2023年7月15日土曜日

石川文洋さん

北海道ののらさんは、自分の読んだ本や図書館の廃棄本などをリストにして、その中に欲しい本を見つけた人に送ってくれます。
そのリストの中に石川文洋さんの『てくてくカメラ紀行』(枻文庫、2004年)があったので申し込みました。


戦場のカメラマンであった文洋さんが最近(と言っても20年も前ですが)何をされているかは全く知らなかったのですが、 北海道から沖縄まで歩いてみたいと思っていて、65歳になったときに実行されたのだそうです。
2003年7月4日に宗谷岬を出発、12月10日に那覇に到着されています。全長3300キロ、149日のうち126日歩いたそうです。


ルートは日本海側、できるだけ海岸沿いを歩いたとか、海辺で働く人たちの写真がたくさん載っています。

その昔、学生だったはせがわくんが、私も働いていたNGOの資金集めのために佐多岬から宗谷岬まで歩いてくれたことがありました。1キロ歩くと5円などと、あらかじめ友だちなどと約束をしておいて、歩いた距離ぶんだけお金をいただく仕組みです。もちろん私たちもはせがわくんに寄付を約束しました。
それまで、資金集めのために、歩いた距離に合わせた寄付を約束してもらって、みんなで山手線に沿って一周歩くとか多摩上水を歩くなど「グリーンウオーク」は1年に1度くらいやっていたのですが、一人で日本縦断ははせがわくんだけでした。最短距離をとったので、2800キロほどでした。
当時、コンビニはありましたが、携帯電話はありませんでした。はせがわくんは、写真を撮ることもせず、ただ黙々と歩き続け、快挙を成し遂げて100万円ほど集めて、全額寄付してくれました。


さて、文洋さんの旅は楽しく続きます。
文洋さんはいろいろな人と出会い、美しい朝焼けや夕焼を眺め、歩いて行きます。


旅の途中の出会った人たちは、みんな笑顔でカメラに収まっています。


これは熊本の宇土で見かけたイ草の田植え風景だとか、文洋さんもイ草を手植えするのは知らなかったようですが、私も知りませんでした。今でも手植えしかできないのでしょうか?

イ草栽培は熊本県でしか行われていませんが、かつては岡山県や広島県でも行われていました。
イ草農家では、あらかじめ先を切り落として保存しておいたイ草の株を、冬の間中冷たい土間に座って細かく割って苗にします、昼間は別の作業をして、夜の冷える株割りの仕事はとてもきつかったと思います。
これを春に植え、夏の刈る時期になったら四国の香川県から農家1軒につき1人から2人の「ひようとり」(日雇い)さんが来て、村は一気に賑やかになり、イ草を刈り取ります。そして、田んぼの一角に大きな池を掘って泥を溶かし、刈ったそばからイ草の束を投げ込み、泥をまぶして、刈った田んぼに広げて干しました。
すごいのはその後、池を埋めて田んぼを元通りにして、他の場所で大きくしておいた稲を、イ草を植えていた田んぼに植えることです。稲は強い。秋には何ごともなかったように稲が実ります。
そして、イ草農家では織り機で畳表を織ります。うろ覚えですが、最初のころは手機(てばた)、のちに動力の機械になりました。
緯材にするイ草が、がちゃんがちゃんと順番に引き込まれますが、イ草を置く皿の上に、常にイ草を補充してやらなくてはならず、織っている間は目が離せなかったように記憶しています。


『てくてくカメラ紀行』には素敵な写真がたくさん載っていますが、もう少し写真が大きいと見やすかったのにと思いました。もっとも、横長の写真をたくさん見開きで載せるわけにもいかないと思いますが。


さて、文洋さんの旧著『戦場のカメラマン』(朝日文庫、1986年)は990ページ、私の持っている文庫本の中ではもっとも分厚いものです。


長い文を読み返してはみず、写真を眺めただけですが、そこここに死体が転がったり、死体の一部がつまみ上げられたりしていて、改めてヴェトナム戦争を思い出させてくれます。


『戦場のカメラマン』の写真から、籠(民具)の写っている写真を探してみたのですが、籠が写って死体が写り込んでない写真は2枚見つかっただけでした。


その1枚、魚をすくう男の子の写真は、『戦場のカメラマン』の中の唯一の、そして飛び切りの笑顔でした。

3つの違う籠が置いてある街角の写真を見つけたのですが、よく見ると路上に人が倒れていて、キャプションを読むと流れ弾にあたった妻が突然道に倒れ、その横で夫が呆然としている写真でした。


ヴェトナム戦争の終結から48年、カンボジア人のヴェトナム軍によるポル・ポトからの解放から、44年が経ちました。





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