2018年5月7日月曜日

幟(のぼり)のワンピース


端午の節句といえば、幟のワンピースを持っているのを思い出しました。
服が武将の身体になっていて、そこから顔を出すと、着た人が武将になれるようにつくられています。


そして、後ろは馬の絵です。


模様を糊描きしておいてから彩色したもの、この季節から夏にかけて着ると、とても気持ちいい木綿製ですが、もう20年も着ていません。


背骨を圧迫骨折してから、体形がちょっと変わってしまいましたが、七難を隠してくれる形で、楽々着られます。

と言っても、犬を抱っこすると服を汚されるのでやめてしまったおしゃれ、犬がいなくなった今も取り戻すことはできないようです。







2018年5月6日日曜日

子どもの日


はなちゃんとそのお友だちが来るというので、練炭に火をつけて待ちました。


バーベキューの始まりです。


段ボール箱の中では、チーズや肉がいぶされています。


そうちゃん、さきちゃん、はなちゃんたちは、アリを連れてきてアリジゴクに落としたり、


いつもは平和に暮らしているアリジゴクを掘り返して探し出したりしています。
バッタやカエルもたくさんつかまえました。


赤い傘はもう40年近く前にタイで買ったもの、たまに役立ちます。


保育園の時の友だちの三人、そうちゃんは三歳の時にも来たことがあります。


八歳は、大人心が芽生える年でしょうか?
さきちゃんの一歳半の弟が大きな声を出したらそうちゃんが、
「日頃のストレスを発散してんじゃないの?」
と評論していました。
  

さて、お腹もふくれて、一休みした後、本日最大のイベントがありました。


三人はおじいちゃんに、ユンボに乗せてもらって神妙な顔、庭一周の旅をしました。
赤ちゃんは残念、すやすやお昼寝中でした。



楽しい、楽しい子どもの日でした。





2018年5月5日土曜日

また、引き違い窓


作業棟二階のゲストルームは、階段の上でつながっています。
そのため、どちらかの部屋を先に完成させて、片方を先に使えるようにすることはできず、南北両方の窓をつくった時点で、やっと外気を遮断することができます。
というわけで、優先順位はないのですが、まず、北の部屋の引き違い窓からつくることにしました。

材料は、地産地消を心がけてはいますが、ここは残っていた米マツを使いました。
室内ならともかく、外部と接する建具に柔らかい杉を使うわけに行かないのですが、適当な堅木がほかに、手元にありません。
ケヤキは、「薪にでもして」といただいた端材がまだ残っています。節をよけたりして木どりすれば、何とか間に合うかもしれませんが、すでにねじれているものばかりです。
それに、西側の窓をつくってみて経験済みですが、やっとねじれをとっても、細くするとまたねじれたり、ひん曲がったりします。
労力を考えて、ケヤキは、はなから敬遠しました。


材は3.5センチ厚みにしたものを必要な長さにして、5センチ幅に切りそろえました。


前に引き違いの窓をつくった時の見本を残しておいてよかった。また役に立ちました。


まず、ガラスを嵌めるための溝をつくります。


そして、組み手の加工。


ざっと仕上げてから、あとは、それぞれに微調整。


4枚の窓を組みました。

ところが、久しぶりだったのでうっかりしましたが、窓枠を組む前に、滑車を埋め込む穴を角のみ機で彫っておくのを忘れていました。
ほぞに接着剤を塗ったのでもう外れないし、この形のままでは角のみ機を使うことができません。


仕方なく、手で彫っています。
もっとも、ちょっと前までは、手で彫るのは当然のことでしたが。


二階の右の、母屋の屋根を映しているところが、すでにガラス窓を入れたところ、その左の黒い小さなスペース二枚が白壁になり、その左の横に開いているところに、今つくっている窓ガラスを嵌めます。







2018年5月3日木曜日

内職

『文明開化がやって来た チョビ助とめぐる明治新聞挿絵』(林丈二著、柏書房、2016年)は、開国で入ってきた西洋文化が、東京を中心とした町に住む人々にどう浸透していったかを、明治の新聞を通して読み解く本ですが、この本の中で紹介されている、貧乏人の内職は二種類です。

一つは早附木の箱(マッチ箱)つくりで、もう一つはハンケチ(ハンカチ)の縁かがりです。
それまで、竈の火をつけたり、タバコの火をつけたりするのは火打石でしたが、マッチが登場し、急速に普及します。

明治9年には、東京で最初のマッチ工場ができました。そのマッチ工場は、明治11年には女職工を200人も求める新聞広告を出していますが、それだけでは間に合わないのか、マッチの箱の組み立てを、内職に出しています。


マッチ箱を組み立てる内職をしている親子5人家族を訪ねた右の人物は、マッチ工場の人なのでしょう、左に、これから切り貼りして箱にする、長い経木が見えます。



これも、マッチ工場の人が長屋に来て、出来具合を見ているところです。
上が、明治14年、下が30年、16年も経っていますが、事情は同じようです。
男性が、先の丸い、こっぽりのような下駄をはいているのが、ちょっと気になります。このころ流行ったのでしょうか?


マフラーは手ぬぐいの延長か、早くから、主に男性に取り入れられたようですが、ハンケチが新聞紙面に現れるのは、それに遅れること10年、明治19年ごろです。
最初、若い男女がおしゃれ心で首に結んだようですが、見苦しいことと批判されています。やがて、老若男女、紳士までも首にハンケチを結ぶようになりましたが、明治34年の「中央新聞」に、「僕の知っている西洋人は非常にこのことを笑っておった」と投書が載ったころから、ハンケチを首に巻いた挿絵は見かけなくなったそうです。

ハンケチは、首には巻かなくなってからも、汗や涙をふくだけでなく、船を見送るときや自転車を走らせるときに振ったり、泣くとき口にくわえたりと、手ぬぐいに代わるハイカラな小道具として、大いに広まりました。


そのため、ハンケチの縁かがりという内職が生まれました。

私が小さいころは、学校へ行くときもハンカチは必需品でした。縁は手でかがってあったと思いますので、ハンカチの縁かがりの内職は、明治から昭和へと、延々と続いたのでしょう。

さて、「貧乏人の内職」と聞いて、真っ先に思い出すのが、江戸末期の落ちぶれた武士の傘貼りです。
でもそれって、映画やテレビドラマによってつくられた、お話なのでしょうか?


読んでないのでわかりませんが、こんな本も出ているようです。


古い絵も探してみたけれど、これだけではよくわかりません。

私が小さいころは、内職はとても盛んでした。
ハンカチの縁かがりは続いていたことでしょうし、小さな部品の組み立て、紙箱組み立て、造花づくりなどなど、いろいろあったと思いますが、内職の代表的なものとして知られていたのは「袋貼り」でした。
ビニール袋出現の前、紙袋はあらゆる包装に使われていて、新しい紙でつくる袋も、新聞紙などでつくる袋も、すべて人手で貼られていました。


これは、「サザエさん」の漫画ですが、指導に来た人から、家族みんなで内職の袋貼りのやり方を学んでいる一コマです。

さて、今の内職事情はどうなのでしょう?


ネットで探してみると、地域特産品の手づくりの部分を担うものなど、内職の需要もいろいろあるようでした。






2018年5月2日水曜日

きゅうりビン


きゅうりビンと呼ばれていたビンです。
1809年にイギリスのWF.ハミルトンが、ラムネ(レモネード)を入れるビンとして考案しました。
栓はコルクだったので、栓を乾かすとラムネの炭酸が抜けてしまいます。そのためきゅうりビンは、わざわざ立たないように、寝かせておくよう、底を丸くつくってありました。


文明開化がやって来た チョビ助とめぐる明治新聞挿絵』(林丈二著、柏書房、2016年)は、明治の新聞挿絵を、「路上な目線」で林丈二さんが観察した本ですが、きゅうりビンも載っています。


明治22年(1889年)7月の『江戸新聞』掲載の「夏の夜」第四話の挿絵です。
この絵を見て疑問に思うのは、きゅうりビンの保管方法です。


逆さに立てているのはいいとして、コルクを上にして立てているビンも、空ビンではなくて、中にラムネが入っています。これではコルクが乾燥して、炭酸が抜けてしまいます。

この茶店の人が知らずに立てていたとも考えられますが、もしかしたら、当時は炭酸が少し抜けたラムネの方が好きな客が、かなりいたのかもしれません。

清涼飲料よもやま話より

コルクの栓は、炭酸の圧力で飛ばないように、針金で留めてありました。

日本で最初にきゅうりビンを紹介したのは、1853年(嘉永6年)浦賀に来航したペリー提督という説があります。友好のしるしに栓を抜いたら音がして、それを聞いた日本人はピストルを撃ったのかと思って、刀を抜いたと言われています。

『文明開化がやって来た』によると、日本で最初のラムネは、明治元年(1868年)に東京築地で、中国人の蓮昌泰がつくりましたが、飲むとすぐにゲップが出る奇妙な飲みものとして日本人には敬遠され、当初、飲んだのは外国人ばかりでした。
ところが、明治18年(1885年)から19年にかけて、東京周辺でコレラが大流行したとき、「天然水は危険なのでラムネを飲むといい」という宣伝がなされて、ようやく日本人の間でもラムネが飲まれるようになりました。
上記の茶屋の挿絵は、コレラの大流行から3、4年後の夏ですが、そのころになると、町のあちこちできゅうりビンのラムネが見られるようになっていたようです。


きゅうりビンは、ずっと舶来(たぶんイギリス製)のものが使われました。
このビンは、GREENE KING & SONS、BURY ST EDMUNDSと楕円形に陽刻があり、その真ん中にLIMTEDと陽刻のある、イギリス製のビンです。

ブログ「レトロの小部屋」より、

ほかにも、きゅうりビンの絵がありました。
孫引きなので、絵の出典や、年代などはわかりません。


飲もうとコルクを抜いたとたん、ビンからラムネが勢いよく飛び出しています。
こうした失敗も、いろいろなところで繰り広げられたことでしょう。
  

 

欧米には、いろいろなきゅうりビンがあったようです。


焼き物製のものもあり、


底の形がおへそのようになったものもありました。


きゅうりビンのコレクターも多いようで、立たないきゅうりビンの飾り方にも、いろいろな工夫が見られます。


1872年に、イギリスのハイラム・コッドが、ラムネ玉の入っているコッドビンを考案しました。
本場のコッドビンの特許権が切れた1888年(明治21年)、大阪の徳永玉吉がコッドビンの研究・開発に着手して成功し、日本でもコッドビンが爆発的な勢いで広まっていき、きゅうりビンは廃れてしまいました。

1890年に、アメリカでガラスビンの生産がはじまっています。クラウンコルク(王冠)が考案され、これによってビン入り飲みものの生産は飛躍を遂げました。そして、コッドビンは、世界から消えていきました。
しかし、日本ではラムネは大企業ではなく、小さな町の工場でつくられていたので、王冠が普及した後も生き残り、スクリューキャップで使い捨てのペットボトルがあらわれるまで、長く親しまれました。

今でも、コッドビンを使ってラムネがつくられているのは、日本とインドだけになっています。
もっとも、現在の日本のラムネは、口がプラスティック、あるいは全体がプラスティック製の、使い捨てのビンだけで、分厚いガラスビンを使ってのラムネ製造は、インドだけですが。

消えゆく『本物』のラムネの話より

インドでは、ラムネには、ライムを絞り入れて飲むようです。







2018年5月1日火曜日

二階のゲストルーム


作業棟の二階のゲストルームです。
というか、階段の上の階段状の壁で、ここに登って、ガラスを嵌めました。南北のゲストルームはこれで空気がつながります。
開閉できる戸や窓は別にして、ガラス嵌め殺しのところは、ほぼ嵌め終わりました。


透視できることを大切にしたい、という夫の意向で、屋根に沿った斜めの場所にも、ホールとの仕切りにはガラスを嵌めました。その下の部分の、敷居が見えているところには、引き違いの障子を入れます。


開閉できる窓、部屋の入口の扉、そしてホールと遮断する障子をつくって、畳を入れたらもう、お客さんはここに泊まれるでしょうか?
なにせ、私のつくる建具だから隙間だらけ、冬はちょっと寒いかもしれない、でも泊まるには楽しい空間ができそうです。