渋沢敬三が主宰した「アチックミューゼアム(屋根裏部屋の博物館)」は私の憧れですが、国立民族学博物館の会員になって、月報や季刊誌を手にしていたのはもうずいぶん昔のこと、アンテナを張っていない私は、2013年にアチックミューゼアムの収蔵品を引き継いだ大阪の国立民族学博物館で、「屋根裏部屋の博物館特別展」が開かれたことを知りませんでした。
写真は、その特別展のときにつくられたカタログです。
私のもの集めは、ご縁があったときにご縁があったものに限られており、アチックミューゼアムの、お金も時間も掛けて研究の対象として網羅的に集めたものとは違いますが、おもちゃからはじまって民間信仰に関心を寄せ、美術品ではなく、生活の中で使われたものに関心を持つという意味では同じ思いを持っていた者と言えるかと思います。同好の士として、ここに集った方々のお話を聞いてみたかったと夢想します。
その昔、仲良くしていたするどい友人に、
「あんたの持っているものは、自分ではお宝だと思っているかもしれないけれど、はっきり言って、他人から見れば全部ガラクタだよ」
と、大笑いしながら言われたことがありました。それを最大の誉め言葉として、愛しいガラクタ集めに精を出してきた私にとって、アチックミューゼアムの収蔵品はどれも懐かしく、カタログを見ていて見飽きることがありません。
よく知っているもの、はじめてお目にかかるもの、どれもかけがえのないお宝に見えます。
茨城・北相馬郡 |
上の写真は絵馬です。本当のはさみを貼りつけています。大人がクソ真面目にこんなことをやっていたなんて、嬉しくなってしまいます。
ハサミを奉納する人としては、仕立て屋さん、植木屋さん、革職人など考えられますが、この人はどんな人だったのでしょう?
西洋ばさみは紀元前1000年ごろギリシャで羊の毛を切るためにつくられたのが起源とされています。正倉院御物の中にX形のはさみがあることから、奈良時代には日本に伝わってきていたものの、日本で使われていたのは握りばさみで、明治になって洋装のための生地と西洋ばさみが輸入されるまで、着物地は「裁ち包丁」で裁断されました。
稲さらでつくるわらじやわら草履は知っていましたが、足半草履(アシナカゾウリ)というかかとのないわら草履が、かつては広く普及していたことは全然知らず、足半草履は現代になって健康のために履く人のために考案された、くらいにしか思っていませんでした。
足半草履は、足指がスパイクの役割をして(痛そう!)、滑らない、泥跳ねをあげないで素早く歩けるので、合戦や飛脚には必須だったそうです。
便所用捨木、左から愛知、岩手・葛巻村、静岡・水窪町 |
火を熾すときの付木(つけぎ)は知っていましたが、用を足した後お尻の始末をする捨木(すてぎ)の存在は、聞いたことがあったような気もしますが、頭からは抜け落ちていました。お尻の始末をするなら、捨木より葉っぱの方が容易に想像できます。
新潟 小出村 |
稲わらの沓(くつ)は、かつて岩手県雫石の荒物屋で実用のために売っているのも見たことがありますが、手袋の存在は知りませんでした。
その荒物屋では、やはり稲わらでつくった馬の鞍なども売っていました。
鹿児島・喜界島 |
アチックミューゼアムの漁労の筌(うけ)の収集は見ごたえがあります。
滋賀・堅田町 |
筌はいろいろな形のものがありますが、世界的に形が似ているのが特徴です。
カタログの中に、今はプラスティックになってしまっている琵琶湖のエビ用筌がありました。これは、カンボジアの川海老の筌とそっくりなのも面白いところです。
さて、人々が生活で使う道具を「民具」という言葉で呼んだのは渋沢敬三さんです。それまで学会ではそのような道具は「土俗品」と呼ばれていました。
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