2026年8月3日月曜日

朝鮮半島の箕

8月3日、箕の日に勝手に協賛です。


憧れの、朝鮮半島の柳の箕です。手に入れてしまいました。

柳の箕つくり。写真は朝鮮国立中央博物館からお借りしました

柳の箕(韓国語で箕はキ、慶尚道方言ではチン)は、特定の地域に限定されず、朝鮮半島各地の農村で、川辺などに自生する、身近な柳の若枝を使ってつくられてきました。
半島各地でつくられた柳の箕は、地域によってちょっとずつつくり方に差異があり、上の写真はてっぺん(奥)が尖った形の箕をつくるために、左右2枚ずつ(内用外用)
、へぎ板を計4枚用意しています。

写真は사진으로 배우는 한자: 키와 관련된 글자 其와 箕, 그리고 棄からお借りしました

柳を編んだものを押さえる板を真ん中で継ぐときは、てっぺんを葛で綴って、できあがりはこんな形になります。


写真は材料のコリヤナギ(行李柳)の木です。
水に浸すと柔らかくなり、乾燥すると硬くなる性質を生かして、一旦乾燥させた柳を水に浸して柔らかくして編みます。


柳を麻糸で編み、編んだ柳に窪みをつけながら2枚の松のへぎ板で表と裏からはさみ、葛で綴ります。


外側には、補強の松の板を1枚、横向きに入れています。
翼のようにはみ出した部分は、面積を広げるためのものです。


松の板で挟んだ柳の端が見えないように、切り揃えた後に、太い柳を1本、翼の出るところまで当てて、仕上げています。
韓国の柳の箕をつくる人は行李もつくりますが、行李の方が遥かに難しいと言います。というのは、箕は手間はかかるけれど失敗率が少ないのですが、行李は丸く曲げるときに柳が折れたり、曲げたものが外れたりすることが多いのだそうです。


真ん中に通した色の濃い糸の端を「わ」にして、「口」でたるませているのはなぜでしょう?
引っ掛けて収納するためのたるみかとも思いますが、どの箕も同じように作られています。

日本では、農具の中でも箕は特別なもので、長野県佐久のように、初めての誕生日に幼児を箕の中に座らせ、立たせてみたり、「秕(しいな)は舞い出ろ、実は残れ」と歌って邪気を払って成長を願う地域もあります。
箕を特別に思う気持ちは、おそらく朝鮮半島から日本に伝わったもの、韓国ではお正月に福箕が売られたり、おねしょ直しに使われたりします。

この箕を使っている、興味深いYouTubeがあります。韓国語ですが。 






2026年8月2日日曜日

水運び

先日、MSさんとHTさんが来たとき、2階の展示室で、
「あっ、これモンの刺繍だ!」
「カンボジアの漁具のミニチュアだ。こんなのができていたんだ!」
などと、ものを見ることで忘れている昔のことをいろいろ思い出して、話が弾みました。
「これはアフリカのものだよね?」
とMSさんが指したのは、カンボジアのラッタナキリのひょうたん(ユウガオ?)でした。
「これはカンボジアのひょうたんよ」


「えぇっ、カンボジア? こんなひょうたんがあったんだ!」
「模様つきは珍しいと思う、これ以外には見たことがないから。HSさんが駐在していたころは、まだラッタナキリには行けなかったよねぇ」
ラッタナキリへはメコン川を船で上るか、あるいは飛行機で行くかしか交通手段がありません。MSさんがカンボジアにいた1990年ごろは、ラッタナキリは封鎖されていたし、行こうとしたとしても高速船もなかったし、飛行機も飛んでいませんでした。


ひょうたんは水入れには最適な形をしていますが、ひょうたん原産地のアフリカでも水入としては使われていません。おそらく、ラッタナキリの男性が話していたように、ひょうたんには水を入れ続けないとカビが発生して、健康を損なうことを誰もが経験的に知っていて、生水は別の方法で保存したに違いありません。
飲料を持ち運びたいときは、水ではなく、ソマリアのようにラクダの乳をヨーグルトに変えながら行くとか、モンゴルの馬乳酒やガーナのピトー(雑穀を発酵させたビール)のように、発酵させたものを運ぶ方が、健康上安全だったと思われます。

さて、ラッタナキリの水入れといえば、節と節の間が長い竹の話を、二人にしないわけにはいきません。


水を入れて運ぶには最適の大きさ、清流から水を汲んできたら、他の容器に移す必要もなく、家に数本立てかけておいて使えばいい。水浴びのときや畑に行くついでに、子どもから老人まで1本ずつ運べる、とても優れた水の運搬容器であり、保存容器でした。


たけちゃんにちょっと持ってみてもらいました。


たけちゃんは手だけで支えていますが、肩に担ぐともっと重さを感じなくなります。






 

2026年8月1日土曜日

木工作

今日は、東京藝術大学の夏休み講座の「みんなで作る木工作」に、別の用事がある息子に代わって、たけちゃんのつき添いで行ってきました。親子で一つの作品をつくっているカップルもいれば、親子別々のものをつくっているカップルもいました。


土曜日日曜日、土曜日日曜日と4日間の講座で、たけちゃん父娘は先週すでに「うさぎの椅子」(たけちゃんの後方)を作り終えていて、「うさぎのテーブル」の甲板もできていて、3日目の今日は、甲板につける脚をつくらなくてはなりません。
脚材は、杉板から手鋸で挽いてつくります。


たけちゃんは、うさぎの椅子につける補強材をつくっています。先生たちは教えるのがうまい!
45度に材を切ったり、


鉋を使ったりと、小学2年生は頑張ります。


ハロウィンのお化けみたいなのをつくっている親子もいます。
他には、本棚みたいなの、車の形をした棚など、すべて子どもの発想の具体化です。


私が代理を務めた一日は、主にテーブルの脚をつくった一日で、ほぞ穴を開けて、ほぞを組んで、ボンドを入れて叩き入れて、明日までしっかり接着するのを待ちます。


代理の私は何をした?
どんな役割か知らず参加しましたが、杉板から縦挽き鋸で脚材を切り出したり、ほぞ穴を開けたり、時間が余ったので木皿をつくるためにノミを使ったりとけっこう働いて、大汗をかきました。




 

2026年7月31日金曜日

自然の一部の私たち


6月26日の『東京新聞』に、東京都世田谷区の等々力渓谷の地力再生の記事が載っていました。
2023年にシラカシが倒れて遊歩道をふさいだことから樹木医に調査を頼むと、この数年の暑さで害虫にやられて、水も吸い上げなくなって枯れたとわかりました。他にも傷んだ木があったことから、区は斜面全体の環境の悪化を重く受け止め、環境再生の専門家の高田宏臣さんに相談して、27年度までに総延長500メートルほどの斜面を改善することにしました。


人工物を取り除いて土中の滞水を防ぎ、健全な循環を促す土留めをして、水や空気が地中深くに届くとともに、湧き水は渓谷に流すよう、逃げ道をつくってやりました。


その記事がきっかけで、新聞を共有しているGさんが、『土中環境 忘れられた共生のまなざし』(高田宏臣著、建築資料研究所、2020年)と、『よくわかる土中環境』(高田宏臣著、PARCO出版、2022年)を貸してくれました。

高田宏臣さんには一度、筑波山麓のCご夫妻の家でお目にかかったことがありました。Cご夫妻は、斜面に立つ家の土中環境の改善を高田さんにお願いしていて、そのお話を聞く集まりがあったのです。三春の友人Wさんも、高田さんを招いて丘の斜面を地域の親子たちと再生させるワークショップを催していたし、いろいろな場所でお名前を聞きます。

というわけで、この2冊を読ませていただきました、
以下は、『よくわかる土中環境』の一節です。

 私たちは自然の一部です。空気を吸い、水を飲み、そして命を食物として摂取する。その循環の中にすべての命が営まれる事実は、どんなに時代が変わろうが、あらがえない事実であります。自然と切り離された現代の暮らしの中で、そのことを忘れ去ってしまっても、人間として、そして生き物として、命のバトンリレーの中で万年億年と刻まれてきたその細胞の記憶の奥に、調和のとれた自然、多様な命の息づくことができる環境を美しいと感じ、心地よいと感じる完成が必ず眠っているものでしょう。
 現代の発展の中で、そして自然と切り離された暮らしの中で、そういう大切な感覚を私たちは見失ってきました。その結果、社会の変化、科学技術の進歩の陰で、環境の問題をより複雑にしてしまい、そしてそれを大きく積み上げてしまったように思えます。
今私たち一人一人が、そんな心の奥にある自然との絆に気づき、それを再び取り戻すこと、そこに豊かで美しく、温かく懐かしい、そんな素晴らしい未来への扉を開く鍵があることでしょう。

 日本には自然の循環を壊さず暮らしてきた長い歴史があります。それを壊してきたのはわずか数十年です。それは、土中を含めた自然の仕組みを知らないからであり、山とか、里、海をつながりから見ていないからです。まずは、そこを知ることから始めてほしいと思います。土の中が見えてくれば、先人の営みが見えてきます。


久しぶりに、畠山重篤さんの『森は海の恋人』(北斗出版、1994年)も手に取ってみました。山が健康でないと海は健康でない。海の健康を取り戻すために山の再生を身をもって実践された畠山さんは昨年逝ってしまわれました。



 

2026年7月30日木曜日

おもちゃ談義、直し談義

昨日は、昔の仲間のMSさんとHTさんが遊びにきました。
MSさんは東京郊外の日野に育った家があります。ご両親を見送って一人暮らしとなってから、NPO法人「コレクティブハウジング社」と協力して、母屋をシェアハウス+「まちのコモン」 として建て替え、コモンスペースはイベントなどにも使います。
MSさん自身が住む家は敷地内にあり、隣に建つ、かつてご両親が暮らした母屋は小さな共同住宅となり、ふらっと立ち寄れるみんなのコモンとして庭と居間を開放したのです。完成間近で、4室ある部屋は3室埋まりましたが、もう1室残っているそうです。
HTさんはニューヨーク州立大学で美術を学んだ後、デザインの仕事などしていましたが、インドシナ難民キャンプの保育所で「平和は子どもから始まる」という言葉に出逢い、国際モンテッソーリ教師の資格を得て、以後子どもの教育に携わってきました。
モンテッソーリは、「大人は場を与えるだけ、学ぶのは子どもたち自身」(違うかな?)という考え方から、学び舎を大切にしています。というわけで、HTさんはこの度『モンテッソーリの建築 子どもの学び舎のためのデザイン』という本を翻訳され8月7日に発売されます。
共通の友人のM+MのMちゃんは、残念ながら東京で仕事でしたが、Mくんとも一緒にご飯を食べて、楽しいひと時を過ごしました。

さて、HTさんは子どもの教育に携わるくらいだから昔から子どもの遊び(おもちゃも)が大好き、2階の展示室で動くおもちゃを色々動かしながらおもちゃ談義が弾みました。


ヘビのおもちゃでこんなに喜んでくれる客は、滅多にいません。
竹のヘビだけでなく、紙でできた走るヘビも見せようと手に取ったら、壊れていました。ゴムを車に巻いて、それが元に戻る力で動くのですが、輪ゴムはすぐ劣化してしまいます。


その夜、彼女たちが帰ってから、紙のヘビたちを修理しました。
切れてしまったゴムを取り除き、新しい輪ゴムを切って、紙粘土でできた車の2つの穴に通して結び、ヘビ本体の金属でできた引っ掛ける場所に引っ掛けたら修理完了です。


ヘビたちは元通り走るようになりました。


フィリピンのヘビは色が綺麗に残っていますが、タイの路上で出逢ったヘビはすっかり色褪せてしまいました。

修理といえば、修理してある民具の話でも盛り上がりました。
HTさんのお連れ合いは、ユネスコで世界遺産の選定などに携わっていた方ですが、現在は東京の国分寺でカフェ「スロー」をやっています。有機栽培された野菜を使った美味しい食事やコーヒーを出す、80席もある大きなカフェで、映画上映会など様々な集いも企画しています。
その中に「直して使う」という企画があって、地域の人たちが集まって、割れた器を金継ぎしたり、自転車の修理をしたりしているとのことでした。


というわけで、修理してあるものたちに目をとめていただいて、話が弾んだことでした。
いいよね、直してあるひょうたんや木の器たち。







2026年7月28日火曜日

アヒル(?)の行進


紐の先に錘がついている薄いプラスティックのおもちゃは、横からちょっと押してやると、とことこと歩いて進みます。
ところが数年前、地震で台の上から転げ落ち、後ろのアヒルの右足先が前後に真っ二つに割れ、立たなくなっていました。


何度か瞬間接着剤を使ってくっつけようとしたのですが、プラスティックが薄すぎてダメ。それでも捨てられずに、破片とともに転がしていました。
先日夫がこれに目を止めて、
「おれがなおしてやるよ」
と言ったので、
「難しいよ」
と答えたのですが今日、
「赤いのがなおったよ」
と言います。



見ると、1ミリ厚のゴム板を貼りつけています。
「へぇぇ、この方法は考えなかったなぁ」
「まぁ、スムーズには進まないけどね」


それでも立たせることができて、横からちょっとつついてやると、3、4歩進みます。
「厚みが違うのにちゃんと歩くね!」
「ちょっとだけどね」
「上等、上等」
立たせることもできなかったのだから、大成功です。







2026年7月27日月曜日

アケビの背負子


先週、朝見ると家の壁に掛けていた背負子が落ちていました。
これで落ちたのは二度目、吊るしていたタコ糸が切れていたので結び直しておいたのですが、全体的に劣化していたようで、また落ちたので新しいタコ糸に交換しました。


それにしても、元の自然素材の強さに感心です。タコ糸は傷んでも籠自体はびくともしていません。
篠竹(鈴竹?、根曲竹?)の骨組みにアケビを巻きつけた籠、我が家に来る前に長く使われて、我が家に来てからも、何年も戸外に置かれています。


室内に置くことができればいいのですが、大きすぎて、外で甘んじてもらっています。


しかし、この籠はどこでつくられたものでしょう?
底が尖っているので、急峻な山に農地があった地方で使われたものだと思われますが、長野県あたりか、それとも青森、秋田、宮城県あたりで使われたものか、知りたいものです。






 

2026年7月26日日曜日

四葉のクローバー

「安住紳一郎の日曜天国」で数週間前に、四葉のクローバーが話題になっていました。
リスナーから、「私は足を止めないで歩きながら四葉のクローバーを見つけるのが得意」という投書があり、それに応えて、今年になってすでに1000本以上(だったかな?)見つけた人、たくさんのものの中の異物を見つけ出すのを職業としているので四葉のクローバーを見つけるのが得意だという人など、たくさんの「私得意です」というメールがある中、熱心に探してもこれまで一度も探し当てたことのない人(安住さんもそのひとり)もいて、2週にわたってその話で盛り上がっていました。
私もかつて、四葉のクローバーを見つけるのが得意でした。行く先々で、意図しないでも見つけたし、何人かで探してもすぐ見つけるのは私でした。ところがラジオを聴いていて、最近はとんと見つけてないなと思い、庭に出た時には下を見て歩いてみました。我が家の庭には、最近はクローバーが増え、刈っても刈っても勢力範囲を広げているのです。
ところが1本も見つかりません。ではと立ち止まって、しかししゃがむと立ち上がるのが大変な年になっているので立ったままでクローバーの群生を見つめても、四葉のクローバーはまったく目に入りません。
これは、このところ生えすぎるクローバーを暇さえあれば抜いている私へのクローバーの報復に違いないと、四葉のクローバーを見つけるのはあっさりと諦めました。

ところが一昨日のことです。
夫の机の上でスマホが鳴りました。例によって夫はスマホを携帯せずに庭に出ていました。そこでスマホを届けて、ふと足元を見ると四葉のクローバーが目に入りました。


わおぅ! 久しぶりです。


見つかると、やっぱり嬉しいものでした。







2026年7月25日土曜日

浜松張子の鯛車(2)


浜松張子は明治元年ごろ、明治維新により禄を離れた旧幕臣三輪永保(ひさやす)が
反古紙を使って江戸風の張子玩具をつくったのがはじまりです。
永保は息子の永智(ながと、ー1955年)にも張子の技術を習得させて、父子二代で、武家好みの気品のある張子を制作しました。

昭和20年6月18日の浜松大空襲で工房は焼け落ち、張子の木型、資材などはすべて灰燼に帰しました。永智の妹の三代目二橋志乃さん(1880−1973年)は、戦後すぐに精力的に古型の復元に取りかかり、昭和32年(1957年)には、古型をほぼ復元して、浜松張子の継承に貢献されました。
写真は、志乃さんのご子息の妻、四代目の二橋加代さん(ー2017年)作の鯛車です。


左は加代さんの娘の五代目の鈴木伸江さんのつくった鯛車、祖母の志乃さんが復元された型を使っています。


右の、加代さんの鯛車には銘はありませんが、「浜松鯛車 56/1/11 例会」と書いたシールが貼ってあるので、「日本郷土玩具の会」か何かの昭和56年(1981年)の正月例会で、領分されたもののようです。


母と娘の鯛車を比べてみると、右の加代さんの鯛は、伸江さんの鯛よりも胸びれが横に開いていて、お腹が白いという違いが目につきます。


浜松張子には「ころがし」と呼ばれる車のついたものや、「首振り」、「起き上がり」、吊るして手足が動くものなど、動かして遊ぶ玩具も多く、どれをとってもかわいらしいのですが、ころんとした鯛車の可愛さは格別です。



 


 

2026年7月23日木曜日

お久しぶり!


来週、MSさんとFTさんが遊びに来るので、だいぶ伸びて通りにくくなっていたM+M家への道の草を刈りました。
MくんとMちゃんだけでなく、MSさんとFTさんとも1980年にタイのバンコクの日本人会の建物で出会った仲です。
当時、カンボジアでは、ヴェトナムを後ろ盾にしたヘンサムリン・フンセン軍がポルポトの圧政わ終わらせようと攻め入って、各地で戦闘が繰り広げられたのち、カンボジア西部にまで追い詰められたポルポト派は、西部で連日、激しい抵抗を続けていました。タイ東部には命からがら国境を超えたカンボジア人が連日押し寄せ、アランやプラテートに国連が難民キャンプを開設、各国のNGOが救援活動をしていました。
日本は「金は出しても人は出さない」と国際社会から白い目で見られていたのですが、実際には、若い人を中心にたくさんの日本人が休暇をとり、学校を休み、仕事を辞めてバンコクの日本人会の建物に集まっていました。
しかし、国連にNGOとして登録しなければ、難民キャンプに入ることさえできません。バンコクの日本大使館にもなんとかしたいと考える人もいて、いろいろな人たちが力を合わせて、日本人会の1室を借りて事務所として、日本で最初の国際協力NGOが誕生しました。
Mくん、Mちゃん、FTさん、MSさんはそんな、日本から駆けつけた中の一人で、以後も活動にかかわった人たちでした。そして私たち家族は、1979年暮れにバンコクに来ていたのですが、誘われて活動に参加するようになり、そこで、Mちゃんたちと出会ったというわけでした。

FTさんには1981年に、ビルマに連れて行ってもらったことがありました。
私は長期ビザを持っており、短期で取り直す必要はありませんでしたが、難民キャンプで働く人たちは3ヶ月のビザしかなく、3ヶ月ごとにマレーシアのペナンまで行って、タイに再入国するということをしていました。すでにペナンに何度も行ってビザを延長していたFTさんはそのときビルマに行くことにして、同じくビザが切れるTちゃんとYちゃんを誘っていました。それを聞いた私は、俄然ビルマに行ってみたくなり、一緒に連れて行ってもらうことにしました。
ビルマは、外貨獲得のために1週間に限って観光客を受け入れていたのですが、外国人の行ける場所は数ヶ所に限られていました。そのため観光客(ほとんどは一人旅のヨーロッパ人)の目的地はほぼ一緒なので、列車の切符も国内線の飛行機の切符も宿泊所の予約も早い者勝ち、取り合いでした。誰もが、目的地に着くや否や、文字通り走って地域の旅行局に駆け込み、次の目的地までの乗り物の予約をし、宿を予約しました。
首都ラングーンからマンダレーまで飛行機が取れなくて列車旅をした私たちは、それはそれで楽しかったのですが、時間が限られている中、以後はうかうかしてはいられません。行く先々で二手に分かれてそれぞれの窓口に走り、予約が取れてよかったと胸を撫で下ろす場面が多々ありました。
例えばマンダレーからパガンへは、飛行機で行けば1時間ほどですが、席が取れなければイラワジ川を船で行くしか交通手段がありません。船旅は風情がありそうなものの、24時間以上かかってしまうのです。
ビルマで感心したことは、列車でも飛行機でも、観光客が座れる席は限られていて、地元の人の移動を制限しないように考えられていたことでした。

1990年前後にカンボジアに駐在していたMSさんには、タケオやプレイヴェンに連れて行ってもらいました。タイ・ラオス・カンボジア3国の農民を集めて、それぞれが行なっている持続可能な農業を共有し合う会議をタイで開く準備のために、私は初めてカンボジアを訪問したのです。パリで和平協定が結ばれる前の年のことで、まだプノンペンは人影もまばらでした。


さて、草を刈ったら現れたお茶の実。


赤い色が目に入ったので、人工物かと刈り進めたら、木陰で大きく育ったマムシグサでした。


小径の半ばでM+M家の方を見たところ。


そして反対側、ひろいちさんの畑の向こうに我が家が見えています。

MSさんとFTさんが遊びに来る日、3週間泊まりがけの仕事が入ったMちゃんは、東京に行っていて留守、ちょっと残念でした。





 

2026年7月22日水曜日

初めてのジグソーパズル

出かけていたたけちゃん父娘が、ジグソーパズルを買ってきて遊びはじめました。
「何ピース?」
「300」
「えぇぇ、大変じゃん!」


お父さんはつきっきり、たけちゃんもお父さんもよくやるなぁと見ていました。
袋から出したピースを表返しながら、1辺が直線のピースと、2辺が直線の角のピースを選り分けて、そのほかのピースは、色で分けて、それから直線がある端のピースをまずはめました。
夕食後にはじめたので、1日目はここまででした。


次の日も二人はパズルに余念がありません。場所を食卓から居間のテーブルに移して、
「ここはほら、端に白い雲がちょっと入っているピースじゃないか」
とか、
「いろんな向きにしてみて」
などと、おしゃべりしながら進めています。
しばらくして、たけちゃんがやってきました。
「おばあちゃん、ちょっときて!」


「わぁ、できたんだ! すごいねぇ」
色を見て、形を見て、お父さんにヒントをもらいながらも、すべて7歳の手ではめたものでした。さぞかし大きな達成感を味わったことでしょう。

「これってもしかしてダイソーで買ったの?」
見覚えのあるダイソーのブロックを買ってきていたので、もしやと思って訊いてみました。
「そうだよ」
「すごいねぇ。110円でできてるなんて」
紙、印刷、カット、輸送費などすべて合わせて110円なんて、驚くしかありませんでした。

私が息抜きに楽しんでいた無料のオンラインジグソーパズルの「パズコレ」は、半年ほど前に、何かの理由で続けられなくなったとのことで、使えなくなっていました。他におもしろいジグソーパズルは見つからず、とても残念に思っていましたが、あれはどうなったかと、今サイトを見てみたら、なんと復活していました。プログラマー(?)の人に感謝です。
よかった。でも遊びすぎないように、要注意です。