恵比寿大黒は、ヒノキやケヤキ、カシなどの堅木に彫られることが多いのですが、これは杉に彫られていて、高さは11センチほどです。
堅木を彫るには力が要りますが欠けにくい。杉は柔らかいのでついノミは走るだろうし、欠けやすい。柔らかい木は柔らかい木で彫るのが難しそうです。
「いい彫りですねぇ。この恵比寿大黒」
「そうでしょう? ぼくは恵比寿大黒だったら何でも仕入れるっていうわけじゃない。素朴な味のあるものか、じゃなかったら飛び切り彫りがいいのか」
とまことさん。
台座は別彫りです。
以下は、『えびす大黒』(INAXギャラリー、2009年)の中の「最強の福の神、恵比寿・大国」を書かれた民俗学者の神崎宣武さんの考察です。
江戸時代に、民間信仰が拡大しました。江戸は当時では世界で最大規模の新興都市でしたが、大都市をなす基層文化はないに等しく、同じ日本人とはいえ、言葉もしきたりも違う人々が混在する町でした。身分や出自による住み分けが進む一方で、新しい規範でのなじみ合いも進みました。
信仰文化の面でいうと、農山漁村での信仰をそのまま持ち込むことはできません。まずは稲荷など知名度の高い神仏に、都市における切実な願い事をかなえてもらおうとして、新たに神仏の功徳をたたえる「ものがたり」が生まれてきました。
そのうち、信仰は融通無碍に拡大し、神は八百万(やおよろず)、仏は万仏(ばんぶつ)で、その習合もほとんど自在に行われました。流行神の出現も、繰り返しの現象でした。その中に恵比寿大黒は(招き猫も?)位置づけられます。
恵比寿大黒は江戸で民間信仰として定着し、やがてその信仰は日本国中に伝播していきました。
また、恵比寿は漁村から都市に伝わりました。
漁師が漁獲物を持って商いに出るのはありふれたこと、漁民が商人化する割合は農民が商人化する割合より高く、漁民の信仰は都市に根づきやすかったといえます。
恵比寿大黒が対で祀られるようになったのは、文献などから、京において室町時代からとされています。それが近世に江戸にも伝わって一気に広まりました。というのも、江戸では祝福芸が発達し、門づけ芸も大道芸も江戸ならではの発達を見ました。こうした芸能を通じて、諸国から集まった人々が、知らず知らずのうちに恵比寿大黒の対を福の神として認識していったようです。
『えびす大黒』で紹介されている像はほとんどが木彫りのもので、わずか数センチという小さなものも多かったようです。
江戸の庶民の家が、とても小さかったから、恵比寿大黒も小さかったのかもしれません。
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