2013年2月7日木曜日
型ガラスのコップ
グラスは、無色か、ガラスを溶かしたときにうっすらと緑色になる自然の色が一番好きです。それと、色つきなら、濃いコバルト色が好きかな、あまり飲み物には似合いませんが。
青いコップ、緑色のコップなど、色がついたものも、これまでいろいろ使ってきましたが、飽きがきて、気がつくと無色のものに手を伸ばしています。
そんな中で、このちょっと黄色みをおびたコップは飽きないで使っています。薄い薄いアンバーガラスの一種でしょうか。アンバーガラスとは琥珀色のガラスのこと、ビール瓶がその代表です。
全体にある模様が素敵、アメリカの古いもので、手に取ると模様のでこぼこが伝わってきます。
型ガラスですが、つなぎ目のバリは適当にしか取ってありません。
もちろん、口が傷つくほどざらざらしているわけではありませんが。
この色のコップには、とくに赤ワインが似合うような気がします。
2013年2月6日水曜日
竹のじょうご
鍵もかけずに留守にして帰ってみると、玄関に大きな箱が届いていました。
「なんだろう?」
送り主を見ると、宮崎県日之影の小川鉄平さん。かれこれ六、七年前に、にお願いしていたじょうごができあがったのでした。
三年ほど前に一度連絡を取り合い、半年ほど前には、まだ気が変わっていないならつくると、ご連絡いただいていたので、一、二年のうちにはと思っていましたが、思いがけず早くできてきたものでした。
できたばかりの籠は緑色が鮮やかで、本当に美しいものです。これが、一ヶ月も経つと茶色くなり、十年も経つと、琥珀色になってきます。
細くなった部分は竹を薄くしなくてはならなかったので、弱くなっているとのこと、確かに押してみるとたわみますが、そう力がかからないところなので、注意深く使えば、問題はないと思います。
お米や大豆を缶や俵(袋)に移す時に使う、竹のじょうごは、廣島一夫さんの作品集『A Basketmaker in Rural Japan』 に載っているじょうごの形でつくっていただきました。
このじょうごも廣島一夫さんのおつくりになったもので、昨年、近江八幡で開かれた【現代の名工 廣島一夫の手仕事】に展示されたものですが、私がつくっていただいたのとは、上の口の形が違います。
あの、たくさん籠をおつくりになった廣島さんでさえ、生涯に十個もつくらなかったというじょうご。
つくっていただいた私は大変幸せでしたが、じょうごをつくるのはこれが最初で最後かもしれないという小川鉄平さんも幸せだったとうかがって、安堵の胸をなで降ろしました。
今回、小川鉄平さんが新しく試みてくださったのは、「かけ手」の竹の縄です。 「かけ手」は竹を打って柔らかくして、綯ったもので、結ばずに籠に取りつけてあり、すっきりしていてとっても素敵です。竹でこんな縄ができるのですね。
じょうごに限らず、道具は使っているより収納の時間の方が長いので、「かけ手」があると嬉しいものです。
いつも、小川鉄平さんの仕事は全体が美しいだけでなく、細部も一つ一つ美しく仕上がっています。
近江八幡での展示会にかかわったNPO法人「はれたりくもったり」が発行した冊子、『残したい技、引き継ぎたい心』(harekumo@biwako.ne.jp、0748-75-2297)を注文していたのですが、奇しくもじょうごと同じ日に届きました。そして、じょうごと一緒に小川さんが同じ冊子も入れてくださっていました。
昨年夏の展示会は、母が我が家に滞在した日々とぴったり重なっていたので、残念ながら家を開けることはできませんでした。
冊子を見ると、800人の来場者があり、とても盛況だったようです。
その冊子に載っていた、廣島一夫さんのお写真です。
お元気ですが今年で98歳になられ、昨年から引退していらっしゃいます。
日之影独特の背負子「かるい」を編む小川鉄平さんのお写真。山がちの日之影では、急斜面を上り下りする時、下の方が薄い背負子の方が使いやすく、かつては農家の方たちも自分でかるいをつくっていたようでした。
そして、ときおりこのブログに「水俣のかごやさん」として登場いただいている、井上克彦さんのお写真です。
その冊子には、廣島一夫さんのお言葉が載っていました。
おりが作る籠は見るためもののじゃねえとよ。
使うためのものじゃ。
肝に銘じて、しっかり使いたいと思います。
2013年2月5日火曜日
ビールコップ
ビールは、小さくて細いコップで飲むのが好きです。
だから、イギリスのパブで、1930年代に実際に使われていたビールコップは、そんな私の好みにぴったりです。
このコップを見るまで、ヨーロッパでは、あの長靴型のジョッキに代表されるような、大きなグラスでばかり、ビールが飲まれているものだと思っていました。
このビールコップのつつましさ。
350ミリリットル缶のビールを、三回に分けてついでも余るほどでしょうか。
どちらかといえば、この写真のようなまっすぐな形の方が好きですが、上の写真のような、曲がった形の方が多いようです。
ゆがんだり、線が入っていたり、手づくりのガラスは目で楽しめるのがよいところです。
2013年2月4日月曜日
インドの動物
インドの紙細工が大好きです。
でも、混ぜてあるふのりがおいしいのか、ネズミにかじられたり、木喰い虫のような虫が発生して、ぼろぼろになったり、 表面が縮んで剥離したり、なかなか原形をとどめてくれません。
この動物たちも紙細工だと思ったのですが、もしかしたら木彫りかもしれません。
もっとも、この動物たちがボロボロなのは虫喰いのせいではありません。安定がよくない上、乗せている棚も揺れやすく、一昨年から頻繁に起こる地震のたびに転がり落ちて傷ついています。
満身創痍とは、このような姿のことを言うのでしょう。
紙塑に比べると、ソープストーン製の動物たちは傷みません。
置いてある棚も揺れにくいので、2011年3月の地震で、一匹だけ片足が折れたぐらいで、いたって元気です。
染め物のスタンプの動物も、長いつき合いです。
厚みがあるので立てておくことができます。
象、虎、牛、馬、ラクダ、山羊、猪、そしてなんだかわからない動物たち、はるか旅をして、私のところにやって来た、小さなインドの動物たちです。
2013年2月3日日曜日
2013年2月2日土曜日
薪置き場
昨年12月に薪をいただいてきましたが、薪置き場が十分にありません。
長年、左奥に見えているブルーシートの下に薪を置いていたのですが、シートをかぶせておくと、風が通らず蒸れて、薪は虫の餌食になってしまいます。
これまで、テラスの下には、中央あたりに見えるこちら向きの薪置き場と、その左に背面が見えている薪置き場の二ヶ所がありました。
さて、どう増築しようか。
いま片側から使っているところを壊し、そことその隣の柱だけのところに、両側から使える薪置き場をつくって、一挙にテラスの下だけで五ヶ所に増やすことにしました。
古材置き場をさがすと、ちょうど手ごろなヒノキ材が残っていました。
まずは、既製品の礎石の上にぴったり置けるよう、材を加工しました。
草焼きバーナーで表面を焼いたのは、雪が降った次の日でした。
屋外用の塗料もありますが、丈夫で一番安上がりなのが焼き板をつくることです。
地表の10センチくらい下には、以前打ったコンクリート面がありますので、土を除けたら、礎石はコンクリートの上に置くだけです。
全体が動かないように、床材を数ヶ所、ボルトでコンクリートの床に固定しました。
縦横に材を組んで、床面をつくります。
ステンレスのねじ釘で止めますが、ねじ釘の長さが10センチ以上になると、体重をかけて、慎重に打たないと、途中で切れたり、入らなくなったりします。
その日も一本のねじが途中で切れてしまいました。
床ができました。
次に両脇に柱を建て、薪が固定されるよう、真ん中に壁をつくりました。
壁を張り終わったら、側壁は、コンクリートの柱にねじ棒を突き刺し、それに板を通す形でつくりました。
ポリカーボネイトで、屋根をつけて、左側だけ完成です。
右側は、これから。
薪をいただいてきてから、薪置き場ができるまで、一ヶ月以上もかかってしまいました。まだ、完成していないけれど。
2013年2月1日金曜日
母
母のお雛祭りの写真です。
ベビーブーマーたちが生まれたころ、大きな御殿飾りが流行りましたが、母が小さいころ、大正の末期にも御殿飾りがあったのですね。
母も、ときどきお雛さまのことを気にしていましたが行方知れずで、もちろん私は、このお雛さまや市松人形を見たことがありません。
当時のお雛祭りは旧暦ですから、1924年4月、母は一歳半くらいでしょうか。
一月半ばに、私からの電話を取ろうとして、足がもつれて転んで大腿骨を骨折していた母が、水曜日に手術しました。
血糖値が高くて、すぐには手術できなかったのですが、手術しなければ寝たきりになるのは間違いなく、もうすぐ90歳という高齢ながら手術できる日を待っていました。
実は、母の身内には、年老いても元気で、自分の元気を過信し過ぎたために亡くなった方が多くいます。例えば母の祖父、どこも悪くなかったのですが、床を毎日磨きすぎて、滑って転んだのがもとで亡くなりました。母の叔母は、80歳過ぎても、雨の日には高下駄をはいて走るように歩いていたのを覚えていますが、やはり転んだのがもとで亡くなりました。
足を痛めたのではありませんが、この写真に写っている母の父は、80歳近くになって、原付で急いでいて、曲がり角を曲がり切れず、信号で停止していたトラックの脇腹に激突して亡くなりました。
写真の中央に立っているのが母です。
そんなこんなを考えると、母も落ち込んでいるのではないかと心配していましたが、
「こんなに長く入院するのは初めてだわ」
と、一向にめげたふうではありませんでした。
私は、風邪を引いたりして手術前後は見舞うこともできませんでしたが、手術の翌日、どんな具合かと、つき添っていた妹の携帯に電話をしてみると、 思いがけず母が電話口に出て、手術の模様を話してくれました。
「まず、皮膚を開くのよ。お肉はそうね、トレイみたいなものにどんどん入れて、骨を裸にするの。骨には添え金を止めたりして、折れたところが動かないようにするでしょう。そうしたらお肉を戻したのよ。 どんどん戻して、穴が開いたようなところがあったら、そこにもお肉をつめて、それで皮膚をかぶせたの。皮膚って伸びるのね」
げっ、まさかお医者さまがそんなことをしたとは思えませんが、局部麻酔だったので、耳に入ったこと、少しの事実、抑えがたい好奇心、恐怖や想像などをないまぜにしたら、いつのまにかこんな情景ができあがったようでした。
たぶん、妹にも、弟にも同じことを話し、今度お見舞いに行ったら私たちにまた同じことを話し、これが事実として母の頭に定着して行くのでしょう。
人は誰でも、多かれ少なかれ、起こったことを自分の都合のいいように解釈したりするわけですから、年を取って、それがだんだん極端になっていったからといって、驚くには値しませんが、
「痛いからそっと動かしてと言ってるのに、看護婦さんにわざと乱暴にされた」
などと、病院のベッドの上で大声で不信感を口にしているのは、わが母ながら、困ってしまいます。
昔は、人の立場を考える、慎み深い人だったのですが。
写真は、ずっと前に母が身辺整理をしたときに、焼いてくれと頼まれた荷物にはいっていたのを、取っておいたものです。何冊もアルバムは焼いてしまいましたが、少しだけ、私も小さい頃親しんだ写真や、初めてみるけれど珍しい写真(ラヂオ体操の写真とか)は取っておきました。
ついでに父の写真もないかとさがしたら、出てきたのはこれだけでした。父が年頃になってからの写真はまだ母の手元にあるのでしょう。左が父で、右は戦死した父の従弟です。
さて、母の術後の回復はリハビリに左右されます。
心は直す気満々でも、文句ばかり言って身体を動かさないと、ただでさえ不自由だった足がもっとだめになります。
しっかり治してくれることを祈るばかりです。
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