形の中でも、今戸焼の「下総雛(今戸では裃雛)」と同じ型の雛を、「ドガミシモ(土裃)」と呼んで大人気だったとのこと、大中小の3種つくっていましたが、戦前に廃絶してしまいました。
私が買って来た女性の土人形も、頭はに金色の冠らしきものを被っているので、姉さま人形ではなくて、「ドガミシモ」の女雛に違いありません。羽織には、「どかみしも」の写真と同じ模様があります。
ちなみに、土人形の中で、飯岡人形は五本の指に入る、稚拙なものだそうです。
今岡人形は大きい、いまどきさんの裃雛と比べるとこの大きさです。
前に置かないで横に置くともっと大きさの違いが判ります。
と、ここまで書いてから二週間、約束の骨董市に行きました。
ところが、飯岡人形は出てきません。
「一体は売れて、一体はあったんだけど、娘が詰めたからなぁ」
とまことさんが、コンテナをあれこれ見てくれましたが、結局人形は出てきませんでした。
「売っていないからあるはず、見つけたら送るよ」
と、まことさんが約束してくれましたが、私はもう半ばあきらめています。
まあ、人生はそんなもの、残りを待たないで一体、いまどきさんに送ることにしました。
追記:
いろいろあって、いまどきさんは受け取られず、結局我が家で二人とも元気にしています。
2 件のコメント:
漱石の小説のなかに
「今戸焼」の狸のような、、、形容がでますね、
「行徳のまな板」もありますが江戸っ子らしいです。
昭ちゃん
今戸焼は小粋ですね。京都生まれだけれど土臭い伏見人形が江戸に伝わり、今戸人形になった。それがまた下総に行って土臭くなった。そんな伝わり方が面白いと思いました。
「行徳のまな板」知りませんでした。馬鹿で人擦れしているってことですって!聞いたこともありませんでした!
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