2021年6月11日金曜日

6月の庭


さっそく、スマホで写真を撮る練習をしています。
金魚の住むつくばいは、トサミズキの枝とハナショウブに囲まれてうっとうしいのですが、トサミズキの枝を詰めると翌年花が少ないので、切るか切らぬか思案のしどころです。


毎年咲くのが遅れて、しかも11月ごろにも咲いているアジサイの「隅田の花火」が、今年は6月に咲いています。
アジサイ原種の「七段花」は、剪定の方法が悪かったのか、たくさんの枝が枯れて、今年は花もまばらです。


八重のドクダミは、一重のドクダミより優遇しているので、もう庭じゅう広がる勢いです。





11 件のコメント:

昭ちゃん さんのコメント...

 先日のリヤカーの件について
交通量の少ない当時は私たちの遊び道具で
警察が見ても「気をつけて遊べよー」でした。
建具やガラス類を運ぶ場合はサイドカーという器具のついた
専門の自転車がありました。
車体の左につき車も一つあるので安定です。

昭ちゃん さんのコメント...

 バイクの横に乗車できる車もサイドカーと呼びます。

さんのコメント...

昭ちゃん
リヤカーは自転車の横だけでなく荷台の後にもつけられましたね。
確かに大勢で遊ぶには、リヤカーは格好の道具でした。たくさん乗ることができて、引くこともできたけど、押すこともできて、シーソーもできたし(笑)。
リヤカーの発明は1921年頃だそうです。その前は大八車ですが、大八車も見たことがあるような、ないような。木でできた牛車とかは、のちにいっぱい見たので、記憶はごちゃごちゃになっています(^^♪

昭ちゃん さんのコメント...

東京では全て馬でした。
坂の下で育ったので面白い話が一杯あります。

さんのコメント...

昭ちゃん
面白そう!馬糞拾ったりして。
馬が町にいるのは、一度くらいしか見たことないです。馬場の近くだったのかな。象とポニーには乗ったことがありますが、馬には乗ったことがありません。

af さんのコメント...

昭ちゃんだー!!!
明日、第二京浜沿いの老人ホームにいる母に会いにいきます。リヤカーで横浜から引き上げた話を聞いてきます。昭ちゃんから、教えてもらったことを話題にしてみます。記憶にヒットするかな!?

昭ちゃん さんのコメント...

立ちん坊というリヤカーの後押し専門の人も昭和15年頃までいました
後押しは手で押すのではなく体全体です。
坂の下でリヤカーのくるのを待って。
麻布や赤坂・今の港区は関東山地の末端なので坂が多いです。

昭ちゃん さんのコメント...

どうしてくどくど書くか、
近年語り部の中にトンデモナイ話が多くあり
正確な話を心掛けています。

さんのコメント...

昭ちゃん
リヤカーは田舎でも使われていましたが、都会での需要の方が多かったのかもしれませんね。なにせ田舎はもっと舗装率が悪かったから。「押し屋」さんがいて、助かったことでしょう。
東京は確かに坂が多かった。23区内に、名前のついている坂だけで800以上あるそうです。私でさえ、高校の電車通学をしていたとき、駅まで坂道を下り(階段もあった)、学校の最寄り駅に着いたら坂を下り、帰りはへとへとで毎日坂を登っていました。リヤカーなんか、押しても引っ張っても、とてもとても(笑)。

rei さんのコメント...

荷物を積んだリヤカーに子供たちが後ろ向きに乗って田舎道を行く風景は、ドラマの思い出シーンの定番ですが、都会でも必需品だったのですね。焼き芋屋さんがリヤカーを引いて売り歩くのは、今でも?

最初の写真を見た途端に、アッ違うと気付きました。陰影のはっきりした瑞々し緑。
私もスマホカメラの便利さ(軽い、素早い、即保存)を知ってしまってから、広角レンズ付きの一眼レフを持ち歩く事はなくなってしまいました。但し、スマホの機種によって満足度は違います(価格に比例?)。

さんのコメント...

reiさん
1990年代のはじめのころ、リヤカーを引いた焼き芋屋さんが仕事場の近くを通ると、6階でしたが、ほぼ買いに降りていました(笑)。当時からリヤカーは珍しかったです。
昭ちゃんが言っているのは戦前・戦中でしょうね。戦後すぐにもリヤカーは使われていたかもしれないけれど、車が増えて、道路交通法で通行は禁止されていたんじゃないでしょうか。でも焼き芋屋さんがいたくらいだから、路地は大丈夫だったのかもしれません。
スマホでは接写ができません。というわけで、カメラを持っていないと困ることがありますが、これで接写ができるようになったら、カメラはお払い箱ですね(笑)。私のはレンズが1つですが、夫が息子に買ってもらったスマホにはレンズが3つもついています。