新型コロナウイルスの収束が見えない中、家に足止めされている子どもたちや大人たちのことを思ってか、ラジオで簡単料理がよく紹介されています。
お母さんの助かる料理、お父さんと子どもでつくれる料理、子どもだけでもできる料理など、いろいろです。
それはいいことと思いながらも、気になるのは、火を使わないでできる料理、つまり電子レンジでつくる料理が多すぎることです。
ウイルス騒ぎでなかったときも、「簡単料理」が紹介されるときは、ほぼ電子レンジが使われています。電子レンジだけでつくれるレシピ本も次々と発売されているようです。そんなレシピ本が人気があるということは、電子レンジを日常的に使っている人が、料理家と称される人たちも含めて数多くいるということでしょう。
我が家にも電子レンジはありますが、ほとんど使いません。自然界に存在しないマイクロ波を使う電子レンジを、信用していないのです。
野菜を蒸したり茹でたりする代わりに、電子レンジでチンしてというのを目や耳にするたびに、果たして野菜の野菜たるビタミンなどが茹でたりする以上に破壊されてはいないか、さらに何か別なものに変化していないかと、疑ってしまいます。
電子レンジを通した野菜は、姿は野菜でも、ただの死骸ではないかなどなど、ついつい思ってしまうのです。
また、子どもに「火を使わせない」という思想がまかり通っているのも気になります。
ガスよりIH、IHよりボタン一つで用が足りる電子レンジというわけです。
火を使ってこそヒトと思う私は、こんな時だからこそ、親子で火の使い方を学ぶ絶好の機会ではないかと思ってしまうのです。
昔の子どもたちは、小学校低学年のころから薪でお風呂を焚いていました。やればできるのです。
人類学者の原ひろ子さんに『子どもの文化人類学』というご著書があります。
最低温度がマイナス50度という、凍死や飢えと背中合わせの生活をする北アメリカ先住民であるヘアーインディアンの子育て、そして子どもたちが生きる力を習得する姿を書いている本ですが、その中に、子どもは、まだはいはいしているころからナイフを持つという一節があります。いずれはナイフを持たないと食料を獲ることができない環境にある子どもたちは、小さいときは少々けがをすることもありますが、自分のナイフを自由自在に危なげなく使いこなせるようになる年齢は、総じて4歳ころです。
それに比べて日本の、小学生には包丁などの刃物は持たせない、火を扱わせないという発想は、子どもの能力を摘むと同時に、刃物や火の怖さも魅力も実感できない人間を育てているのだと、残念に思います。
できるだけ危険なものに近づかずに暮らすという発想は、できるだけ無菌で暮らすという発想に通じるものがあります。
ウイルス対策として、手洗いや消毒も必要だと思いますが、行き過ぎはよい結果を呼ばないでしょう。現に手が荒れて困っている人もいるようです。
このような、マスクも含めての目先の対策だけでなく、これを機会に防腐剤や保存料の入ったインスタント食品をできるだけ避け、身体の中から化学物質を追い払い、人間力を高めたいものです。
材料や課程が見えない外食や、添加物にまみれたインスタント食品と電子レンジでつくった料理より、野菜を茹でただけで食べる料理の方を、身体はずっと喜ぶものです。
私の独断ではないかとネットで調べてみたら、そうでもないようです。
あるお医者さんは、電子レンジは食品の栄養を壊すだけではなく、食べた人の血中活性酸素を過剰に増やすというデータがあると警告しています。また、食品をまったく別ものに変えてしまうという説もあるそうです。
電子レンジを離乳食つくりに使うのなど、もってのほかというわけです。
2020年3月23日月曜日
2020年3月22日日曜日
棟が上がっている!
強風が吹いた金曜日、益子に行く用事があり、藍染め屋さんの茅葺き屋根はどうなっているのか、寄ってみました。
一週間前には乗っていなかった棟瓦が乗っています。
路上でも強風、屋根の上ではかなりの風を感じていると思われます。
一人だけヘルメット姿の人は、茅葺き職人さんではなくて、瓦職人さんなのかもしれません。
職人さんがマスクをしているのは、新型コロナウイルス対策ではありません。
植木ばさみではなく、生け垣のトリマーのような機械を使って茅を刈りこんでいるのですが、その茅クズがおりからの強風で舞い散っているのです。
鬼瓦を見ると、とても優しい意匠の古いもの、鬼瓦以外は新しい瓦を使っているようです。
浜田庄司の家だった益子参考館の近くを通ったので、遠目ですが見ると、茅葺き屋根二つにシートが掛かっていました。
あちらも、もう葺き替え時期を過ぎているに違いありません。
路上でも強風、屋根の上ではかなりの風を感じていると思われます。
一人だけヘルメット姿の人は、茅葺き職人さんではなくて、瓦職人さんなのかもしれません。
職人さんがマスクをしているのは、新型コロナウイルス対策ではありません。
植木ばさみではなく、生け垣のトリマーのような機械を使って茅を刈りこんでいるのですが、その茅クズがおりからの強風で舞い散っているのです。
鬼瓦を見ると、とても優しい意匠の古いもの、鬼瓦以外は新しい瓦を使っているようです。
浜田庄司の家だった益子参考館の近くを通ったので、遠目ですが見ると、茅葺き屋根二つにシートが掛かっていました。
あちらも、もう葺き替え時期を過ぎているに違いありません。
2020年3月21日土曜日
ビンでダバダバ♪
栃木県に住むmaicaさんから、小包が届きました。
開けてみたら、なんと包みが4個もありました。
「うわぁぁ、すごっ!」
左から、かも川染、ゆたか染2本、そして箱入りはキンペー染です。
すごい!、すごい!
染料ビン祭りです。
左のゆたか染は、緑色のビンに入った、国防色の直接染料で、木綿、麻、人絹、スフなど用です。
説明書つきですが、開いてみようにも、固くてビンを上にすっぽり抜くことができません。
底を開いて、下から押せば抜けるかと、底だけ開いてみましたが、ビクとも動きません。
包装紙の中に説明書があるのは明白です。
包装紙をすっかり外さなくては、ビンを見ることができませんが、決心がつきません。
開く気になればいつでも開けるので、結局開くのはやめてしまいました。
キンペー染のキンペーとは、何を表しているのでしょう?
日本語なら、キンペイになるはずです。
蓋はベークライトです。ちなみに、ベークライトとはフェノール・ホルムアルデヒド樹脂のことで、フェノールとホルムアルデヒドを合成して1907年につくられたもの、植物原料以外からつくられた世界初の合成樹脂(プラスティック)のことです。
熱に強いので、お鍋の持ち手などによく使われました。
こちらは、説明書が読めます。
染料の容器として、石油の空き缶を推奨していることに、時代が偲ばれます。
戦後すぐのころでしょうか。
キンペー染は大阪で製造しているにもかかわらず、何故かビンにまで「大阪 東京」とエンボスを入れています。最大手の染料である東京日本橋のみやこ染を意識していたのかもしれません。
というわけで、一気に染料ビンが増えました。
maicaさん、ありがとうございました。
2020年3月20日金曜日
2000円札
はなちゃんのエプロンを縫うための糸をさがして、いつもは開けない裁縫箱を開いてみると、2000円札の入った封筒が出てきました。
我ながらバカバカしい限り、いつだったか2000円札探したときには、どう探しても見つからなかったもので、まさかの裁縫箱に入れていたのです。
2000円札は、2000年、ミレニアムの年に発行されたもの、私は日本にいなかったので、記念コインなどを買うのが好きだった父が取っておいてくれました。
守礼門が描かれているのは、その年に、沖縄サミットがあったからです。
発案者は、当時の首相の小渕恵三さんです。小渕首相は権威を笠に着ない、慣習にもとらわれない気さくでマメな方で、誰にでも自分で電話をかけてしまう「ぶっちフォン」が有名でした。
私が働いていたNGOでも、かかってきた電話を取った人が、緊張した声を出しているので不審に思っていると、
「Sさん、首相の小渕さんからです」
と言ったので、事務所内にどよめきが走ったことがありました。
そのときは、カンボジアの地雷の状況を訊かれたのです。
私の働いていたNGOは、長くカンボジアで活動していました。最初はタイ国境でカンボジア難民にかかわっていたのですが、カンボジア国内の安定がなければ難民問題は解決しないと、1980年代初頭からカンボジア国内に目と足を向けていました。
当時のカンボジアは内戦も続いていて、国際社会からも無視されていて何もかも不足、大地を耕そうにも、あちこちに地雷が撒かれて危険な状態で、人々は困窮にあえいでいました。
そんなカンボジアのプノンペンに、日本のNGOとしては最初で唯一の駐在事務所を置くことができたのは1987年、カンボジアと日本との国交はまだない時代でした。当時、日本は欧米に倣って、ヘン・サムリン政権をヴェトナムの傀儡であるとして国として認めず、西部に陣地でしかなかったポル・ポトなど三派連合を、正式なカンプチア国として認めていました。
アメリカがヴェトナム戦争に破れてから16年、ポル・ポトの圧政が崩壊してから11年経った1991年に、やっとパリで「カンボジア和平協定」が結ばれ、日本とカンボジアの国交も再開されました。その直後に日本は大使を送り、ホテル内に代表部を開設、すぐに小渕恵三議員を団長とする、最初の衆議院議員団をカンボジアに送っています。
そんなことがあり、小渕首相は首相になる前から地雷除去に熱心だったのです。
私がカンボジアに赴任した直後の2000年1月には、小渕首相は日本の総理大臣としては43年ぶりにカンボジアを再訪されました。
そのとき、カンボジアで活動しているおもな日本のNGOが、首相主催の小さな集まりに招かれました。出席した同僚のUさんから、首相のお土産の水沢うどんのおすそ分けを貰い、海外に行ったら日本食のことは忘れてしまう私も、美味しくいただきました。
あれ以来、水沢うどんは食べていないし、小渕さんもUさんも、亡くなられてしまいました。
2000円札を見ながら、そんなことを思い出しました。
我ながらバカバカしい限り、いつだったか2000円札探したときには、どう探しても見つからなかったもので、まさかの裁縫箱に入れていたのです。
2000円札は、2000年、ミレニアムの年に発行されたもの、私は日本にいなかったので、記念コインなどを買うのが好きだった父が取っておいてくれました。
守礼門が描かれているのは、その年に、沖縄サミットがあったからです。
発案者は、当時の首相の小渕恵三さんです。小渕首相は権威を笠に着ない、慣習にもとらわれない気さくでマメな方で、誰にでも自分で電話をかけてしまう「ぶっちフォン」が有名でした。
私が働いていたNGOでも、かかってきた電話を取った人が、緊張した声を出しているので不審に思っていると、
「Sさん、首相の小渕さんからです」
と言ったので、事務所内にどよめきが走ったことがありました。
そのときは、カンボジアの地雷の状況を訊かれたのです。
私の働いていたNGOは、長くカンボジアで活動していました。最初はタイ国境でカンボジア難民にかかわっていたのですが、カンボジア国内の安定がなければ難民問題は解決しないと、1980年代初頭からカンボジア国内に目と足を向けていました。
当時のカンボジアは内戦も続いていて、国際社会からも無視されていて何もかも不足、大地を耕そうにも、あちこちに地雷が撒かれて危険な状態で、人々は困窮にあえいでいました。
そんなカンボジアのプノンペンに、日本のNGOとしては最初で唯一の駐在事務所を置くことができたのは1987年、カンボジアと日本との国交はまだない時代でした。当時、日本は欧米に倣って、ヘン・サムリン政権をヴェトナムの傀儡であるとして国として認めず、西部に陣地でしかなかったポル・ポトなど三派連合を、正式なカンプチア国として認めていました。
アメリカがヴェトナム戦争に破れてから16年、ポル・ポトの圧政が崩壊してから11年経った1991年に、やっとパリで「カンボジア和平協定」が結ばれ、日本とカンボジアの国交も再開されました。その直後に日本は大使を送り、ホテル内に代表部を開設、すぐに小渕恵三議員を団長とする、最初の衆議院議員団をカンボジアに送っています。
そんなことがあり、小渕首相は首相になる前から地雷除去に熱心だったのです。
私がカンボジアに赴任した直後の2000年1月には、小渕首相は日本の総理大臣としては43年ぶりにカンボジアを再訪されました。
そのとき、カンボジアで活動しているおもな日本のNGOが、首相主催の小さな集まりに招かれました。出席した同僚のUさんから、首相のお土産の水沢うどんのおすそ分けを貰い、海外に行ったら日本食のことは忘れてしまう私も、美味しくいただきました。
あれ以来、水沢うどんは食べていないし、小渕さんもUさんも、亡くなられてしまいました。
2000円札を見ながら、そんなことを思い出しました。
2020年3月19日木曜日
エプロン
昨年暮れの孫のはなちゃんのお誕生日に、ワンピースをプレゼントすることにしていました。
ところが、思うような既製品が見つからず、自分でつくることにして、本なども買ってみましたが、どうやってもうまく型紙を取る自信がなくて、今年にずれ込んでいました。
料理好きのはなちゃんが、
「エプロンでいいよ」
というので、エプロンをつくることにしましたが、それもなかなかつくれずにいました。
青い色のエプロンがいいとのこと、最初は上海布にしようかと思いましたが、上海布は厚みはありますがしんなりしています。エプロンはあまり服にまとわりつくような素材では着にくいと思い、もっとさらりとした布でつくることにしました。
何かいい布はないかと考えていたら、その昔、水海道の藍染め屋さんで買った、力織機織りの反物があったのを思い出しました。
力織機で織った、藍染めの布は当時何反か買って、切り刻んでいろいろなものをつくりましたが、ひとつだけ、糸が細くて、とても詰んだ織り方をしている、縞の布だけは反物のまま残っています。
ところがあるはずの引き出しを見ても、見つかりません。
もしかして、布入れの戸棚の奥にあるかしら?以前はそこに入れていたのです。
何度も片づけているので、ここにはないだろうと思いながらも、入れている布を引っ張り出して、その奥に手を突っ込んでみます。
「あった!」
丸めた反物が手に触れたので、取り出して見ました。
違いました。
これは、その昔、夫が友人の母上が家を建てるとき、間取りなどを考えてあげたお礼にと、いただいた反物です。そのとき、どこの織りものか聞いたのですがすっかり忘れています。
薄い記憶をたどると、九州の織りものだったような、もしかして久留米絣だったのでしょうか。いずれにしても手の込んだ、自分では絶対買えない、手染め、手織りの反物なので、いくら何でも着物以外にはできない、鋏は入れられない代物です。
残念ながら縞の生地は見つからなかったので、探していたとき目についた藍印花布の残り布を使うことにしました。
張りがあるのにゴワゴワしすぎない、エプロンにはよさそうです。
アイロンを当てると、まだ残っている糊のいい香りがします。
エプロンの紐は、藍印花布では固すぎるので、水海道の藍の反物の残りを使いました。こちらはアイロンを当てると、藍の香りがします。
アクセントに、ミスマッチかもしれないと思いながらチロリアンテープを縫いつけます。
完成しました。
頭に結ぶスカーフ(三角巾)とペアでということでしたが、スカーフにはしなやかな布が望ましい。
そちらはもう少し、布選びに時間をかけます。
これを書くため、古いブログの写真を見て気づきましたが、探していた反物は丸めてなかった、平らに巻いてありました。元々は丸めてあったのですが、しまいにくいので、私があるとき巻きなおしたのを、すっかり忘れていたのです。
最初から、平らだと思って探したら見つかったかもしれなかった、後の祭りでした。
ところが、思うような既製品が見つからず、自分でつくることにして、本なども買ってみましたが、どうやってもうまく型紙を取る自信がなくて、今年にずれ込んでいました。
料理好きのはなちゃんが、
「エプロンでいいよ」
というので、エプロンをつくることにしましたが、それもなかなかつくれずにいました。
青い色のエプロンがいいとのこと、最初は上海布にしようかと思いましたが、上海布は厚みはありますがしんなりしています。エプロンはあまり服にまとわりつくような素材では着にくいと思い、もっとさらりとした布でつくることにしました。
何かいい布はないかと考えていたら、その昔、水海道の藍染め屋さんで買った、力織機織りの反物があったのを思い出しました。
力織機で織った、藍染めの布は当時何反か買って、切り刻んでいろいろなものをつくりましたが、ひとつだけ、糸が細くて、とても詰んだ織り方をしている、縞の布だけは反物のまま残っています。
ところがあるはずの引き出しを見ても、見つかりません。
もしかして、布入れの戸棚の奥にあるかしら?以前はそこに入れていたのです。
何度も片づけているので、ここにはないだろうと思いながらも、入れている布を引っ張り出して、その奥に手を突っ込んでみます。
「あった!」
丸めた反物が手に触れたので、取り出して見ました。
違いました。
これは、その昔、夫が友人の母上が家を建てるとき、間取りなどを考えてあげたお礼にと、いただいた反物です。そのとき、どこの織りものか聞いたのですがすっかり忘れています。
薄い記憶をたどると、九州の織りものだったような、もしかして久留米絣だったのでしょうか。いずれにしても手の込んだ、自分では絶対買えない、手染め、手織りの反物なので、いくら何でも着物以外にはできない、鋏は入れられない代物です。
残念ながら縞の生地は見つからなかったので、探していたとき目についた藍印花布の残り布を使うことにしました。
張りがあるのにゴワゴワしすぎない、エプロンにはよさそうです。
アイロンを当てると、まだ残っている糊のいい香りがします。
エプロンの紐は、藍印花布では固すぎるので、水海道の藍の反物の残りを使いました。こちらはアイロンを当てると、藍の香りがします。
アクセントに、ミスマッチかもしれないと思いながらチロリアンテープを縫いつけます。
完成しました。
そちらはもう少し、布選びに時間をかけます。
これを書くため、古いブログの写真を見て気づきましたが、探していた反物は丸めてなかった、平らに巻いてありました。元々は丸めてあったのですが、しまいにくいので、私があるとき巻きなおしたのを、すっかり忘れていたのです。
最初から、平らだと思って探したら見つかったかもしれなかった、後の祭りでした。
2020年3月18日水曜日
歌うカナリア
「ブリキのカナリア、いいっしょう?」
とおもちゃ骨董のさわださん。
デッドストックのカナリアは、小さな箱に、ゴムでできた尻尾を、頭の方に向けて折り曲げたままで長年しまわれていました。
折り曲げた尻尾がゼンマイを巻く鍵の差込口をふさいでいたので、尻尾を伸ばそうとしたら、ゴムが硬化していてぽきっと折れてしまったのだそうです。
尻尾が折り曲がったままのもカナリアも2羽いたのですが、どうせ伸ばそうとしたら折れてしまうだろうからと、壊れたのをいただいてきました。
日本がアメリカに占領されていた1945年から1952年の間に、アメリカ輸出用につくられたおもちゃです。
すぐに捨てられてしまっただろう粗末な箱に描かれたカナリアは、とても楽しそうに歌っています。
さて、折れてしまったゴムの尻尾は、熱湯に浸けてみました。
ぷーんとゴムの匂いがして、熱湯の中では柔らかくなり、多少成形することもできましたが、温度が下がると元のようにカチカチになりました。ハサミで形を整えようとすると、切れずに刃があたったところが、ボロボロ粉になってしまいました。
尻尾の根元をちょっと細くして、収まるべき隙間をねじ回しで少しこじ開け、尻尾を挟んでみました。
本当は切ったところ(ぼろぼろ崩れたところ)をやすりで磨いてなめらかにしてやればいいのですが、ぎざぎざのままです。
尻尾が折れるので、二度と箱にしまうことはできなくなりましたが、尻尾をつけてもらって、カナリアは喜んでいるようです。
油を差せばゼンマイも動くようになるかもしれませんが、ちょっと怖い。
ゼンマイの鍵を差し込む突起を前後に動かすだけで、カナリアはチイチイ鳴くので、それで楽しむだけで十分です。
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