2020年12月4日金曜日

品川で遊ぶ



歌川広重の東海道五十三次の版画の中で一番親しみを覚えるのは、何といっても品川の宿の絵です。
絵の右側が小高くなっていますが、この先道をしばらく行ったところに品川神社があり、その先に私の通った中学校がありました。
私の住んでいた家(社宅)は、絵のずっと右の方の御殿山というところにありましたが、この街道沿いにたくさんの同級生が住んでいました。お風呂屋さん、八百屋さん、酒屋さん、和菓子屋さん、などなどです。
もちろん、当時から道の左は埋め立てられていて海は見えませんでしたが、商店街は元気いっぱいで、老若男女が道にあふれ、遊郭っぽい建物も残っていたりして、浅草などとは違った、ちょっと安っぽい下町風でした。しかし、1990年代にこの辺りを訪ねたときには、海側にほぼ並行して広い幹線道路ができていて、旧東海道はすっかり寂れていました。

先日、ふと思いついてネットでこのあたりの地図を見てみました。すると、ない!私の通った中学がなくなっています。品川のあたり、大きく変わってはいますが、東海道線は元のところを走っているし、品川神社も沢庵和尚のお墓も動いていないと見当をつけても、中学校があったあたりには、「品川区立品川学園」というのがあるだけです。
「品川学園って、なんだ?」
調べると、なんと隣接していた小学校と中学校が合体して、品川学園という名の、小中一貫校になってしまっていたのでした。

歌川広重

さて、御殿山は江戸時代には桜の名所で、浮世絵がたくさんたくさん残されています。
中でもこれは旧東海道と御殿山とを同時に描いていて、感じよくが出ています。私が住んでいた家からも、ソニーが高いビルを建てるまで、富士山が見えました。

歌川広重

どれも同じころ、1840年頃の姿だと思われます。
桜だけでなく、松もたくさん生えていたようです。

歌川広重

葛飾北斎

喜多川歌麿

鳥文斎栄之

帆がかけられる船は漁船でしょうか?
上野でも桜は見られたでしょうに、品川まで来て桜を見るとは、いったいどういうことだったのでしょうか?
もっとも、私も学生時代に友人たち数人と、上野から品川まで歩いたことがありますが、そう遠くはありませんでした。





 

4 件のコメント:

昭ちゃん さんのコメント...

江戸時代から旅に出る旅から帰るの拠点で昭和に入ると
郊外に延びる拠点ターミナルデパート・京浜デパートも
海の見える旅館で食べる魚の思い出でや
社会人になり青物横丁から「ハゼ釣り」に。

さんのコメント...

昭ちゃん
京浜デパートは何もないデパートでした。長く品川駅は殺風景でしたね。
青物横丁も学区内で、同級生がいたのでよく遊びに行きました。お菓子屋さんに遊びに行くのが一番うれしかったかな(笑)。
海は見えたかなぁ?お台場はよく見たので海も近くにあったのかもしれません。あったとしても、きったない、掘割みたいな海だったと思います。

昭ちゃん さんのコメント...

化膿止めのない時代傷口に細菌が入ると丹毒という病気になります。
品川には有名な「丹毒病院」があり
我が家でも常備の塗り薬で品川まで買いに行きました。
戦後は全てペニシリンですよね。

さんのコメント...

昭ちゃん
丹毒?聞いたこともなかったです。
傷にはいつも赤チン、なかなか傷口が乾かないときは黄色い粉を振りかけていました。包帯は洗って使いましたが、いつも真新しい包帯をしている男の子がいて、かっこよかったです(笑)。