捨てられずにとってあった雑誌類も、ここ八郷に来てから、折を見てずいぶん捨てました。
とくに、雑貨、旅行、料理などの情報誌は、ネットで検索すれば簡単に知ることができる時代になって、まったく必要なくなってしまいました。
それでもまだ、本棚に残っています。
見返して、さらに整理しようとしますが、役には立たないけれど、歴史の証人のような雑誌は、ついつい取っておきたくなります。
この『アンアン』は1972年発行、やっと渡航の制限がなくなり始めた時代の雑誌、アメリカのディズニーランドで撮った写真が表紙になっていて、中もおしゃれです。
日本にディズニーランドが開園するのは、これから11年後の、1983年のことです。
『太陽』の土門拳の特集号(平凡社、1994年)も出てきました。
土門拳の『筑豊のこどもたち』(築地書館、1977年)は、今でも時おり見返していますが、『太陽』は背表紙を逆さに向けて、フォルダーに収めていたせいもあって、長い間開いたことのなかったものです。
ついつい、時間を忘れて見入ってしまいました。
神田っこ、1953年 |
中でも、かわいらしい子どもたちの写真は素晴らしい!
鞍馬天狗と近藤勇、『江東のこども』、1955年 |
チャンバラごっこという言葉さえあったのに、今は絶対見ることのできない光景です。
メンコ、『江東のこども』、1954年 |
メンコやベーゴマは、流行り出したらあっという間にみんなに感染、どこでも熱の入った勝負が繰り広げられましたが、ある日潮が引くようにつまらなくなって、街角から消えてしまいます。
そしてまた、次の遊びが台頭してくるのでした。
この、エプロン姿の男の子たちの可愛らしさ!たまりません。
洗濯機のない時代、洗濯はお母さんの家事のうち、もっとも大変なものの一つでした。活発な男の子たちの服を汚させないで、できるだけ洗濯の手間を減らそうと苦心するお母さん。男の子たちもみんな、小さくて洗いやすいエプロンをつけさせられていたのでしょう。
しんこ細工に見入る子供の真剣な表情、写真を見る私も顔に力が入ります。
どうしてはさみ一つで、あっというまに動物ができるのか、見逃さないように手元を見つめていても、真似できるものではありませんでした。
これは、戦前の写真、東京都小河内村(現在の奥多摩町)の子どもたちです。
この子どもたち(きょうだいか?)の底抜けの明るさに比べると、
「父のない母子」には、寂しさが漂っています。
キャプションには、「いつものことだがお母さんが仕事に出て行った後の家は寂しい」と書かれています。
この写真も『筑豊のこどもたち』に収められている、炭鉱の町の小学校の写真です。
雑誌を読んでいる子どもたちは、家にその日の食べるものがなくて、お弁当を持ってこられなかった子どもたちです。
奥の女の子が、『一年生』を読んでいるので、一年生なのでしょう。
雑誌は誰が持ってきて教室に置いたのか、どこからか拾ってきたのか、ほかの子どものお弁当の匂いを感じながら、何度も何度も読んだ古い雑誌をめくる気持ち、それでも学校に来ることができる有難さ、そんな子どもたちの気持ちが伝わってくる写真です。
三輪車、『江東のこども』、1953年 |
この、エプロン姿の男の子たちの可愛らしさ!たまりません。
洗濯機のない時代、洗濯はお母さんの家事のうち、もっとも大変なものの一つでした。活発な男の子たちの服を汚させないで、できるだけ洗濯の手間を減らそうと苦心するお母さん。男の子たちもみんな、小さくて洗いやすいエプロンをつけさせられていたのでしょう。
浅草雷門、1954年 |
しんこ細工に見入る子供の真剣な表情、写真を見る私も顔に力が入ります。
どうしてはさみ一つで、あっというまに動物ができるのか、見逃さないように手元を見つめていても、真似できるものではありませんでした。
1935年ごろ |
これは、戦前の写真、東京都小河内村(現在の奥多摩町)の子どもたちです。
この子どもたち(きょうだいか?)の底抜けの明るさに比べると、
1959年、『筑豊のこどもたち』より |
「父のない母子」には、寂しさが漂っています。
キャプションには、「いつものことだがお母さんが仕事に出て行った後の家は寂しい」と書かれています。
1959年 |
この写真も『筑豊のこどもたち』に収められている、炭鉱の町の小学校の写真です。
雑誌を読んでいる子どもたちは、家にその日の食べるものがなくて、お弁当を持ってこられなかった子どもたちです。
奥の女の子が、『一年生』を読んでいるので、一年生なのでしょう。
雑誌は誰が持ってきて教室に置いたのか、どこからか拾ってきたのか、ほかの子どものお弁当の匂いを感じながら、何度も何度も読んだ古い雑誌をめくる気持ち、それでも学校に来ることができる有難さ、そんな子どもたちの気持ちが伝わってくる写真です。
8 件のコメント:
姐さん太陽ありましたね
当時土門さんは筑豊の取材が多くコントラストの
強いイメージが多く「女坑夫」も、、、、
昭ちゃん
みんな生きるのに精いっぱいだった時代、子どもたちはそれでもいろいろ楽しみを見つけていました。
今日は3月10日、東京大空襲の日です。
子どもだけ疎開させていたら親が死んで子どもは浮浪児になるという大変な時代でしたが、浮浪児を差別した人が多かった中、ホームをつくって一緒に暮らした人もいた、人間性はすぐ出てしまいます。
この写真を見ると、東京も昔はコンクリートジャングルではありませんでしたね。
このananの編集者の一人が夫の母の弟Gさんです。またアメリカに行くのが珍しい時代だったので、Gさんが取材でアメリカに行く際、親戚一同で羽田国際空港に見送りに行ったという話を何度も聞きました。夫はまだ小学校低学年でしたが、このアメリカ特集は沖縄返還の1972年と強く記憶しているようです。
セロテープで補強してますね(笑)。
hiyocoさん
わぁ、なんという奇遇、世間は狭いですね!!!
沖縄返還の年でもあったんだ。申し訳ない、忘れていました。
私たちがガーナに行ったときも水杯ものでした。羽田へ行くことがないからと、親兄弟だけでなく、妹の同級生のお母さんまで来てくれた、しかも着物姿で来てくれた、そして飛行機に乗ったら日本人は一人もいない、日本語も通じない、そんな時代でした。
アンアンはまだ捨てずにとってありますよ(笑)。
姐さん9日の夜半から10日にかけての大空襲
この日を境に昼夜の区別なく東京は本格的
空襲が始まり
我が家は最終仕上げの5月25~26日に焼失しました。
昭ちゃん
おびただしい数のB29が飛び交って、東京は焼け野原になってしまいました。でも、木造なので復興もヨーロッパに比べると早かったみたいでしたね。
何と言っても戦争は愚かしいことですが、地球上から戦争がなくなってしまわないのが残念です。
姐さん戦争の悲惨さや平和の大切さを語るより
もうチョット踏み込んだ勉強をしてよー
国が一定な方向に向くときに従わない者は国賊で
そんな時代を過ごしてきました。
昭ちゃん
御意!
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