2026年4月12日日曜日

織り物の歴史のこと

最近、織物教室できくちさんとさかいさんと集まったとき、気がついたら編み物(アンギン)や織り物、というか布の起源についての話に、花を咲かせていることがあります。
人は縄文時代にどんな道具を使って自然から繊維を得たのか、どうやってその繊維を布に仕上げたのか、縄文遺跡から出土した布目のついた土の欠片、織り機だったものの破片、糸に撚りをかけてより強くする道具などなど、
「えっ、そんなところまで!」
とびっくりするほど日本国中の遺跡を歩いたさかいさんを中心に、資料を見たり、スマホで発掘品の写真を見たりして、楽しい時間を過ごします。
それに織りものの知識を加えて、もっと真相に迫りたいと、役立ちそうな本を手に入れてみました。


『織物技術民俗誌』(吉井敬郎著、染色と生活社、1991年)です。
ところが、思ったほど、古代の知識は得られませんでした。というのは、遺跡の発掘と、布・籠など消えやすいものの研究は日進月歩で、この本が書かれた35年前より今の方がずっと進んでいるからです。
古代の織物に関しては参考にはなりませんでしたが、近代の織り物については、たくさんの絵や写真でたくさん紹介されていて、興味津々でした。この本が書かれたころには、まだ手機(てばた)で実際に織っている人たちもいれば、もう織ってはいないけれど織り物について語ることができる古老がいるところもあり、そんな人たちを訪ね歩いて、全国の貴重な記録が紹介されていたからです。

この本を読んで知ったことは、筬(おさ)の役割が歴史的に違ってきていたことでした。筬とは、緯糸(よこいと)を経糸(たていと)に通したあと、それを締めるものとしか考えていませんでしたが、それが「高機(たかはた)」ができてからの常識だったと知りました。
踏み木を踏んで2枚以上の綜絖(そうこう)を上げ下げする高機以前の、綜絖が1枚しかなかった地機では、筬は、緯糸を打ち込むためのものではなく、おもに経糸の間隔を保ち密度を一定にするために使われていたのです。


それが証拠に、地機の原型を色濃く残しているとされるアイヌの織り機では、筬は織り手(この絵では左側に座る)から遠く離れた位置に置かれています。そして、緯糸を締めるためには、筬ではなく刀杼(とうじょ、とうじ。緯打具。アツシペラ)だけが使われている(使われていた)ようです。
大杼のコメントでhiyocoさんが教えてくれたYouTubeでは、結城紬を地機で織るのに、大杼と筬の両方で緯糸を打ち込んでいました。結城紬では、高機を使って筬だけで打ち込むより、大杼を使った方がしっかり打ち込めるので、今でも高機より効率の悪い地機(織るのに倍の時間がかかる)を使い続けているのだそうです。


そして、アイヌの織り機同様、地機も「中筒」を挟むので、綜絖に結んだ紐を足で踏んで持ち上げないときも、経糸は開いた状態(例えば奇数糸が上で偶数糸が下という具合)になっていて、綜絖を持ち上げたら経糸の上下が入れ替わります。
ちなみに、高機では踏み木を踏んでないとき、経糸はすべて同一平面上にあり、経糸は開いていません。


地機ではアイヌの織り機と違って筬は手前にあり、明らかに緯糸を締める目的に使うことができます。

ところが、東南アジアのカレン人やラオス人の場合、刀杼は緯打具としては使わず、おもに経糸の間に通したら立てて、杼を通りやすくする目的で使います。
「用途は判明。使い方は依然として不明」で紹介したデンマークの刀杼は、薄くて、立てるには幅がありすぎると思っていましたが、もしかしたら経糸の間に立てないで、緯糸を打つ道具としてだけに使ったかもしれない、地機の大杼のように、緯打具に特化したものだったかもしれない、と思ったことでした(真相は不明ですが)。

さて、この本にはアサ(大麻)、フジ、シナ、木綿、絹については詳しく書かれているのに、カラムシについての記述がありません。今では、カラムシ(苧麻・ちょま)アカソ(赤苧)は、縄文時代から利用されたもっとも古い繊維として広く知られていますが、著者の吉井さんの各地での聞き取り調査にまったく出てこなかったのが、ちょっと気になりました。
聞き取り調査のほとんどは西日本で行われたもの、第二次大戦後ですから、各地でカラムシの織物はすでに消えていて、新潟県以外には痕跡もなく、カラムシもアンギンもまだ世に知られていなかったのかもしれません。





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