2024年2月28日水曜日

葛畑土人形


葛畑(かずらはた)土人形のお雛さまです。
「葛畑人形」と「稲畑人形」を、いつからか長い間、名前を間違えて記憶していました。お雛さまのことを書いたとき、茶々丸さんに気づかせていただいて、本当に良かったです。

祖母が存命で倉敷で一人暮らしをしていた1970年代、毎年、1度か2度、祖母のもとを訪ねていました。幼児が2人いて、持ちものも多く、たまには私の両親も同行することがあり、たいていは車で行きました。
まっすぐ行くこともありましたが、行きか帰りかに寄り道することもありました。寄り道するところは、ほとんどは私の希望で郷土玩具のある場所、京都は清水坂あたりや伏見稲荷、大阪の住吉神社、時には足を延ばして広島の三次(みよし)人形の窯元を訪ねたこともありました。
ある年、兵庫県の葛畑人形の窯元を訪ねました。


葛畑の土人形づくりは、天保年間にはじまり、初代は伏見人形を見ただけで真似たとか、内裏雛や恵比寿大黒をつくりました。当初は葛畑ではないところに住んでいましたが、2代目がよい土を求めて、葛畑に移り住みました。
3代目は、鳥取県に出向いて製作技術を磨き、帰郷後、雛人形の製作に専心し、明治末期から昭和初期にかけて、葛畑土雛の最盛期をつくりました。一帯では葛畑土雛の贈答が流行し、女児の誕生や嫁入りには欠かせないものとなり、従業員も大勢雇用して、美方郡、養父郡一帯の小売店を通すなどして、手広く販売しました。
4代目の俊夫さんは若くして家業を継ぎましたが、兵役に取られ、葛畑土人形は休業を余儀なくされました。4年後、俊夫さんは戦地から帰還すると土人形を復活させ、雛人形はもちろん干支人形など、創意工夫を重ねて、百種類を超す人形を制作しました。


私がお訪ねしたのは、4代目の俊夫さんご夫妻でした。
東京と倉敷の間に位置しているくらいの軽い理由で選んだ葛畑で、その人形がどんなものか、お訪ねするまで、たぶんよく知らなかったと思われます。丁寧に成形され、丁寧に絵つけされた土人形は素朴とは言えず、はっきりと言えば、あまり好みではありませんでした。しかし、ご夫妻とお話しして、お人柄を知るにつれて、どんどん気持ちが傾いて、お雛さま、子守り、天神さま、それに鳩(姿が見えないので、失われたか?)など、思ったよりたくさん購入していました。


私は、一度に郷土玩具をたくさん見ると、なぜか購買意欲をそがれる癖があります。
そのため、専門店では買ったことがないし、毎年正月に日本橋のデパートで開かれていた「日本郷土玩具展」でも、初日の開店と同時に駆けつけるくせに、何一つ買う気が起こらず、手ぶらで帰ってくることがほとんどでした。


反対に、窯元を訪ねて、お話をうかがったりしたら、あれもこれも欲しくなってしまいます。
今でも、葛畑のお雛さまが箱から出てくると、
「相変わらずかわいくないよなぁ」
と思いますが、別の意味ですっかり愛着が湧いています。

倉敷への旅では、名古屋人形の窯元に、名工野田末吉さんをお訪ねたしたこともありました。





 

2 件のコメント:

茶々丸 さんのコメント...

葛畑は、趣味家好みのテイストではなく、
大地を踏みしめて、しっかりと米を食べ、寡黙に生きてきた人の手で生まれた、という感じがします。
どの題材も同じパターンの面相ながら、その愚直さにむしろ愛おしさを感じます。
春さんの明晰なご説明で、葛畑のあらましを再認識することができ、感無量です。

思えば昭和60年に、家内の初産で上京の折、帰途、京王百貨店の兵庫県物産展に偶然行き当たり、
そこで初めて手にした土人形が葛畑の「扇持ち」でした。
前田氏の逝去が昭和63年ということですから、初めての出会いにして、最晩年頃の忘れ形見となりました。
あれから、葛畑も折に触れて集まっては来ましたが、愈々断捨離時を迎え、
当初の扇持ちや内裏雛など数点を手に、遠い昭和の思い出を反芻するこの頃です。

さんのコメント...

茶々丸さん
ありがとうございます。確かに葛畑人形は大地を踏みしめて寡黙に生きてきた人の手で生まれたという表現がぴったりです。実直さが線の1本1本に宿っているようです。
私もとうに断捨離しなくてはならない年になりながら、ままよ、世の中何とかなるだろうと開き直っています(笑)。コレクターというほどには一つのものにこだわってないのに、断捨離するには多すぎるものに囲まれて、相変わらず能天気ににんまり生きています。