2023年7月13日木曜日

『美しい顔』

しばらく前に、昔の仲間と一堂に集まる機会があり、つくばに住んでいる内山田康さんに、久しぶりに会いました。
「最近は遊びに来ないね」
「ポリネシアにばかり行っていて、暇がなかった」
内山田さんは、文化人類学の教師をしていたのですが、退職後、ポリネシアを頻繁に訪れているとかで、その思いの一端を熱く語ってくれました。

その内山田さんから最近、本を書き終えたというメールとともに原稿が送られてきました。
内山田さんは、もとから難解な人でした。発言しても突拍子がなくて、何を言っているのか想像がつかないときがあり、彼が発言するとその場の空気が固まることもよくありました。だから、本を書いたとて、誰も読めないほど難しいものではないかと思い、原稿を送られても、ちょっと困ったなと思ったほどでした。
放っておくわけにはいかないので読み始めると、あれっ、どんどん引き込まれていきました。いつもは夜しか本を読まないというのに、草刈りも家事も中断して、昼間から夢中になって読んでしまいました。


南太平洋の島々で何度も核実験が繰り返されたことは、もちろん知っていました。ビキニ、きのこ雲などという言葉は頭の片隅に残っていました。
しかし、知識として知っているだけで、いわば他人事、核実験が行われた場所の近くにはたくさんの島があり、たくさんの人たちが被爆して苦しんでいることを、初めて肌身に感じたのは、10年ほど前に、ポリネシアで被爆した人たちの支援活動をしている日本人男性が我が家に訪れて、その実態を話してくれてからでした。
彼は誰の友人だったのか、誰と一緒に来たのか、残念ながらまったく覚えていません。というのも我が家には、知っている人の友だちやらまったくの初対面の人たちの集団などが、頻繫に訪れるのでとても覚えきれないのです。
その人は確か、世界旅行の途中、ふらっとタヒチなど南太平洋の島々を訪れたと言っていました。あまりにも核実験の爪痕があちこちに残っていることに驚き、そこを離れられなくなって、とうとう定住したとか、その時から、私にとっても南太平洋の人々の困窮は他人事ではなくなった気がします。


さて、内山田さんは、南太平洋がどう世界の流れに巻き込まれ、それまでの生活をなくしていったか、様々な文献をつなぎ合わせて語ります。
それはキャプテンクックやマゼランなどに率いられた西洋の船が島々に立ち寄りはじめたころからはじまり、西欧の植民地にされ、第一次大戦時には日本の植民地にされ、太平洋戦争があり、南太平洋の島を飛び立った飛行機からの広島長崎への原爆投下があり、そのあと島々で行われた核実験へと続きます。
アルジェリアの砂漠で核実験をしていたフランスはアルジェリアの独立後、場所を南太平洋に移し、1966年から193回もの実験を行いました。核実験当時はその影響がひた隠しにされていましたが、ブリュノ・バリヨなどによって少しずつ真相が明らかになり、2009年から核実験について話すことがタブーでなくなりました。

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島には二つシェルターがあった。タクのフランス軍人用はコンクリート製で、壁は 90センチの厚さがあり、外側を放射能を遮蔽する金属板で覆われていた。サン・ミシェル聖堂から 1 キロ北の、今ではスポーツ施設と発電施設と砕石場と古い波止場のある、海辺のそれ(現地人用シェルター)は、簡素で異様に⻑い納屋だった。
バリヨの死亡記事によると、彼はコンクリートとトタン屋根の違いに驚き、「核実験は環境を汚染しない」というフランス政府の説明の嘘に気づき、公開されていた公文書を調べ、国防省に対してこの矛盾を説明するよう要求した(Le Monde 2017.4.13)。その時の衝撃を彼はこう証言している。「何という差別!この〈ショック〉が私を駆り立て、それを超えて率直な証言の数々を集めさせ、そしてその先を続けさせたのだと思う」(Barrillot et al. 2013: 60)。
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フランスが核実験をすると決めてから、島の人たちは否応なく巻き込まれて行きます。そして、シェルターの違いに見られるように、島の人たちは人間扱いされていないのです。

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1964年から島の男たちは波止場や基地などの工事現場で仕事がある時だけ労働者として雇われた。そしてほとんど手にすることがなかった現金を手に入れた。異なる季節に異なる場所を移動しながら行っていたコーヒーの栽培、コプラの生産、暖かい季節に決められた海域を順番に移動して潜水する黑蝶貝の採取はやらなくなった。皆で魚を分け合って食べる慣行もなくなった。(中略)パンノキの実とマニオクとタロはもう食べない。酒の醸造は禁じられ、ビールを買うようになった。変化は急激だったが、多幸は短かった。
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村の生活は壊され、島の人は安くて使い捨ての労働力として使われます。
そして、何も知らされずに核実験が行われます。

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昔のことをよく知っている人たちだと教えられた80代から60代の人々、それに1966年に2歳だったマリアから聞いた話によると、最初の核実験の後、ラグーンでは死んだ魚がどこまでも浮かんでいた。シャコ貝もクモ貝も子安貝も死に、海鳥が死に、鶏や豚や犬が死んだ。子供たちの皮膚はただれ、髪の毛が抜け、下痢をした。妊娠した女たちの流産が増え、奇形児が生まれた。核爆弾は怖かった。CEA や CEP に雇われた男たちは秘密を話して軍事裁判にかけられることを恐れた。フランス軍はマンガレヴァの野菜を買うのを止め、タクの部隊は1967年にトテジェジに移動し、そこに軍医のいる診療所ができた。
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信じられない量の文献を読み解いてつなげ、地元からたくさんの証言を集めたこの『美しい顔』(フランスの隠喩)は、大儀(この場合はフランスの栄誉か)のため人が人の尊厳を奪い、人として扱いもせず非日常を日常にしていく物語で、出版されたら世界中のできるだけ多くの人に読んでもらいたい本だと思います。
内山田さんはすでに、『原子力の人類学ーフクシマ、ラ・アーグ、セラフィールド』(青土社、2019年)、『放射能の人類学ームナナのウラン鉱山を歩く』(青土社、2021年)の2冊を上梓しています。『美しい顔』はその続きで、三部作では終わらず、次には『美しい顔』のエピローグで語られている「罠」へと続いて行くようです。
エピローグの最後の文を引用します。

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私は2023年 6 月 29日から 7 月 2 日まで、⻑崎県の対馬を訪れた。対馬では商工会が核のごみの最終処分場の文献調査を誘致する請願書を対馬市に提出した直後だった。文献調査に応募すると 2 年間で20億円の交付金が貰える。だから文献調査だけやって食い逃げしようと考える人たちがいる。餌に食らいついた魚たちが、次々と罠(この罠は、1匹が食いつくと次々と作動していく罠です)を作動させるだろう。この装置が動き始めたら、非常事態が常態になる。自分たちの世界で自由に泳いでいた魚は、思いがけないご馳走にありつき、気がつくと、別の世界で木からぶら下がる果実になっている。果実を魚に戻す魔法はない。
私は今どんな仕掛けを動かそうとしているのか? 自由ならば、その前に問うのだ。耳を澄ませて聞くのだ。よく見るのだ。抑圧された者たちの伝承を思い出すのだ。別の道がいくつもあるはずだ。
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2 件のコメント:

YU さんのコメント...

出版がまだ決まっていない頃に書評をしてくれて、ほんどうにありがとうございます。あれから1ヶ月くらいかけて、全体を見直しながら加筆して、初校で1ヶ月かけて加筆、再校でも1ヶ月かけて加筆、編集者のみの三校でも加筆をして、この作品はひとつの姿を現しました。こんな風にして加筆をつづけたために320ページになり、値段も少し高くなってしまいました。2024年2月20日ころに春秋社から出版されます。問題は、進歩の両義性というか、パラドクスです。完成するのに3年かかりました。今は次の作品に向けて小さなフィールドワークをすることもありますが、普段はとりつかれたように乱読をしています。ゲーテとジョイスと大江健三郎とボリビアの民族誌などを中心に、疲れて読めなくなるまで読み、考え、イメージを追いかけています。 内山田康

さんのコメント...

内山田康さん
校正と加筆の厳しい日々を過ごされ、出版までこぎつけたこと、お疲れさまでした。
そして次の作品の構想もすでにあるということ、疲れを知りませんね! ゲーテ、ジョイス、大江健三郎、そしていボリビアの民族誌がどうつながるのか、さっぱり想像もつきませんが、またまた力作になることでしょう。

進歩の両義性は、頭を離れることのない命題です。今日は旧知のS夫妻と、地域エネルギーのことで意見交換をしたのですが、S氏は、「電気が足りなかったら使わなければいいじゃないか」と言います。実際、彼らは水道は引かず沢の水で生活し、トイレも水は使わず糠で処理していて、お風呂も薪で沸かしています。軟弱な私たちでさえ、3.11後の何日もの停電と断水の中でも、滝の水を汲んできて何不自由なく暮らせたのですが、それは自然に助けられたからのことでした。誰もがそんな生活をしたらいいと思いますが、なかなかその方向にはいきません。

発売日を楽しみにしています。ご自愛ください。