2025年7月13日日曜日

中国の籠

昨日は、東京白山のギャラリーKEIANに、「みんげいおくむら」店主の奥村忍さんの「中国のかごの話を聞こう」を聞きに行ってきました。
奥村さんは広い中国を、東西南北、縦横無尽に訪れていらっしゃるので、期待通り、中国の籠事情が立体的によく伝わってきた有意義な集まりで、行った甲斐がありました。
興味深いスライドを見せていただいた中に、直径1.5メートルもある大笊や、九州の「ご飯じょけ」にそっくりな籠などいろいろあったのですが、それらは、近々その続編が出るという、『中国手仕事紀行』の第2弾に掲載されることでしょう。
昨日は写真も撮らなかったので、手元の『 中国手仕事紀行・雲南省、貴州省』(奥村忍著、青幻舎、2020年)の中から、籠にちなんだ写真を数枚紹介してみたいと思います。


これは、雲南省のタイ族の村のタイ正月の大晦日の宴の後の写真だそうです。
ルーツが同じだから当たり前とも言えますが、タイ北部やラオスのちゃぶ台とそっくりの食卓を使っています。

tsuyukusa storeからお借りしました

タイやラオスなら、足はラタンを曲げてつくりますが、雲南省のちゃぶ台の脚は自然素材ではないのかもしれません。また、バナナの下の甲板がどんな素材でできているのか、ちょっぴり気になります。
そして余談ですが、タイやラオスなら、茶碗ではなくてお皿で、お箸ではなくて匙か手で食べるところが違います。


これは蕎麦あげ籠でしょうか?


私の持っている籠とよく似ています。


そして、闘わせるこうろぎを入れるこうろぎ籠、何かの樹液を塗ったのか、色もいい感じです。


さて、「みんげいおくむら」さんから買った貴州省の籠は、かつては工具入れとして使っていたのですが今は外に放りっぱなしでした。
スライドを見せていただいているうちに、なんだか申し訳ない気持ちになり、とっても大きいものですが室内に入れることにしました。


長年軒下に置いていたので、壊れてはいないのですが、汚れたりかびたりしていたので、ブロワーでおがくずなどを吹き飛ばし、濡れ布巾で拭いてみたら、きれいになりました。


上の写真は、奥村さんが中国から運んでくださった籠たちの中から、我が家にやってきた籠たちです。
大工道具入れ蓋つきの籠こうろぎ籠茶葉入れの籠、などなどです。

 






2025年7月12日土曜日

七福神の入れ子

ひょんなことから、箱根でつくられた入れ子人形たちを手に入れました。
蒐集家の収蔵品だったようで、『木地師研究 第206号』(2016年)という日本木地師学会の機関紙もついていて、それに蒐集家であった元の持ち主の飯島進さんが書いた、入れ子人形に関する一文、「弁慶入れ子、七福神入れ子、羽子板入れ子について」が掲載されていました。
これによると、これら入れ子人形は日本国内で売られるというより、明治、大正期の交易品として使われたもので、日本国内ではほとんど見受けられなかったとのことですが、題材は弁慶、七福神など日本人になじみの深いものだったので、生み出された初期には国内向けだったことが考えられます。
しかし、電動轆轤の無かった時代に、木を薄く挽いてしかも入れ子にできる高度な技術を持った職人さんは限られていただろうし、手間賃も売値も高額であったろうから、だんだん輸出品として定着したのではないかと推測します。


と言っても、七福神や達磨の入れ子は、日本でも広く売られていました。
それを裏づける一つに、19世紀末にロシアでマトリョーシカが生まれましたが、マトリョーシカ誕生は、箱根にロシア正教の保養所があり、そこを訪れたロシア人が持ち帰った七福神の入れ子に触発されたのではないかという一説があります。
もっとも、ロシアの「玩具博物館」に収蔵されている「日本の老人(七福神?)」の底には、『マトリョーシカのルーツを探して』によると、MADE IN 〇〇〇〇〇との赤いゴム印が押されているようなので、日本ではなく海外で手に入れたものとも考えられます。
また、道上克さんの『マトリョーシカアルバム【追加分】』によると、底にゴム印が押されるようになったのは、明治32年(1899年)以降ということなので、そうすると、マトリョシカの誕生と、ロシアの「玩具博物館」に収蔵されている「日本の老人」の関係はなかったとも考えられます。

それはさておき、私は箱根ではなく筑波山(の温泉?)で土産物として売られたと思われる、「筑波山」と書かれた七福神を持っています。

『マトリョーシカアルバム』より

また、道上克さんの『マトリョーシカアルバム』に、底に書き込みがある七福神が載っていて、それには「明治32年9月中島兼房草津温泉ヨリ」と書かれています。これらのことから、箱根でつくられた七福神の入れ子は、日本の箱根だけでなく、箱根以外の観光地でも、土産物として売られていたことがわかります。もっとも、『マトリョシカアルバム【追加分】』には、各地の温泉地で販売されていたのは明治時代と書かれています。

私が七福神の入れ子の存在を知ったのは、『マトリョシカ大圖鑑』(沼田元氣著、二見書房、2010年)だったと記憶しています。
『マトリョーシカのルーツを探して』には、「箱根細工と入れ子七福神」という章もありますが、これらで語られているのは七福神の入れ子だけで、飯島さんの紹介している弁慶入れ子や羽子板入れ子には言及されていません。
ところが、道上克さんの『マトリョーシカアルバム』や、『マトリョーシカアルバム【追加分】』には、七福神でもない、達磨でもない、弁慶と羽子板を含む入れ子人形が数種類紹介されています。


さて、手に入れた3体の七福神のうち、一番大きい七福神の福禄寿は高さが13センチほどで、その中には順番に、布袋、大黒天、恵比寿天、毘沙門天、寿老人が入っていますが、最小の弁財天が失われています。


底にスタンプはありません。明治時代につくられたものと思われます。


中サイズの入れ子は、中がまったく失われていました。いつごろつくられたものか、不明です。
そして、小さいサイズの入れ子は5体組みのもののようですが、3番目と5番目の2つが失われています。


上の写真の右は、小さいサイズの入れ子と、同時期に同地域でつくられたと思われる入れ子です。
これは昭和58年ごろつくられたもの、箱根では昭和30年(1955年)から入れ子がつくれる工人がいなくなり、以後、七福神などの入れ子人形はつくられてないので、どちらも宮城県の鳴子、あるいは遠刈田でつくられたものと考えられます。

 
5体だけで完全形なので、5福神なのか、ただの老人たちなのかどちらでしょう?
サイズを小さくしたので7体つくるのが困難になった結果と思われます。


『マトリョーシカのルーツを探して』によると、箱根細工は、湯宿を経営する主人たちが自ら挽き物をつくって土産物として売る場合もあれば、東海道の方から荷を担いで売りに来た行商人が宿を回って販売することもありました。
弘化2年(1845年)刊行の滑稽本『温泉土産箱根草』は、江戸の町人3人が箱根七湯に出かけて行く道中と、湯治の様子を愉快に描いたものですが、宿に箱根細工の荷を担いできたあきんどと、くつろぐ町人3人のやり取りの中に、
「面白いものがあれば買ってやろう」
「新工夫の細工物がございます」
(中略)
「菓子盆に乗っているのは何だい」
「玉子でございます」
「茹でてあるのか」
「いえ、木でできています。割ってご覧じまし。中にまだ幾側にも玉子ができております」
というのがあることからも、箱根の入れ子細工としてはまず入玉子ができ、そののちに七福神などができたようだと、著者の熊野谷葉子さんは書かれています。

滑稽本『温泉土産箱根草』の挿絵

挿絵を見て、熊野谷さんはあきんどが担いできた箱の片隅に入玉子が見えるようだと書かれていますが、どうでしょう?






2025年7月11日金曜日

フクちゃんの石けり

子どものころ、母の実家に遊びに行ったとき、母の弟たちの部屋で横山隆一の漫画『フクちゃん』を見つけて、もらって帰ったことがありました。
一緒に暮らしていた父方の祖母は雑誌や読み物などは不要なくだらないものと決めていて、絶対に買ってくれなかったので「読むもの」に渇望していた私は、もらってきた古い『フクちゃん』を繰り返し読み返して、今でもその四コマ漫画の絵のいくつかがすらすらと目に浮かぶほどです。
これまで、『フクちゃん』がどんな経緯で誕生したかなどまったく知りませんでしたが、ウィキペディアを見ると、最初は健ちゃんのわき役として登場したことや、フクちゃんのおじいさんがもとは大富豪だったこと、フクちゃんは貰われっ子だったことなどを知りました。
とにかく登場するのはフクちゃん、おじいさん、書生のアラクマさん、ケンちゃんとその弟のキヨちゃんという男性ばかり、女性はキヨちゃんの母さんが出てきたくらいだったでしょうか(うろ覚えですが)。

さて、昨年夫の弟のHちゃんと姪のRちゃんと横浜を歩いたとき、「太田なわのれん」というお店で、牛鍋をごちそうしてもらいました。


明治元年に創業したという太田なわのれんでは、戦後すぐに横山隆一さんに描いてもらったというフクちゃんをシンボルマークにしていました。


何も知らないで行ったのですが、コースターにフクちゃんの絵がついていたので、濡れたりしないようにさっとしまって、夫の分と2枚いただいてきていました。箸袋もいただいてきたのですが、さすがに邪魔になって処分したようでコースターだけ残っていました。


そんなフクちゃんの石けりです。
以前「あんてぃかーゆ」のブログに出品されていたのを見たときは、すでに売れていてがっかりしましたが、また出品されたので手に入れたものです。


フクちゃんの石けりしかないのでしょうか?
できればおじいさん、アラクマさん、キヨちゃんなどの石けりにもお目にかかりたいものです。


フクちゃんグッズを集める気など毛頭ないのですが、石けりが手元にあって、ニンマリしている私です。






 

2025年7月10日木曜日

益子散策

M+M家の一人娘のSちゃんは、舞台俳優さん。ロンドンに住んでいますが、今年はアジア公演があり、中国各地やマカオを回り、あとは台湾公演を残すのみというところで2週間の休暇があって、日本に里帰りしています。
Sちゃんから、公演のスタッフなどへのお土産を買いたいのだけれど、この辺りではどこで買ったらいいだろうと訊かれて、
「益子かなぁ」
と答えました。益子には焼きものだけでなく、工芸品の充実したお店もいろいろあります。Sちゃんは、木の匙や劇にちなんだ虎に関するものが買いたいとのことでした。

最近、M+M家の老犬トビーの具合がよくなくて、Mちゃんはトビーを病院へ連れて行ったり看病したりと忙しいので、私が案内役を引き受けて、SちゃんとMくんと一緒に益子をまわりました。
まずはおしゃれな小物の店G+OOへ、Sちゃんは虎のぬいぐるみや猫(虎の代理?)の眼鏡ケースなどいろいろ買い、次は陶庫に行きました。


陶庫に、三輪織物の柳格子の小風呂敷がありました。
三和織物は福島県伊達市にある、機械織りで刺し子したような布をつくる工房です。


この柳格子の「柳」は、三輪織物四代目が、民藝運動の創始者の柳宗悦の甥である柳悦考さんに師事して刺し子織りの開発に取り組んだ経緯があるので、柳さんから名前をもらった「柳格子」だと思われます。
柳格子を手に取って見ていると、Mくんが来ました。
「やっぱり、布が気になるんだ」
「うん。これねぇ、普通機械では織れないような経緯模様(たてよこもよう)を織った布なの。ネットショップで見てもどこも売り切れで、ここで売っているとは思わなかった!」
「じゃぁ、買うしかないじゃん。いくらなの?」
「大風呂敷が7,700円、小風呂敷が2,750円」
「小さいのは、そんなに悩まなくても買えるでしょう?」
というわけで、このサイズの小風呂敷はたくさん持っているのに買ってしまいました。
次は内町工場です。


アルマイトの弁当箱やおかず入れ、ステンレスのおかず入れなどが並んでいましたが、一番古そうで一番安い(これは300円、ステンレスのおかず入れは500円)おかず入れを買ってきました。


ほかのおかず入れは、押さえ金が金属ですが、これは木でできています。


蓋に貼ってあるパッキングは劣化していて、おかず入れとしてはもはや使えませんが、ボタンを入れようと思っています。

最後に、人里離れたもえぎ本店にも行って、いざ帰ろうとしたらSちゃんが、
「今見つけたんだけど、近くに家庭料理屋さんがあるみたいなのでお昼を食べませんか?」
と言います。見るだけ見てもいいかと言ってみました。


こんなところにお客さんが来るのかしらと思われる山奥にあったお店ですが、結構混んでいました。


待つことしばし、家庭料理と名乗っているのに家庭では決してつくらないような手の込んだ料理の数々、おいしくいただきました。


庭には何故か等身大のラクダがいます。遠目には焼きものにしか見えず、どうやってあんなに大きなものが焼ける? といぶかしく思っていたのですが。これは焼きものではなくプラスティック製だとのことでした。


アブダビでMちゃんと一緒に本物のラクダに乗ったことのあるSちゃんが、ラクダに乗ってみました。


益子散策の小さな旅でした。





 

2025年7月9日水曜日

木彫りの器


携帯用のマッコリ(韓国の濁り酒)を飲むための、木の器です。
韓国では、結婚するとき新郎が手彫りの家鴨を新婦に贈るほど木彫りが盛んで、も今では金属の器が普通ですが、それ以前は陶磁器の器、そしてその前は木彫りの器を使っていました。
さすが日本に鉄を伝えた国、よい刃物もあったのでしょう。


軽いこの盃を懐に入れて出かければ、どこでもマッコリを飲むことができました。


外側には、鳥のつがいが仲良く枝にとまっている姿が浮き彫りされています。浮き彫りをしながら、盃全体の形をいびつにならず丸く削るには、よほどの腕を要します。
もっとも、繊細な木工の家具や道具をつくり出した韓国の人たち、こんな彫りものは遊び心で彫れるもの、朝飯前だったのかもしれません。


紋のようなマークも掘ってあります。


絹の紐がついていますが、もしかしてこの細い組み紐も、糸から手で組んだのでしょうか?
韓国では今でも結び紐細工が盛んなので、組み紐は昔から、専門の人たちが組んだものを簡単に手に入れることができたのかもしれません。


韓国(朝鮮)の木工をもっと知りたいときに、『韓国の木工藝』(李宋碩著、熊野清貴監訳、八宝堂、2004年)という本があります。
図書館で借りたいと探してみましたが、なかなか見つかりません。さりとて、古本で手に入れることには、決心がつきません。

螺鈿の盤。『朝鮮民芸論集』(浅川巧著、高崎宗司編、岩波文庫、2003年)より

というのは、もしかしたらこの本には私が見たいと思うような素朴なものはほとんど載ってなくて、芸術品のようなものばかり掲載されているのではないかと危惧するからです。
私は、柳宗悦などの民藝運動で取り上げられている工芸品の中にも好きなものはありますが、両班(ヤンバン、高麗時代から
李氏朝鮮時代にかけての朝鮮における支配階級。文官と武官を指す)しか使わなかったような、上の写真のような繊細な螺鈿や彫を施した盤や箪笥などには、まったく関心がないのです

俵を編むときの錘

私の好きなのは、こんな、身体を動かして生きてきた人たちに使われたものです。

『韓国の木工藝』と名打っていれば、やはり国宝級の木工は外せないはず、私の好奇心を満たしてくれる、「韓国の素朴な木工」や「韓国の竹細工」を取り上げた本が発行されないか、もっと知りたいなぁと、望むばかりです。








 

2025年7月8日火曜日

スイカのペンギン

先日、新宿の画廊に「川崎毅遺作展」を観に行った帰り、夫が、
「お茶飲んでいこうか」
と言います。暑い中遠くまで歩くのは面倒です。
「このあたりだと高野くらいしかないんじゃない」
「高野ってなんだ、フルーツパーラーか? ばかいえ、あんな気取ったところには行かないよ。確かこのあたりに風月堂があったよなぁ」

 
新宿風月堂は本当によい喫茶店でした。
天井が高くゆったりしていて、40円でおいしい紅茶が飲めて、すてきな音楽が聴けて、高校生でも気軽く入れて、おしゃれで、どんなに長くいても嫌な顔一つされませんでした。
「風月堂だって! 70年代に閉店したわよ」
最後の方は、やたら西欧からのヒッピーたちで混み合うようになっていましたが、1973年に、区画整理か町の再開発かで、惜しまれながら閉店しました。

ちょっと歩きはじめたら、スターバックスがありました。好きじゃないけれど、
「スターバックスで我慢する?」
「仕方ないか」
ところがドアを開けてみたら人がいっぱい、
「だめだ、新宿はやめて上野まで行こう」
というわけで、上野まで行き、駅構内にあるスイカのペンギンのカフェに入りました。


そこで食べたホットサンドについていたペンギンのピック、なかなかかわいいのです。


というわけで、いただいてきました。


我が家にいる缶マトリョーシカとの記念撮影。
そういえば、カフェの片隅には、スイカのペンギングッズもいろいろ並んでいたようですが、列車の時間が迫っていたので見ないで帰ってきてしまいました。







2025年7月7日月曜日

「さとのわ」夏の集い


日曜日に、だんだん広場で「さとのわ」の夏の集いがあり、老若男女60人ほどが集まりました。
「さとのわ」は地域通貨の「さと」を使ってつながる仲間たちのことで、成長して着られなくなった子ども服や学校の制服を着まわしたり、季節に多く採れ過ぎた野菜や探しものをネットの掲示板で、欲しい人や譲ってもいい人を探して都合し合ったりするグループです。


「だんだん広場」とは、「さとのわ」のメンバーのTさんの庭先のこと、T夫妻は竹林だったところを何年もかけて開拓し、広大な広場を生み出しました。


メインはバーベキューで、みんなで持ち寄った具材を焼いたり、焼きそばをつくったり、おいしくいただきました。
氷のブロックを昔ながらのかき氷機で削ったものに、みんながつくってきた餡、抹茶の蜜、あんずのジャムなどを自分で勝手に選んで掛けるかき氷は、とくに子どもたちに大好評で、なかには7杯もお替りしているつわものもいて、
「何杯も食べた子どもはちょっと待って」
と言われたりしていました。
かくゆう私たちも、お替りしてしまいましたが。


この日も、「さとのわ」の本来の活動も行われていて、野菜苗、庭先で採れたヤマモモの実、古着、野菜、手づくりコーラなどが、売られたり、「0さと」で出品されたりしていました。