2014年5月24日土曜日

母の版画


夫の両親が週末に暮らした家の壁に、一枚の絵が残っていました。
母が額装したのか、絵とはサイズがあっていない出来合いの額に色のついた厚紙を敷き、その上に絵を乗せていたので、版木の切れているところも、梳いた紙の端も見えていました。
  
十年ほど前、その家を処分し、あったものを一切合財軽トラックで何度かに分けて運んだ時、ガラスが割れてしまいましたが、割れても惜しいような額縁でもありませんでした。

ただ、絵を飾ったりしない母が飾っていた絵ですから、版画だけは大切に取っておきました。
どうして飾ってあったのか、今となってはわかりませんが、文様の研究をライフワークにしていた母が、浮世絵展に足を運んだ時に気に入って買ったものか、あるいは父からのプレゼントだったかもしれません。
というのも、この女性、所作と言うかなんというか、なんとなく母に似ているのです。


裏から見ると、版木を押した凹凸がはっきり見えます。
浮世絵には疎いので、江戸時代に刷ったものなのか、版木が残っていて明治以降に刷ったものか、そのあたりはわかりません。

長い間そのままにして置きましたが、そうもいかないと、額縁をつくってもらうことにしました。 
日本でも手軽に気に入った額縁がつくれるようになったと、なんとなく思っていましたが、勘違いでした。気に入った額縁を見つけてマット紙を選んで額装してもらうだけなら簡単ですが、紙の形からそうはできないとき、縁を選んで組み立てるところから注文すると、ホームセンターで頼んでも、けっこうな値段と制作日数がかかります。
というわけで、本当はガラスにしたかったのですが、アクリルはガラスの三分の一の値段なので、あっさりアクリルで手を打ちました。


一月近くかかって、やっと、何の変哲もない額縁ができあがりました。
しかも、タイの額のように裏をテープで貼っていないので、細い額縁は持つとたわみ、けっこう不安定です。これでアクリルではなくガラスを入れていたら、もっと重くて、細い縁は難しかったかもしれません。
やれやれ。


それにしても、江戸時代の版画ってすごい、細い線が生き生きしています。


墨の濃淡も美しい。


「お母さん、こんな場所、気に入らないよね」
空いてる壁がなかなかないので、しばらくはここで我慢してもらうことにしました。





2014年5月23日金曜日

美しい農業


ウズラマメをつくっているネットを、四年ぶりくらいに新しいものと取り換えるために外しました。
毎年、ナタマメ、シカクマメ、フウセンカズラ、オキナワスズメウリなどなど、いろいろなものとウズラマメを混植していましたが、今年はウズラマメだけを植えるつもりです。
理由は、何と言っても、ウズラマメがおいしいからです。

先日、こいけさんに会ったら、
「いただいた、ウズラマメは、芽が出てきました」
「あれっ、七月の第一週に植えるって言いませんでしたっけ?」
「えっ、そうでしたっけ」
「まあ、大丈夫でしょう。私も昨年、一部だけ早く植えてみたけど、収穫できたから」
ウズラマメの種を、Kさんからいただいたとき、
「くれぐれも、七月第一週に植えるのを忘れないように」
と言われたのですが、何故七月一週に植えるのか、いまだに謎なのです。

カンボジアにいたころ、何でもきれいにつくるお百姓さんと、そうでないお百姓さんがいました。
まん丸い、垂直で美しい井戸をいくつも掘っていた人、ため池の四角い池の線がまっすぐだった人、竹の根をどこまでも行かせないために、竹の周りに四方に堀のようなものを真四角に掘ったお百姓さんなどなど、惚れ惚れするような美しさでした。そんな人は何でもうまくいきます。
反対に、何をやらしても曲がったり崩れたりして、美しくない人もいます。 農業そのものも、うまくいかなかったりします。
「やることが美しい人は、農業がよくできる」
そう実感しましたが、
「あれっ?」
いざ自分でやってみると、何でも曲がってしまい、美しくできません。まあ、農業もその程度と言うことです。


まっすぐ立てたはずのフレームも、でこぼこ曲がっています。
美しく農業をするのは至難の業です。


それでも今回、ネットは、自分としてはまあまあきれいに張れました。
実は、これまで張ってあったのはもっとひどかったのです。あまりにも汚らしかったので、余所のキュウリ・フレームを盗み見て、ハウス紐を要所要所に張っておくことを学んで、真似してみたのです。
それで、今回はなんとかたるまず、つれず、張れました。

脇に植えてあるニンニクは、イノシシがミミズを捕るために掘り返していますが、今まで、このキュウリネットの中には、イノシシが入ったことがありません。




2014年5月22日木曜日

パカマー

カンボジアの浴用布クロマーに触れたなら、タイの浴用布パカマーにも触れる必要があります。私にとっては、クロマーよりパカマーとのつき合いの方が圧倒的に長くて深いのですから。

長い間、パカマーのことを書くのを先延ばしにしていました。
というのは、友人であり、お百姓さんであるプラスートさんのお母さんが織ってくれた、大好きな藍染めのパカマーが雲隠れしてどうしても見つからないからです。それが見つかってからと、思っていたのですが、残念ながら、今も見つかっていません。


そのパカマーの写真が残っています。
本藍染めのパカマーは見かけないものですが、元同僚のコメンさんが、おばあさんが織ってくれたという藍のパカマーを使っていて、常々うらやましく思っていました。
だから、プラスートさんにいただいた時は、小躍りして喜びました。もちろん、「欲しいなぁ」と言ったり、催促したりしたわけではありません。プラスートさんがシンポジウム参加のため日本に来たとき、お土産にいただいたのです。
以来、藍染めのパカマーは色も手触りも一番のお気に入りとなり、いつもいつも使っていました。なくした記憶はないので、今でも我が家のどこかにあるはずです。そして、いつか見つかることを願っています。

一緒に写っているウィチットのお母さんがゆらしているのは、市販のパカマーの両端を縛って柱に結びつけた赤ちゃんの揺りかごです。タイ人は、こんなに揺らしていいの?と心配するほど、揺りかごを激しく揺らします。

パカマーはたいてい経緯(たてよこ)縞の格子模様ですが、地域によって格子の太さ、色の組み合わせなどが違います。
北部のナーン県の村では、誰もが大きな赤と白、黒と白、青と白などの、きっぱりとした格子のパカマーを使っていました。この揺りかごのパカマーの格子の倍(ということは面積で四倍)以上の大きさの格子です。
私も、その赤と白の大きな格子のパカマーを持っていました。ナーン県のナーファン村に滞在していたとき、村でただ一人機(はた)を織っていた、リヤップさんに織っていただいたものです。
残念ながら、そのパカマーはどこかの村に置き忘れてきてしまいました。干したままにして旅だってしまうことがあり、ときおりなくすのです。


この薄桃色と青の細かい格子のパカマーも、そうやって失われたものです。
ただ、泊った家の誰かが使ってくれるだろうと思えば、失った寂しさも少しは軽減されますが、忘れないに越したことはありません。
ちなみに、タイ人も、
「わっ、パカマーを忘れちゃったよ」
と、言っていることがありました。


茶色っぽいパカマーは、どれもタイ東北部の農村でつくられたものです。
NGOなどが後押しして、村おこしのため、綿の栽培から糸紡ぎ、草木染めから手織りまで村でやっている、といったものです。


この二つは絹のパカマーです。
赤いのは、東北部ブリラム県のお百姓さんパンさんのお連れ合いがつくったもの、染料は化学染料を使っていますが、自分で蚕を育て、糸を繰って染め、手織りしたものです。
もう一枚の地味なのは、草木染めです。


お店で売られている機械織りのパカマー、こちらの方が一般的に使われているものです。
市販品には、糸が細くて柔らかいもの、糸が太めでしっかりしたもの、化学繊維が混じったものなど、いろいろあります。たしかに化学繊維がちょっと混じると色がいつまでも鮮やかなのですが、吸水力は落ちるので、私は木綿のものしか使ったことはありません。
パカマーはカンボジアのクロマーより一回り大きく、幅は60-80センチ、丈も150-180センチくらいあります。

元同僚のカモンさんはパカマーが好きで、一緒に旅すると、ときおり行った先でパカマーを買っていました。値段は張らないし、同じものをさがすのが難しいくらいバラエティーがあるので、手軽に収集するにはもってこいの布です。
「いったい、何枚くらい持っているの?」
「うぅん、数えたことないけど、100枚くらいかなぁ」

確かに、パカマーは何枚あっても邪魔にはなりません。惜しげもなく切って、シャツに仕立てたりすることもできます。


下に敷いてあったのは、珍しく紋織りの入ったパカマーです。
草木染めっぽい、淡い色合いもいいけれど、私はどちらかと言えばパキッとした色のものの方が好きです。それなのに、あまり使わなかったからか、淡い色合いのものばかりが手元に残ってしまいました。

タイ農村では、生まれた赤ん坊をパカマーでくるむことからはじまって、パカマーの揺りかごで育て、長じては毎日毎日身の回りから離さず、死ぬ時も使います。実際に、北部の山岳少数民族の村で、森の中で荼毘にふすお棺の上にパカマーを掛けてあったのを見たことがあります。
文字通り、「揺りかごから墓場まで」パカマーを使うのです。



2014年5月21日水曜日

クロマー

カンボジアには、クロマーと呼ばれる浴用布があります。幅は、50-60センチ、長さは150センチくらい、平織りの、手ぬぐいを大きくしたようなものです。


ポル・ポトがいつも肩に掛けていたのを、覚えていらっしゃる方も多いかと思います。


クロマーはたくさん持っていたはずなのに、戸棚の中をざっと見渡したところ、絹のクロマーしか見つかりませんでした。
黒と赤のは餞別にいただいたもの、桃色と緑のは骨董市場で買った古いものです。古いものは手紡ぎの糸を使っているので柔らかく、現代のものは中国から輸入した機械紡ぎの糸を使っているので、固く撚りがかかっていて、いつまでも張りがあります。
絹のクロマーはおしゃれ用、木綿でできているものが日常使いのものです。

木綿のクロマーはたぶん、どんな田舎の市場に行っても、売っていないところはないのではないかと思います。
クロマーは手ぬぐいと同じ機能だけではありません。両端を縛ると、赤ちゃんのハンモックになり、肩から掛ければおんぶ紐になり、お昼寝の肌掛けにもなります。
男性が池や井戸端など、戸外で水浴びする時は、腰に巻いてそのまま水を掛け、身体を洗うことができます。また家で、腰にはクロマーを巻いただけの姿、上半身裸でくつろいだりします。
先日、我が家に泊っていたタイのサナンさんも、お風呂にはタオルではなく浴用布を持って行っていました。
もっとも、タイ語ではクロマーではなく、パカマーと言います。
 

この写真の、クロマーで顔をぐるぐる巻きにして、顔が見えていないのが私です。

雨季と乾季ではメコン川やサップ川の水位は8メートルも違います。冠水面積は何倍になるんだったかしら、忘れましたがそこいらじゅう水浸しになり、川沿いの村への交通は船しかなくなります。

屋根もついていない船に八時間も乗っているには、クロマーなしではとうていやっていられるものではありません。
じっとしているので腰も脚もがくがくですが、クロマーで暑さがしのげます。


増水を見越して建てた家の人たちの、移動手段は船しかありません。
クロマーの、この巻き方をしているのは女性、遠くからでもわかります。
 

小魚が移動してくる季節、漁業権を持たない人でも、漁場の近くに住んでいない人でも、誰でも魚を捕ることができます。
一年に一度だけの、自家用のプラホック(魚醤)をつくる時期です。人々は一家総出で、泊りがけで、水辺に集まります。
子どもも一人前の労働力、クロマーを小粋にかぶっています。


男も女も、誰もが頭にクロマーを巻いています。帽子をかぶっても巻いています。
この二枚、プラホックづくりの写真は、元同僚のSさんが写したものです。


ラタンを揃えている、ラタン屋さんで働く娘さん。


村のご夫婦は、おそろいのクロマーを身につけています。


牛の世話をしている、プノンペン近郊の村の女性。

カンボジアで、クロマーなしの農村生活は考えられないものです。



2014年5月20日火曜日

だるま抱き童子


だるま抱き童子の張り子です。
しばらく前から、我が家にいます。明治時代につくられたもののようです。


童子の、抱くというよりしがみつく一生懸命さ。


だるまの、抱かれてちょっと当惑しているような顔。
味があります。


年月を経た味が出ているけれど、最初から素敵だったに違いありません。

お正月の縁起もののだるまのような大量生産品ではないので、ちょっと虫に喰われてはいますが、べこべことつぶれたりしません。しっかりしています。
産地は不明です。





2014年5月19日月曜日

サナンさん



三日ほど、タイのサナンさんが泊っていました。
「八郷の椅子展」で、小石を入れた椅子に座るサナンさんです。


ちょっとだけ、型枠づくりを手伝っても貰いました。スリンの家の増築計画があるようですが、参考になったでしょうか?
サナンさんは生まれて初めて丸鋸を持ち、スライド丸鋸やインパクトドライバも使ったというのに、どれも一度で覚えて、なかなかの感のよさでした。


一夜、「暮しのじっけん室」を訪ね、彼らの活動の聞き書きをしました。
対応してくれたIさんもFさんも英語が堪能ですが、肝心のサナンさんができればタイ語で話したいと言います。
そこで、もう20年近くタイ語から離れ、完全に頭の中が錆びつき、サナンさんとも込み入った話はしていなかった私が急きょ通訳と言うことになりました。
まあ、できなくても、みんな英語ができるので、何とかなります。

人口、税、消費者などなど、サナンさんの言葉の中から、「おお、そうだった」とタイ語を思い出し、戸棚の奥深くから、引っ張り出します。
日本語をタイ語にする方は、「つくったもの(日本語も結構あいまい)」は、「できた野菜や米」なんてごまかしながら話してていたら、途中からタイ語の「生産物=ポン・パリット」を突然思い出したりします。わからない言葉はサナンさんに、
「ソシオリズムってどう言うんだっけ?」
「んっ、サンコム・ニヨムのこと?」
「そうそう、それそれ!」
と頼ったりしながら、なんとか無事終わりました。
これでまた、タイ語は棚の奥深くにしまわれてしまいました。

サナンさんはスリン県に住み、自分も田んぼや畑をつくるかたわら、有機農家の朝市などを手掛けていますが、ちょっと名の知れたコラムニストでもあり、小説家でもあります。
 

お別れの日、横須賀で居酒屋「百年の杜」をもう六年半やっているMくんが、三崎港に上がった魚を持ってサナンさんを迎えに来ました。
休日は料理なんかしたくもないと言っていたのに、包丁も持って来て、家でさばいてくれました。
さすが本職、お刺身をつくった後のあら煮も、美しく盛りつけていて、美味でした。

Mくんは左利き、持参した左利き用の柳刃は、学生時代にお寿司屋さんでアルバイトしていたときに買ったものです。出刃ともう一本、包丁は三本持ってきていました。

「春さんが居酒屋やったら、包丁に凝って、絶対すっごくいいのを何本もそろえるだろうな」
と、私の性格を、すっかりお見通しでした。


楽しい週末でした。





2014年5月18日日曜日

セミョーノフの異端児(?)たち


ソ連時代を経済的に支えてきたセミョーノフのマトリョーシカには、定番の娘たちだけのものに加えて、いろいろなバリエーションがあったようです。


「マトリョーシカは娘に限る」
と思っている私ですが、これは例外的にわりと好き。お父さんとお母さん、そして息子と娘。マトリョーシカというよりは、木彫りの家族人形を見ているような感じです。

『マトリョーシカ・ノート3』によると、この形は1950年代からつくられはじめ、今でもつくり続けられている、人気(?)のシリーズのようです。
木の色からして、そう古いものではなさそうですが、『マトリョーシカ・ノート3』を参考にすると、1980年代になると、感じがガラッと変わるので、1970年代のものでしょうか。

それにしても、暖かそうなコートのお父さん、見慣れたいつもの恰好のお母さん、何故かおしゃれで花まで持っている息子と、お父さんのコートを真似したような服を着ている娘の、バランスが取れているような、全然取れていないような、不思議な組み合わせです。


これも、セミョーノフのマトリョーシカの一つの形です。
可愛いというより薄気味悪く、どうしてこんなものをつくったのか、理解に苦しみつつ、反面それを面白がってもいる私です。

「マトリョーシカ・ノート3」を見ると、だいたいこの形のマトリョーシカにはまつ毛があるようです。
二番目の娘の黒い唇なんて変。どうして赤い絵の具がないわけではないのに、使わなかったのでしょう?


子だくさん祈願としてつくったなら、どんな人が買ったんでしょう?また、外貨を稼ぐための輸出品としてつくったなら、いったいどこの国の人が、この形を好んだのでしょう?
見れば見るほど、?????が増えてしまうマトリョーシカです。


けっこう、こんなマトリョーシカをつくった職人さんほど明るくて、楽しい人たちだったような気もします。