2021年6月1日火曜日

漂民ダンケッチの生涯


北海道のビーチコーマーののらさんが、Facebookで紹介していた、『漂民ダンケッチの生涯』(神坂次郎著、文芸春秋、2006年)を読みました。
面白かった。『ジョン・万次郎』も面白かったけれど、『漂民ダンケッチの生涯』も面白かった。一気に読みました。

幕末のころ、私生児として生まれたダンケッチ=伝吉(?ー1860年)は、故郷では生きづらく、故郷を飛び出して船乗りになりました。当時の日本沿岸では海運が盛んで、遠くまで物資を運ぶ千石船もたくさん航行していました。しかし、海難事故も多く、大しけに遭って流されたり、浸水して沈没したりする船も少なくありませんでした。
伝吉を乗せて大阪から江戸へ向かった清丸は、江戸からの帰りに嵐に遭って操舵不能となりましたが、幸運にも八丈島に流れつき、乗組員たちはしばらく、八丈島で暮らしました。
やがて船便を待って、本土に帰りますが、またもや伝吉たちが乗った千五百石船の栄力丸が遭難、漂流していたところをアメリカの帆船に拾われ、サンフランシスコに上陸します。

「東京坂道ゆるラン」より

上の絵は、1853年1月22日づけの、『Illustrated News』紙に載った。遭難した栄力丸の乗組員たちで、右はその中の伝吉部分を拡大したものです(ちなみに、おかっぱ頭の年少者はジョセフ・ヒコ)。
伝吉たちはみな、一日も早い帰国を願いますが、日本は幕末の動乱期、なかなか果たせず、とりあえずは香港に送られて、日本行きの船を待ちますが、帰国は容易ではありませんでした。
いろいろな経緯があり、伝吉は乗組員のみなと別れて、音吉(上海在住の漂流者)のもとに身を寄せます。そして、音吉の勧めで、マカオにわたって本格的に英語を習います。


そこで伝吉は、初代イギリス公使となるラザフォード・オールコックと出会い、乞われてオールコックの通訳となり、1859年(安政6年)にオールコックに随行して、日本に帰国しました。


イギリスの公使館には、高輪の東禅寺が当てられました。
当時は、通称を迫る諸外国の圧力が高まる一方、幕府も朝廷も開国か鎖国かで意見が割れていて、世の中は上から下まで不安定でした。
外国人殺傷事件も頻発しました。また外国人とかかわる日本人も目の敵にされ、断髪洋装で馬に乗る伝吉も、反感を買っていました。当時の日本で、馬に乗ることができたのは武士だけとされていたのです。


帰国してから数か月後の1860年1月29日、伝吉は何者かに山門の前で後ろから刺されて命を落とします。

外国人の手先として日本人から疎まれた伝吉は、事件後、あることないことでっちあげられたようですが、この本では階級のない、穏やかな世界で暮らしたいと願っていた伝吉が描かれています。
オールコックの、日本政府への再三の働きかけにもかかわらず、伝吉殺害の犯人は捕まりませんでした。


伝吉のお墓は、1861年に暗殺されたアメリカ公使館の通訳のヒュースケンのお墓もある、港区の光林寺にあります。

まったくの余談ですが、この本に中国のおまるの話が出てきます。


ネットでおまるの写真を見つけました。
これも木に漆を塗ったものだと思いますが、1981年に上海で見たおまるは、花模様が彫ってあって、赤と黒の根來になっていました。古い家の前を車で通りかかったとき、洗って家々の前に干してあったのを見かけたもの、車を停めてもらってじっくり見たかったけれど、当時はそんな古いところは見せたくないので、路地に入ろうとすると通せんぼをして阻まれたころ、私の願いは、もちろん聞き入れられませんでした。




 

6 件のコメント:

hiyoco さんのコメント...

漂民という言葉がぴったりですね(標民じゃないですよね?)!
何者かに刺されて無念だったかもしれませんが、私生児(久しぶりにこの言葉目にしました)に生まれて普通なら消息もはっきりしない生涯だったかもしれないのに、藩主たちのお墓があるような立派なお寺に眠るなんて、数奇な運命としか言いようがないです。

フナコレタロ さんのコメント...

春さま   枇榔な話しですが、私が見た馬桶です。たしかに惹かれますよねあのかたち( ´∀`) http://utinogarakuta.blog.fc2.com/blog-entry-658.html  

さんのコメント...

hiyocoさん
あっ、間違えている!ご指摘ありがとうございました。全然気づきませんでした(笑)。
あんまりかわいそうな出自で、詳しく書かなかったのですが、いつか読んでみてください。「あんなに外国かぶれで生意気なら殺されて当然」といった空気もあったようですが、よい本を書いてもらって、伝吉さんは喜んでいると思います。
今年は珍しく大河ドラマを観ているのですが、時代が重なっています。日本全体が外圧に揺られて、大変な時代でしたね。
そうそう、「私の拾いもの」の落ちていた羽は、Shigeさんから、「フクロウの羽」とお墨付きをもらいました。hiyocoさんとのやり取りをどう記事にするか考えていたのですが、これで、記事なしで完結しました。ありがとう。

さんのコメント...

フナコレタロさん
ご覧になったのですね(笑)。
私が見たのは、上がすぼまってないバケツ型、牡丹のようなレリーフが施されていて、それはそれは美しいものでした。まだ上海全体が古い租界の雰囲気を残していて、低い家もきれいだった、すべて消えたことと思います。
実は、ガーナでまだどこにもホテルがないころ、地方のゲストハウスで穴の開いた椅子に座ってその下にバケツを置いた同じタイプのおまるを使ったことがありました(笑)。ゲストハウスは一軒家、泊り客は他にはいない。管理人のおじさんが始末するのですが、原っぱで用を足す方がまだましでした。

のら さんのコメント...

さすが春さん!あちこちからバッチリ資料を探し出して、インパクトあるし、分かりやすいし!ありがとうございます。
しかし中国のおまるの話があったなんて、ちっとも記憶に残っていませんでした(笑)

さんのコメント...

のらさん
こちらこそありがとう。とても面白かったです(^^♪これから彦太郎の話と音吉の話を読みます(笑)。
おまるの話?ほれ、伝吉がみんなと別れて雲隠れしなくてはならなくなった原因のところです。放り上げて切りつけるというやつ。